前回の冒頭で説明したとおり、長浦田の浦隧道は、現在の長浦隧道の隣に存在した。
しかし、埋め戻されているという。
吉倉隧道は形を変えて生き続けていたが、それよりも19年遅い明治43年に開通したという長浦田の浦隧道は、正反対の末路を辿った。
そのせいか、この隧道についてはネット上にもほとんど情報が無く、市史にも隧道名の他は「明治43年竣工」としか記載されていない。
これから紹介するのは、横須賀市内の明治隧道の中で、最も謎多き隧道である。
前回の冒頭で説明したとおり、長浦田の浦隧道は、現在の長浦隧道の隣に存在した。
しかし、埋め戻されているという。
吉倉隧道は形を変えて生き続けていたが、それよりも19年遅い明治43年に開通したという長浦田の浦隧道は、正反対の末路を辿った。
そのせいか、この隧道についてはネット上にもほとんど情報が無く、市史にも隧道名の他は「明治43年竣工」としか記載されていない。
これから紹介するのは、横須賀市内の明治隧道の中で、最も謎多き隧道である。
本編と直接関係ないのだが、余り悔しかったのでここに報告。
長浦隧道に到着する直前、その手前の吉浦隧道の出口で、ちょっとした不注意から歩道と車道を隔てるガードレールにチャリのハンドルを接触させる事故を起こした。
比較的低速ではあったが、走行中に突然ハンドルが90°車道側に向いたのだから、チャリは当然急停止。咄嗟にガードレールを蹴ってバランスを取り戻し転倒は免れたものの、首から下げていた愛用のデジカメ「Lumix DMC-FX01」は慣性に従って前方のガードレール支柱に激しく激突。跳ね返って私の胸元に戻ってきた。
…私の初代Lumix君は、二度と沈胴式レンズが動かなくなり、電源は入るもののオシャカでした。
ちくしょ〜〜〜! こんな一般道でデジカメを逝かせちまうなんて…。
数分間放心状態に陥った後、サブカメラの「現場監督」をリュックから取り出しまして、意気消沈のまま長浦隧道へ向かったのでした…。
これ以上悲しい犠牲を出さないためにも、皆さんはちゃんと自転車から降りて通行してくださいねぇ。
というわけで、長浦隧道。
これはその横須賀側(南側)坑口である。
昭和3年に一連の隧道群の一つとして開通した、全長194.8mのコンクリートブロック積みのトンネルで、現在は国道16号の内回り線(横浜→横須賀方向)として利用されている。
そして、問題の「長浦田の浦隧道」は、この長浦隧道南口の傍らに小さな口を開けている。
もう見つかったでしょうか?
坑口の50mほど手前の左側に、車一台がギリギリ通れるスロープがある。
この奥まったところ、ちょうど長浦隧道坑門の肩の上といった場所に、小さな口が開いている。
これぞ、最近まで正体の掴めなかった問題児。長浦田の浦隧道の坑口である。
それにしても、さすがは明治43年生まれ。
煉瓦隧道だったか! 萌エー!
正面の幅広い煉瓦の壁と、右下に見える灰色のコンクリブロックの坑門、そして左側の擁壁は黒ずんだコンクリート壁。
明治、大正、昭和を代表する建築素材のそろい踏み。
桜の花が彩りを添えているが、ちょっとウルサイくらいの眺めだ?!
道は坑口前で直角に折れ、吉浦隧道の坑門上を横断して常光寺というお寺のご本堂へと通じている。
この坑門上を横断する部分からは欄干代わりとなった笠石や帯石を間近に観察することが出来るが、これはコンクリートブロック製ではなく、おそらく横断路と共に後補のものと思われる。
で、肝心の長浦田の浦隧道なのだけれど。
・・・・・・。
怪しい。
ナンダカアヤシイゾ。
これって… 本当に明治の煉瓦坑口??
違うような…。
でも、このイギリス積みの煉瓦壁が新しいものにも見えない。
それに、坑口の真上にだけある、この写真の溝は何だ?
