旧 佐島隧道  中編

所在地 神奈川県横須賀市佐島
探索日 2007.3.31
公開日 2007.4. 4

 というわけで前回の続き。

古い地形図と睨めっこしていて見つけた、佐島隧道の旧隧道らしいもの。
だが、その位置を現在の地形図に重ね合わせてみると…ヤバイ!
こいつは、マズいところへ続いている可能性が…。

 戦後しばらくまで小田和湾の埋め立て地は全て自衛隊武山駐屯地の敷地となっていたが、基地の縮小と共に北側半分ほどが民間に転換されている。
しかし、その大部分は今でも自由に立ち入ることは出来ない。
現在そこには、財団法人「電力中央研究所」および「立教大学原子力研究所」が稼働しているのだ。
当然入り口には真面目な守衛が立ち、みだりに立ち入ることは許されない。
正面切って「廃隧道が…モソッ…」などと言っても門前払いは目に見えている。


 例によって私は裏口へ…。




廃隧道の窓

道の終わりに潜む穴 


 前回来たときには気づかなかったが、佐島隧道の佐島側坑口から現在の県道と分かれて佐島集落内を迂回する道がある。
これは旧県道である。
隧道前からその旧道へはいる。
入り口からして狭い。
接触への注意を促す二灯の点滅信号が、旧道となった今も明滅を続けている。



 200mほど狭い舗装路を下っていくと、旧隧道へ続くと思われる道との分岐地点に到着。
現在の地形図ではこの先旧隧道までの道は描かれていない。

 写真は分岐地点を振り返って撮影したものである。
左の道が旧県道で今来た道。そして、正面右寄りの細道が旧隧道へ続く。
大正10年の地形図において既にこの分岐は描かれているが、現在の佐島隧道の位置に隧道が最初に掘られたのは昭和2年である。大正10年の時点では正面の道が本道で、左の道は採石場へ続く枝道だったようだ。



 平日の昼日中なので余り辺りに人の気配はない。
これは好都合である。
こんな閑静な住宅地のただ中では、大きなリュックを背負ってゴツいMTBを漕ぐ私の姿は目立ち過ぎる。しかもその彼は廃隧道を探すため、家々の裏側にまで目を光らせているのだから怪しい以外の何者でもない。

 運良く誰とも出会わず、道の行き止まりへ辿り着けそうだ。
地図に隧道を見つけたのはまさにこの終点。
まだそれらしいものは何も見えないが、山ごと切り崩されたいう最悪のケースではないようだ。
うっそうと茂る森が私の期待を加勢する。



 行き止まりには採石関連の会社と倉庫があった。
特に立ち入り禁止とは書かれていないが、もうここは道ではなく私有地だろう。
幸い外に人はいないので、私は駐車場の奥の方の目立たぬ場所にチャリを駐めた。

 もう、この先へ続く道はない。
この時点で、未知の隧道が廃隧道だった事が、ほぼ確定的となった。
久々に、血肉の躍るような興奮を憶える。
まだ私の見たことのない廃隧道が、このそばに眠っているのか…。
あるとしたら、写真に写っている車の奥が凄く怪しい。





 あっ、 あるね。

 ここまで続く道の延長線上に、紛れもない隧道の形はあった。
深い掘り割りの奥、ジャングルのような照葉樹林の覆い被さるその下に、かつて口を開けていただろう痕跡がくっきりと見て取れた。

残念ながら塞がれている。それもかなり頑丈に。

 ともかく接近してみる!





 現れた廃隧道。

“佐島石”のブロックで坑口を閉ざされ、あとはただ元の土へ還るばかりの姿。
もはや何者の問いかけにも語り出すことはないだろう。
この湿った掘り割りの淵を、じっとりとした静謐の刻が満たしている。
ある種息苦しささえ感じる“濃さ”だ。
私は、徒者ではない迫力を、この塞がれた坑口から感じ取っていた。
首尾良く目的物にありついた私だが、安堵するどころか逆に動悸が激しくなった。

 「そこに入ってはならない」

 何一つ明文化された警告はないが、明かり窓のような口を僅かに開ける坑口には、近づくだけで呪われそうな重みがあった。
まさに “迫真の沈黙” 




 坑口上部の岩盤からは水が常時滴っている。
坑口の前に立とうとすれば、その洗礼は免れない。
特に、内部へ続くと思われるその“窓”の前は激しい滴りである。

 私はいままで多くの塞がれた隧道を見てきたが、これほど丁寧な石積みで塞いであるというのは珍しい。
そして珍しさに輪を掛ける、まるで窓のような開口部。
背丈よりも高い位置に、人一人が通れるくらいの開口部があり、しかも石組みの枠の内側にさらに木枠があるという手の懲り様だ。




