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橋梁レポート 三好市池田の巨大廃橋跡(池田橋) 最終回

所在地 徳島県三好市
探索日 2024.02.26
公開日 2024.04.09

 池田市街と“謎の廃橋”の関係を探る 〜周辺調査〜


2024/2/26 16:37

急遽始まった探索も、畳む時がやって来た。
ぜひとも間近に寄って調べてみたいと思った両岸の巨大橋台は、いまや私の知るところとなった。
もっとも、謎の中二階の存在理由や、橋名、竣工年、廃止年など、結局現地では解明出来なかった疑問も多く残った。これについては持ち帰って解決しよう。これだけ通行人からも目立つ橋だ。調べ方さえ間違えなければ、すぐに答えを知れるだろう。

ここを離れて車へ戻る前に、先ほど出会った“少し気になる道”を確かめておきたい。
右岸橋台の袂から【左折して】川岸を緩やかに下って行く道があった。地理院地図だと分岐から400mほどで行き止まりだが、最後は水辺の近くまで下りていっているようだ。もしかしたら立地的に、件の廃橋の前身にあたる渡船場の跡かもしれない。根拠はないが、そんな予感がした。
時間的に、いまから遠くまで移動して次の探索をすることは出来ないが、日暮れまでは中途半端に時間があるので、見にいってみたい。こんなところに橋の素性に繋がる発見があったら儲けものだ。

ということに決して、自転車に跨がり直してから、上の地図(チェンジ後)に青矢印で示したルートで進んだ。
そして次の画像(↓)は、図中の「次画像」の位置で撮影した。



国道を横断し、直ちに池田市街がある高台に登っていく脇道(市道)へ折れる。
ここから、チェンジ後画像の矢印のルートで池田トンネルの上を跨いで、右岸橋台を目指す。
改めて、廃橋へと通じていた旧道の痕跡を探る機会でもある。



前方に、住宅地となった小さな谷を跨ぐ1本の陸橋が見えてきた。
この橋について現地では特に注目を向けなかったので、たまたまこの写真に写った程度の存在で終わってしまったが、帰宅後の机上調査によって、この橋こそ廃橋に通じる道であったことが分かった。

正確には現在の橋は昭和51(1976)年竣工の2代目で、先代の橋が廃橋と接続していたらしい。
橋の名を、書院橋という。
答えを知りながら探索しているわけでないので、まともに撮影していなくて申し訳ない。



その書院橋がある丁字路を背にして振り返る、右岸橋台へ通じる道の入口がこれ。

池田トンネルの坑門を跨ぐために、やや無理矢理な登り坂になっており、壮大な橋へと通じていた道の面影はない。
封鎖こそされていないものの車止めもあり、そもそも乗用車で入っていこうと思える広さの道ではない。

ここから入って進むと……



16:41 《現在地》

すぐに、先ほどは石段を登って来た右岸橋台前の分岐に到達する。
今度は正面の橋台を無視して左折し、「?マーク」の道へ。



左折すると、廃道とも現役とも決しがたい、おそらく夏場に来ればたくさんの蜘蛛の巣を身体に浴びそうな、鬱蒼とした小道である。
ただ、決定的な障害物はないので、自転車で普通に進める。塞がれていたりもしないし。あまり手入れされていないだけの現役の道なのだろう。
で、ほとんどアップダウンなく100mほど進むと……。



池田トンネル東口の脇にポンと出た。

そして、トンネルの先に歩道があり、トンネル内には歩道がないという状況から、察する。
なるほど、いま辿ってきた小道は国道の歩道として観念されていたのだ。ならばこそ、車道らしからぬガードポールのデザインにも合点がいく。
まあはっきり言って不親切な遠回りコースなんで、歩行者の人気は相当に低そうだが…。



だが、ここで“歩道にならない”でさらに川べりへ下って行く小道がある。地理院地図に描かれている道の続きである。

塞がれていないので自転車に跨がったまま突入してみると、今度こそ廃道らしい路面状況になりつつも、国道の巨大なコンクリート擁壁と一体化した道が延びている。かなりの急勾配で下っており、いよいよ本格的に船着場に行きそうな予感がした。



国道と高低差がつくと、道は元来の姿を取り戻したように、練石積の石垣に路肩を預けた古道らしい姿となった。
だが意外なことに舗装はされている。草や土砂のせいでほとんど見えないが。



グワッ グワッ 

私をいつだって和ませてくれる大好きな声が唐突に鳴り響いた。
だいぶ近づいてきた川面の対岸に近い辺りで、十数羽のカモたちが遊んでいた。
しかし、私が視線を向けていることになぜかすぐに気付かれ、彼らはグワグワ言いながらいなくなってしまった。



間もなく川べりに辿り着くというところで、洪水のためであろうが、地形ごと豪快に道が失われていた。
ここまでの展開から労なくゴールに立てると思い込んでいただけに、最後に現れた障害が意外に殺意高めな【絶壁の姿】をしていたことには驚いたが、冷静にルートを見定め突破した。自転車はここでお留守番となった。

チェンジ後の画像は、突破した欠壊部を振り返って撮影。
ほんの5mほどの断絶だが、一度川べりに近い高さまで降りて進む必要があり、その際は崖の上り下りが必要であった。
景色も、ガチっぽいでしょ?(笑)



16:47 《現在地》

たった1ヶ所の難所を突破すると、度重なる洪水にも耐える堅牢なコンクリート護岸が出現し、そのお陰で道は川べりまで降下することができた。
辿り着いたのは、廃橋台から遡ること約450m、ダムの下流約250mの地点であった。