写真をクリックすると別画面に拡大表示する。
溝の中には、大きな釘が残されている様子が分かる。
なにか、庇のようなものが取り付けられていた名残であろうか。
分からない…。
煉瓦の分厚い壁に刳り抜かれたような坑。
そして、違和感の塊のような門扉。
しかも、内側にはなぜか植物がびっしり…。
余りにも怪しげで不可解な、煉瓦?の坑門の姿。
しかも、天井は低すぎて、とても立っては入れない。
門扉の上からその内部を観察。
流石に奥の方までは植物も生えていなかったが、物置のようになっている。
そして、とりあえず目の届く範囲には崩落もなく、空洞は奥へと続いているようだ…。
風はなく、おそらく閉塞しているだろうが…
しかし、それでも内部を確かめねば気が済まない。
幸い。
門扉には鍵がかかっていない。
普通に開けて進入。
この造りは、違和感がありすぎる。
やはり、表の煉瓦の壁は本来の長浦田の浦隧道のものでは無かったのだ。
その証拠に、内壁の石積アーチとは、全く断面の形が違う。
だが、この隧道が石造であったのは嬉しい誤算だった。
というか、これは煉瓦以上に凄いことだぞ。
内壁全部が石造の道路トンネルは、全国でも数えるほどしかないと言われているのだ。
ここの下にある長浦隧道は近代土木遺産として登録されているが、この長浦田の浦隧道はそれよりもさらに古く、しかも石造!
こっちも凄いのではないのか?!
…残念ながら石造りは坑口付近の僅か5mほどに過ぎなかった。
その奥は、見ての通りの素堀。
粘土質の壁がそのまま露出しており、完全な無普請だ。
坑口付近のみ補強のために石造ブロックで巻立てたのだろう。
それにしても、置かれていた自転車と較べて、この断面の高さを見て欲しい。
立って歩けないどころではなく、かなり屈み込まないと頭を天井にぶつけてしまう。
明らかに断面の下半分が地中に埋もれているのだ。
なぜ、このような不自然な形で存在しているのだろう。
石組みと無普請の境目部分の様子。
巻厚は2枚で、奇麗に整形された石材が隙間のない丁寧なアーチを形作っている。
表面には鑿で削った跡も見られる。
使われている石材は、おそらく地元産のものであろう。都市化の進んだ現在では、横須賀市内で採石をしている場所はないと思うが、以前の三浦半島は房総半島と並んで良質で加工しやすい石材を、多く産出していた。
表面が白い粉状のもので覆われているが、これはなんだろうか。
酸性雨の影響で溶け出した地中のカルシウムか?
いやはや、見ればみるほど立派な石組みである。
三浦半島では唯一の石造道路隧道ではないだろうか(坑口に石を用いたものは「走水第一・第二隧道」の例がある)。
魔界の入口。
そんな感じさえする、不気味な崩落部。
物置として使われている部分を過ぎると、間もなく大きな崩落跡地が現れ、洞床は高く盛り上がっている。
その分、天井は大きく空洞になっており、まだ奥へと進めそうだ。
これ以上土砂が出口側へ溢れてこないように、フェンスで止めようとしたような形跡がある。
当然のことながら、手持ちの明かりの他に、この闇を射る光はない。
非常に狭く、空気も澱んでいる。
嫌な雰囲気だ。
落盤の傷跡が生々しい。
板状に剥がれ落ちた粘土岩が周囲を不規則に埋めている。
しかし、奥へとまだ空洞は続いている。
落盤による天井のホールを振り返って撮影。
遠くに小さくだが、緑色の外の光が見える。
極端に断面が小さいので距離が大きく感じられるが、実際には坑口からこの落盤まで15mほどである。
落盤箇所を過ぎると、内壁の状況は安定している。
しかし、落盤ではない大量の土砂がほとんどの内空を埋めており、引き続きしゃがみ歩きを強いられる。
滑らかな天井の様子に少しだけ救われる気はするが、それでもかなり気味が悪い。
少し気後れしながらも進んでいくと、触れただけで崩れそうな猫車が、なぜか一台だけ置かれていた。
この膨大な土砂は、間違いなく人為的に運び込まれたものであろう。
やはり、一度は埋め戻されたのだ。
この猫車などは埋め戻し工事のときから、そのまま放置されてきたのではないかと思われる。
(調べてみたところ、猫車の利用は大正時代からのようだ)
素堀の隧道らしく、内壁(といっても天井以外は窺い知れないが)の様子は一定ではない。
このように、とんがり頭のようになっている部分もある。
しかし、どちらにしても最初の崩壊箇所の他は、崩れ落ちたような土砂はない。
引き続き、粒の小さな粘土岩の瓦礫が辺りを埋め尽くしている。
なお、「隧道の埋め戻し」について標準的な施工法があるのかどうか分からないが、このように天井付近だけ隙間が残ることは珍しいことではないと思う。
まして、手作業で土を洞内に積み上げていく作業には限度があり、柔らかい埋め戻し用の土砂が経年によって体積を減らして、自然に天井付近に隙間を作るケースが多いのだろう。
この辺りまで来ると、普段人が入ることは無いのだろう(←そんな必要がどこにある)。
洞床を埋める土砂は平らに均されたままの、言うなれば足跡のない新雪のような姿である。
また内壁には、絵筆で描いたような黒い地層の模様が縦横に走っている。
房総半島で何度も見た素堀隧道の様子と大変酷似しているが(一例)、細い東京湾を挟んで近接しているのだから不思議なことではない。
黙々としゃがみ歩きで進んできたが、思いのほか終わりは現れない。
もうかれこれ30mは進んできたのではないか。
再び、天井に奇妙な凹みが現れた。
古い落盤によるものなのか、はたまた、両側から掘り進めてきた隧道の“エラー”の痕なのか…。
そのどちらとも取れるが、今は、立って歩けるだけの隙間が現れたことが素直に嬉しい。
と、そんな幸せも長くは続かないのだった。
また呆気なくしゃがみ歩き、或いはさらに四つん這いでの前進を余儀なくされる。
それでも、彼らは居なかったのは、精神衛生上大変助かった。
え? 彼らって?