 はて。これは何のための窓なのか。
そもそも、立ち入りを抑制するためだけにこれほど重厚な封鎖をしたのだろうか。
長年風雨に晒されてきたらしい石積みは、隧道そのもの以上の存在感を醸し出している。
まるで熱帯の遺跡だ。




 石積を背にして坑口前に僅かに残された旧道敷きを見る。
昭和2年に佐島地区の住人達がツルハシで切り開いたという初代佐島隧道だが、地図はそれ以前からこの隧道が存在していたことを隠さない。
果たして、この名も知れぬ隧道には、どのような歴史が秘められているのだろう。

 辺りに人影はなく、それを聞く相手はない。
やはり、窓の中へ身を潜らせて自ら調べるより無いのだろう。
ともかくこの場所は工場の目に付くし、水は滴ってくるし蚊とか羽虫たちが沢山飛んでいるしで、長居したくない。
邪魔な荷物を坑口前に下ろし、身軽となって、いざ“窓”へ。






 窓枠に腕を伸ばし、足は石積の隙間にねじ込んで、まずは坑口を塞ぐ壁にへばり付いた。
すると、窓はちょうど胸より上に来る。後は頭からこの中へ入るだけなのだが、これが思いのほか重労働だった。
入り口が狭いため体を真っ直ぐにしたまま入らねばならないのだ。しかし、いざ上半身を窓に入れると、それ以上進むために足を掛ける場所が何所にもなく、その足は中空をむなしくかいた。一方、窓の奥へ入って伸びきった腕はといえば、やはり何も掴めない。
私は暫し、ウルトラマンの飛翔ポーズかバサロ泳法のような形のまま、胸から腰にかけてを支点として藻掻き、芋虫のように蠕動することで前進した。
そして、ようやく体重を窓枠に預けることが出来て安定した。



 …この恥ずかしい姿を人に見られなくて良かった。見られたらやばかった。



 やはり窓は内部へと通じていた!
しかも、出口が見える!
全長は約50mほどだろうか。
崩落もなく、隧道内は綺麗なままにあるようだ。

 これはもう、もらったか!?

…いや。 何か様子がおかしい。
まだ私は窓枠に腰を下ろして隧道内を見下ろしている状況なのだが、それにしても床が遠い。
天井が洞床から離れすぎているのではないか。




 それは今まで体験したことのない、異様な隧道の始まりだったのだ。


 窓枠に腰掛け、隧道内部の足下を撮影。
写真はフラッシュを炊いて普通に撮影したものだが、画像にカーソルを合わせると、フラッシュ無し手持ちライトのみの高感度撮影画像に変わる。


 ご覧頂けただろうか。


 床が、恐ろしく遠い……。

勢いよく飛び降りていたら、死んでいたかも知れない。
人知れずこんな穴で死骸になるのはご免だ。

内部の異常さを、私は冷静に写真へと納めた。
しかし、はてなマークが次々と生まれるばかりで、それは一向に解消しない。
ここは、ただの隧道ではないのか?



 窓枠から隧道内部へと降り立った。
出口が見えているが、そこまでの道のりは通路としての隧道ではない。

 幾ら天井近くから見ているとは言っても、この写真に写る隧道のシルエットは異常だ。明らかに縦長。
力学的に側壁には余分な負荷がかかっているはずで、大正以来これまで数度の震災を経験したであろうに、よくぞ無事残っていたものだ。
比較的近年まで管理されていたのだろうか…。
 当然、この先の海岸線を埋め立てて接収した日本軍とも、隧道は何らかの関わりがあった筈だ。
或いは、なぜか正史から漏れたこの隧道自体、軍によって極秘裏に開削されたものだったのかも知れない。(戦後まで横須賀などの要塞地帯を含む地形図は一般人に公開されていなかった)



 巨視的に見ればなめらかな内壁も、ミクロで見れば一面に鑿跡の刻まれた骨肉の壁である。素堀そのものだ。
やはり、前回紹介した「昭和3年撮影の佐島隧道の記念写真」は、こっちではないのだろう。写真とは坑門の作りが異なっていた。





 遂にその姿を捉えた旧佐島隧道(仮名)。

だが、その反対側へと“通行”するためには、坑口から1mほどの位置に築かれた、この高低差3m近い石垣を降りねばならない。


垂直ではないので、降りることは、おそらく、出来るだろう…。


 しかし、行ったが最後

    登ってこれるか…… 俺?








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