下降してきた道は、この先で唐突に右折し、そして……



河に正対し、突然終わる。

橋の跡とは到底思えない異質なラストだ。
おそらくこれが、私にとってあまり経験の多くない、渡舟場跡の光景なのだろう。

就航当時は、この道の突端に渡し舟が横付けされていて、正面の対岸へと通じていたのだと思う。
残念ながら、対岸にこれと対になるような構造物は遠望出来なかったが…。

私の想像通り、ここが渡船場の跡だとすると、やはり今回探索した廃橋の前身といえる存在だった可能性は高いと思う。
まず第一に位置が近いし、右岸の橋台までのアプローチを途中まで共有している点も関係を感じさせる。



推定渡舟場跡より見る架橋地点および左岸橋台跡。

単純に考えれば、渡船を廃して架橋したという経緯だが、あの橋台とこの渡舟場跡、どちらに使われているコンクリートの方が新しく見えたかと問われれば、答えは渡舟場跡である。
もしかしたら、橋が廃止されてから、渡舟場への道を再び整備するような経緯があったのだろうか。
例えば、親水公園的な利用とか、あるいは……



この場所の少しだけ上流に見える、サージタンク状の巨大なコンクリート構造物の関係とか?
こちらのPDFの4ページ目の地図を拡大すると、ここには「上水道取水塔跡」の注記があるが、残念ながら詳細は不明だ)



あとどうでもいいが、足元の砂地に「ぬこ」っぽい足跡がたくさんあった。

……といったところで、現地探索の報告を終えようかと思う。
このあとは来た道を戻りつつ池田市街地を通ってスタート地点へ戻っただけなので、報告すべき成果は特にない。
結局、飛び入りで行ったこの現地探索では、廃橋について目で見て分かる有り様以外の情報は、ほとんど得られなかった。
あとは机上調査に解決を委ねたい。



 机上調査編 〜巨大廃橋の正体は、戦前に建設された賃取橋!〜


まるで池田の街を背負うかのような偉容をもって、吉野川の両岸に屹立する橋台を残す、巨大な廃橋。
現地でつぶさに観察をしたものの、竣工年や廃止年を含む素性はおろか、橋名すらも明かされなかった。
この探索で私に刻まれた疑問は強いもので、長い遠征からの帰宅後、他のいろいろの探索を差し置いて真っ先に机上調査に着手した。
ただ、初めは橋名も分からなかったので、まずはそれを知るべく、いつものように歴代地形図の調査を最初に行った。

君はいったい、いつ生まれ? (←現地での推測は「昭和初期」)




@
地理院地図(現在)
A
昭和45(1970)年
B
昭和32(1957)年
C
明治39(1906)年

最新の地理院地図と重ねて、昭和45(1970)年版、昭和32(1957)年版、明治39(1906)年版の旧版地形図を見較べてみた。

なんと、予想に反して、どの地図にも橋は描かれていなかった。

ウソだろ? どの地図にも描かれてないって、そんな……?


@
平成21(2009)年
A
昭和50(1975)年
B
昭和22(1947)年

ならばと、今度は3世代の航空写真を確認。

全部に橋台が写っている…?!

すなわち、昭和22(1947)年の時点で、既に廃橋ということだ………。



予想外の事態に、私はこう思った。

本橋は完成後非常に短命で廃止されたか、

もしくは、

最後まで完成しなかった“未成橋”だったのかもしれない

と。



…………このあと、調べを進めてみると、正解は、未成橋であった。

ここで、レポートの第1回最後で皆さまに強制的に“分岐していただいた”、ネタバレ組とネタバレ回避組が、合流する。
ネタバレ組の皆さまや、あるいは本橋の素性を予めご存知であった読者様には、現地探索中に私が全く未成橋という可能性を疑っていなかったことが滑稽に見えたかも知れないが、現地では確かに、ほとんど、いや全く、未成とは疑わなかった。
その理由は単純で、こんな大きな未成橋の跡が、市街地に現存しているとは思わなかったから。
前例を知らなかったので、疑えなかった。(オジサンになった私の想像力の限界だった)

こんな目立つ未成橋の遺構を、街の玄関ともいえる国道からの車窓に堂々と残しつつ、かつ現地には一切の説明板も設置しないなんて、池田町やその後釜である三好市は、なかなか訪問者の“調べる力”を試す真似をすると思った。町民にとってはあまりにも見慣れた存在で、空気同然なのかも知れないが…。



本橋が未成に終わった橋であることは、橋名が分からない段階でも、「池田+廃橋台」のような雑なキーワードで検索するだけでもヒットした。
例えば、阿波池田青年会議所のサイトにある「幻の池田橋」という記事などだ。
これで「池田橋」という、かの廃橋に与えられていたシンプルな橋名も判明。このあまりに単純な橋名は、大きな橋がまだ珍しい時代に、地域を代表する橋となる期待を背負った名付けをされたのではないかと想像させた。

上記の記事で橋の概要は明瞭に分かるが、ここではせっかくなので文献にあたってみよう。
三好市は平成の合併で誕生したまだ新しい市であり、その前身となった三好郡池田町が昭和58(1983)年に発行した『池田町史 中巻』を調べてみると、ズバリ、「未完成の池田橋」という節が用意されていた。
以下、同節より書き出しから中ほどまでの引用。


『池田町史 中巻』より

諏訪公園の眼下吉野川の両岸に相対して大きな鉄筋コンクリート造りの橋梁取付け口のピーアがある。これが未完成のままに残された池田橋である。
昭和6年末、池田町長 田原作太郎、川崎彦市、脇町 森幸雄らによって、池田町と対岸の箸蔵村を結ぶ賃取橋が計画された。その規模は、橋の大きさ、全長221メートルほど、幅員5.6メートル、水面より高さ21.21メートル、工事費予算15万円で、6年12月15日、県の許可を受け7年2月2日、千五百川原で起工式を行い、着工したが……

『池田町史 中巻』より

キターーー!!!

