前回のレポートでは、この大正浦隧道の竣工年度を昭和41年であるとした。
この数字の根拠は、昭和40年代に発刊された『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリスト(『山形の廃道』サイトで公開されている資料の原本です)の記載によるもので、信憑性は高い。
しかし、たった(と言っていいか分からないが)40年前まで、ここを通過する旧道が一切無かったものかと、多少の疑問を抱いたのも確かであった。
いったい明治・大正・昭和の人々は、どこを通っていたのだろうかと。
今回再レポートを行ったのは他でもない。
さらにこの隧道の由来が古いことを示す資料に巡り合ったことによる。
この大正浦隧道の本当の竣工年は…
ん? もう分かったって?
名前が答えだろうって?
「大正時代?」 …確かにそれは古い。
だけど。 オドロキモモノキニジュッセイキ 実は もっと古かった。
実はこの大正浦隧道。
今年(2007年)で、
築149年目を迎えている。
来年になると、満150歳だ。
つまりは、1858年竣工ということ。
明治ナン年?…
いや、明治飛んじまってるわ…
安政5年竣工。
ぶっ飛びである。
山行が史上初の、江戸時代モノの隧道である。
どうやら、江戸時代末の安政5年に完成した隧道が、築108年目の昭和41年に全面リニューアルされ、現在のようなコンクリートの身の守りを得たようなのだ。
当然、車道としての拡幅も受けている。
そして、ひとしきりは国道としての任も任されたのであるが(昭和50年国道345号に指定、それ以前は「主要地方道村上温海線」)、結局短期間で現道にバトンを渡したことになる。(平成元年廃道)
前回のレポートでは、その後半生も後半生、最後の部分だけを知って「短命な大正浦隧道でありました。」などと結んでいるが、これは大きな誤りだったのだ。
トンデモナイ長寿さんだった!!
では何故この大正浦隧道が江戸時代生まれだと分かったかといえば、先日初めて読んだ『明治工業史 土木編』という、昭和4年に刊行された古書に載っていたのだ。
道路の隧道中、徳川時代に開鑿したるものにして現存するものは、僅に六箇所なり。 (p.37)
これに続いて、その6箇所の隧道が、名前、長さ、竣工年などの簡単なデータと一緒に並んでいる。
うち、東日本に位置するものが4本で、そのうちの1本が本隧道である。もちろんこれが日本最北。
一.新潟県大正浦隧道
長十九間二分 安政五年(西暦一八五八年)竣工。
なんという見落とし。
…なんだけど、調べなきゃ分かりませんよ。 こんなこと。
また、相互リンク先のサイト『満流智隧道』(multi氏製作)にはさらに詳しい情報が掲載されている。
一部を次に引用させていただいた。
嘉永三年(1850年)、新保の仏照寺十世住職宣方大哲和尚と、馬下の隣村である早川村の早川寺住職洞水和尚が、ここを通る旅人の難儀を救うため、ここに洞門を掘り道行く緒人の安全を図ろうと発願した。(中略)
翌年、大哲・洞水和尚はタガネ掘りで洞門の掘削を始め、またこれを見た村人も工夫として、あるいは米や金を寄進し、安政五年(1858年)に七年かかりでようやく洞門が完成した。延長十九間二分、幅二間、高さ九尺であったという。
前記の資料とも竣工年や延長が等しいが、ここにはさらに詳しい「掘削の事情」が述べられている。
どこかで聞いたことがあると思った人は鋭い。
あの有名な日本最古の隧道、『青の洞門』とストーリーが似通っている。
旅の和尚による発願、村人の途中からの協力など、登場人物も話の流れも一致する。
この符合は偶然ではなく、中世までの日本では、道や橋を普請することが仏心に遣えるものの役割とされていたのだ。江戸時代にもまだそのような風習が残っていたと考えるべきだろう。
というわけで、江戸時代の隧道に遭遇してしまった。
いや、遭遇は前からしていたんだけど(笑)、今さら気付いてしまった。
どんどんとレポートの写真だけが進んでいるが、後追いで解説してしまおう。
4枚上と3枚上の写真は、昭和の改築で建造された落石覆いを海側から撮影。塩害により著しく破壊されており、倒壊も時間の問題と思われる。
2枚上と1枚上の写真は、落石覆いから山側を撮影したもの。そこには深く抉られた片洞門的な地形が見られるが、おそらくこれは自然に出来た海蝕地形であろう。
車道は入り江の奥を埋め立てて建設されているようで、和尚らが竣工せしめた初代のルートは、きっとこの海蝕洞の底の波打ち際をへつり歩く、危険な道であったろう。
そして、左の写真は江戸隧道 …ではなくて、海蝕洞の中である。一部に鍾乳洞的な滑らかさを持った岩が見受けられるが、この近くには海蝕鍾乳洞が本当にあるので有り得ないことはない。なお、この海蝕洞の奥行きは4mくらいであった。
海蝕洞がある山側の崖下から、再び隧道前に戻る。
遠目には気付きにくいが、この落石覆いの腐食ぶりは凄まじいものがある。
また、それとは直接関係ないが、この落石覆いの形状も珍しいものだ。
円柱形の柱が道路の両側に並ぶ様は、まるでギリシアの神殿のミニチュアのようだ。
