隧道レポート 利賀村の楢尾隧道 前編

所在地 富山県 南砺市(旧利賀村)
探索日 2009.04.29
公開日 2014.10.13



「この村、ちょっと凄いぜ。」

この書き出しで始まったレポートを憶えているだろうか。
この村のこの道が凄いというような次元ではなく、「この村そのものが凄いんだ!」と私が訴えたのは、現在の富山県南砺市の一角を占める、旧利賀村のことであった。

当サイトで旧利賀村関係のレポートは、これまで3編を公開済みとなっている。
すべての探索は平成21年4月〜5月に行ったもので、時系列に沿ってレポートを並べると以下の通りとなる。

【4月29日探索】 ・牛岳車道(全9回) → ・このレポート → ・栃折隧道(全3回) → 【5月1日探索】 ・利賀大橋(全4回)

敢えて最初に列挙した意味は、出来ればこれらのレポートを先に読んでもらいたいからだが、さすがにそれは時間的にキツイという方も多いだろうし、以前一度読んだレポートを再読しろというのも酷なので、牛岳車道の最終回だけでも先に読んで欲しい。
今回のレポートはその直接の続きなので、単独のレポートとしてみれば、いささか変なところから始まるのである。




【周辺地図(マピオン)】

利賀村は中部日本における典型的な山岳村で、平成16年の南砺市合併直前において、おおよそ880人の人々が南北50kmを超える広大な村域に営まれた十数の集落に分かれて暮らしていた。

村の周囲はおろか、村内もまた山ばかりであることは、右の地図から十分お分かりいただけると思う。
そして、明治23年以来長らく一村として存続したこの広大な地域は、標高800mを越える高い山脈によって完全に東西二分されていることが印象的だ。
図中の利賀川と百瀬川という二つの川の流域にそれぞれいくつもの集落が展開しており、この両者を隔てる山脈に切れ目はない。
そのため昭和40年代に至るまで、この二つの流域間を(村外を経由せず)直接自動車で行き来することは出来なかった。
利賀川は庄川水系、百瀬川は神通川水系であり、ともに最終的には日本海に注ぐが、河口間の距離は15km近く離れており、利賀村内にあった分水嶺は広域的な規模を持つものといえる。

なぜそのような隔絶された地域が長く一村であったのか、現代人の感覚からすれば不思議にも思えるが、こういう例は徒歩交通時代においてしばしば見られた事である。
ようは徒歩交通という常識において、高低差よりも絶対的な遠近の差こそが、人々の交流を大きく妨げたということであろう。

話しが少し脱線したが、この利賀川と百瀬川の流域を結ぶ、村内で最短の峠道が、楢ノ尾(ならのお)峠であった。

標高830mの楢ノ尾峠は、長く村役場所在地であった利賀村利賀と百瀬川沿いの島地地区を結ぶ重要な峠で、両地区は直線距離でわずか1.5kmほどしか離れていないものの、峠の頂上までの比高は役場から約300m、百瀬川側からも230mほどと急峻であり、日常的に行き来するには負担が大きく、村内外の交流や発展を妨げてきた。
無論、全国屈指の豪雪地である当地域であるから、冬場の交通が命がけであったのは、いうまでもない。



利賀村の風景を読者諸兄に思い出してもらうべく、2枚だけ以前も使った写真を再掲しよう。

画像はカーソルオンでチェンジするが、2枚とも利賀村の中心地だった利賀地区の風景で、1枚目は北方の眺めである。
中央の大きな谷は日本海へ向かって流れる利賀川であり、だいぶ奥の右側山腹に水平の道形が見えるが、あれが利賀の玄関通路として機能する国道471号だ。これは利賀川の谷に沿って砺波平野から登ってくる延々20kmの山岳道路であり、それと平行する旧道が明治生まれの「牛岳車道」であった。
私が初めて利賀の地を訪れたのも、この道(と旧道)を自力で登ってきてのことであった。

2枚目(画像にカーソルオン)は南向きの眺めで、十字路の角に見える大きな建物が旧村役場(現行政センター)で村の中心。
その左側はずっと奥まで山並みが続いているが、この山並みの裏側にも、こちら側と同様に“利賀村民”の暮らしがあって、そこを流れているのが百瀬川である。
山の中腹(写真左端)に役場よりもさらに大きな建物が見えるが、あれは利賀小・中学校で、楢ノ尾峠への道沿いに建っている。

以上のような説明で、利賀村を二分する山脈の立体的な大きさが感じられたら幸いである。
そしてあくまでも本題は、この隔絶の山並みを貫くトンネルである。 名を楢尾隧道という。



最新の地理院地図で楢尾隧道付近を見てみる。(→)

そうすると、いかにも新旧の関係にありそうな2本のトンネルが、かなり近い位置で平行して存在することが分かる。
だが、“旧”トンネルも長さは「新楢尾トンネル」と注釈された、現在国道471号が通過しているトンネルとあまり違わず、どちらも500mを優に超える長さが見て取れる。

