見えているのにたどり着けない。
廃線を探索する趣味を持つ人なら、誰しもが遭遇するジレンマだ。
その理由の多くは、地形的な制約によるものだろう。
それは、少々無鉄砲な踏破力を売りにする私と言えど、おなじこと。
過去に多くの道で涙を飲み、そのいくつかはリベンジを果たし、結局辿りつけていないものも、ある。
今回、見た瞬間に私を虜にした隧道を紹介しよう。
実は、レポートとして紹介するには、まだ時期尚早との考えもあった。
と言うのは、レポートタイトルの「和賀仙人鉱山鉄道」だが、実際にそういう風に呼ばれていた路線はない。
路線名すら分からないと言う、ありえない様な話が、現実に起きているのだ。
勿論これは、今後の十分な調査によって、正しい路線名も判明するだろうし、前後関係も判明しよう。
本来なら、それらを待ってから公開すべきものだが、この衝撃は2004年の初陣を飾るにふさわしいと勝手に判断し、未完成ながら紹介に踏み切ることにした。
まず、私が現時点で把握できている情報だが、これから紹介する隧道が存在したのは、現在では廃線となって久しい鉄道上だ。
昭和初期の地形図の一部を下に抜粋したが、この図中に描かれている軌道が、この名称不明路線である。
この地図が描かれた30数年後には、図中の広い範囲が湯田ダムの作り出す錦秋湖によって水没することになる。
以前、当サイトでも紹介して反響の大きかった、旧国鉄横黒線「仙人隧道」の在りし日の姿も、描かれている。
そして、その探索時から気になっていたのであるが、その西側坑門付近から和賀川沿いを、連なる断崖の記号に隠されるようにひっそりと伸びる軌道の線が、見えるだろう。
さらに、「仙人鉄鉱」と言う文字のすぐ右に、控えめに描かれた隧道の存在することに、気が付かれただろうか。
軌道は隧道を潜り、現在のダムサイトの手前まで川沿いを進んだ後、無理な九十九の線形で「大荒沢」に至っている。
この大荒沢は、旧横黒線には同名の駅が存在していたが、ダムにより水没廃止となっている。
ここは、仙人鉱山と並んで鉄を産する大荒沢鉱山の膝元であった。
ここから先は、私の推測も一部交えられるが、図中の軌道は大荒沢鉱山と仙人鉱山、更に終点の仙人製鉄所を結ぶ鉱山軌道ではなかっただろうか?
この一体の鉱山軌道と言えば、同製鉄所がその運営に大きく寄与していた「和賀軽便軌道」の名が思い出されるが、その終点であった仙人鉱山から、大荒沢鉱山までの延長線のようにも見える。
もっとも、図中に既に存在する国鉄線は大正10年に完成しており、これが軽便鉄道を廃止に追い込んだわけで、既に製鉄所付近より下流の軌道は撤去されているように見える。
素人考えには、仙人製鉄所と大荒沢の間の輸送も国鉄線で賄えると思われ、本鉱山軌道(とおもわれるもの)の寿命は短かったものと思う。
このように、地図上に存在する軌道だが、実際にいつごろまで運用されていたのか、どのような性格を持った路線だったのかなど、今後の調査が必要である。
なにぶん、隣県とはいえ情報が不足しており、岩手県内にお住まいの方のご協力も、お願いしたいのが本音だ。
なお余談だが、この図中に描かれているもので現存しているものは、殆ど何もない。
国鉄や県道(後の国道107号線)は線形を変えており、鉱山も製鉄所も消え、川すら流れを変えている。
湯田ダムのダムサイト上から下流の和賀川を望む。
大変に目立つ左岸のスノーシェードは国道107号線のものである。
右岸に目を遣れば、幾筋かの踏跡のようなものが雪の僅かな濃淡となって散見されるが、本軌道もこのあたりで右岸の台地上にあった大荒沢集落を目指し上り詰めていたはずだ。
一目見て、この軌道は相当に風化しているなと感じられる。
流石に、下降不可能のダムサイト上からのアプローチは断念し、仙人鉱山側から隧道を目指すべく、国道へと戻り、下流を目指した。
国道はダムの下流、和賀仙人集落まで殆どトンネルと長いスノーシェードの中をすごす。
僅かに顔を出す当楽(あてらく) 橋付近から、対岸を望むと、目指す軌道の威容を目の当たりにすることになる。
深い峡谷となった和賀川の対岸に、確かにそれと分かる痕跡がある。
なんと、橋梁となっていた部分の両端には、まるで城跡の様な石垣の橋台が存在しているではないか!
行きたい!!
一目ぼれだ。
だが、一目で分かったよ。
これは、無理。
悪いけど、あれはもう、たどれないよ…。
これまでの私の経験上、あそこを辿る為には、私の持たない技能と、経験、準備が必須だと理解された。
あれは、アルピニストの為の廃線跡なのか…
当楽橋を渡り当楽トンネルを過ぎたあたりから対岸を望む。
先ほどより幾分河床との高度を減らした軌道跡が、見えている。
時期的に恵まれているのだろうが、これほど明瞭に見えている。
だが!
