この日はみぞれが降っているような気温である。
地底湖の水は凍ってこそいないが、その冷たさは皆様が想像するとおり。
よく言われるとおり、冷たいという感覚はすぐに傷みによって麻痺する。
が、それで終わりじゃないんだな。
不思議なもので、なんか“かゆ暖かい”感じになるんですよ。ええ。
危険デスとも。下半身が危険。
さらに長時間を経過するといよいよ感覚は薄れてきて、やがてゴワゴワ感(ズボンのこすれる感覚)だけが感じられるようになる。
水面上にうすら白い顔を見せる、不気味な案山子のようなもの。
その正体は、農協の肥料の袋であった。
袋がかぶせられている“棒のようなもの”が何なのかは、袋を外さなければ分からない。
しかし、袋には太字で「くみあい尿素」とあって、いかにも薬品っぽい白地の袋と相まって手を触れたくないオーラが出ていた。
成分が残っているわけもないのだが…。(ちなみに尿素は無毒である)
それにしても、“くみあい尿素”とは、なんともシュールなネーミングだと思う。
水深は腰丈少し下で安定した。
ホッとしたと同時に、すぐに引き返す口実も失われてしまった。
いずれにしても、決着を早く付けないとやう゛ぁい。
まだ入水してから1分くらいだが、もう腰から下がポカポカ暖かくなってきた。
しかし、私のそんな苦悩を無視して、洞内の光景は変化し始めていた。
ここまで完全にコンクリート巻きだったものが、素堀にコンクリート吹きつけへと変わる。
また、洞内の断面はさらに大きくなり、肋骨のような鋼鉄製の補強剤が現れ始める。
かつて何度か侵入した、採石場などのダンプやトラックが通る作業隧道に似ている。(一例はこちら)
坑口から斜坑を100mほど下った所から水が溜まっているが、そこが最深部である。
そこで45度北寄りにカーブしてからは、地底湖と化した隧道が平坦に続いている。
続いていると言ってもたいした距離もないのだが、結構な水深があるので歩くペースは遅い。
焦って水を散らせばカメラを濡らしかねないし、最悪転倒すれば目も当てられない。
ちなみに洞床にはコンクリートが敷かれている。
側壁には、小さな横穴を埋め戻したような跡が数カ所残されている。
いずれの穴も天井までぎっしり砕石が積み上げられ、その奥を伺い知ることは出来ない。
それは隧道が私に差しのべた救いの手か、徐々に水深が浅くなり始めていた。
これで本来のペースで探索が出来る。
そう思った矢先のことだった。
何か、別の、大きな空洞が見えてきたのである。
広がり過ぎた断面を支持するため仕方なしに建てられたような不格好な支柱。
その手前から一気に水深が浅くなっており、奥の空洞では水がひけているようだ。
一面地底湖に覆われたこの隧道は、この先の地下空洞と外界とをつなぐ通路だったようである。
水中には鉄の管が地上まで一本伸びており、かつては排水が行われていたのだろう。
支柱の前にある錆付いた物体は、横倒しになったバリケードであった。
あ
この日は、痛覚を通り越した苦痛のせいか、いつに無く鈍かった私だが、いよいよここに来て、この先の空洞が何であるかを察知した。
そして、思った。
「やばい… やってしまったぞ…」
これ… 公開していいんか?