的確な文章によって欲しかった情報の多くが一挙に補給されていく。
まず、計画の立案は昭和6(1931)年末のことで、発案者は当時の池田町長田原作太郎氏ほか数名、いまでいう有料橋(賃取橋)であったという。規模や予算も判明。この計画は首尾良く県の許可を受けた模様で、昭和7(1932)年2月には早々と起工式を行い着工したという。

一緒に掲載されていた橋の画像(→)も興味深い。
景色的に、これは私が最初に訪れた左岸橋台で、【現在の同ポジ写真】はこんな感じで藪が邪魔だが、昭和54年当時はとても明瞭だ。そのお陰で、私が現地で訝しがった、橋台が県道と繋がっていない(孤立している)状況も鮮明に見える。
現地では、まさか未成橋だとは思わなかったので訝しく思ったが、この道路との未接続は、未成橋故と理解してよいかもしれない。

いずれにしても、昭和7(1932)年に着工されて未成に終わった橋台が、昭和54(1979)年には既にこのような経年した姿となっていて、それが令和6(2024)年現在でもほとんど姿を変えずに現存しているという事実に驚愕する。こんなに古い未成橋の遺構を目にする機会は、なかなかない。
撤去が簡単ではないという事情もあるのだろうが、もう未来永劫に残りそうな雰囲気である。

そして、着工後に続く文章は次の通り……(もう不穏だ!)。

(続き) 翌8年夏の出水によって橋脚2基のうち北側の橋脚が倒れ水中に没した。その後南側の橋脚も倒れ、両岸のピーアだけが残った。実現に努力した田原作太郎も10年3月死去し、続行不可能となった。その後12年1月16日に池田橋速成委員会が作られたが、これも立ち消えになった。

『池田町史 中巻』より

たった1行2行の文章の中で逝ってしまった最期に涙!

文章は短いが、壮絶な最期である。
まずは、着工翌年の夏の出水で北側の橋脚が倒壊。これは現状、全く跡形ない橋脚で、このことに現地で多少不穏なものを感じたが、不穏は的中した。建設中に流失してしまっていたのだ。
そして、その復旧もならぬうちに続いて南側橋脚も倒れたそうで、これは【基礎部分の跡形】が未だに残っているのが、また痛々しい…。

陸上の橋台建設はおそらく順調で、それは最終的に完成に達したものとみられるが、一体になって橋桁を支える最重要な橋脚の2本が2本とも倒壊したとあっては、工法から根本的に見直さねばならない大きな損失であり、予算的にも非常に厳しい状況に立ち至ったと思われる。そんななか、昭和10(1935)年3月に、計画の発案者である池田町長の死去によって計画は頓挫してしまう。二の矢を継ぐことも計画はされたようだが、昭和12(1937)年に立ち上げられた池田橋速成委員会の活動も残念ながら実を結ばず(そうこうしているうちに日中戦争となり……)、今日まで未成に終わった。


『池田町史 中巻』より

「徳島毎日新聞」昭和9年9月10日号に、池田橋倒壊を伝える記事が掲載されたようだ。
この見出しには「裁判所で係争中の問題の池田橋」とあって、町史に反映されなかった不穏な背景がありそうだったので、以下に記事の本文を書き出してみる。

田原池田町長外1名により17万8千円を投じ去る6年12月起工した賃取池田橋はこのほどピーヤー(橋脚)に殆ど完成を告げ目下橋桁問題のため施工主と請負人間に問題が起り契約を解消して工事をやめ裁判所にて係争中であるが8日夕よりの暴風雨のため、池田町付近吉野川は13尺の増水となりためにピーヤーの高さ平水面上16米30平水面8米20、柱廻り13米、巾7米40のものが9日午後1時10分大音響と共に南に向かって基礎工事の所より上部が倒壊し目下原因取調中である。

「徳島毎日新聞」昭和9年9月10日号(『池田町史 中巻』転載)より

この記事により、倒壊した橋桁の詳細な規模や、流失の状況が明らかになった。
橋脚は、橋桁を支えるようになると、流水に対する抵抗がより強化されるから、建設中というのは流失の鬼門である。そのタイミングで4m近く水かさが上がる洪水を受けたのは不幸だった。もし完成した後なら、このくらいの増水は、当然に耐えられなければならないものだ。

裁判云々というのは、橋桁の施工に関して施工主と請負人の間でトラブルがあったとのことで、詳細は不明だが、そのため工事を一時中断していた最中の流失であったらしい。もしこのトラブルがなく順調に進んでいたら、橋桁が橋脚に乗り、流失を免れた可能性があるのだろうか…。 まあ、歴史のifはキリが無いが……。


以上が、『池田町史 中巻』に語られた池田橋の顛末であるが、実現しなかった本橋の片割れとも言うべきもう一つの橋が、こちらは無事に完成していたことを、次の記述で知った。


『池田町史 中巻』より

 書 院 橋
池田橋の完成を予想して、昭和9年5月24日に開通させた。
橋本光三郎が中心となって書院橋期成同盟会を結成し、町に意見を具申し完成した。工事予算は8728円78銭、全長52.97m、幅員5.6m、高さ10mである。

『池田町史 中巻』より

写真を見る限り、軽快な印象を与える上路式固定RC開腹アーチ橋であった初代・書院橋は、昭和9(1934)年5月に完成。
池田橋と比べると、全長は4分の1、予算は17分の1ほどだが、幅員は全く同じ5.6mであるところが、接続する一連の道路だったことを強く思わせるものがある。




