このレポートは、私が東京都日野市に移住してきてからの7年間で最も自宅に近い場所での廃道探索となった。
(ミニレポ202回で紹介した下久保バス停も同じくらい近いが、あれは廃道探索ではないので除外)
私が住む日野市平山から直線距離で1.5kmも離れていない、八王子市長沼(マピオン)を舞台とした探索である。
しかも表題の通り、こんな家のすぐ近くで、ガチの明治隧道捜索を行った。
言っておくが、私の家の周りは隧道が少しも珍しくない千葉や大分のような“トンネル王国”ではない。むしろ、一般にそれらが少ないとされるエリアだ。
しかもこれは有名物件ではない。ネット上では情報を少しも見付けられていない(あったらぜひ教えて欲しい)。
ここに引っ越してきてから7年間、この隧道の存在を意識したことは、一度もなかった。
なお、予めお断りしておくが、このレポートもまた机上調査が未了の状態で執筆を始めている。
これは例によって、公開することで情報が集まることを期待しての事であるから、お心当たりの情報がある方は、ぜひ一報ください。
あまり前置きが長くなるのも興醒めだろう。
早速、今回のレポートを行った唯一の情報源を、お目にかけよう。
今のところ、これだけが、隧道捜索の根拠。
この独特の風合いを持った地図に見覚えがある読者もいるだろう。
当サイトでも時折登場するこの地図は、迅速測図と呼ばれる、縮尺2万分の1を持つ本邦最初の地形図である。
関東地方分の測量時期は、明治14年から18年までであり、全国の5万分の1地形図が整備される20年以上も前の詳細な地図として極めて価値が高い。
まず、最初にツッコミを受けそうなので書いておくが、図の左下の「神奈川県南多摩郡」は誤記ではない。
同郡が東京都の前身である東京府に編入されたのは明治26年であり、この図が調製された時期には、北多摩郡、西多摩郡と共に、神奈川県に所属していた。
また、本編に関係するいくつかの地名を赤字で表記したが、当時は市制や町村制の施行以前である。左上の「八王子驛」は、近代の八王子宿を継承した固有の地名であり、鉄道の八王子駅とは関係が無い。(八王子に甲武鉄道が開通するのは明治22年である)
この小縮尺図では、とりあえず八王子と今回紹介する隧道の位置関係を大雑把に把握していただけれ十分だ。
補足説明として、明治10年代の八王子は、近世から続く甲州街道の宿駅であったのみならず、江戸末期の横浜開港に端を発する機業ブームの中で、多摩一円の生糸集散地になっており、大変な繁栄を謳歌していた時期である。
八王子から南へ延びる2本の太い道は、横浜港へ向かう新旧の街道である。旧は「浜街道」と呼ばれた鑓水峠越えの道、新は「横浜街道」と呼ばれた御殿峠越えの道である。このうち前者は「絹の道」として、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれている。
ヤベーダロ!
隧道だぜ、マジで。
八王子近辺における隧道の歴史は、明治34年に鉄道の中央本線が、八王子から上野原へ延伸した際に、高尾山周辺に穿たれたものを嚆矢とする(と私は考えていた)。
道路隧道に限定すれば、八王子と五日市を結ぶ小峰峠の旧隧道(旧小峰隧道)が明治45年の開通であるから、これが市内最古の道路隧道とされている(はずだ)。
だが、この迅速測図にははっきりと道路隧道が描かれており、これが事実であって明治10年代の八王子近郊に道路隧道が存在したとしたら、歴史的発見はさすがに言い過ぎだとしても、多摩の偉大なる第1号隧道(the first one)に君臨するであろう。
しかも、これが有名な存在でないことは、千頁を超える大著である「八王子市史」(昭和55年刊)に、関連する記述が一切見付けられない事から推定される。
改めて、この図から読み解ける隧道の情報を挙げておく。
まずは、隧道の位置が最も重大な情報といえるが、これについては、現代の地図との比較の上で述べることにする。
図中の隧道の長さは、縮尺から計算して60m前後となる。決して長くはないが、通行人が見過ごすほどに短くはない。
そして、隧道がある道の正体を知る上で参考になりそうな表記が、図中の黄色い枠の中にある。
枠は上下2箇所にあるが、それぞれ次の文字列が読み取れた。
(上の文字列) 従横浜 至八王子驛
(下の文字列) 従木曽村 至八王子駅道
これらの表記は迅速測図独特のもので、、「従●● 至○○道 (●●より○○に至る道)」の形式を取るが、正式な道路の路線名というわけではなく、その道の繋がりを大雑把に示している。
同じ道でも場所によって表記が違っているが、これも表記の位置によって内容が変わる証拠である(駅と驛のような表記ぶれもある)。
ちなみに、「木曽村」というのは馴染みがないと思うが、現在の東京都町田市内にあった前記「横浜街道」沿いの村名である。(町田界隈の横浜街道は、現在では「町田街道」と呼ばれている)
とりあえず、迅速測図の信憑性を疑わない限り、見間違いなどあり得ないレベルで明確に描かれていた隧道。
これに気付いたのは昨年(平成26年)の12月28日で、探索は30日であった(笑)。
ここからは、この隧道が後の地形図ではどのように表記され、現在のどの場所に比定されるのかを、見ていくことにしよう。
この工程が、探索の成否を決める事前の準備として最も重要である。
それと肝心の隧道名が定かではないのだが、何と呼べばいいものか…。いくつか候補はあるが、ここでは無難に“長沼柚木(ゆぎ)間隧道”(仮称)としておこう。
← 古い (歴代地形図) → 新しい | ||||
明治14〜18年 迅速測図 | 明治39年 | 昭和4年 | 昭和51年 | 平成12年 |
図上の5つの赤枠にカーソルを合わせると、それぞれの時代の地形図画像を表示する。(画像が切り替わらない場合は、枠内のリンクをクリックすると、それぞれの画像を表示します)
ここに表示した新旧5枚の地図の中で、もっとも注目すべきは、迅速測図から明治39年測図版への変化である。
なんということでしょうか!
明治39年の地図で、早くも隧道は消滅しているという事実。
その後の昭和4年版でも隧道は復活することなく、その後一気に時代を下って昭和51年、現代に入ると、周辺の山域に急激な宅地開発の波が押し寄せ始める。
そして、最後の平成12年版では…
奇跡的に、隧道跡地は今も山ん中かも?!
これは、もしかしたら、もしかするのか?!!
平成12年の地形図は、隧道の跡地が旧態を留めているのではないかという(遺構が現存するかも知れない)希望を持たせたが、さらに新しい地理院地図を見たことで、そうした期待感は文字通り「半減」を余儀なくされた。(ちなみにこの地図の範囲内に、私が住んでいるアパートも描かれているな。笑)
というのも、南口の擬定地点付近に平成12年の地形図にはなかった新たな区画が登場しており、付近の等高線も改変されていたのである。
残念ながら、下柚木側の南口については絶望と見なければならない。
しかし、なおも北口については、山中に遺存物を発見する可能性があると思った。
周辺の圧倒的な市街地化を思えば、これでも奇跡的なチャンスといえるのではないか。
それに、これだけ都市化が進んでいても、案外に明治初期の道形が残っているのが興味深い。これは、ピンポイントに隧道だけを捜索するのは勿体ない“発見”である。地元なら、なおさらね。
果たして、多摩地区最古の道路隧道は、現存しているのか?!
多摩丘陵に残された貴重な森を舞台に、
年の瀬の明治隧道捜索作戦が幕を開ける!