2008/6/27 11:43 《現在地》
私を誘い込んだオーラの源は、お前だったのか!
封鎖された掘割りの10mほど西側に、ご覧の坑口を発見!!
そのサイズはかなり小さく、大人は身を屈めなければ中へ入ることは出来ない。
この天井の低さは、おそらく埋め戻す目的で外部から土砂を持ち込まれたせいだと思うが、幅の狭さは間違いなく当初からのもの。
明らかに車が通れるようなサイズではなく、人道用の隧道と見受けられた。
この坑口について、特筆すべき点は二つある。
第一は、素掘の坑口でありながら、石造の立派な扁額が存在していること(後述)。
第二は、奇妙な段差を持った坑口部のデザイン(掘り方)である。
今まで沢山の素掘の坑口を見てきたが、このような段差のあるデザインは初めて目にする。
何か構造上の意味や由来があるのか、単なる意匠なのか、初めて目にするだけに判断が付かない。
もし意匠ではないとしたら、当初は外周(破線)の断面で掘ろうと工事をはじめたが、思い直して内周(実線)の断面に変更した可能性や、本来はこの窪んだ位置にアーチの巻き立てを施すつもりでいた可能性を疑いたくなる。
また意匠だとすれば、その目的は扁額に対する雨水除けであろうか?
通常の坑門における「笠石」の意図するところと言えば分かりやすい。
扁額イイ! そこに尽きる!
隧道の凝った扁額(特に石造扁額)は、私の大好物である。
扁額である石版の横幅は坑口の幅に匹敵するほどもあり、普通ならばいささかバランスを失する所だが、例の“段差”のおかげか、なかなか収りが良く見える。
そもそも、素掘の坑門に立派な扁額が取り付けられているのが、極めてレアだ。
個人的には、福島県内で一度目撃したことがあったか…といった程度である。
そして扁額の肝心な内容は、「鎖大師参道」という達筆なる五文字。
これは隧道名というよりも、この道の名前というべきだろう。
これ以外の例えば竣工年などの情報は得られなかった。
こうした素掘に似つかわしくない立派な扁額の存在は、隧道自体の格式より、隧道の先にある「鎖大師」の格式に拠るものだろう。
偶然だとは思うが、坑門に隧道名ではなく目的地の名前が掲げられているというのは、前回の「ヤマノイハイツ手広トンネル(仮称)」と全く同じパターンだ。
現在地と、鎖大師(青蓮寺)の位置関係をおさらいしておこう。
左図に緑色で描いた線は、尾根である。
坑門に「鎖大師参道」の扁額が掲げられた隧道は、尾根をくぐり抜けて、鎖大師がある谷戸の上へ抜けていたに違いない。
ただし、現状でこの隧道が貫通している可能性は、残念ながらほぼゼロだ。
立ち入るまでもない。
なぜならば、この隧道の進路上に県道304号が存在している。
平面的にも標高的にも両者は確実に接触しているはずなのに、先ほど県道を通行していて隧道には気付かなかった。
つまり…。
隧道貫通の可能性は、絶望的。
だからといって、内部を探索しないという選択肢はなかった。
口を開けた廃隧道がそこにあるならば、万難を廃してでも中を確かなければ、せっかく現れてくれた廃隧道に失礼だ。
この、率直に言って“ゴミ溜め”のような隧道へ……
…… 入る ……
きっと天井に張り付いた大きなカマドウマたちが、
私の背中や首筋めがけて飛びついてくるであろうが…
選択の余地が無いってんじゃ、仕方がない…。
← 坑口を背にして見た坑前の風景。
わずか3m先には舗装された小径が通っているが、わずかな隙間を残してネットフェンスが遮っており、さらにフェンスにツタが絡んで緑化しているため、見通す事は全く出来ない。
なお、坑口前に立っている「緑地保全契約地 鎌倉市」の標柱は、この隧道に一定の史跡的な価値を鎌倉市が見出している証なのか、隧道とは関係なく立っているのかは分からない。
分からないが、ともかく「緑地保全契約地」に指定されたのが「平成9年」であったことが、いま判明。
これも坑口で撮影した写真。→
坑口向かって左側に、何か常夜灯の一部のような形をした石造の飾り物が安置されていた。
一般の隧道でこういうものを見たことはなく、いかにも「参道」らしい感じだ。
狭いィ〜!!
しゃがみ歩きでも天井に頭が支え、結局四つん這いにならなければ、中へ入ることは出来なかった。
乾いた土と干し草(萱?)のカビくさい臭いを鼻腔いっぱいに感じながら、上半身から洞内へ…。
2mほど進んだ所で、やっと中腰の体勢になることが出来たが、
その先もまた大量の土砂が、天井近くまで積み上がっていた!
明らかにこの隧道は廃隧道であり、埋め戻しを受けている。
その埋め戻し方がなぜか中途半端であったため私に立ち入られているが、洞内の空気は澱んでいて蒸し暑く、かなり不快な空間となってしまっている。
だが、考えてみればここはかつて神域への通路、ないしは神域そのものであったわけで…
道路(県道)整備の前には、神も仏もないのか!