その架設位置は、左図の通りである。
未成に終わった池田橋と、近世以前より池田の町を宿場として発展させてきた伊予街道に由来する本町通りを結ぶ線上に架けられた橋だった。
池田橋が完成していれば、対岸の各地から池田の中心市街地及び阿波池田駅へアクセスする最短ルートとして、大活躍したに違いない橋だろう。

残念ながら、完成後も本領を発揮することは出来なかった書院橋だが、それでも耐用年数を全うする活躍をし、昭和51(1976)年に現在の2代目・書院橋に架け替えられている。
私はこの橋を【脇目に見た】だけで、まともに撮影もしなかったのだが、宜しければストビューで渡ってみて欲しい。
渡った突き当たりに諏訪神社があり、そこを右に曲がるとすぐ本編に登場した池田トンネル直上の小道を経て、池田橋右岸橋台跡に達する。




池田橋の一通りのところは把握できた。
だが、前掲の町史の物語にさらに大幅に肉付けをした濃密な記述を持つ文献が、見つかった。
それは、『池田町誌』だ。
同じ町誌(史)でも、発行年がひとまわり違う、昭和37(1962)年発行版の町誌である。

同書には、「こぼれだね」と称する章があり、好悪問わず池田にとっての忘れられない出来事を30節あげている。そしてその13番目に、「未完成に終わった池田橋」があり、なんと13ページにもわたって詳細が記されていた!

まずは、本橋関係者が思い描いた、池田橋がある四国の交通の未来について述べた文章を紹介する。一緒に掲載した地図を見ながら読んで欲しい。

そこには、かつてドイツ式による雄大なる橋梁がとりつけられようとしていたのである。
北岸道路を国道に格上げしてもらい、池田より脇町線への最短距離をつくり、香川県高松、本県鳴門方面と阪神を結ぶ輸送を考え、高知、松山方面との連絡の重要ポイントとして、人々の大きな夢と希望の中に架橋工事がなされたが、秋の出水に橋脚を倒されて一頓挫を来し、ついに一大工事は、資金難の為、放棄されたのである。
私たちは今にして、この一事の試みが、たとえそれが町としてでなく、個人的な性格を持った工事であるにしろ、非常に残念なことをしたものだと考えるのである。

『池田町誌』より

池田が四国の交通における要の位置を占めていることは既に述べたが、池田橋は単に池田の市街地と対岸の箸蔵村を結ぶものに留まらず、四国の広域交通の中で国道級の活躍を期待され、またそのような構想に釣り合う雄大な姿を持つ橋として建設されようとしていたことが述べられている。
そしてその計画が一般的な公共事業としてではなく、“個人的な性格”を多分に有していたことが特筆されている。


四国近世街道図 『日本の街道〈7〉海光る瀬戸内・四国』より

ここで一度、池田と吉野川の交通面の関わりについて言及したい。
近世の池田は、阿波の徳島城下と伊予の川之江を結ぶ伊予街道の宿場町であっただけでなく、讃岐の高松へ通じる金比羅街道や、鳴門や淡路へ至る撫養(むや)街道も通じていた。さらには平田舟の行き交う吉野川の主要な河港があり、水陸交通の結節点として繁盛を極めた。

なお、当時の池田港は千五百川原という所にあったそうで、その場所というのがまさしく後に池田橋の右岸橋台が建設される現場……すなわち私が現地で目にした【常夜灯】は当時のもので、【地蔵】もまた水難者の霊を慰めるためのものだったのである。

だが、そんな池田の宿場や河港としての繁栄は、大正時代以降の鉄道の発展によって徐々に脅かされることになる。
大正3(1914)年に徳島から延びてきた徳島線の終着駅として阿波池田駅が開業すると、吉野川の水運は衰退する。そして昭和3(1928)年の池田〜川之江間の省営バス運行開始や、翌年の高松方面の土讃線開業、さらに昭和10年の土讃線の高知方面の延伸開業によって、池田は鉄道交通の通過地点になっていく。

このような変化に、最も強く危機感を憶え、池田が再び周辺地域の核となるような発展を模索したのは、それまでの繁栄の中心にあった宿泊業者や飲食業者たちであった。
『町誌』によれば、池田橋の計画にきっかけを生み出したのは、前述の『町史』に名前が出ていた池田町長田原氏を初めとする3名ではなく、当地で屋形船を営んでいた一事業者であったらしい。
そのことが、池田橋が最後まで“個人的な性格”から完全には脱さなかった理由でもあったように思う。以下、再び引用する。

諏訪公園北側の吉野川岸に屋形船を浮かべて川料理に客を呼んでいた、漁師でもある八木卯蔵氏は、岸の住家から毎日川を眺めている間に――箸蔵村州津の人が池田の町へ来るには渦の渡場から池田町字シマへ出て、それからシマの坂を上がってこなければならない。又、西山の人もいちいち、渡船では不便である。いっそこの川にポンポン船を浮かべて、公園下から州津、州津から西山浜へ、西山浜から公園下へという巡回航路を作れば、時間も早く、安全性も良く、交通も便利である。そうだ、これはポンポン船にかぎる。何とか実現の方法はないものであろうか――と考えるようになった。一日、田原氏に会った八木氏は自分の考えを打ち明けた。田原作太郎氏は当時池田町長として人望も厚く、各種の困難な仕事もゆおく率先してやり遂げる名町長であり人格者でもあった。氏は八木氏の案を聞き、「それは非常に名案である。ぜひ実現さすように努力しよう。町のためばかりでなく箸蔵村のためでもある。両町村の援助もうけられるようにがんばってみよう」と賛意の言葉を述べ、今後の協力を約したのであった。
田原氏は西山から出ている箸蔵村会議員にも働きかけ、ポンポン船実現に向かって努力を始めた。八木氏もこの間、大いに機械、器具の購入について努力し、やがて、その目鼻もつき、機械の一部が送られてくるような段階になった。

