慶徳隧道 磐越西線旧線 最終回

公開日 2006.07.24

 僅かな資料を頼りに、たった8年間使われただけで変状廃止されたという、磐越西線の松野隧道を捜索。
首尾良く発見するも、内部は壮絶な崩壊の現場となり果てており、貫通の見込みは全くない状況であった。
さらに、隧道直上に不自然な陥没地形の列を発見、隧道崩壊との関連性が強く疑われるのであった。
反対側の坑口を捜索するために沢に下りた私が見たものは、わずかな橋梁の痕跡のみで、松野隧道の西側坑口はもはや地上に存在しないと結論付けられたのである。



 だがそのとき、松野隧道とは反対側の低地に、思いがけぬ発見があった。

 それは、この地に築かれたもう一つの隧道である慶徳隧道の、今は忘れ去られた旧坑口であった。
慶徳隧道では、松野隧道が変状を見て廃止されるに合わせ、隧道内から分岐する新線を設けた。
そして、行く手のない坑口がひとつ、残されたのである。




切れっ端の隧道

その存在意義


 慶徳隧道の旧坑口の3mほど外には、坑門全体よりも高い築堤が建設されている。
この築堤は作りが新しく、ここ数年以内に建設されたもののようだ。
築堤工事の関係者はみなこの隧道を目撃していたはずだが、当然のように、山行がにその情報はもたらされなかった。
そして、今さらながら、ここに驚きを隠せない男が一人出現したというわけだ。

 隧道の洞床の高さと下を流れる松野沢の河床の高さは2mも違わないとみえ、もし築堤がなければ隧道内へ水が侵入する事も有り得たのではないかと思われる。
もっとも、現在線の隧道とは内部で隔離されているであろうから、それほど大きな問題にはならなかっただろうが。


 隧道は完全にうち捨てられた存在と見えたが、その内部へ行くためだけに梯子がわざわざ設置してあった。
治水と鉄道と、全く畑の違う施工者だと思うが、これは治水(県か市か)がJRにサービスしたのか?
そんなどうでも良いことが気になる。
従来、こんな景色は見たことがないだけに尚更だ。

 ちなみに、長靴は沢で洗ったのでもう綺麗です。

 

 背後を監獄の外壁のような白壁に塞がれ、入洞以前にもう息苦しさを覚えた。
またさっきの松野隧道みたいな、不愉快極まりない洞内だったら……。

 長年風雪に晒され続けた坑口付近の煉瓦は、変色が著しく本来の色合いは完全に失われている。
松野隧道では見られなかったものとして、側溝と樋がある。
樋は壊れているが塩ビパイプであり、果たして大正のものなのだろうか。
洞床はよく締まった泥で、とりあえず歩きやすくて安心した。
また、今度は“滝”の音はしない。



 松野隧道とは一転、静まりかえった洞内。
ただ、フラッシュ撮影を邪魔する水蒸気の濃度はこっちの方が多く、閉塞を予感させる。
現在の地図を見る限り、この慶徳隧道(全長は800mほど)の内部は、郡山方出口付近で5度くらい南にカーブしている。
おそらくは、旧隧道はこのカーブの起点付近から真っ直ぐ外へ出ていたものと想像され、その場合、推定される合流地点までの距離は150m程度である。



 早くも閉塞壁なのか。
前方に高く積まれた土嚢の山が見えてきた。
洞床には水溜まりはあるが、流れている様子はなく、泥も積もってはいない。
また、中央にも流水溝の名残らしい凹みがみられた。



 堆い土嚢の山。
重苦しい空気が流れる。
湿った袋に転ばないように注意しながら、よじ登る。
かつて、土嚢で入口を塞がれた隧道に潜り、出られなくなりかけて焦ったことがあった。(→五百刈沢隧道旧口
それが思い出される。


 登り切ると……。



 行き止まりかと思いきや、高さは半分くらいになったが、まだまだ平らな洞床が続いていた。
そう古く無さそうな日清カップヌードルの容器がひとつ、落ちていた。
誰だ。こんな所で食べたのは……。

 また、付近には鉄製の網状の板が何枚も捨ててあった。
側溝にするような蓋に見えるが、大正期のものではないように思える。



 坑口からは、ここで100m程度である。
壁一枚を挟んで、現在線の隧道が近付きつつあるはずだが、果たしてどんな風に末端が処理されているのか、これまで同様の場面で目撃してきた様々が思い出される。

 たとえば、松野隧道と同様に、変状で廃止された路線に関わって坑口付近が取り替えられた隧道として、奥羽本線赤岩駅付近の第4号隧道や、さらにその2代目線が現在線に代替わりする際に洞内分岐となった新第6号隧道は、今も鮮明にその取り付け部分の荒々しい光景が思い出される。
車道隧道としては、国道13号旧線万世大路の栗子隧道と栗子山隧道の分岐もまた、印象深い。
そして、その何れもが、相互の行き来は不可能なように作られていた。



   ん!

 本来の洞床からは2m以上嵩上げされた現在の洞床に大きな窪地が現れたと思えば、何とその奥には横穴?!


 ……いや、よく見たらそれは待避坑である。
なぜここだけ埋めなかったのか分からないが……。
脇を迂回して、先へ進んだ。



   んんん!

  ま、まさか?



   キッターー!

  繋がってるよ……。

   現在線に繋がっている!



