森林鉄道とは、木材などの林産物の搬出の為に建設された鉄道のことである。
全国有数の林産王国であった秋田県におけるその歴史は、明治の終わりごろにまで遡る。
その一部は鉱山鉄道とも供用されていたというが、県内各地に張り巡らされた線路網は昭和初めの全盛期においては、総延長1000kmを越えていた。
しかし、その後のモータリゼーションや林業自体の衰退などで、どのような末路を辿ったかは、皆さんご存知の通りである。
その森林鉄道の中でも、県都秋田市と太平山地を結んだ仁別森林鉄道は県内で最も遅くまで活躍していた路線である。(写真下)
そしてそれは、日本最後の純粋な(観光化していない)森林鉄道でもあった。
仁別森林鉄道には本線である「秋田駅〜仁別〜旭又」の30km余りのほかにも、旭川の支沢に沿いに無数の支線が存在していたが、今日ではその一部が林道や登山道、または自転車道として再整備されている他は、大規模な施設を有さなかった素朴な林鉄だっただけに、その線路跡の特定が困難なほどに自然に還ってしまっている。
その支線の一つ、「仁別〜北の又〜杉沢」の路線は、林鉄としては特異な物であった。
なぜならば、その経路の途中には標高400mを越える稜線が立ちふさがり、しかもそこは営林局の境界でもあった。
この支線は、二つの異なる営林局の管内の渡り線であったのだ。
途中の峠には長さ500mにも及ぶ峰越の隧道が穿たれていたとされ、確かに古い地形図などにその姿を見つけることができるのだが、実際の姿は杳として知られていなかった。
一帯は奥深い山中である上、元々が支線であったということから資料に乏しく、広大な杉林の中の一点を特定することが非常に困難だったのだ。
2003年5月。
長らく謎の存在であった市内の2廃隧道(道川軌道隧道、黒川軌道隧道である)を相次いで発見してきた勢いのままに、市内最後の廃隧道の発見を図ろうと、ひとり、仁別へと向かった。
そして遂に、念願の発見をみることになる。
この隧道を探すのは今回で3回目である。
過去二回の探索では結局、峠の南北にある筈の二つの坑門のいずれをも発見できていない。
前日、県立図書館にて念入りに歴地形図をチェックし、現在の林道との位置関係を徹底的に暗記した。
翌朝、日が昇ると同時に行動を開始。
自宅からは10kmちょっとしか離れていない仁別へと向かった。
そこまでの県道は近年徐々に整備が進んでおり、快適な道になりつつある。
仁別はかつての林鉄の最大の中継点であり、オマケで行っていた旅客輸送の利用者も最も多かった駅だ。
現在では秋田市民の憩いの場としての整備が進んでおり、住む場所としてよりも、遊びの場として知られている。
集落の入り口から県道は狭くなり、短い集落区間の先はきつい上り坂となる。
そして間も無く、この写真の分岐点に至る。
舗装路は右折しており国民の森や旭又にまで続いている。
直進は砂利道となり、実はこれが県道である。
しかし今のところ、この先の15kmほどは実質的な県道不通区間であり、代わりに林道がリレー(中ノ沢林道と杉沢林道)で峠を越えている。
そしてこれこそが、林鉄の峠越え支線の跡を利用した林道である。
いざ、直進。
分岐より先、約4.5キロほど幅の広い砂利道が仁別沢沿いに続く。
これが中ノ沢林道であり、山菜のシーズンに重なるこの日は平日とはいえ大変な通行量であった。
路面も勾配も比較的フラットで走りやすいが、前日の雨の影響かダーティさが嫌だ。
まあ、いったい何度辿ったか分からないお馴染みの林道であり、あっという間に峠の入り口である畑の沢にまで至る。
畑の沢からは、畑の沢林道が黒川方面へと長い道のりの口を開けているが例年五月はまだ残雪のため通行できない。
中ノ沢林道はこの先も軌道跡と概ね踏襲しながら、頭上150mの五城目町との境界を成す峠を目指す。
当然私は中ノ沢林道へとそのまま進む。
写真は峠の中腹付近から稜線を見上げた。
ここまでの登りは九十九であり、軌道が本当にこんなところを辿っていたのかと疑わしくなるが古い地形図では確かに軌道も九十九を描いている!