辿りつくすべがない。
幾十という石垣の橋台が連なっている。
その全てが、とても歩いて渡れぬだろう嶮岨な崖にへばり付いている。
たとえ、下流から攻めたとしても、一つ目の橋すら越えられぬだろう。
地図中の隧道の姿も、いまだ見えない。
このあたりに描かれているのだが…。
たとえ隧道など無くても、いずれは踏破してみたいと言う欲求に駆られた。
それほど、衝撃的な姿だ。
隧道を探すと同時に、国道107号線の旧道の捜索も同時進行である。
ゆえに、昭和40年代に竣工されている当楽トンネルの旧道を探すために、一旦通り過ぎたトンネルへと戻った。
すると、坑門の左側に、坑門延長部によって寸断された旧道らしき道路敷きと、赤茶けたガードレールの残骸が見えている。
発見に喜びつつも、こちら側からのアクセスが出来ないと知り、トンネルを戻る決心をした。
写真にも写っているが、この日、トンネル内の災害除去工事(見たところ皹の補修と再塗装)の最中で、ちょうどトンネルの前後を含め長い片側交互通行となっていた。
ただですら整理員に「おい、1月7日にチャリかよ」と言う目で見られていたのに、もう一度戻るのは気が引けるが、仕方がない。
車列に並んだ。
上流側の坑門の脇にチャリを乗り捨て、旧道があると予想されるスペースへ進入開始。
さぞ、整理員の方は不審に思われたことだろう。
自殺者だと思われていたりして…。
写真は、坑門の延長部分に沿って振り返る。
このような場所を20mくらい歩くと、旧道が姿を現した。
当楽トンネル(延長200mほど)を迂回するように崖沿いを走っていた旧道。
廃止後全く転用されている様子も無く、コンクリートの法面以外に、そこが道路だったような痕跡は見当らない。
おっと、今では大変珍しい木製の電柱が、一本、倒れずに風雪に耐えていた。
そそられる情景を目の当たりにし、距離はないと分かっているが、奥へと進むことにした。
潅木を漕いで進む。
切り立った法面には、まだ辛うじて役目を果たしている落石防止ネットの引きちぎれんばかりに瓦礫を蓄えた姿。
幅5mほどの道路敷きには我が物顔で松や潅木が勢いをなし、路肩の向こうには目のくらむような断崖が、水量の少ない和賀川の河原に向かって落ち込んでいる。
地形の険しさを容赦なく感じさせる廃道である。
さらにすすむ。
恐怖心が無いではないが、厳しい中にも美しさを感じさせる峡谷風景に、思わず体が路肩による。
そこには、ガードロープ用支柱が裸になって並んでいた。
雪に埋もれるのを待つだけのその姿は、現代の百地蔵のよう…。
お地蔵様と違い、かつてこの支柱は、物理的に幾万の旅人の命を守ってきたのだ。
そして対岸には、軌道跡がしっかりと見えている。
眼下には和賀川の雄大なV字峡。
いや、むしろ“U字”といったほうがしっくりとくる。
現在はダムで流量が調整されているが、かつては東北一の大河北上の中でも最大の支流であり、また暴れ川として恐れられた和賀川の水量の膨大だったことを感じさせる景観だ。
旧道はこの先、赤茶けたガードレールごと、当楽トンネルに進路を譲るように消失している。
これ以上は、進む必要は無いだろう。
対岸の軌道跡が、仙人鉱山跡付近を下っていく様もここから一望できる。
どう見ても今、あそこは、歩けないだろう。
さあ、引き返そうかと振り返ったとき、来る時には気が付かなかった“白看”を発見した!
すでに限界を超越した様相で、その盤面の殆どが落下してしまっている。
この場所は、北上市と湯田町を隔てる地点であり、この方向から見る標識には、「和賀町」と記されていたに違いない。
遠くには現道の橋やスノーシェードが延々と見えており、この短い旧道だけが取り残されているという印象を強く感じた。
なーーーーんと、消滅したと思われた標識の大部分が、標識の根元で発見された。
すぐさま復元を試みた結果がこれ。
かなり腐食してはいるが、いましばらく「湯田町」をここで、示し続けることになった。
これぞ、幻の白看発見と言う、嬉しい嬉しい一瞬であった!
だが、私の喜びは続かなかった。
立ち去る前に、名残惜しげにもう一度、不到の軌道跡を眺める。
そして、わたしはついに、発見してしまったのだ。
見つけぬままなら、きっと幾分楽だったに違いない。
橋台から、視線を右にずらすと…。
あれは、確信はもてないがきっと隧道だろう。
崖沿いにあるべき軌道の痕跡はここから50mほど潰え、代わりに岩石の崩落地帯が岩肌を舐めている。
仮に、あれが隧道で無いとしたら、一体どうやってここを越えたのだろうか?
きっと、間違いなく、あそこに隧道がある。
上部に目を遣ると、岩肌の亀裂のように、見えなくも無いが…。
また、見るべきものは、それだけではない。
石垣のような橋台も、まじまじと見ると、非常に精巧な造りだ。
一体あのような場所に、どうやって築造したのだろうかと不思議に思えてさえくる。
全体を3段くらいに分けて施工していただろう痕跡も見えるが、高さ10m以上はあるだろう構造物だ。
まさか、斯様な辺境の地に、これほどの遺構が存在していようとは。
単純に驚いた。
そして、ものすごく、悔しかった。
あそこに、行ってみたいよ!!
隧道の存在を確認するには、一つしか方法は無い。
それは、この足で接近し、内部を確認することだ。
だが、それが現実的な選択肢として認識されるのにすら、時間を要した。
なんせ、この断崖である。
興奮が時と共に冷め、少し冷静になっても、まだ私はここを離れていなかった。
下って、川を渡って、上って…。
それも、往復だ…。
そもそも、ここ降りれるのか?
降りて、上ってこれるのか?
私は、悩んだ。
本当に、悩んだ。
行動に移せば、容易には戻れないだろう。
もしや私は、百尋の谷に裸で挑むような愚行を、冒そうとしているのではないだろうか…。
自身の力を、よく振り返り。
行動プランを、何度も、何度も検討した。
そして…。
次回、決断と顛末。
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