『池田町誌』より

池田橋計画の始まりは、地元の屋形船業者の八木卯蔵氏が構想したポンポン船(汽船)の運航にあった。

右図は、明治39(1906)年の池田周辺の地形図である。この時代、河口から80kmほど離れた池田周辺やその下流の吉野川に、常設の橋はただの1本もなかった。暴れ川のため、当時の技術力や経済力では建設することが困難だった。その代わり両岸を結ぶ渡場(渡船)が点々と存在した。昭和初期までは、池田を通って高松と高知を結んだ国道にさえ橋はなく、池田の東を大具(州津)の渡し、西を白地の渡しで結ばれていた。

八木氏が屋形船を営んだ場所というのは、後に池田橋が建設される近くの“諏訪公園北側の川岸”であったという。現在も右岸の橋台跡に隣接して家屋が建っているが、関わりは分からない。

明治の地形図では、諏訪公園の前後にも渡船が描かれている。下流に西州津に通じる渦(うず)の渡しがあり、上流には西山へ通じる渡しがあった。現地探索で最後に訪れた【渡し場の跡】がそれである。

八木氏は、この2つの渡し場と池田を巡回するポンポン船を就航させれば、対岸から町への往来が便利で安全なものになるだろうと、町長の田原氏に相談したところ、彼は大いに賛同し、以後は計画の中心的な人物となる。

時たま、田原氏は、池田町出身の大事業家であり、政治方面にも力のある川崎彦市氏に会って、この事業の話をし協力を求めた。川崎氏は徳島に住居を構え、大正木管会社の重役としても活躍し、彼の才気はよく県会議員にも数名の者を出しており、県においても黒幕的存在として隠然たる勢力をしめていた。
彼は、田原氏の話に非常に興味を持ち、「あなた方が折角考えられたポンポン船の案を覆すようになるが、いっそ思い切って橋を架けたらどうだろう。もう川の横断を考えるのであればポンポン船なんかは古くさい。橋だ、橋にしよう。公園の下も千五百磧から州津へ向けて潜水橋を造り、工費に要したお金は、賃取り橋にして、その金を返済していけば良い。これなら私も協力しよう。」と言った。
田原氏も川崎氏の一歩進んだ考え方に感心し、それでは、潜水橋架設に変更して、県の許可をとろうと話し合った。
そこで田原氏は川崎氏と策し、脇町の森幸雄氏を説き協力を得たので、早速県に対して次の如き申請書を出した。

※ 橋㦮徴収橋設置申請書
一、設置すべき橋梁名池田橋
二、位置自 池田町字シマ九千七番地 至 箸蔵村州津字中州
三、設置すべき河川吉野川
四、路線名池田箸蔵線
五、橋㦮徴収期間許可の日より六十ヶ年

なお許可申請を出したのは昭和5年12月24日、田原作太郎氏と脇町の森幸雄氏の連名で出したのである。

『池田町誌』より

ここからは現職の町長である田原作太郎氏が話の中心になるが、池田町の事業として議会の承認を得て進めたのではなく、彼の個人的事業として進められた。『町史』に登場した川崎彦市氏と森幸雄氏もこの段で登場する。県議会のフィクサー的存在であったという川崎氏の「ポンポン船はもう古い。賃取橋として潜水橋を架けよう」との一声で、八木氏のポンポン船計画を破棄し、代わりに森氏を巻き込んでの潜水橋計画を昭和5(1930)年12月に県に申請している。(船や機材を既に注文していた八木氏がどうしたのか気になるが情報はない)

ここで注目。この段階では、潜水橋(沈下橋)の計画だった!
吉野川と言えば多くの潜水橋があることで知られているが(右写真は下流の吉野川市にある川島橋の風景)、当初の計画では池田橋もそうなるはずだったらしい。このまま建設が進められていれば、現存するような高い橋台が建設されることはなかったに違いない。むしろ無事に橋が完成し、健在であった可能性もあるだろう。

ともかく、県に提出された申請書によると、架橋地点はおそらく後の池田橋と極めて近く、橋名も既に「池田橋」を採用している。
なお、賃取橋は有料橋の古い言い方であり、わが国では近世以前から各地に存在した。明治以降も同様で、大正8年公布の旧道路法(後の現道路法も)では私人による有料道路が除外されたが、これらは依然として一種の私道として存続、府県が許認可を行った。そして昭和6年に公布された自動車運送事業法(現在の道路運送法の前身)によって改めて制度化されていった。


右図は、昭和32(1957)年の地形図だ(チェンジ後の画像は比較用に前掲の明治39年版)。
池田橋が建設されようとしていた時代からはだいぶ後の地図であるが、注目すべきは、この時期でも未だに吉野川に架かる橋が極めて少ないことだ。

池田地方で吉野川に架けられた最初の常設橋は、昭和2(1927)年に徳島県が(大正)国道23號の一部として建設した三好橋である。これは従来の白地の渡しを継承するものだったが、その後も規模を縮小して渡しも存続している。

同国道が池田の下流で渡河する大具の渡しにおける架橋(三好大橋)は、なんと昭和33(1958)年まで遅れる。したがって戦後もしばらくは渡船国道であった。24時間就航し、岡田式渡船とよばれる鉄索によって半自動化された渡船方法によって大型車を含む自動車を人馬と共に頻繁運搬していた。

