この隧道の立地や周辺の様子については、2003年に初めて訪れた際の記録をご覧頂きたい。
今回は、前回進入できなかった内部について、報告申し上げる。
と、その前に、本隧道の歴史について、前回のレポ後に色々と情報を仕入れることが出来たので、前回までの間違いを訂正するついでに、ご紹介しよう。
本隧道は、仁別森林鉄道の支線である、奥馬場目支線にあった。
奥馬場目支線は、仁別林鉄本線から別れ仁別沢沿いにあった中ノ沢支線の終点から延長される形で、郡境の峠を越えて五城目町馬場目国有林内の北の又まで伸びていた。
紹介する隧道は、まさにこの郡境を穿つ延長500mを下らない物である。
昭和8年から建設が進められた奥馬場目支線が全通したのは、昭和10年のことであった。
その後、北の又からはさらに路線が延長され、小支線も多く開発された。
昭和16年には馬場目川に沿って北の又から延長された杉沢林鉄が、杉沢の貯木場に接続するようになると、路線の延長は終焉を迎える。
今度は杉沢の貯木場を起点にした運用がなされるようになり、峰越の峠を主とする非常に険しく勾配のきつい奥馬場目支線は次第に利用されなくなった。
正式に廃止された時期は不明ながら、杉沢林鉄が県内で最後に廃止された昭和46年よりもかなり早い時期に廃道となっていたようである。
少なくとも、集材という本来の目的に利用されたのは、昭和10年から16年までの、僅か7年足らずの間だけである。
2003年5月に、五城目側の坑門を、林道から少し離れた山中に遂に発見したものの(レポート)、肝心のその内部はといえば、一歩踏み込むだけが精一杯であった。
内部は完全に水没しており、当時の私の“覚悟”と装備では、奥がどうなっているのかを知ることは出来なかった。
そして、2004年9月中旬、再訪の運びとなった。
実は、計画していたわけではなくて、この日は当初の予定では森吉林鉄探険隊による森吉林鉄粒様沢の探索だったのが、雨による中止という憂き目を見て、代案として急遽決まったものであった。
だが、この日の準備は万端であった。
元々の計画は、丸一日川の中を遡行するような物であっただけに、自身が初めて導入するネオプレーン装備に身を包んでいたのだ。
この機会に内部を解明してしまわなければ、この嵩張る荷物を持って再び訪れるのは、気が重いのである。
2004年9月19日。時刻は、15時5分。
場所は、南秋田郡五城目町、馬場目川上流杉沢林道を銀の沢林道との分岐点から500mほど南へ進んだ地点。
目印は、林道の山際に落ちる写真の滝。
ここには、詰めれば車5台が停められるスペースがある。
隧道へ最も近い駐車場だ。
天候は、生憎の雨。
時折夕立のように強く落ちてくる。
この隧道は、私とパタさんが経験済みである。
他のメンバー(自衛官氏、くじ氏、HAMAMI氏、細田氏)は、初めてである。
私は、一足早くネオプレーンの靴下にタイツ、フェルト底の沢靴という、先日道具屋で買ったばかりの最新装備に身を包むと、おもむろに林道から脇を流れる馬場目川へと降りる。
他のメンバーはまだ車の前で装備を切り替えている最中だが、パタ氏が連れてきてくれることだろう。
私は、すぐ傍の隧道の奥が気になって、気になって、居ても立ってもいられなかった。
写真の流れが、やや水量の増えた馬場目川。
源流に近く、容易に渡渉出来る。
川を渡り、そこへ合流している林道とは対岸の小川を遡行する。
遡行といっても、小川は本当に小さく、写真の谷部の中央に僅か1mほどの幅で水を通しているに過ぎない。
この部分は、長年掛けて堆積したミニ三角州のような堆積地形であり、緩やかな片勾配だ。
ここもまた、踏み跡こそ無いが容易に上り詰めることが出来る。
林道から僅か200mほどで、隧道が見えてくる。
見たところ前年と変化はなく、坑門は向かって右の崖に生える杉の根元だが、ほとんど堆積した砂利によって埋没している。
なかなか発見に至らなかったのも頷ける、発見困難な坑門である。
滝の音が響き渡る沢の奥に、突如現れた小さな小さな穴である。
だが、内部は意外に広いことが知られている。
後続を待つことなく、早速、入洞。
斜坑のようになった坑口部に迫る。
坑門にも変化無しと思われたが、前回の写真を見比べてみると、大きな違いが一点だけあった。
坑口の上にペイントされた、逆T字と、6/17と読める文字だ。
これは、一体何であろうか?
