私がこの隧道について知っていることは、余り多くはない。
それは、私の勉強不足によるものでは、少なくともこの隧道については、ない。
何度となく図書館に通い、それなりに調べ漁ったが、結局、私の得られた情報は僅かだった。
秋田市の黒川油田といえば、同じ市内の八橋油田についで規模の大きな油田であり、また現在でも採油が続く数少ない油田の一つである。
大噴油とまで呼ばれた大正初期の全盛時には、日産2000キロリットルを誇り、これは当時日本一であったが、現在では月産50キロリットル程。
この黒川油田とは低い山地を隔てた、八郎潟に面した昭和町の豊川油田との間には、ある時期は製油軌道が、またある時期はパイプラインが敷設されるなど、深い関係があった。
なお、豊川油田は、国内で唯一天然の瀝青(アスファルト)を産出する油田であり、やはり一時期は重要視され、明治天皇も巡幸されたという。
この黒川と豊川という、山を挟んだ二つの油田を結んでいた製油軌道には、一本の隧道があったという。
ここまでが、私の調べられた情報である。
しかし、実際昭和初期の地形図などを見ても、この軌道が描かれている物にはとうとう当たらなかった。
でも、たしかに、そlこには隧道が描かれている。
そういうわけで、現在のところ残念ながら、この隧道が何時掘られ、何時まで現役で利用されていたのかについて、正確なことは分からない。
推測としては、大正初期に掘られ、昭和初期まで利用されていたのではないか、といったところだが。
これは蛇足だと思うが、秋田県は昔からの鉱産県であり、古いものばかりだが、非常に多くの専門書がある。
しかし、それらはどれも、油田の由来や施設については詳しいが、関連施設といっても良いはずの軌道や、隧道については、全くといってよいほど触れていない。
それでも、「ある時期隧道があった」という情報は得られたのだが。
同様にして、以前紹介した
道川の製油用手押し軌道隧道についても、「あった」ということしか、分からなかった。
秋田市北西端の黒川は、自宅から10kmも離れていない場所だ。
かつても一度、古い地形図で隧道を発見した当時のことだが、探索したことがある。
しかしその時は、深い叢に阻まれ、結局何も発見できなかったので、現存しないとの決断を下したのだった。
それが、今になって再探索となったのには理由がある。
背景も立地も似ている、あの
道川の手押し製油軌道隧道のまさかの発見を受けて、もしかしたらこっちも残っているのではないかと、そう思った次第である。
2003年の3月、駄目もとで探索に赴いた。
この日は、前夜からの雨がやっと朝方に上がったばかり。
西の空に好天の兆しはあったが、まだまだ空はどんよりしていた。
時折パラ付く小雨の中、普段より遅めの出発だったが、なんせ目的地は市内である。
なんとなく、気楽である。
山チャリを始めたばかりの頃はよく走った郊外の道を、のんびりと流して進む。
しばらく田んぼの中の県道を進むと、黒川の集落が見えてきた。
ここは、秋田市の北西の端であり、三方を山に囲まれた集落である。
更にその奥には、今でも僅かながら稼動を続ける油井群がある。
道はここで90度の直角カーブで、進路を変える。
じつは、この突き当たりが、軌道跡である。
かつては、左側の豊川油田方面から、右側の黒川油田へ向けて、手押しではない、自走できる機関車が、資材を運んでいたという。
ちなみに、どうやら油自体はパイプラインで送油していたようだ。
いまや、その役目はタンクローリーに取って代わられたが。
さて、それでは、軌道跡を辿って、隧道を目指そう。
左折である。
左折すると、まっすぐ続く幅広の畦道は、明らかに軌道跡だろう。
そして、500mほどでその道は小高い杉林の中に消えている。
あそこに、道中たった一本の隧道が掘られていたという。
畦道の行き止まり。
まるで車止めのように、一段、そして更にもう一段、盛り土がされている。
一見したところ、このさきはもう、進みようが無い。
まだまだ雑草の少ない季節なのだが、それでもなお、この奥への侵入はためらわれる。
かつて盛夏期の探索では、ここを見ただけで「隧道なし」との決断を下したのも、無理はなかっただろう。
当然、ここから見た限り隧道など無い。
今回は、全身雨合羽着用&長靴で防水は完璧。
覚悟を決めて、森へと侵入だ!
森の中は、ご覧の様子。
もちろん、チャリは行き止まりに置いてきているが、単身であっても、蔦や棘が執拗に絡みつき、なかなか前進ん出来ない。
しかも、大粒の雹まで落ちてくる始末である。
幸先が悪い。
これはまた断念になるような、嫌な予感がしてくる。
地形的にも、どこが軌道跡なのかが良く分からない。
まっすぐ進むことが出来ない為だ。
数分の格闘の末、たった10mほどしか進んでいないのだが、軌道跡らしい細長い窪地に出合った。
この幅の広さ、間違いあるまい。 ここが、かつては発見できなかった軌道跡である。
一気に気持ちが高まる。
そして、視線は前方の一点に集中した。
そこには、軌道跡と垂直に交わる急な斜面が聳えていた。
ここに坑門が…?!
ない。
坑門はどうしても見当たらない。
やはり、埋められたのだろうか。
ほぼ垂直の土の壁は、高さ5mほど。
落ち葉が堆積し大変すべり易いので、ここを登るのは非常に大変だった。
なんとか、軍手をびしょびしょにしながら、ここを登りきった。
今来た軌道跡を振り返る。
やはり、今の斜面がかつての坑門に間違いなさそうだ。
ここからみると、一見不明瞭だった軌道跡の地形が、一目瞭然である。
それだけに、坑門消失のショックも現実的に大きかった。
しかし、今回の私はまだあきらめない。
隧道には、必ず二つの坑門があったはずなのだ。
それは、クチが在りケツメドがあるヒトに等しい。
となれば、この杉林を突破すれば、反対側にも坑門があるはずだ。
これを確認するまでは帰られないゾ!
ノリが出てきた私は、霧雨の中寂しい杉林を、己の野生の赴くままに歩いた。
幸い、年中日陰の林内は比較的歩きやすく、自由に進路を取れた。
軌道跡の直線の延長線上を出来るだけ歩くようにして、この山を登った。
そして、越えた。
山というものは、いつもで麓から見る姿よりも、実際分け入ってからその大きさに驚く。
今回もそうだった。
小高い岡のはずが、私にとっては、険しい山脈のようであった。
…でも、3分ほどで乗り越えたので、やはり客観的には小山なのだが。
いよいよ見えてきた反対側の軌道跡。
やはり、足元から伸びる直線的な窪地。
豊川側は、この先4kmほどは湿地帯が続くばかりで人家はない。
…また、臆病の風が吹いてくる。
なんか、寂しいね。誰もいない暗い森。 雨。
こんな場所に、片側が閉塞していると分かっている隧道が口を開けているとしたら、…私は耐えられるだろうか?
なんか、坑門など見つかってほしくないような気持ちも、正直あった。
あった…
こんな弱気のときに限って、あっけなく発見できてしまう。
しかも、…
怖すぎるぞ この坑門。
明らかに崩壊に崩壊を重ね、もはや天井の位置が地表すれすれになってしまっている。
もはや、自然の洞穴のようにしか見えない。
しかし、あきらかに、ここは坑門のあるべき場所。
これが、坑門の成れの果てだとしか、考えられない。
これに、入るのか?
ちょっと、これは。
入らなくても、誰も責めないだろ…。
レポートを執筆する自分の姿を思い浮かべた。
ここで終わりでも、十分ネタとして完成しているのではないか。 そう願いたいのだが。
以下、次回。 (次回があるってことは…)