この地図のギリギリ範囲外だが、大具の渡しの下流には昭和4年に土讃線の吉野川橋梁が架けられている。
その時点で三好橋から約40km下流の穴吹橋(美馬市)まで橋はなかったという。それほど、昭和初期の技術や経済状況で吉野川の中流に橋を架けることは困難だった。
問題の池田橋が、技術的にも経済的にも、いかに簡単ではない架橋であったかが窺えると思う。


川崎氏は、木管会社の機械技術者であり後、設計者となった木内豊次郎氏を呼び、川底の調査から橋の設計に至るまでを委嘱した。木内氏は徳島工業第2回の卒業生で、機械研究のため、ドイツへ留学していたが研究資金が続かずついに独力で橋梁学を学び帰朝した英才であった。工事費7万5千円でもって計画せられた一大潜水橋も位置不適当という名目の下に許可されなかったが、橋梁設計に木内氏を選んだということは、川崎氏の着眼点がいかに当を得たものであるかが、うかがわれるのである。
彼らは、一大計画が不許可になっても決してへこたれはしなかった。

『池田町誌』より

ここでまた新たな登場人物、ドイツで橋梁を学んだ若き英才・木内豊次郎氏が出現。彼は後に国の重要文化財に指定された三河家住宅を設計しているが、橋梁設計者としての完成例は不明だ。

肝心の潜水橋は、「位置不適当」との名目で県より不許可になったらしいが、これも詳細は分からない。位置というのは平面的なものだけではなく、川からの高さも含めてのことかも知れない。翌年、近い位置で潜水橋ではなく通常橋に模様替えした池田橋が許可されるのだから。


『池田町誌』より

「それでは、場所を公園北側川岸から真北に向かって、ドイツ式の立派な橋を造ってやろう。ここであれば、吊橋には不適当であるが、橋脚2基を川中に立て永久コンクリート橋を架けることが出来る。この地に橋を造って、国に買い上げてもらおう。それには、まず地元の池田町に買い上げてもらうようにしよう。」
ということになって、本格的な橋の設計にとりかかった。木内氏が設計主任となり、池田町の橋本光参郎氏も川崎氏の懇請により設計副主任としてこの事業に参画した。
平面図、断面及び構造図、戈量図、設計書及び設計説明書、費用負担方法、原形調書(地形の状況)、使用方法、工事費予算15万円などの設計、見積書が完成され、ただちに県に対して許可申請書を提出した。
当時設計された橋の完成略図は次のようなものであり、現在からみてもその規模の壮麗さと雄大さには心うたれるのである。(長さ221米、巾5.60米、水面よりの高さ21米)

『池田町誌』より

ここで非常に興味深いのが、町誌に掲載されている「完成略図」とみられる1枚のイラスト(→)だ。
ここには、3径間連続の上路曲弦トラス(ワーレンかプラットかの判別は困難)の桁がはっきりと描かれている。

町誌編集者が描いたイラストだと思うが、設計図などをもとに書き起こしたとみられる。想像で描いたとしたら、良くある平行弦トラスでなく、珍しい曲弦トラスを選ぶことはないように思う。
トラス橋の型式について私は詳しくないので、これが“ドイツ式の立派な橋”の特徴と言えるかは判断できない。識者のご教示を期待するところである。

また、完成前に倒壊してしまったという2本の円筒形の巨大な橋脚や、橋台や高欄の所々に設置されたぼんぼり形の照明灯も印象的に描かれている。
そして、唯一原型を止めている両岸の橋台は、アーチ中腹の中二階がある特徴的な構造をよく模写している。現状との違いは中二階部分に橋面と同様の高欄が描かれているくらいだ。
中二階が、どのような目的で建設されようとしていたかも、未だ明らかになっていない…。
もしかして、ドイツではこうしたデザインの橋桁や橋台が流行っていたのか……?

……といった具合に、初めて本橋の幻となった橋桁の外観を垣間見つつ、2度目の許可申請の結果が出る。皆さまご存知の通り。

昭和6年12月15日、池田橋に対する県の許可が下され、歴史的な大工事がいよいよ本格的に行われることになった。思えば八木氏がポンポン船を考えたことが潜水橋となり、今度の橋となったのであるから、八木氏や田原氏、川崎氏らの感激は一しお深いものがあったであろう。すでに田原氏や川崎氏、また町の有志の努力により、脇町を始め、町、香川県善通寺第十一師団等の援助、協力も行われる段階までに達し、いやが上にも、池田橋架設に対する町民一同の熱も高まってきた。

『池田町誌』より

このあと、引用は省略するが、フィクサーである川崎氏は池田町議会の若手に働きかけて、(予算15万円の)池田橋が完成したら町が18万円でこれを買い取って欲しい。そうすれば私が県を動かし国から25万円で買い取らせるように運動するなどと言った一幕があったそうだ。これは大具の渡しを経由している国道を池田橋へ移し替えるための算段でもあったのだろう。
そしてこのような働きかけが功を奏したか、池田町議会は池田橋と接続する町道の拡幅や書院橋の新設を町の事業として採択し、昭和9年までに完成させたのだった。
(あと、八木氏は本当に喜んでいたんだろうか……。経緯的に、ポカーンとなってないか?…苦笑

そして次が工事の入札。始め12万円で高知県の福永組が落札し一手で工事を始めようとしたが、岡山県の三谷組が下請けを願い出た。両者の間に多少のいざこざがあったが、工事の材料が大阪の安藤組からどんどん送られてくる頃には2社の話し合いもつき、三谷組が下請けとしてやることになった。