「平成16年度道路施設現況調査」によると、それぞれのスペックは概略以下の通りである。

【旧】 楢尾隧道  全長:818m   幅員:3.8m   高さ:3.7m   竣工年:昭和45年

【新】 新楢尾トンネル  全長:944m   幅員:6.0m   高さ:4.8m   竣工年:昭和63年

どちらも長く、そしてどちらも存外に古くはない。
しかし、これならば最初から長い方を掘っていれば…、などと言うのは安い結果論でしかない。
この隧道が辿ってきた建設史を知れば、皆さんも「なるほど」と納得されるだろう。こいつは、“苦難と苦闘の隧道”だった。

ともあれ、それは私も探索の後で知った話しであるから、レポートとしても現地を紹介した後にしよう。
まずは、いつものように旧隧道の有り様を見て頂こうと思う。
二つの利賀村を一つの利賀村へと生まれ変わらせた祝福されし存在、楢尾隧道の姿を!




明るい学び舎の背後に、長大な旧隧道が口を開けていた



2009/4/29 13:37 《現在地》 

牛岳車道のレポートの最終回と少し被るが、ここから始めよう。
旧利賀村内で最大の公共施設と思われる、利賀小・中学校である。
山間部の多くの学校がそうであるように、本校も高台に位置し(村全体が高所ではあるが)、特に旧役場(行政センター)を眼下に見下ろす、大変な風光の地にある。

そして、この学校への現在唯一の通学路となっているのが、旧トンネルへと通じる旧道(旧国道という表現は正しくない…詳しくは次回…)である。
現国道から分岐し学校に至る500mほどの九十九折りは、通学バスも通う道であり、道幅も2車線に拡幅されているから国道に遜色なく、旧道の侘びしさは微塵も感じられない。
だが、学校のすぐ裏手といっても良い至近の距離に旧トンネルが口を開けていた。
この背後に聳える山脈を貫通するものだ。



牛岳車道のレポートはここを終点にしたので、ここからが初めて紹介する景色になる。

道なりに学校の先へ進むと、道幅は旧来の1車線へと狭まり、それからすぐにトンネルが見えてきた。
標高は650mを少し上回った辺りで、現在のトンネルの西口よりも40mほど高い位置である。
旧隧道と呼ばれるものの多くは、いかにも薄暗い谷や切り通しの奥にひっそりと口を開けているものが多いと思うが、本隧道はそれとは大きく異なった印象で、トンネルの掘削残土で埋め立てられたような明るい広場に面し、余り山に切れ込む様子もなく、豁然と開口していた。

この広場にある唯一の建物は、水道関係の処理施設のようだ。
また同じ敷地に石碑が立っており、確か…「開拓記念碑」と揮毫がされていた。
この題の内容から早急に隧道とは無関係と判断し写真に納めなかったのは失敗だった可能性があるが、後の祭になってしまった。




13:40 《現在地》

廃道探索とは全く無縁の楽勝さで旧隧道に到達した。

意外なことに隧道は封鎖されておらず、今も僅かながらクルマの出入りがあるようだ。
しかし全長800mを越える長大隧道でありながら、洞内に全く灯りが点灯していないことから、とても現役とは認めがたい雰囲気を醸している。
照明無しではとても踏めない闇の深さだが、当然私には持参した灯りがある。

坑門はほぼ無装飾で、僅かに笠石状の突起が上端部にあることと、扁額が取り付けられている以外は、コンクリートの平板な造形となっている。
村の東西を初めて車道で結んだ記念すべきトンネルとされるが、デザイン的な要素には拘らなかったようだ。




扁額には、普通の左書きで「楢尾トンネル」と陰刻された黒御影が納められていた。
これにはトンネル名のすぐ上に、かなり小さな文字で次の文字も刻まれている。

「昭和44年7月竣工」。

事前情報よりなぜか1年若いが、まあ誤差の範囲であろう。
いずれ現地の情報をより重視し、以後は昭和44年竣工との理解で探索を進める。

なお、この坑門にはもう1枚別の銘板が取り付けられていた。
下の写真に写っている小さな銘板がそれで、「施工 大當興業株式会社 株式会社城岸組」とあり、この工事を請け負った土建業者の名前を記録したものであった。




ちょうど大型車1台分くらいの大きさがある坑口から洞内を覗き見る。

坑口付近の内壁はかなり傷みが進んでおり、特に入り口から10mほどの地点の左側の側壁は完全に破れ、土砂が零れ落ちていた。
この状況で封鎖していないというのは意外である。一応カラーコーンやバリケードが用意された形跡はあったが、封鎖する形で置かれていないし、通行を禁止する表示類も見あたらない。
しかし、この隧道内では絶対に地震に遭いたくないと思えるレベルで傷みが出ていた。