大概は道路の片側一方は地山であったり擁壁であったりするわけだが。
見るからに危険な状況となった大正浦隧道。
その坑口は頑丈なバリケードによって封鎖されている。
大きな丸太と板を組み合わせ、烈風による倒壊を防ぐため斜材も加えられている。
それはさながら、戦国時代の戦陣に組まれたもののようである。
乗り越えようと思えば、たとえ敵兵に妨害されずとも大変そうだ。
もっとも、今回は“裏口”を見付けたので、苦労はなかった。
落石覆いの海側の縁に沿って本来の坑口脇まで歩く。狭いがこれでバリケードを迂回できる。
写真には馬下大橋の上に立つ釣り人達の姿が写っている。
しかし、かつて捨身に徹した和尚らが見たのは、いっさい遮るもののない海原だった。砕けた飛沫が粗末な衣を濡らしたに違いない。
そして、本来の坑口と落石覆いとの隙間がこの写真のように1mほど空いており、出入りが出来る。
残念ながら坑門には意匠はなく素堀りにコンクリートの吹きつけだ。
「やったぜ!」
そう思っていよいよ隧道内に足を下ろそうとしたとき、物言わぬ圧力を感じた。
これ以上ないほどに朽ちた一枚の「進入禁止」の看板が、じとっとした視線で睨め付けてきた。
腐食してぺらぺらに薄くなってしまったブリキだが、文字の部分だけは消えていない。しかも何故かこの裏口から正面に見えるように落ちている。
「俺の屍を踏んでいけ」 と言うのか…。
スルッ
内壁には特に崩壊も見られず、NATM工法を思わせるような無数の棒が等間隔に突きだしている。
それはビニルの細いパイプで、水抜き用のものだ。しかし、洞内は乾ききっている。
廃止の理由は隧道自体の強度ではなく、その狭さや附属する落石覆いの腐食崩壊、両坑口付近の天候不順時の視界不良などによるものと推測される。
(ちなみに北海道で起きた有名なトンネル崩壊事故は、平成8年であるから、本隧道の廃止とは無関係だ)
右写真は鶴岡側(北側)坑口。
例によって高いバリケードが行く手を遮る。
ここも乗り越えることなく通過したが、隙間は非常に狭くて、しかも尻が濡れる羽目になった。
脱出。
外へ出ると、またも海が隣にあった。
その向こうには馬下大橋。
両者を区画するものは小さな海と低い防波堤だ。
目新しいものとしては、山側の崖下に埋め込まれた丸窓の列。
巨大なパイプ状のものが、そこにはある。
巨大なコンクリートの体躯に、採光窓が並ぶ。
何らかの軍事遺跡かと思わせるような、異様な迫力がある。
だが、これは現役の鉄道施設である。
この中を通っているのはJR羽越本線の単線の線路で、大正浦隧道の斜め上方に隧道の口がある。
こちらは「多真古平隧道」という。大正浦隧道よりも長い。
当地の羽越本線は大正13年に開通しており(村上〜鼠ヶ関)、この開通で同線は全線開通となった。
本隧道も大正時代の隧道と言うことになる。
なお、後の輸送力増強策によってこの隧道のさらに山側に長大な新隧道(第二馬下隧道)が貫通せられ、現在は上下線を分担している。
こちら側にも短い落石覆いが接続されており、やはり坑門にはいかなる意匠も施されていない。
元来は日本を代表する古隧道であったにも関わらず、昭和の改築時、保存の動きはなかったのだろうか。
いや、あったとしても実現は難しかったろう。
当時としてはまだ海上橋梁のプランは先鋭的すぎたであろうし、それよりはむしろ、先祖達が苦労して掘り抜いた隧道を切り拡げて、時代に相応しい便道として活用しようとするのが素直だし理に適っていた。
改築以前の本隧道が既に廃道同然に荒廃していたという話もある。
保存などという、生やさしいことを言っていられる状況ではなかったのだろう。
だが、現在はどうだ。
埋め戻されていないことは救いであるが、ただ塞がれて放置されているだけの状況だ。
確かに隧道はもう掘削当時の姿を幾分も留めてはいない。
そこに資料的な価値は無いかも知れない。
しかし、周囲の地形の険しさは今でも、ここに隧道が掘り抜かれた説得力に満ちている。
決して楽な暮らしではなかった漁民達が、貧弱な技術と道具と無償の奉仕で掘り抜いた、全長19間2分(約34m)の隧道。
きっと、それが日本中でも希有な例であったことを、当人達は知らなかったろう。
交通の圧力から解放されたいまこそ、この隧道の隠された価値を知らしめるような、必要最低限の整備を望みたい。(立て札一枚でいい)
来年は150年目だ。
このまま人知れず崩壊を待つのはあまりに惜しい、血の通った隧道である。
隧道を抜けると間もなく現道と合流し、観光道路として面目を躍如した快走路が笹川流れへと続いている。
何度通っても飽きない道である。
昭和4年に発行された『明治工業史』の時点では6本の江戸時代の隧道が現存していたという。
しかし、平成19年現在も隧道の形として現存しているものは、少なくとも東日本ではこれ一本だけだ。
無論、全国にはこのリストから漏れた「江戸時代の隧道」が幾つも存在しているが、本隧道の価値は高い。
大正浦隧道
安政5年 竣工
全長19間2分 幅2間 高さ9尺
昭和41年 改築
全長34m 幅4.7m 高さ4m
平成元年 廃止