まるで、6/17時点での水位を示したような表示にも見えるが、その様なことをする意味が分からない…。
しかし、確実に言えることは、この1年半の間に我々以外の誰かがここへ来たということだ。
しかも、落書きではないだろうから、なにか目的を持って。
将来はこの峠は、現在峠を挟んだ15kmほどが不通区間となっている主要地方道15号線が通る予定だ。
それに関した調査だという推論は、ちょっと飛躍しすぎであろう。
滑り降りると、内部はやはり水没している。
坑門から続く土砂の斜面の下端はそのまま透明な湖に吸い込まれており、腰まで濡れる覚悟なしでは洞床にすら降りられない。
そして、ここからが、今回のメーン。
いよいよ内部へと一歩を踏み出す。
思えばこの1年半で、私はかなりの水没体験をした。
もしネオプレーン装備が無くとも、今ならば、この水位に躊躇いは感じなかっただろう。
ズブブッと進入。
足はすぐに洞床の泥に着地するが、そこからが深く、みるみる沈んでいく。
多少恐怖はあるが、まだ水深は太股上辺り。
泥の深さを知る為に、敢えて黙って沈ませてみる。
数十秒で、下降は止まり、洞床らしき堅い足触りを感じた。
この時、水深は股間に達した。
この先、浅くなるなら良し、もし深くなるとしたら…、再敗退の懼れもなきにしもあらずか…。
洞床は、深さ30cmほどの厚く堆積した泥濘に覆われていた。
その下にある堅い洞床は、凹凸も少なく、歩きやすい。
内壁には崩落や亀裂は無く、昭和初期の素堀隧道としては、地質に恵まれていると感じる。
支保工などは残骸すらなく、それすら不要の堅牢な地質だということだろう。
断面は、林鉄用としては大きい方で、森吉のそれに等しい程度だ。
歩くたびに、足元ではキノコ雲が起こり、僅かに見える小さなオタマジャクシの体を呑み込んでいく。
地下水の出水や坑門からの流水もなく、洞内は、極めて静謐。
音も色も無かった世界に、突如私のジャブジャブ音が充満する。
まだ、終点も出口も見えないが、ライトにうっすら陸が見えてきた。
ゴツゴツしているが、安定した様子の内壁。
天井には、余り多くはないが蝙蝠達が留まっている。
気になったのは、側壁に付着した泥の薄い層だ。
これは明らかに、時期によっては私の背丈以上も高い位置まで水没してしまうことを意味していた。
また、今の水位は心持ち5月のそれよりも低いようである。
隣接する沢よりも低い位置にありながら、沢から直接流水がないのが救いである。
もし流入が起きれば、あっという間に隧道は冠水し、二度と立ち入れなくなるだろう。
この隧道では、季節に応じて、ゆっくりとしたペースで冠水と水位の低下が繰り返されているようだ。
不気味だ。
私が歩いた背後は、舞い上がった泥によって全く透明度がなくなっている。
だから、この「発見」は一瞬のものだった。
行きには見れたが、帰りは見れなかった。
見つけたのは、等間隔に並んだ、枕木であった。
進むにつれ水深も泥も浅くなっており、目の前に土の壁(やはり閉塞しているようだ…)が迫る頃には、深さ20cmほどになっていた。
思いがけない枕木の発見に興奮し、思わず眼前の閉塞斜面を撮影し忘れたほどだ。
しかし、この地で並んだままの枕木を発見したのはこれが初めてであり、水没隧道内という特殊状況と相まって、私を刺激した。
残念なのは、私が近づくだけで、舞い上がった泥によって枕木が隠されてしまうことだ。
だから、接写は出来なかった。
大体のイメージとしては、枕木は森吉の隧道内で見た物よりも細い。
そして、間隔も広い。
森吉とは竣工の時期も、路線の重要度も異なるのだから、作為的な違いだろう。
目視できた枕木は、泥の浅い終盤5mほどにある10本程度だったが、いずれも整然と水中に没していた。
また、帰り道には、深い泥の底にもどうやら枕木は残存しているような感触を感じた。
さて、引いた画像はなく、いきなり閉塞部だ。
ここまでは無傷だった隧道が、いきなり土の斜面で閉じられている。
左の奥側に、やや残存空洞が残っているが、向こう側へは通じていないようである。
風はなく、ライトで照らしても、土色にしか見えない。
天井に、崩落痕が見あたらず、しかし天井まで土砂が覆っているということは…。
おそらく、人工的な封鎖である。
僅かに残った部分は先細りであり、また下が泥であることから、流石に匍匐前進するのは躊躇われた。
よって、可能な限り進んだところで、この写真を撮って撤退した。
人工的に埋めたにしても、これは相当の土量である。
少なくとも、奥行き5m以上は埋められている。
人海戦術で、ウィークポイントであろうこの左上部の壁際土砂を徹底的に取り除けば、おそらくはこの奥に残る450m程度の未知空間が現れると思うが…。
うーーん、
協力者求むといったところだ。
この日は、人数は多かったが、そう言う準備も時間もなかった。
ちょうどそのとき、坑門に声と明かりが届いた。
おおよそ10分。
仲間達の到着である。
閉塞部までの長さは、僅か30mほどであった。
引き返しに入る。
集まった仲間達も、私の報告を聞いて、なお進入する者はなかった。
道具がなければ、土砂の除去は不可能である。
今回の報告内容は、「隧道は人工的に埋められており侵入不可能」という一言に尽きた。
ただし、それ以外の崩落が無いこと、洞内の水位が大きく変動しているらしいこと、枕木の存在などが、それに付随する発見であった。
100万カンデラのライトで照らし出された閉塞部の鮮明な様子。
完全に埋められてしまっている。
今後は、これまでも2度私を退けている秋田市側の坑門の発見と共に、五城目側においては土砂の除去といった作戦行動が要求されるであろう仁別林鉄峠の隧道、
3度目の探索はひとまずこれにて終了。
2003.9.21
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