カマドウマとゲジゲジですよ。
碍子 発見!
なんと、埋め戻しを免れた天井付近に、取り付けられたままの碍子を一つだけ発見したのである。
この「一つだけ」と言うのがミソで、なんでこう廃道での発見というのは、「一つだけ」が多いのだろう。
一つも見つからないのが基本で、あとはいっぱい無数に見つかるというのが次の選択肢ではないのか。確率論的には。
それなのに、なぜか一つ。
…今度も、また一つ…。
おっ、 お前も見付けて欲しかったのかッ! (涙)
この碍子だが、かつてこの隧道に人や物だけでなく、電線も通じていたという証であろう。
碍子は明治時代から今とそう変わらない外見で存在していた。
ただ、この茶色という色が謎である。
何となく、以前も何処かで茶色の碍子を目撃した覚えがあるのだが、思い出せない。
また、一般的な白でない理由も分からない。
この隧道は、私にとってかなり居心地が悪かったと見える。
なぜかこの貴重な発見である碍子も、上のたった一枚しか写真を撮影していなかった。
しかも洞内で撮影した写真の大半が酷くピンぼけだった。
もっともこれは「現場監督」の欠点で、薄暗いなど焦点が合いにくい場所だと、マニュアル設定がないだけにどうしようもない。
それはそうと、いよいよ匍匐前進を要する狭さに……。
ふぅーー 助かった。
約10mほど生きた心地のしない匍匐前進を強いられたが、そのあと、少しだけ床が低くなったのを最後に、隧道は閉塞していた。
…閉塞していたのだから、「助かった」というのはおかしいかも知れないが、「これで納得して引き返せる」という安堵感が、大概の閉塞地点で私に上記のような心情をもたらす。
ともかく、閉塞である。
天井が崩され、膨大な土砂が流し込まれているような雰囲気だ。
崩落ではなく、おそらくここは横浜側の坑口にかなり近いのではないだろうか。
そして、出口側から埋め戻したその裏側が、この状況なのではないかと想像する。
辺りには、先ほどの猫車同様に錆の塊のようになったスコップや、まだ塗装の残ったフェンスの残骸、それに用途不明の竹竿など雑多なものが、土砂に混ざるようにして散乱していた。
入口からおおよそ、50〜100m程度は入ってきただろうか。
立って歩ける部分が全くなかったのと、ここから振り返っても全く光が見えないのとで、その距離はいつも以上に測りかねた。
急いで洞内を戻る。
そして、本当の安堵の時が来た。
狭すぎて、大変精神的に苦しい隧道だった。
というわけで、長浦田の浦隧道は現存していたわけだが、その状況は非常にトリッキーだった。
まず、この写真の坑口が本来のものでは無いだろう。
おそらくは長浦隧道を建設する際、干渉してしまう本隧道の坑口(きっと石造りの立派なものだったろう)と、そこから数メートルの隧道を破壊したのだろう。
そして、このような不自然な立地条件となったと推論する。
また、内壁に見て取れた石造アーチのサイズから想像すると、図に示した点線くらいの断面があったはずである。
つまり、本来の隧道は今よりも2mほど低い位置に洞床があって、幅2間(3.6m)高さ9尺(2.7m)といった、当時の道路隧道としてありがちなサイズを有していたと考えられる。
これならば、小型自動車も通れただろうし、人や荷車は安心して通れる。
残された謎は、何故ここに煉瓦の壁が作られ、そしてまた、それがなぜ破壊されたのかという点だ。
こればかりは、事情を知っている人物に聞き取りでもしない限り、自信のある推論も難しい。
例えば、一度は完全に埋め戻して煉瓦の壁で封印したのだが、あとから何か理由があって(例えば戦時中に防空壕として使うなど)掘り返したのか。
そもそもが、この煉瓦の壁自体が非常に不自然なのである。
