出た。やっちゃった…。
・ドライバーが嫌うトンネル 第一位(当社調べ)
「途中で狭くなる隧道」 だ。
しかも非常にさり気なく、幅60cm、高さ30cmくらい断面が減少している。
この“さり気なさ”がドライバー思いだなんて、
とんでもない!
もっとアピールしてもらわなきゃ、危ないのである!!
どんなに危ないかって言えば、右の通りだ。
このコンクリートのえぐれ方は、ちょっとただ事じゃない“ぶつかり方”をしたに違いない。
クルマの方も無事では済まなかったはずだ。
そして、この広範な角の取れ方は、くり返しくり返し衝撃されたのではないだろうか。
…せめて、段差の部分には蛍光板を付けて欲しかったのである。
現役当時から、照明は無かったようでもあるし…。
恐ろしい…。
そして、なぜかこの奥行き10mほどの「狭窄区間」の周りにだけ、沢山のカマドウマが発生していた。
彼らにとって、何かこの部分に特別な旨味があるのか、不思議である。
しかも、ここのカマドウマは妙に元気が良くて、私の物音や照明に反応して、ポトポトぴょんぴょんと落下してくるのである。
別に私を狙って飛んできているのではないはずだが、何匹かは私にぶつかってきた。
薄着だったので、首筋に入られたらと思うと、ゾッとした。
(ピョンピョンカマドウマの動画を撮影したが、「誰得?」だと気付いたので公開はやめた)
断面は、何事もなかったかのように坑口の同じ大きさへ戻った。
あとは最後まで断面に変化はなかったが、一体何のための狭窄区間であったのか謎が残る。
その区間の短さを考えると、掘削断面まで小さいとは考えられないので、覆工だけ厚くなっているのだろう。
ちょうどそこが断層帯で、異常な地圧への対応策か。
或いは、地下水帯からのガードか。
こればかりは、工事関係者から直接お話しを伺うか、残っているかは分からない建設資料を見るより他、解明する手はないだろうと思う。
フラッシュ無しで撮影したので、変な写真になってしまった。
何を写したのかというと、アーチに空いた小さな孔である。
形は正方形に近く、縦横20cm四方、奥行きは5cmくらいか。
幾つもあれば照明の取り付け痕のようだが、ひとつだけ。ぽつんと。
はっきりしたことは言えないが、覆工の強度や地山の状態を確かめるためのサンプルを採取した痕ではないだろうか。
煉瓦製の古い隧道などでは、煉瓦にこのような孔が空けられているのを見ることがある。
コンクリート隧道ではあまり見ないのだが、他にこのような孔を空ける理由が思いつかない。
はじめのうち、洞床には水が溜まっていた。
そんなに深くはないのと、隧道侵入の興奮が醒めやらぬ序盤であったこと、そしてすぐに「狭窄部」が現れた衝撃から触れることなく来てしまったが。
水が溜まっているだけではなく、舗装の路面も堅い凹凸のある土の下に隠れて、全く露出していなかった。
それが、中央に達する頃にはすっかり綺麗に片付いていた。
しかし、洞床が平静を装おうとするほどに、むしろ異様さは助長されるようであった。
それは、どうやっても現役の物件が醸す空気ではない。
洞内は、いまでも車が通行できる状況にあるが、両側には幾つかのゴミが置かれている。
それも、通行人が残していくようなゴミではなく、大型車のタイヤであるとか、チューブの切れ端らしきものが多く残されていた。
侘びしい残骸を見ながら、やや淡泊な心持ちで北口へ近づいていった。
威風堂々たる坑門の強烈な印象に比して、どうにも洞内は荒んでいる感じがした。
たいして崩れているわけでもないのだが、重苦しい。
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16:40
入洞して約7分。
ゆっくり歩いて北側の明かりの下へ辿り着いた。
トリ氏の報告を私は忘れてしまっていたが、こちら側からはたしか外へ出られないのではなかったかと思う。
南口と同じ金網の柵が、足元を含めて坑口全体を塞いでいる。
大きく剥がれた壁が写っているが、これは古い煉瓦隧道などでよく見かけるコンクリートモルタル吹き付け補修(補強)が破れた痕である。
