最後に本編で解明できなかった謎についてのおさらい&新情報を整理しておこう。
この探索における最大のなぞは、なんといっても「鎖大師参道の隧道」を、誰がいつ建設したのかという点であろう。
これを解決するためには、洞内の壁に刻まれていた「隧道開通」という文字の隣の小さな文字(謎の五文字)を解読することが有効と思われたが、現場では判読しきれなかった。
しかし中編を公開した後で、ある読者さまから次のコメントをいただいた。
鎌倉市史社寺編(p.182)によると、戦前の青蓮寺住職は草繋全宜氏とのことですから、上から二文字は「全宜」のようにみえます。
そしてこのことをツイッターに書いてさらに皆様のコメントを求めたところ、別の読者さまから「全宜僧正代」と書いてあるのではないかというご指摘をいただいた。
私はこれを支持したいと思う。
というか、ほぼ間違いないであろう。
草繋全宜氏をコトバンクで調べたところ、確かに青蓮寺のことが書かれていた。
また、ウィキペディア「青蓮寺」の項目にも、「昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。
」とあり、昭和25年までは草繋全宣氏が青蓮寺の住職を務めていた事が分かるうえ、「かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。
」とまで書かれていた。
この寺を知る人にとって、洞門があったことは常識だったようだ。
残念ながら竣工年までは書かれていないが、謎の五文字の内容と合わせれば、草繋全宣氏が青蓮寺の住職であった戦前(いつ?)から昭和25年までのいずれかの時期に隧道は開通した…という所までは絞れるであろう。
完全解決には青蓮寺に直接伺ってみるのが一番だと思うが、お寺に電話で確かめるのはちょっと気が引けるな…。ちゃんと再訪して答えが分かったら追記します。
また、答えをご存じの方がいたら、こっそり(?)教えて下さいな。
ここからは特に本編以上の新情報はなく、いわゆるオマケだが、旧地形図の表記の変遷も見ておこう。
左図は明治36年測図の2万分の1地形図だ。
切り通しを通っていた「江の島道」(と思われる道)を赤く着色し、参道の隧道を緑で書き足した。
これを見れば分かるとおり、明治36年当時まだ参道隧道は存在しなかったようである。
今度は一気に時代が移って、現在の県道が開通してから作られた最初の版である昭和41年版(カーソルオンで昭和53年版)である。
この間の大正や昭和の版も目を通したが、隧道は一度も描かれていなかった。
そしてこれら現県道開通後の版にも当然、隧道は存在しない。
だからこそ旧地形図の調査は今回「オマケ」だったわけだが、凄まじいばかりの都市化に挟まれつつ旧状を留める手広(西ヶ谷)一帯を感じていただくべく公開した。
切り通し周辺の森は、やはり希少な自然環境だったようだ。
よく見ると、ヤマノイハイツ手広も昭和41年にはなく、53年版から登場しているな。
鎌倉市役所発行一万分の一「鎌倉市全図」(昭和35年製版)
の一部(画像提供:へちまたろう氏)
それでは隧道が描かれた地形図はないのかというと、へちまたろう氏(HETIMA.NET管理人)が大変貴重な画像を提供して下さった。
これは昭和35年に製版された鎌倉市発行の1万分の1の地形図で、昭和32年に開通した現県道や、今回探索した切り通しだけでなく、隧道の位置にも何やら道が描かれている。
この地図をもって直ちに現県道と隧道が併存していた時期があるとは断定出来ないが、隧道らしきものがこの時期には確かに存在していた事は裏付けられるであろう。
以上、報告終り。
今回は廃隧道の壁面に「隧道開通」の文字を見つけた瞬間が、何より激しく興奮したッスな。
あと、美しい切り通しと。
ヤマノイハイツ手広の佇まいも……忘れられない。