『池田町史 中巻』より

橋名は池田橋として許可を受けたけれど、吉野川橋と改名して着工することになり、昭和7年2月2日午前10時より千五百磧で起工式が挙行せられた。
いよいよ運命づけられた池田橋は橋脚工事から始まった。潜水人夫が船に乗って現場に行き川底の土砂掘りが毎日続いた。

『池田町誌』より

しかし、もともと予算が少なく、機械力を十分に駆使できなかったこともあって工事は序盤から難航、たちまち資金難に陥ったという。

参考までに、昭和2年に白地の渡しに完成した県事業の三好橋(全長243.5m、巾6.5m、支間長139.9mの補剛トラス吊橋、右写真)は、総工費36万円であった。
型式は違えど橋の規模は近似している池田橋を15万円の予算で架けようというのは、そもそも無理な話ではなかっただろうか……。
ここから、橋の行く手には晴れることのない暗雲が立ちこめるようになる。

町としてもこれを黙視することが出来ず、なんとか架橋実現のために協力しようとし、川崎氏に、その権利を町に譲ってくれるように申し込んだ。しかし川崎氏が脱字?は、あくまでも買い上げてもらうことを主張して折り合いがつかず、胸像をたてて永く記念するから譲ってはどうかということにも応じなかった。

この橋が悲運の結末を遂げたということも、大きな原因の一つは、このあたりの話し合いが上手く行かなかったところにあったのではなかろうか。なぜに川崎氏は町の申し出を頑として受け付けなかったのであろうか。川崎氏は決して利潤ばかりを追っていたのではなかろう。彼や田原氏などの大きな先見的な考え方を真に理解してくれる人が案外少なく、資金的な援助にも尻込みを続けた周囲に対する怒りがあったであろう。あの時、町としても、もう少し援助の仕方が考えられなかったであろうか。田原町長は直接橋に関係を持っており、町議会では、我が田へ水を引くようなことは言いたくても言えなかったであろう、誰かが町長の苦衷を察して行動しなければならなかった。もう少し押し進んで町民もまた町長田原氏を助けるべきであったと思う。やがて請負業者から賃金の支払いについて、やかましく言うようになった。なかには業者内部で争いが起きたりした。

それでも工事の方はどうやら橋脚が出来上がって、その姿を水にうつし出した。

『池田町誌』より

原文から重要な部分だけを引用しようと思ったが、町誌の執筆者が過去の町政の自己批判を始めるところが、この手の誌史には珍しく思わず引用を止められなかった。闇雲にくどくどしているのを、字を小さくすることで表現した(苦笑)。なお、ここに超小さく出てくる「業者内部の争い」が、『町史』引用の新聞記事にあった業者間の裁判沙汰の件なんだろう。こういうのは端から見ればくだらないかも知れないが、当事者はみな真剣で、苦境の中にあって己と家族を守ろうとしたんだろうとは思う。

しかし運命の神は、この橋に対してあくまでも残酷であった。

(……昭和8年夏の出水で北側の橋脚が倒壊し、南側の橋脚も徐々に傾き始める段を略し……)

川崎氏らと請負業者間にも各種の問題が起き、ついに現場業者はこの工事から一切手を引いてしまった。そこで今度は木内氏が自ら来て工事にかかった。再び橋脚工事が始まったが再びの出水に合い南側の橋脚も倒れてしまった。川崎氏はそれを解体して鉄材を売り金にかえた。完成したのは両岸のピーヤだけであった。

『池田町誌』より

絶望的についてないのか、そもそも計画に無理があったのか。
設計者の若き木内氏が破綻した現場を引き継ぐ辺り、ドラマチックで格好いいのだが、ダメなものはダメなんだなぁ。

町の方では、昭和9年5月24日に書院橋を高知西川組の手によって開通させ、池田橋の竣工を待つばかりとなった。
木内氏の努力にもかかわらず池田橋は資金難のため、まったく工事はストップされ、いつ出来るかという予定も立たなくなってしまった。大阪の安藤組より送られてきている橋の鉄骨ばかりが、うらめしそうな姿をして、毎日の雨風にさらされて何年もころがされていた。
「こんなことではだめだ。もう一度、架設のために努力し協力しよう。」
と町内の池田橋速成委員が生まれた。江口貞五郎、坂部寛一、中山明雄、立石伊勢蔵、中村和右衛門、中野熊吉、馬宮嘉次郎の諸氏である。昭和12年1月16日、吉野川橋着工をめざして委員の者の努力がなされた。しかしその時はすでに名町長田原作太郎氏は、それより2年前の10年3月をもって他界され、多数、橋の関係者も手をひいてしまっていた関係上、一同の努力にもかかわらず、町の援助を仰ぐ目途も立たずついに速成委員も立ち消えのかたちになってしまった。
その後、日支事変のために鉄材の値上がりを呼び、安藤組は全ての橋材鉄骨を引き取って他へ売却してしまった。一時は高知の村田某氏が8万円を都合するから池田町の方で、あと8万円程度を都合できるなら、なお一度工事を考えても良いというような西川組からの書翰が町助役のところまできたこともあったが、当時、その金をつくる手立てもなく、それもお流れになってしまった。

『池田町誌』より

悲しい悲しい最後のくどくどゾーン……。
池田橋速成委員の面々が再起を図るあたりも、打ち切り漫画の終盤に名目上の強キャラが一斉に登場するもたいして活躍せず終わる所を連想させて悲しい。安藤組も何も間違っていない。村田某はちょっと怪しいか? なんて、しょうもないことを書きたくなるレベルで、虚しくなる最後だ。これでは、名町長と謳われた田原作太郎氏も、フィクサーも、若き設計者も、屋台船主も、誰も浮かばれねぇ。