しかし、幸いにして、破れているのは表面のモルタルだけで、内壁自体は壊れていないようだ。
私が意外に思ったのは、この僅かに見えている本来の内壁も、場所打ちされたコンクリートだったことだ。
竣功した時期(大正期)を考えると、煉瓦やコンクリートブロックではないかと思われたが、見えている範囲については普通のコンクリートの壁であった。
技術史についてはまだまだ疎い私だが、うろ覚えの記憶と照らして思ったのは、
もしこの隧道が、全て場所打ちのコンクリートで作られているとしたら、
それはかなり希少な、“初期の現存例”かも知れないということだった。
わるにゃにゃにゃ にゃん
ネットの継ぎ目に隙間があったので、そこから洞外へ出た。
そして、私は真っ先にこのアーチリングを見た。
このアーチリング、よく見るとコンクリートブロックを組成したような線が見えるが、これは単なる意匠としての模様であろう。
また、アーチリングがスパンドレルに対して5cmほど手前に突出しているが、これがより重密な印象を高めている点も見逃せない。
さて、総コンクリートづくりである可能性が激高となった本隧道であるが、その希少性を測ってみたい。
永冨氏の『廃道を読む8(隧道詳説4コンクリート隧道)』(「日本の廃道 #8」収録)によると、「徳島県に大正10年竣工の松阪隧道が現存しており、目下現存最古のコンクリート製道路トンネルである
」とあるし、「この他に現存するものとしては、東京都の本村隧道が大正10,11年頃に作られている
」とのことである。ちなみに後者は近代土木遺産のBランクに指定されてもいる。
コンクリート造りの道路用隧道は、大正10年頃から出はじめたものであるらしい。
そして、この隧道は大正12年の竣功である。
そして、この隧道の文字通りの“顔”である扁額。
結構苦労してネットの隙間から外へ出ようとしたのは、慣例的な通り抜けを果たしたかったと言うこともあるが、それ以上にこれ。
扁額が見たかったからだ。
北口の扁額の近影は、おそらくこれがネット上の初出だと思う。
で、何か南の額と変わったところがあるのかと言われると、嬉しいことに「ある」のである。
「下山隧道」の題字に加え、[@:竣功年] と [A:署名]がしたためられているが、このうちの @ はこちら側にしかない。
竣功年部分の拡大。
右書きで「大正十二年十二月竣功」とあるのが読める。
この竣功“月”は現地ではじめて知った。
開通当日がどんな日和だったのかは記録にないが、何となく快晴ではなかったような気がする。
この竣功月の判明も嬉しかったが、もっと大きな発見というか気づきがあった。
この扁額、形の上では確かに“額”であるが、実際には坑門コンクリートと一体のものである。
隧道の扁額は多くが御影石や花崗岩のような石製で、石工が文字を刻んで題額としたものを坑門に据え付けている(嵌め込んでいる)のであるが、この巨大扁額はかなり例外的に、“型押し”であるように見える。
少なくとも扁額表面もコンクリート製であることは間違いない。
いまもどこかの倉庫に、このときに使われた扁額の“型”が所蔵されているかも知れない。
そして、これは南口にも刻まれていたのだが、題字を書いた人間の署名である。
現地では「 林 谷 題 」のように読んだが、帰宅後にこの名でいくら検索しても、江戸時代の書道家「細川林谷」がヒットするばかりで、大正12年の隧道工事と関わり合いそうなものが見出せなかった。
そこでまた例によって読者の皆様のお知恵を拝借した結果、これが実は「 梅 谷 題 」であろうと言うことが分かった。(『電子くずし字字典』が役だった)
梅谷 光貞 (うめたに みつさだ)
それは、第24代の山梨県知事(県令含む)の名であった。
後年ブラジル移民事業に名を残す彼の県政は、大正12年10月から翌年6月までの短期間であったが、たまたまに名を残す機会を得たのは幸運といえるのか。
しかも、日本中探してもベスト10に入るだろうという巨大扁額へ である。
うう〜〜ん!