道路の擁壁として煉瓦の壁を用いているケースは少ないし、少なくともこの周囲には他にそのような場所は見られない。
周囲にはコンクリートの壁や、舗装された地面が混在しており、全く正体が掴めない。
本隧道最大の謎は、どうやらこの煉瓦の壁にありそうだ。
反対の横浜側坑口はどうなっているのだろうか。
何となく、内部の状況から無事ではないような予感はしたが、大縮尺の地図を元に、位置を想定してみる。
横須賀側の坑道の向きや長さを考えると、やはり横浜側の出口は、長浦地区の吾妻神社の袂の辺りっぽい。
もっとも、吾妻神社はほとんど稜線上だから、その麓の…民家が密集している辺りが怪しい。
また隧道内はほとんど勾配がないようだったので、等高線に注目してみると(画像にカーソルを合わせると等高線をハイライト)、さらに探すべき範囲は狭められた。
目指すは、吾妻神社下の住宅密集地だ!!
ということで、長浦町5丁目の一角へ。
ここは、新旧の国道16号に挟まれた一帯で、一見静かそうな街角からも、昼夜問わず車の音が離れることはない。
この細い道は、かつては隧道へと通じていた古道なのだろうか。
道の両脇には民家が建ち並ぶが、そのさらに外側は急斜面になっており、厳重にコンクリートで補強されている。
この谷間の奥まったところが、隧道擬定地である。
段々畑ならぬ、段々民家だ。
細い道はますます細くなり、ついには階段に。
まだ民家の帯は続いているが、標高的にはこれ以上行けば登りすぎな気がする。
かといって、段々に整地された辺りには、とても隧道がぽっかり口を開けていそうな感じはしない。
結局最後の民家まで登ったが、隧道らしきものはなかった。
写真を見てお分かりの通り、ほとんどここは稜線間近。
隧道はもっと下の方だったと思われるが、そこに行く道もなければ、ヒントとなるようなものもない。
もしかしたら、そこらへんの民家の壁の裏とかに、何らかの痕跡が残っている可能性はあるが、一軒一軒確かめるわけにもいかず。
敗退。
隧道の捜索の過程で少し捜索範囲を広げた時に、図らずも隧道開通以前の古道に遭遇した。
最後に少し紹介しよう。
上の写真までの谷から分かれて、尾根の上に登る階段道を発見。
掘り割りの底にカーブした階段が続く。
高さ的にも隧道とは無関係であると分かったが、雰囲気に惹かれるものがあり、さらに進んでみた。
なんと階段の先にも数軒の民家があったが、それも越えるといよいよ古道らしい雰囲気。
道からは峠を目指そうという意志がはっきりと感じられたので、これが古道であると気付く。
路面は硬いが舗装ではなくて、隧道内と同じ粘土岩が地表が露出している。
その踏み心地はまるで石畳のようだ。
明治43年に件の隧道が開通する前は、これが長浦通だった。
おそらく、前回紹介した吉倉隧道開通以前の「七曲り」や、或いは国道としては異例の難道だった「十三峠」も、こんな道だったのではないか。
さらに進むと、路面の粘土岩をそのまま階段に仕立てた道が現れた。
もう少しで、峠の吾妻神社に着く。
辺りの景色からそう感じたが、隧道と無関係であることを理由に、私は珍しくなんの躊躇いも無しにここで引き返した。
今写真を見ると、このカーブの先の景色がとても気になるのだが…。
そんなわけで、高低差50mにも満たない小さな小さな峠の古道は、未だ私の踏破を許していない。
峠付近からの、横浜側の見晴らし。
向かいの山肌にも、家並みが駆け上がるように立ち並ぶ。マンションも山と背比べ。
やっぱり、坑口は見つからなかった。
一度は捨てられたが、形を変え、名前さえ変えて生き存えた吉倉隧道。
同じく捨てられ、いまやその所在さえ一部が分からなくなった、長浦田の浦隧道。
不要なものが形を留めておくことは、きっとこの街では悪なのだ。
ふとそんな気がした。
責めてなんかいない。
ここは都会なんだから、当然だ。