旧 佐島隧道  前編

所在地 神奈川県横須賀市佐島
探索日 2007.3.23/31
公開日 2007.4.3

 東京へ越してきた私が、最初に集中的探索を実施した場所が三浦半島だった。
ここには、明治以降に掘られた大量の隧道が存在し、その多くが改良を受け現役で活躍している。
私にとって、たくさんの古い隧道と戯れられる場所というのは、大変魅力的だった。

 三浦半島は最南端の三浦市城ヶ島から北端とされる横浜市金沢区円海山まで約25キロ、平均幅が5キロほどの丘陵性の半島であるが、東京湾を挟んで対岸に位置する房総半島があまりに肉厚で巨大なせいで、小縮尺の地図上ではそれほど目立った存在ではない。だが、幕末に黒船に乗ったペリーが上陸したのは半島内の久里浜港だし、鎖国が解かれて開港したのはその隣の浦賀港だった。また、横須賀港は明治以降、日本海軍最大の拠点港として発展した。どちらかというと軍事寄りの歴史が多いけれど、歴史がたっぷり詰まったという意味での土地の濃密さは凄い。そして、おそらく日本で最も人口密度の高い半島ではないだろうか。
 私は、半島の中枢を占める横須賀市の中央駅前に降り立ったとき、ここが首都東京の直射を受けるメガロポリスの一端であることを認識した。
同時に半島は首都圏の人々にとって最も身近な海遊びの場であり、ハイシーズンの休日には半島内のあらゆる幹線道路が渋滞する。横須賀市から見て半島の裏側に位置する逗子市は、湘南ステータスの中心地として南国ムードの溢れる観光都市(隣は歴史の鎌倉市)だし、南隣の葉山町は有名な皇室御用邸が設けられるほどの閑静な街である。
 こう言うと語弊がありそうだが敢えて言わせてもらえば、逗子や葉山といった“裏三浦”は、東京のギラギラした熱射から丘陵という楯で少なからず“田舎”を守ってきた、癒しの地である。

 私はまる二日間を、三浦半島内の歴史深い隧道を巡る旅に費やした(二度に分けてだが)。一度目が07年3月23日、二度目が1週間後の31日である。
たった二日間だが、明けてから暮れるまでただひたすら、地図から拾った古隧道をチャリで巡りまくった。久々に尻が擦れるまで漕いだ。そして新旧入り乱れ50本以上を貫いたと思う。

 今回紹介する隧道は、この二日間に出会ったうちの一本で、その人口密度ゆえ新も旧も隅々まで知り尽くされた感のなきにしもあらずな半島内にあって、おそらくまだ手つかずに近い希少な存在だと思う。
この場所は上の全体図の中央左寄り、半島西海岸の小田和(おたわ)湾に面した一角である。ここには戦前まで日本海軍武山海兵団があり、現在も自衛隊武山駐屯地が湾奥部を占有しているという、“軍事半島”らしい土地柄だ。




佐島悲願の隧道

歴史を秘めた隧道 その今姿  

周辺地図

 右の地図を見て欲しい。
佐島隧道が図の上の方に描かれている。
現在この道は一般県道213号佐島港線に指定されており、この付近でやや内陸に進路を取る国道134号から取り残された佐島地区など沿岸集落の生活道路として活用されている。

 佐島隧道は、『横須賀市史』によると昭和60年に建設されたと言うことになっているが、それは現在の形に隧道が改良された年である。隧道自体はそれ以前から存在していた。
三浦半島の全域について広範な情報が掲載されている浅田弘光さんのサイト『青い鳥を求めて』によると、最初に佐島隧道が掘られたのは昭和2年だとある。隧道が完成する以前には、海と山に囲まれた佐島の住民は“陸の孤島”の不便を痛感していたといい、住民手作業によって素堀りの隧道がこの年掘られたそうだ。






 佐島隧道は当初からこの隧道巡りの旅の目標地の一つとなっており、一度目の旅で行っている。
佐島海岸を西から東へ向かって進み、佐島隧道をくぐって国道134号に戻るルートで訪れた。

 写真は佐島海岸沿いの県道。砂浜のすぐ近くを通る。
佐島港を中心とした地区の風景も、かつての漁村というよりはヨットハーバー風。



 やがて道が海岸線を離れると、かつて住民がツルハシを取って掘り抜いたという佐島隧道へ向け、短い上り坂。
ずっと2車線の道で、車通りはそこそこ。
沿道の山は切り崩され、ソテツや棕櫚を植えた新興住宅地となっている。
そして、ようやく本来の緑の景色が見えてきたと思ったら、そこはもう峠のトンネルだった。
武山地区と佐島地区を区切る衝立だった山地も、その両側から稜線を残して削り取られ、今にも切り開かれてしまいそう。
嫌に大きな断面となった佐島隧道は、隧道という響きに似つかわしくない明るさだ。



 隧道には扁額があり銘板がある。しかし、それは金属製の今風のもので、コンクリート一色の隧道と共に改築時に新設なったものだ。
お陰で佐島の人々は土臭い素堀り隧道を通らなくとも町外へ行き来できるようになったし、地区内にお洒落な住宅地やヨットハーバーが生まれた。

 まあ、私もこのような姿になっていることの覚悟は出来ていた。
とはいっても、やはり寂しいものだ。
横須賀市内には大量の古い隧道が存在し、早くも大正時代から旧隧道の改良を進めてきた歴史があるが、多くは隣地に新隧道を設けることで新旧複線となし実質的な拡幅を遂げている(国道16号の隧道群が代表的存在)。
しかし、この佐島隧道においては、昭和60年という改良年度の新しさによるものか、そもそも素堀隧道では前記のような複線化に支障ありと判断されたためか、全体を大断面に改良している。
故に、残念ながら全く旧態を窺い知れない。