 横穴の先の旧隧道は、土砂が天井まで積み上がっていて行き止まりであった。
それもやむを得ないこと。
寄り添ってきた現在線に進路を完全に譲るのだから。
この先の壁がどのように処理されているのかは、土砂を寄せぬ限り測りようがないが、それは難しい。
諦めて、先の横穴に向かう。



 煉瓦の壁を強引に砕いたような横穴。
新隧道側の壁の断面は整っていることから、旧隧道側のみ破壊を伴う貫通を行ったことが分かる。
 隧道内の新旧道分岐の例として、これらが洞内にて繋がっているケースは稀であった。
この慶徳隧道は、その稀なケースの一つとなった。
また、知る限り鉄道隧道としては初めての発見である。

 なぜ、閉塞されなかったかだが、ひとえにこの保線用のボックスの設置が大きいのではないか。
なぜここに設置しなければならなかったのかは分からないが(というか、普通は隧道内に設置しないだろう、たぶん…)。
ともかく、今も保線作業員たちが、必要とあらばここまで来て作業できるように、整備されているのだ。
坑口部の梯子も、JRがその設置を要望したのかも知れない。



新旧隧道の行き来


 横穴を通り抜け、現在線の慶徳隧道内部へ。

 このカーブの先は新潟側坑口まで直線な筈だが、まだここはカーブの途中なので出口は見えない。
現在線隧道内は、驚くほど風が吹き抜けており、峠の隧道、生きた隧道の気概を感じた。
列車が来ない限りにおいて、真っ暗な隧道内の様子は、見慣れた廃線跡とそう違わないが(こちらも煉瓦製のようだし…)、生活・観光の両面で活躍がめざましい磐越西線の現役隧道である。



 郡山側の様子。
カーブが続いているのだが、壁面に出口の明かりが反射し、300mほど先に地上が待っていることを予感させた。

 私は、この新旧隧道の間隙という、おそらく一般の乗客にとっては思いもつかないだろう空間に居て、列車の来るのを待ち受けたい衝動に駆られたが、時刻表を確認するとまだ当分列車の予定がないので諦めた。
でも、隧道内で列車が来る音や風を体験できる場所って、普通はなかなか無いので、かなり貴重かもね。



 で、列車が隧道内に進入していないことを、音で十分に確認した上において、ちょっとだけ現在線隧道内を郡山方へ歩いてみた。
ほんとにちょっとだけね。万一列車が見えたら、元の穴に戻れるだけの距離。
目的は、 そう。

 この穴です。

 ほら、さっき旧隧道内で発見した、あの待避坑に繋がってたりするのでは?!  なんかそんな気が。

 かなり断面の小さな、とても現在線の待避坑とは思えない穴が、横穴から郡山方に10m程の位置に口をあけていたのである。



   やっぱりだ……

 ごく細い、人一人が屈んでやっと通れる穴ではあるが、真っ直ぐと旧隧道の方へ伸びている。
そして、5mほど先で、何か別の空洞に通じているようなのだ。
浅い水溜まりになった、コンクリート巻の小隧道だ。



 この、旧隧道の待避坑と現在線とを繋ぐ小通路は、かつて水を逃がすために使われていたものと思われる。
旧坑口付近まで取り回されている樋がここにもある。
また、小さいトロッコみたいな鉄の残骸が落ちているが、これは保線ボックス(名前が分からない)の残骸と見えた。
相当古そうだ。

 ここから先は想像だが、新隧道内の勾配の関係かなにかで、疎水用に新旧隧道を繋いでいたのでは無かろうか。
結局、それが現在活躍している様子はない。
また、別にもう一回り大きい断面の横穴を掘り、これを通じて現在線の保線ボックスを旧隧道内に設置したと言うことだろう。
不思議な状況ではあるが、ともかく旧隧道にも、僅かながら今も存在意義があったわけだ。



 疎水に関係しそうな様々な道具が捨てられた旧隧道側通路出口付近。

 屈んでここから出ると……、
案の定、三方を土砂の山に取り囲まれた、旧隧道内の窪地に出た。



 旧隧道閉塞部付近の光景。

 左下の穴が、待避坑を延伸したような新旧連絡通路。(疎水路?)
色々な資材が置き去りになっており、さらにその向こう左側に白く見えるポストが保線ボックス。
あそこからも新隧道へ移動できる。
その向こうは、土砂が天井まで達している。

 思いがけず不思議な体験をした。
まさか、繋がっているとはね。
この後、私は旧隧道を使って車へと戻った。





 前回までのレポートを公開したところで、読者を通じ松野隧道の変状とその顛末を知る機会を得たので、簡単に紹介する。
こちらのURLでは土木学会図書館内の、戦前の土木学会誌のPDFを閲覧できるのだが、そのひとつ、大正6年10月発行の「隧道修築工事 岩越線松野隧道崩壊概況」という資料がそれである。
 それによると、松野隧道で起きた変状の顛末はこうだ。
大正6年3月26日の午前3時頃に、保線作業員が松野隧道の最初の異変に気付いた後、午前8時頃までにはあれよあれよと新潟側坑口が土砂崩れで埋もれ、さらに隧道内も著しく変状し、煉瓦が剥離したり亀裂が生じたという。
松野沢橋梁が埋もれ、松野隧道も埋没、崩壊し、当然列車は通行不可能となって、さらに松野沢の水が堰き止められたために慶徳隧道が冠水、そのまま水は新潟側の坑口から流れだしたという。
そんな状況が、緊迫感溢れる時系列を追ったレポートで綴られている。
ぜひ、読んでみて欲しい。
 にしても、松野隧道の片方の坑口が発見できなかったこともこれで納得できたし、洞内の凄まじい惨状、各亀裂の状況などが、この変状当日にまとめて起きた事だったことが分かった。慶徳隧道の旧隧道内部に積まれた土嚢もまた、水の逆流を防ぐためだったのだろう。
情報を下さった、E.HOBA様、どうもありがとうございました。