藤里森林軌道 荷上場隧道  前編
県北経済を支えた森林軌道
秋田県山本町二ツ井町 荷上場
   二ツ井町荷上場は米代川と藤琴川の合流地点にあり、白神山地の奥深くまで張り巡らされていた森林軌道の起点でもあった。
集められた秋田杉を中心とする材木は、この地から筏流しの技法によって、“木都”能代に運ばれたのである。
明治後期から昭和30年代前半までは、蒸気機関車などによる森林軌道の全盛であり、隅々まで支線が張り巡らされていたという。
しかし、昭和30年代の後半には、徐々にトラック輸送に切り替えられ、軌道は林道に転換、または放棄された。
さらに、昭和47年7月に米代流域を襲った大洪水によって、河川に近い遺構の多くが打撃を受け、一部は消失した。

今回、私が探索したのは、正式な名称は不明ながら、藤琴川に沿ってJR二ツ井駅付近から藤里町へ向かって伸びていた森林軌道の一部、隧道の存在が指摘されていた部分である。
ここは、二ツ井より北へ向かう軌道の本線であり、特に重要な路線であった。




 
 二ツ井町の中心街区からやや北にそれ、国道7号線のバイパスとJR奥羽本線をくぐったり跨いだりすれば荷上場地区である。
ここは藤琴川からは一つ西に山を越えた小沢地であり、水田が細長く北へ伸びている。
宅地を過ぎると間もなく道は砂利道となり、奥へと続く。




 農作業に利用される他は通行量が少なそうな道を、東側の山際に沿って北上する。
反対の西側の山際には、一目見て人工的と分かる堰堤が伸びている。
早速軌道跡が出現したかといろめきだったが、もう少し奥まで進んでみる。
なんせ、田んぼが邪魔をして、接近しにくいので。




 ここは、日本一の秋田杉の街二ツ井である。
江戸時代から続けられてきた植林の成果が、この天を突くような杉の林である。
畦道の脇に惜しげもなくその威容を誇る美林に、暫し見とれてしまった。



 さらに進むと、いよいよ水田の幅が狭まってきた。
これならば、気になる堰堤に接近できそうである。

チャリを道端に邪魔にならぬように乗り捨てると、畦を歩いて、堰堤を目指した。
朝露をたっぷり含んだ若草で、早くも靴がびしょ濡れになった。
最近は、ほんと濡れてばっかりだ…。



 約3mほどの急など手を登ると、上に立つことが出来る。
しかし、そこにあった景色は想像していたものと異なっていた。
どうやら、ここまで見てきた堰堤は森林軌道の跡ではなく、水路用のものだったようなのだ。
しかも、水路は現役で利用されているようで、透き通った水が勢いよく函のなかを流れている。

予想外の展開だったが、この水路に興味を引かれたので、少し追跡してみることにした。



 すると、水路は間もなく穴堰となった。
驚いたのは、その坑門だ。
それは、風化してはいたが、丹念に積まれたレンガ積みの坑門で、明治時代の隧道跡でよく見られる構造そのものだ。
素掘りでないことから、これが特に重要な水路であることが感じられる。
また、コンクリートが利用されていないことからは、古い歴史を有する物であろうと想像できる。


 水路は幅2m、水面までの高さは50cm、水深は30cmくらいだろうか。
涼しげな流れが、小さな坑門に吸い込まれるように消えている。
水路上に等間隔に渡された石橋は苔生しており、乗っても倒壊することは無いだろうが、転倒すればただではすまないだろう。
水量が少なく見えても、遮る物のない水路というのは意外に流れが速く、溺死事故も少なくはない。

恐る恐る坑門に一番近い橋に身を預けると、坑門の奥に視線を遣った。


 橋よりも坑門は低い位置にあり、肉眼では辛うじて奥へ続く水面が見えただけであった。
そこで、カメラを体の下に遣ると、そこからシャッターを切った。
そして捕らえたのが、この映像である。
出口までは50mほどだろうか。
奥のほうは金属で補強されているようだが、坑門付近も素掘りではなく、立派なレンガ造りである。
鉄道の廃隧道などでは、現役当時に付着した煤の為に赤いレンガを見ることは稀である。
しかしここには、艶かしいまでに鮮やかなレンガが残っている。
これは、思いがけない発見であった。



 さらに水路を探索すると、他にも数本の穴堰を発見した。
その中には、この写真のようなレンガの坑門もあった。
ここはコンクリートで補強されているようであるが、大切に利用されている様子が分かる。

この水路、帰宅後に調べてみると、実は名のある物であった。
その名は岩堰用水といい、荷上場やその周辺地区の灌漑を目的に、上流の山を一つ越えた藤里町矢板地区から藤琴川の水を引水しているそうである。
その総延長は約12kmにも及び、そのうち200mがこのような穴堰なのだそうだ。
そして、なんとこの岩堰用水の竣工は寛永7年(1630年!)といわれており、370年余りを経た今日でも、荷上場地区の農業には欠かせぬ存在なのだという。

その歴史の長さに、ため息が出そうだ。





 堰を後にして(というか、堰は道に沿っているのだが)、軌道の痕跡を求めさらに上流へ進む。
ここまでの道自体が元々は軌道では無かったのだろうか。

二ツ井市街地から約2kmほどで藤琴川沿いに抜ける舗装路が右に分かれる。
写真はその地点だ。
私は、ここを直進し、更なる奥地を目指す。


 ちなみに、これがその分岐点を振り返って撮影したもの。
どこかの土木会社の資材置き場のようになっていたが、人影は無かった。
それよりも気になるのは、正面やや左に映る、低いホームのような石の土台である。
丁度、これまで来た道が軌道跡であると仮定すれば、この石台はホームか、或いは文字通りの“荷上場”として存在していた物のようにも思える。
いかがだろうか?




 進むと小川を渡る。
車道の橋のすぐ脇に、一見してそれと分かる軌道の石橋があった。
その奥には小道のような軌道跡が延びていたが、少し先でふたたび車道にぶつかると考え、ここはパスした。




 小川と思ったものも、実は堰であった。
先ほどの岩堰用水の支流のようなものだろうか。
二条のレールに合わせ敷設された2本の石橋が、ここにかつてナローレールの敷かれていたことを物語る。
何とも頼りのない細さである。
しかし、これこそが県北の経済と発展を支えてきた縁の下の力持ちの姿なのだ。



 そして、すぐに再び水田が現れたかと思うと、そこには先ほどの石橋の延長線上の堰堤が見えていた。
こんどこそ、明らかに軌道跡である。
緩やかなカーブを伴って、小高い丘へと向かってゆく堰堤。
その先に待つ物は…?

期待に胸を躍らせつつ、いざ、探索開始!






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2003.8.11