とはいえ、少し奥の方を見ると、案外に綺麗な壁をしていた。
そして闇のまっすぐ正面には、818mも先にある出口の光が小さく、半円形の全体をはっきりと見せていた。
私はこの坑口の見え方に、多少の違和感を憶えた。
この隧道には、峠越えの長大隧道の多くが持つ、“拝み勾配”が存在しないようである。
洞内に勾配の変化があれば、出口をこのように見通す事は出来ないはずだからだ。
ともあれ、出口が見えているというのは心強い。早速進入しよう。




洞内に侵入すると、まず左写真の看板が目に付いた。(←)
内容はこの隧道とは全く関係のない物で、おそらく村内のどこか別の場所にあった看板を、訳あってここに保管しているようだ。
「HINO GREEN FUND」の文字が目立っているが、私が住む日野市に本社を持つ日野自動車とは関係があるらしい。

なお、これは後日判明したことだが(現地では推測止まり)、これらの看板が置かれている一段高くなっている部分は、歩道であったという。
幅は60cmと記録されており、片側にだけあった。一般の歩道とは作りが異なっており、段差も大きいので、自転車での通行には適さなかっただろう。

また、洞内にはかなり疎らに照明も取り付けられていたが、既に錆びきっており、長い放置が窺えた。(→)




更に進むと、呆気なく素掘りの壁面が現れた。
ただし本当の意味での素掘はごく一部で、大部分はコンクリート吹き付けが施されていた。
なぜこの写真の部分だけ素掘のままだったのかは分からない。
この部分は当然のように石ころが剥がれ落ち、洞床に積み重なり始めていた。

洞内にはこうした半素掘(コンクリート吹き付け)の区間と、しっかりとコンクリートで巻き立てられた区間とが交互に現れ、これは単純に工費節減と工期短縮のため、地盤が比較的良い場所は簡易な施工で済ませたことが窺えた。

山間部で交通量の少ない道であれば珍しい事でもないが、村の中心部にあり、かつ昭和63年まで現役であったことを踏まえれば、当時においても後進的であったといわざるを得ないだろう。




坑口から200mほど入ったところで突如、隧道の断面が大幅に拡大された一角が出現した。

これは車同士がすれ違えない狭小断面かつ短時間で通りぬけられないくらいの長さを持つトンネルにしばしば見られる、すれ違い(離合)を目的とする拡幅部分である。
まだ隧道の中間地点まではだいぶあるが、早くもこれが現れたということは、この先にも同様の離合部分がまだありそうだ。
それなりの交通量を想定していたことを示す痕跡といえるだろう。

なお、拡幅部分はかなり扁平な断面になっており、落盤の危険を排除すべく完全な巻き立てが施されていたが、前後の断面形変移区間は素掘である。




どうもこの隧道は、低温かつ安静な大規模物置として使われている気配がある。

拡幅部分の片側を利用して、外見から正体が窺い知れない何らかの器材が、大量に置かれていた。

この拡幅部分は一際と闇が濃いので(手元の灯りが壁全体に届かない)、フラッシュを焚いて撮影した写真の明るさからは理解してもらえないかも知れないが、得体の知れない器材が置かれた空洞は、居心地のよい物ではなかった。 そのため早急にここを通過した。




13:49 《現在地》

ヘッドライトだけを頼りに自転車を進めていくと、やがて前に見る光と、後に見る光の大きさが同じくらいになった。
全長818mの隧道の中間…地中400m(土被りは約200m)の楢ノ尾峠直下に差し掛かったものと思われた。
ここまで勾配というものは感じられず、またそれが変化することもなかった。この隧道は地図の上で見る平面形だけでなく、立体的にも綺麗な一直線のようであった。

そしてこの中間部と思しき場所には、本来は歩道だった部分を占領する、コンクリート製の水槽が置かれていた。
外部から水の動きは見えないが、周囲の壁面や洞床にはかなりの水が垂れており、地下水帯を貫通しているようである。
現在、この地中から汲み出された水は、村の上水道に組み入れられている模様である。




更に進み、いよいよ出口の光が頼もしい大きさに広がってくるのを感じる頃、案の定というべきか、2度目の拡幅部分が出現した。

そしてなぜか、今度の拡幅部分にはクルマが停車していた。
それもナンバープレートが付いたままのクルマだ。
まるで、闇の中で息を潜めて私を待っていたかのように。

ライトは点いていないし、エンジンも掛かっていないのだが、この拡幅区間が見え始めるよりも少し前から尾灯の反射材が私のヘッドライトに感応して赤く光り、その光の正体が分からぬままに近付いていく時間が、最初の恐怖だった。
そしてクルマという事が分かってからも、廃車では無さそうだということと、この場所にクルマを停めて行く場所があるのかという疑問が相反して、強い気持ち悪さを感じた。

結局私はこのクルマの中にはヘッドライトを向けていないので、人が居たかどうかは不明。
封鎖はされていないトンネルなので、単に外回りサボりーマンの昼寝だったと考える事にしよう。






次回、


隧道の残りと、苦闘の歴史解説編。





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