イイッ!!
これはとてもイイ扁額と坑門ですね!
願わくは、いまやその用を成さなくなった久しいネットを外し(この場所へ大きな廃品を持って入り込むことは、ほとんど不可能である)、今一度本来の開口を示させてやりたいと思うのだが、その前にまずはこの「お宝」の価値が知れ渡らねばなるまい。
こんな発言は余計な世話で好みじゃないが、貫禄(歴史&外見)のわりに、この隧道は露出が少ないようだったので、つい主張をしてみたくなった。
愛さるにはまず最低限、存在を認識される必要があるとは思うのだ。
…なんてな。
白状すると、私がこの隧道に惚れたという、それだけの話であったりする。
この北口が容易に立てぬ場所であるワケは、坑口から5mも離れぬところで道が完全に切断されているからだ。
左写真はその縁に立って見下ろしたもので、水の流れる谷が鋭く落ちている。
深さは5m以上もあり、対岸には確かに道の続きが認められるが、この河谷を上り下りすることは空手では相当難しい。
右写真は、谷に途中で切断された坑門から続く擁壁である。
道の左右は対称で、上流や下流へと迂回するということが出来ないようになっている。
つまり坑口前は、谷と擁壁と坑門によって外界から画された、5メートル四方ほどの孤立空間なのである。
私もこれを見て引き返すことにした。
残る旧道は、現道との合流地点まで50mもないので、反対側から試せば十分であると考えた。
引き返す最中、水の溜まった南口が “逆さ隧道” を見せてくれた。
どうやら、私もこの隧道に愛されたと見て良いだろう。
16:57 《現在地》
川べりに寄る現道を迂回する。
明治道の痕跡など、有るわけもない。
古屋敷洞門をくぐると緩い登り坂で、暗渠で沢を渡る。
この沢の50m弱上流に分断された旧道は有るわけである。
暗渠の先で、「立入禁止」のバリケードが立てられた軽トラ1台分くらいの小径が左から合わさってくる。
これが旧道だ。
いかにもヤブ蚊が多そうな、濃いぃムード。
しかし安心して欲しい。
道は長くない。
30mほど草道を歩くと、道は左に曲がるそぶりを見せたまま、シーツのお化けのようなマント群落(藪!)に視界を遮られて終わる。
だが、地形はこれに反して谷であり、すなわちまたしても「此岸は草生、彼岸は樹木」となったわけである。
谷の規模を見る限り橋が架かっていて然るべきだが、橋台さえ見あたらないというのは不自然で、ここは暗渠であったかと思う。
それが、洪水か土石流によって根元からイかれたのだろう。
いくら老体とはいえ、道路の擁壁まで一緒にもぎ取る膂力は恐るべきものだ。
…というわけで、北口からのアプローチは欲求不満なチラリズムをもって終了である。
一度立っているから悔しくなんてないが、冬場の様を見たくはある。
撤収。
蛇足気味だが、撤収の途中に【ここから】振り返った眺めが、ちょっと気になった。
旧道(赤)、隧道(黒)、現道(黄色)で示しているが、こうして遠目に見てみると改めて“難場”と分かる。
現道を走っていても洞門がポツンとあるくらいの印象でしかないのだが、実際にはその前後の山腹は50mも上の方までガチガチに固められている。
これだけの「地形改造」をする術を持たない我々の先祖が、これなら隧道を掘って迂回した方がマシだと考えたとしても不思議はない気がする。
で、あともうひとつだけ気になる点(蛇足!)が…。
あの茂み、まさか明治道じゃねーだろーな…