佐島トンネル 緒元(銘板より)
 昭和60年2月 延長83.4M 巾10.25M 高4.7M  神奈川県 施工 西武建設KK


 武山側から見ると隧道内は全線上り坂になっている。
入り口の左側は採石場で、岩を砕く爆音を常に轟く。また、砂埃を巻き上げて頻繁にダンプが出入りしている。
この景色は最近のものというわけではなく、昔から「佐島石」の商品名で採石がなされてきたそうだ。
現在の採石場とは県道を挟んだ反対側、写真右側の柵に囲まれた場所も、古い採石地の跡だ。



 綺麗にカッティングされた石切場の跡。
直線だけで構成された岩盤と周囲の緑との違和感が楽しい。
半島内では他に鷹取山周辺にも同じような採石跡地が点在している。(さらに大規模だ)
また、海を隔てた房総半島の鋸山周辺にもよく似た石切場がある。
房総半島と三浦半島は地質的によく似ていて、成因やその時期も近いと言うことだ。



 プロのロッククライマーでもなければ決して近づけないだろう岩盤の上端の辺りに、何か梵字のような不思議な文字(記号?)が刻まれているのを見つけた。
元々はあそこの辺りも地中だったわけで、それから徐々に切り下げていって遂にあんなに高くなってしまったのだ。

 ちなみに、読み取れた文字は二文字「石場」である。


 見たところ崩れそうにもないが、石切場跡の中へは入れないように柵が設けられている。
くぐり抜けて岩の袂へ行ってみた。

 もの凄い大迫力。
実は垂直ではなく部分的には微妙にオーバーハングしていたりと、覆い被さってくるような圧迫感がある。 4.5階建ての、窓のないマンションみたいだ。(監獄みたいとも言う)

 かつて佐島隧道は、この岩盤をくり抜いて作られた。
それが人力ならば、さぞかし大変であったに違いない。



 余りにも積み上げてきた歴史を感じさせないその姿に、何かを諦めきれない私は、その大きな坑門によじ登ってみた。
そして、古い坑口が万が一にも残されていないかを捜索した。
これまでも、旧隧道を切り下げて拡幅するケースで、稀に旧隧道の一部が坑口上部に残るケースがあった。
それを期待したのだ。

 だが、その目論みも実を結ばなかった。
特に発見はなかった。ただ、期待した隧道の姿は何所にも無いのだと確認しただけだった。
こうして、私と佐島“トンネル”との、短い語らいは終わった。





 このほかにも無数の隧道を巡り一回目の探索を終えた私は、数日後に図書館や国土地理院へ行って資料漁りを実行した。
そしてそこで、空振りに終わった佐島隧道に関わる、ある重大な発見へ辿り着く。
ヒントは、国土地理院関東地方測量部で見た、大正10年と昭和28年という二枚の古地形図だった。

 私は、一枚500円とは少し痛手だったが、迷わずその謄本(コピー)を買って来た。
まずは下の画像をご覧頂こう。


 これは、昭和28年応急修正版の5万分の1地形図「横須賀」の一部、佐島付近である。
画像にカーソルを合わせると、ほぼ同じ範囲の現行版地形図(ただし縮尺は異なる)に切り替わるので比較して欲しい。

 銘板には昭和60年とある佐島隧道が当時から同じ場所にあるのはすぐに分かる。これは予想通り。
また、私が通った県道が実は新道で、当時の道が今も集落内に細い道として残っていることは新発見だが、さしたる問題ではない。
実は、この地図中に描かれている隧道は、1つだけではない。



 よりハッキリとさせるため、さらに古い「大正10年修正測図版」をご覧頂こう。
今度はカーソルを合わせると、上の地図と同じ昭和28年版に切り替わる。

 現在の地形図からは全くその痕跡を消してしまった隧道が、これら2面の地形図に記載されているのがお分かり頂けただろうか。
特に、まだ小田和湾を埋め立て武山基地が出来る前だった右の地図においては、現在位置の佐島隧道が描かれていない
佐島隧道が昭和2年に掘られたものとすれば、「描かれていない=存在しない」と考えて良さそうだが、現在地からそう離れていない位置にそれ以前から隧道があったというのでは、佐島隧道の苦労話の迫真性が薄まってしまう気はする。

 ともかく、現在の佐島隧道とは異なる場所に、大正時代には既に隧道が存在していた事になる!
その前後の図も見てみたが、明治期にはまだいずれの隧道も描かれず、また昭和19年あたりの図から武山基地が出来てからは、古い方の隧道が出口から先に道がないという中途半端な描かれ方に変わっている。(お陰で発見が遅れた)
さらに、昭和40年の図を最後にして、以降、古い方の隧道は消滅したことになっている。



 さらにネット上を調べていて、左の写真に出会った。
これは、横須賀市の発行する『広報よこすか』の「WEB広報」サイトに記載されていた写真で、キャプションには「完成した佐島隧道前で西浦村青年団の記念撮影/昭和3年ころ」とある。

 昭和3年といえば、現在地の佐島隧道が完成した翌年である。
手前にはズリ出し用と思われるトロッコのレールが写っている。
気になるのは、隧道が素堀ではないように見えることと、妙に天井が高いような気がする事だ。
これが、現在地にある佐島隧道の旧隧道の姿なのだろうか?
或いは、そのすぐ近くに描かれていた、より古いと思われる隧道の姿であろうか。


ともかく、1度目の探索で見逃していた場所に、かつて隧道があった。
私は翌週さっそく彼の地を再訪した。





そして、出会う。










 恐ろしい

  あの穴と…









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