それでも、登りに我慢できなくなり隧道を穿つのは、もう間も無く先の場所である。
辺りの山肌の変化に注目しつつ、慎重に進む。
突然だが、左の地図を見ていただきたい。
今探している峰越の隧道は図中で『隧道A』と示されている物である。
とくに、黒い直線で示した隧道の両端の坑門と、付近の林道のカーブとの位置関係などは出来る限り正確に示したつもりである。
で、次に紹介する写真が、南側坑門(秋田市側坑門)の位置と、ほぼ断定できる箇所のものである。
自己評価だが、その正確性は90%以上だと思う。
では、ご覧いただきたい。
残念ながら、私はここに坑門は発見できなかった。
急な斜面を上り下りして一帯をくまなく調べたつもりだが、沢地の為地形の改変が激しく、一切坑門や軌道敷きに関する痕跡は発見できなかった…。
地形図に誤りがある場合など、この場所は絶対とは言い切れないが、まず九割方、この坑門は埋没、もしくは人工的に埋められたものと思われる。
これも、同じ場所の写真である。
上の写真のより、さらに谷底の河床部分から、最も坑門跡と怪しまれる一帯を撮影。
この一角には粘土質の土が多く露出しており、もしここに坑門があったのならば、埋没は早そうな気はする。
そういえば、書き忘れていたが、この仁別森林鉄道で最も遅くまで稼動していたのが、本線ではなく、この支線なのだ。
昭和46年の9月までは軌道が利用されていたという。
ということは、今年は廃止後31年目…決して新しいとはいえないが、廃隧道の中ではそう古いものではない。
それゆえに完全に坑門が消失しているとは考えにくいのだが…、残念である。
埋められてしまったと考えるほうが自然だろうか。
ちなみに、前回の探索で調査していた場所は、すこし見当違いでした(笑)。
残念ではあるが、今度は反対側、五城目側の坑門の捜索に入ろう。
もしどちらかでも坑門が発見できれば、内部からもう一方の状況を知ることも出来るかもしれない。
そう考え、再びチャリに跨り峠を登る。
慣れた峠ゆえ近く感じられる。
すぐに峠が見えてきた。
この日は雪解けからそうたっておらず、峠付近には何箇所かの崩壊箇所があった。
自動車は通行できまいが、バイクのタイヤ痕が多数あった。
しかしこのタイヤ痕の多くは、峠ライダーの物ではなくて、山菜取りオヤジの物だ。
山菜取りオヤジの運転テクニックも馬鹿に出来ないようだ。
峠の下り、例年北側斜面であるこちら側は遅くまで残雪が残るが、今年は殆ど消えていた。
シングルトラックとなった急な林道を慎重に下る。
距離こそ長くはないが、この峠越えは両側とも崖が多く険しい道である。
下りにおいても、坑門の箇所を特定するために谷底方面に注視しつつ走行したが、木々の上からでは全く地表の様子はうかがい知れず、成功しなかった。
やはり地道に林中を彷徨うしかなさそうである。
しばし下ると馬場目川の最奥の支流である水無沢に出会い、道はやや平坦化する。
ここからは進路を北に変え、一路北の又の集落を目指すわけだが、この辺りで林道名が杉沢林道へと変わる。
未だに正確な位置は特定できていないが。
まあ、それは置いておいて今回は隧道である。
周りの地形からあたりをつけ、徒歩での探索に切り替える。
周囲は木々に囲まれており俯瞰が利かず、暗記してきた地図と現在地点がどの程度一致しているのか不安だったが、覚悟を決め、長靴を着用の上、林道左手の沢へと降りた。
ちょうどこの写真の場所から、沢へと降りたのだ。
沢に下りたところ。
雪解けと前日の雨の為普段よりもやや水量が多く、長靴を履いているとはいえ油断のならない歩渉だった。
しかし、沢に降りてみるとさらに視界が利かず、周囲の山並みすら見えないのでどちらに向かってよいのかが分からなくなった。
こうやって沢筋での遭難が起きるのだなー、なんてのん気に彷徨うこと5分ほど、遂に。
林道とは対岸の植林地内に、明らかに道路跡と思われる細長い平坦地を発見。
まっすぐここに向かってきたなら、林道からは僅か100mほどしか離れていないと思われる。
この発見で一気に盛り上がった気持ちに任せ、鬱蒼とした杉林を上流方向に道路跡を辿ってゆく。
進んでゆくと、ますますその痕跡は鮮明になる。
現在では全く利用されていないようだが、これがかつての線路敷であったことは間違いない。
沢底の平坦地を、グネグネと蛇行しつつ、上流へと伸びている。
林道とは次第に距離が離れているはずだ。
記憶の中にある地形図の坑門の位置へと、確かに近付いているのを感じていた。
林道から分かれて、彷徨った分を除いて500mほどあるいただろうか、この道路跡に立ってからは400mほどだ。
ついに、眼前に逃げようのない斜面が立ちはだかっているのが見えた。
そこは既に水無沢からも別れ、この沢は無名のものだ。
正面の崖には滝が白い帯のように見えてきた。
ここに坑門が無ければ、探索は失敗だ。
それだけ、ここが決定的な場所である予感があった。
一歩一歩、斜面に近付いてゆく。
そこに見えてきた来た露出した岩肌。
坑門の姿は、未だ見つけられない。
不安がよぎる。
――やはり、峰越隧道は幻の隧道なのか…??
岩肌の下部に、半ば埋もれかけたほら穴が見えてきた。
しかし、この時点ではまだ半信半疑、甌穴や落石跡かも知れない…。
しかし、近付く度ごとにその穴は次第に鮮明になり、その奥行きを感じさせはじめた。
廃止後31年目。
私の探索開始から4年目。
遂にその隧道が出現した。
今まで探索していた箇所が根本的に誤りであったのだ。
今回、廃道をさがすという方向性ではなく、地形図を元にして半ば機械的に山林を探索した。
元々廃止時に大きな痕跡を残さなかった林鉄だけに、林道から見える痕跡を辿っていたのでは決してここにたどり着けなかったわけである。
しかし、ついにやった。
感激の余り、「やったー」が出かけたが、今回はまだそこまで楽観できなかった。
なぜならば、その坑門は余りにも埋没が進み、パッと見に危険な香りがしたからだ。
ここは廃止後今まで、少なくとも私の知る限りにおいては、誰一人立ち入っていない廃隧道である。
あたりには、全く人の気配も無く、お馴染みのジョージアオリジナルを含め、一切の空き缶も、ゴミの一つも見当たらない。
隧道内部を探索できるのか、慎重に観察する。
明かりで照らすと、内部には水面が見えていた。
水没である…。
終 わ っ た ……。
でも、せめて水際まででも降りてみよう。
そこからの眺めだけでも持ち帰りたかった。
次回、
地底湖洞窟内部画像公開。
地底湖洞窟内部画像公開。
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