私はまず、大声で細田氏に事の次第を伝えた。
だが、大した距離を離れていないにも関わらず、水面で音が乱反射してしまうせいか、或いはカーブしてきたせいか、声の届きは悪かった。
何度か聞き返されてしまったので、いま情報を伝えるのは諦めた。
私はそれから、浅くなっていく水面を押しのけながら、行く手に現れた別の空洞へと近づいていった。
気付きを確信に変えるため。
勘の良い方、 ご名答〜。
やっちゃいました。
現役鉄道出現です。
なるほどね。
こういうオチだったのか…。
プレート、どっかで見たと思えば、鉄道構造物でお馴染みの竣工年の銘板だったんだ…。
今までも、廃隧道に潜っていったら現役隧道に出たと言うことが一回あったけど(慶徳隧道)、ここはもっと直接的。
これ、JR奥羽本線の矢立トンネルの建設用斜坑だった模様。
完成後使われなくなった斜坑に水が溜まって、現状のような廃景をなしたのであろう。
鉄道付帯施設として現役で管理されていると言うわけでもなさそうだ。
しかし、相手は天下のJR。ましてや慶徳隧道のあった磐越西線以上の幹線鉄道。
東北の二大幹線の一つ、奥羽本線である。
ちょっと、こんな“裏口”を見つけちゃったからって、オイタは出来ませんよね。
今にも列車が来てしまうかも知れないわけだし。
そんな時に洞内にライト持った人が立ってたら大問題、大事件な訳で。
うわー、そう思ったら、怖くなってきた。
でも、電車来たらここってかなり大迫力な映像が見られる場所かも…。
どきどき どきどき…
駄目ですよ。 線路内に立ち入れば。
…でもまあ、現在地は全長3180m(竣工昭和45年…旧線レポはこちら)もあるトンネルの中間付近であり、この隧道の何処かに走る列車が進入すればそりゃもう大音響間違いないわけで、経験上それは断言してよい。
ならば、ここが静かなうちは、とりあえず列車が近づいている危険はほぼ無いということで…。
せっかくの機会だから、現役複線長大隧道の写真をここぞとばかりに撮っておきたいわけでして…。
で、この写真はその横穴の出口から青森方を見た映像。
矢立トンネルは直線なので、1200mほど離れた坑口がはっきりと確認できた。
そしてこれが秋田側。
この隧道は鉄道用とはいえ、県境を跨ぐ重要な長大隧道らしく、照明が点々と灯っている。確かに車窓から見た時もこの隧道はずっと明るかった印象がある。
がちがちのスラブ軌道に、新幹線用とも思えるような大断面、うっすら緑の光を灯す天井の架線支柱。
地中にありながら全く土の臭いを感じない、どこか先鋭的な光景。
地上の小さな一軒宿の温泉や、雑草まみれの川原の景色からは想像が付きづらい。
そして、この秋田側にはまだ2kmものの長さがあり、峠のサミットを跨ぐせいで出口は見えない。
しかし…それにしても…、斜坑があるというのも聞いたことがなかったし、まさか入れてしまうとは…。
驚いた。
ん?
ゴーー
来たな!
ゴーーーーーー
待避! つーか撤収!!
ゴォーーーーーーーー
探索開始から20分ほど経過していたが、偶然にも今まで一度も列車が来ていなかった。
もし斜坑にいる段階でこの列車の音を聞いていたなら、隧道の正体はすぐに知られていただろう。
そのくらい列車の進入は横坑の空気を震わせる。音というよりも、風である。
隧道内を猛スピードで駆ける列車が、ピストンのように洞内の空気を押し出してくるのだ。
当然横坑には大量の空気が逃げ出してくることになる。
本坑内での写真撮影中、列車が青森側坑口から進入した気配を、案の定音から察知した私は、即座に横坑へ戻った。
列車に私の存在を知られてはまずい。
乗客の視界に入ってしまうのもまずいので、横坑をバシャバシャと奥まで逃げた。かなり焦った。分かっていても焦る。
かなり大きな音がしてきた。
軽く恐怖感を覚える。
だが、これからもっともっと大騒ぎになりそうだ、この調子なら。
こ、 ここ、怖いかも。
だが、これはまたとない貴重な体験になる!
私は手持ちのライトを消灯すると、本坑へ向き直った。
そのままカメラの動画撮影ボタンを押下。
際限なく大きくなってくる音、地響き、風、それらを感じながら黙して動画を撮り続けた。
無論、下半身に怪しい火照りを感じながら。
そうして得たのが次の動画である。
もちろん、列車は写っていない。光だけだ。
だが、音を聞いて欲しい。
動画スタート時点でも、既に列車なかなり近づいていた。
その後、速やかに細田氏と合流し、我々は地上へと戻った。
このままでは足が、下半身が死んでしまう!!
もう痛覚が死んで、ざらついた触覚しか感じなくなっている!
だが、この斜坑は下るのも転びそうで怖かったが、登るのはもっと堪えた。
滑るしぬかるし、きもいし、しかも追い立てるように次々列車が来るし。
ここは居心地の悪い場所として、我々の印象に残ったのである。
出口。
気の毒なことに、ここで一名が網に引っかかった。
もう、彼は助からないかも知れない。
ズボンが足で汚れてしまった。 嗚呼ッ 無惨。
とまあ、現役のJRトンネルの横っ腹に繋がる斜坑ということで、公開して良いのか悩んだネタなのですが、私は皆さんの良識を信じます。
自分の良識を信じられない私が人の何を信じられるかというのは置いとくとして。
つーか、黄金様と地底湖がある限り、悪さするヤツは出ないだろうけど…。