…なんて言ってみたくなったり……。
うんしょ、うんしょ…。
二つ目の土砂の山を、四つん這いの匍匐前進で突破する。
埋め戻されてはいるが、隧道本来の壁面には特にひび割れや欠落は見られない。
そういう意味では、良好な保存状態といえた。
おそらくこの鎌倉の地質も、房総半島から三浦半島の一帯に広がる三浦層という砂岩質の領域に含まれるのだろう。
これらの地域に共通する「隧道多産」を支えてきた、隧道や切り通しにとってはとても有利な地質なのである。
この程度の小断面ならば、素掘でもそう簡単に崩れる事はない。
これは酷い、ゴミ溜まり状態…。
そして、閉塞確認。
坑口から5mほど進入したが、そこにある2度目の土山の向こうは、足の踏み場どころか、身の置き場の無い粗大ゴミの充填空間であった。
いつものか分からないママチャリや冷蔵庫らしきものなど、様々なものが散乱していた。
土で埋め戻す過程でこれらを投棄したのか、それ以前からあったものかは、不明である。
そして幸いなことに、このゴミ領域へ身を進めるまでもなく、奥に閉塞壁を目視出来た。
さすがにこれ以上奥へすすむ意味は見出せない…。
閉塞壁まではもう10m弱空洞は続いていたが、探索終了である。
以上を計すれば、現存する隧道の全長は15m程度というのが結論だ。
…どよ〜ん……。
このたびの隧道発見は僥倖であり、我が身の幸運を心底喜んだ。
そしてその坑口に扁額を見つけた瞬間が、喜びの頂点であった。
だが、洞内に入ってからの感想は、正直、しょぼん…。
期待が大きかっただけに、落胆もまた大きいというか…。
この立地である時点で閉塞は覚悟していたのであるが、ゴミで埋め戻しというのは、さすがに萎える… よ?
愛が、感じられないぜ。
跡形も無く消え去るよりは良い状況であると、これでも言えるだろうか…。いっそのこと……。
カマドウマが髪の毛の上で飛び跳ねるのも構わず、だいぶ「どよ〜ん」としながら坑口付近まで戻って来た私。
その時おもむろに目に入ったのは、行きには気付かなかった壁面の小さな凹みであった…。
「 隧 」
だと?!
や、
やっべぇ。
今、私が何よりも欲していた情報が、
この壁面に記録されているのではないのか。
最も直截的な、文字という方法で!
「 隧 」
この文字で始まる熟語を、寡聞にして私はたった一つしか知らない。
掘れ!
指は千切れても構わん!
――― 5分 経過 ―――
10cmくらい下が見えてきたが、まだ下がある。
ちなみにこの間、「 隧 」の下の一文字が判明した。
それは、
「 道 」
だった。
もう、汗 だくである。
洞内はただでさえ蒸し暑く、澱んでいるのに、
いつからここに堆積しているのか分からない、堅く締まった土砂を、
小さく屈んだ姿勢で掘る。 掘る。 掘る!
スコップなんて、普段は持ち歩いてないし、
近くのゴミに紛れていた陶器の破片で掘った。
ゴミ役立ったし……。
――― 15分 経過 ―――
*これ以上は、掘れない!!
掘れないんである(涙)
なぜならば、30cmほど掘ったところで、なぜか壁に沿ってレール(のような金属棒)が土の中から現れた。
このレールは、両側の壁面にあって支保工のような役割をしていたのかも知れないし、別の目的があったのかも知れない。
いずれこの窮屈な状況では、レールの下は作業スペースが狭すぎて上手く土を掘り出せない。
本格的にもっと広い範囲の土砂をどかさないと、このレールよりも下の壁に何があるのか(あるいは何も書かれていないのかを)確認する事は出来ない。
だが、改めて時間をかけて念入りに手で触ってみた感触だと、このレールよりも下には文字が書かれている場所のような平らさや凹みが感じられなかった。
素掘のゴツゴツした壁面があるだけだと思う。
ということで、文字については、これで全て掘り起こされたと思う。
となれば、
いよいよ解読だ!!
果して、内壁に刻まれた埋もれかけの文字は私に何を訴えていたのか。
最初に見つけた大きな文字は、一番上の「隧」という字。
その次に「道」が現れ、
さらに掘り進めた結果、その下から「開通」の2文字が出現した。
よって大きな4文字は「隧道開通」であった。
これは私にとって大きな意味を持つ内容であった。特に最初の2文字がだ。
というのも、坑門の扁額にあった文字が「鎖大師参道」であったことから、果してこの隧道が当時確かに「隧道=トンネル」として認識されていたのかを疑問に思っていた。
あまりに規模の小さな隧道は、隧道だと考えられていなかった可能性があるのだ。
どのように認識されていたとしても、地下通路は全て隧道なのかも知れないが、やはり建造し利用していた人々から「確かにそう認識されていた隧道」と、「参道がたまたま地下道になっていた」部分とでは、これを隧道として評価する上で違いがあると私は思うのである。
ようは、参道と隧道の主従関係である。
そして、「隧道」の文字がこうして現物に刻まれているということは、間違いなくここは「隧道」だったのである。 嬉しい!
さらに、この4文字の右側にも、別の一回り小さな文字が刻まれていた。
ぐぬぬぬぬ…
ここまで来て、何と口惜しい事だろう。
この文字列は、読み取る事が出来ない…!
おそらく1文字目は「全」であり、最後の文字は「代」だと思うのだが、異なる光で撮影した左右二枚の写真(同じ部分を撮影している)を以てしても、現地で幾ら目を凝らしてみても、この(おそらく)5文字を解読することは出来なかった。
あるいは、この表面に紙片をあてた状態で鉛筆を使い、字形を透かし取る事が出来たかもしれないが、このときはそんな準備もなかった。
写真を見直せば解読出来るかも知れないと期待して撮影してきたのだが、やはり写真からも読み取りは困難なようだ。無念。
ここに書かれている内容は、なんであろうか?
単純に竣工年ではなさそうであるが、青蓮寺の第何“代”和尚の時代に竣工したというような事が書かれているのかもしれない。
現在のところこの文字は、本隧道の竣工年を明らかにしうる、ただ一つの手掛りとなっている。
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