痛恨の敗走から半年後の2003年3月のある日、一通の電子メールがもたらされた。
メールは、市内に住まう徳光氏という方からで、その題名を見た瞬間、大げさでなく戦慄が走った。
『五百刈沢手押し軌道隧道入口』という題名だった。
夢中になって本文を読むと、更なる驚愕が、私を支配した。
なんと、どうしても見つけられなかった隧道の入り口は、まだ、現存するというのだ。
メールを読んだのは深夜であったが、すぐにでも飛んでいって確かめたい衝動に駆られた。
その後、数回のメールのやり取りにより、2本の隧道の現状が大体掴めてきた。
あとは、現地調査に赴くのみだった。
そうして、平野部は残雪もすっかり消えた3月末、訳あって遅い時間となってしまったが、探索に赴いた。
今回も、前回と同様の順序で探索を進めることにした。
それは、まず「南隧道」、そしてその後に「北隧道」を探索するということである。
9月には、猛烈な藪のため結局何も見つけられなかった南隧道の南側坑口を、最初に目指した。
9月にも全く同じ場所から撮影しているのが、比較すると、こうも景色がかわるものかと思う。
よし、これならば、何とか進入できそうだ。
廃田より一段高くなっている軌道跡を、ゆっくりと歩いて進む。
すでに、前回の探索の誤りが露呈した。
前回は、少しでも草地を避けようと、知らず知らずに右側の方の山際に向かっていたと思われる。
しかし、軌道跡は直線であったはずなので、それでは目指す場所にたどり着くことはできなかったわけだ。
この写真の正面の山に、南隧道が眠るはずだ。
枯れ草の上を、徐々に沸き起こる興奮を押し殺すように、ゆっくり前進していく。
ついに、正面の斜面に到達した。
そこには笹が生い茂り、夏の比ではないがそれなりに進みにくい。
方向を誤らないよう、慎重にまっすぐ進んでゆく。
写真の通り、すぐに傾斜がきつくなるので、もう、目と鼻の先にあるはずだ。
そして数秒後、明らかに人為的に削られたと思う山肌が現れた。
幅1m足らず、奥行きは3mほどの切通だが、その先にあると思われた坑門は見当たらない。
しかし、この隧道が埋められており現存しないことは、徳光氏より教わっていた通りでもあった。
自分の目で見て、幾分落胆は感じたが、何はともあれ、南隧道の一方の坑門の場所を特定できたのは、大きな収穫だ。
切通の最奥部、本来の坑門があったと思われる場所には、まだ穴があった!
その穴からは、地下水が染み出しているようで、手前の1mほどはぬかるんでいる。
徳光氏によれば、この隧道は、軌道廃止後に危険だということで、埋められているとのこと。
埋められて既に40〜50年が経過しているのだが、予想以上に、痕跡は残っていない。
そもそも、軌道が通ったにしては、余りにも切通も小さ過ぎると思うが。
となると、今見ている切通は、実は人為的なものではなく、埋められた隧道が崩壊・陥没した地形なのかもしれない。
今となっては、知る由も無いが。
そしてこれが、かすかに地表に姿を見せていた穴である。
一緒に写っている手に比べてみても、如何に狭いものであるかがお分かりいただけよう。
しかし、この穴の中をのぞいてみて、先ほどの推測が誤りであるかもしれないと感じた。
なんと、写真でもかすかにその断面が写っているが、直径20cmほどの金属製の管が土中を、まさに隧道があったはずの方向へと伸びているのだ。
このパイプが何であるかも、大きな謎である。
さらには、この切通の2〜3mほど西側にも、もうひとつ、小さな穴を発見した。
はじめ、山芋掘りの跡か何かと思ったが、よくみると、こちらの穴も、なんかあやしい。
幾分、こっちの穴のほうが内部の空洞が広いように見えたが、とても人が入れるほどではない。
しかし、そこを覗き込んで見ると…。
なんと、先ほどのものとは異なる、やや細い鉄パイプが、やはり埋没している。
この鉄パイプの断面は見当たら無いのだが、一つ前の写真で、穴の左に移る灰色のもの。
これは、地中から地表に向けて伸びているコンクリート管のようなもので、これも正体が全く不明なのだが、この二つは、一つに結びつく物である気がする。
もう一度、右の写真を見ていただきたい。
写っているのは岩盤である。
これは、あきらかに、自然に露出しているものでは無いように思う。
一帯は深く土が地表を覆う場所であり、このような露頭は全くないのだ。
…私の全くの憶測であるが、この穴こそが、埋められた南隧道の天井付近の一部を見せているのではないかと思う。
あるいは、ここが坑口だったのかもしれない。(坑口の左上の部分と考える)
つづく
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