遂に池田橋架設の一大計画は完全に挫折してしまった。4000人の児童を入れる大講堂を造り、50mの大プールを造り、郡内の会合はすべて池田において行われるよう努力した当時の驚くべきエネルギーと進歩性を発揮した池田町民も池田橋を完成することは失敗に終わった。今や川崎氏なく、田原氏なく、また、脇町の森氏なく、当時の歴史を知る者は少なくなってしまった。しかし一体、両岸に残るピーヤは果たしてどうなるのであろうか。今だにその権利は川崎氏にあるとも聞いている。

現在、池田地方にも吉野川のダムが建設されるような話もある。そうすれば当然橋の心配もいらなくなるであろうが、もし仮に池田橋が出来ていたとしても、それは決して無駄なことではなかったであろう。坂部寛一氏が、その頃、書院橋から一直線に、諏訪公園の下をトンネルでぬき池田橋に通じる案を出したことがあるが、それら一連の構想が、田原氏らの考えとマッチして実現していたら観光池田の線も大いに変わっていたかも知れない。

『池田町誌』より

とにかくこの町誌の記述は、良い意味で暑苦しい。過去とifに対する熱が厄介系オブローダー並に凄い。
それはさておき、町誌は昭和37(1962)年の刊行である。だから、池田ダムは着工(昭和43年)もされておらず、ダムの堤上路が一般に開放され池田橋の代わりとなる未来(昭和49年)も知らなかったはずである。

右図は、昭和45(1970)年の地形図と、最新の地理院地図(チェンジ後の画像)を比較している。
昭和45年の時点でも、池田周辺には三好橋(昭和2年竣工)と三好大橋(昭和33年竣工)の2本の国道橋しか吉野川に架かる道路橋はなく、依然として2ヶ所には渡船があった。その一つが今回最後に訪れた渡舟場跡だ。

だが、昭和49年の池田ダム完成の前後にこれら渡船は全廃され、代わりの架橋が実現した。
その後も国道のバイパスや高速道路の架橋が続き、今日では1〜2kmの間隔で何らかの橋が吉野川を渡っている状況になっている。
あれだけ辛酸を嘗めても実現出来なかった池田橋の辺りだけが、橋の空白域となって取り残されているように見える状況だ。

が、実は吉野川に挑んで散った昭和前半の架橋計画は他にもあった。池田橋の約8km下流に計画された美濃田橋は、昭和29(1954)年に吊橋型式で着工したが、資金難のため橋台や橋脚を残して工事中止になっている。遺構が現存し展望台として利用されているそうだが、未探索である。吉野川、マジつえかった……。


執筆中に脳内整理のため作成した池田周辺の橋の竣工時期を一覧にした表(↑)を、ちょっと手を加えて公開する。
ここに挙げた地点1から地点9は上流から下流の順に並んでおり、地点9以外は全て歴代地形図の範囲内である。
こうして見ると、未だに「池田橋」(着工時に「吉野川橋」と名前を変えていたという話もあったが)というベタなネーミングが被っていないことが分かる。実現しなかった“先橋”に配慮したものか、験担ぎ的に避けられたのか…。


 【追記】 池田橋架設工事仕様書内容の一部
2024/4/10追記

『池田町誌』の「未完成に終わった池田橋」の節には、「附記」と題して「池田橋架設工事仕様書内容の一部」が記載されている。
これは、昭和6年に池田橋の設計主任となった木内豊次郎氏が作成し県に提出した許可申請書の一部と思われる。
町誌に記載されているのはあくまでも「一部」とのことだが、未成橋の詳細構造に触れうる貴重な一次資料であるから、前後半に分けて全文転載のうえ少し説明を試みたい。

※(附記) 池田橋架設工事仕様書内容の一部


橋梁形式ハルプパラベルトラゲル式 3径間
橋の大さ全橋長221.1m 鉄骨組に依る分長186.6m 有効幅員5.60m 鉄筋コンクリートの分北側橋台長23.6m 南側橋台分14.5m、幅員何れも有効6m 全橋平面積1253.4㎡
高さ平水面(量水標0尺)より橋台内側床天まで21.5m(中央にて21.8m)即ち2橋脚の中央より100分の0.66勾配とす
構造の概要(1)両橋台及び2橋脚は鉄筋コンクリート造り 橋桁は縦横とも鉄骨複式 但し橋床は鉄筋コンクリート造り 両橋台、蛇腹、仝手摺台及び手摺は人造石塗り 又 鉄梁上の手摺はアングル鉄及び平鉄製とす
(2)橋梁桁行通りにおける伸縮装置としては一端沓盤固定とし他端は輾子(ローラー3本入れ)承台とす
照明設備南北両橋台橋脚上部何れも左右に各々高4m半燈杵を有する16燭光の電灯を設備す

『池田町誌』より

う〜〜ん! この情報があれば、今からでも池田橋を再現できるな! 誰か100分の1模型でもいいから忠実に再現してみたりはしないか? しないよな。
冗談はさておき、まず初っ端から目を引き、同時に私を思い悩ませたのが、全く見慣れない橋梁形式の“文字列”だ。
橋梁形式というのは、例えばトラスとか、もう少し詳細なら「上路式曲弦プラットトラス」みたいなものをいうのであるが、ここにある“ハルプパラベルトラゲル式”という、口がこんがらがりそうな型式は、マジで初見だった。
そもそも、トラスとかアーチとかブレートガーダーといった基礎的分類も、この型式名からは読み取れない。
頼りのグーグル検索もヒットはゼロ!

で、思い当たることは一つ。

これは、ドイツ語の橋梁形式なんじゃないか?

設計者はドイツで橋梁の設計を学んだというではないか。
でも、私はドイツ語が全く分からないので、山行がの誇る優秀フォロアーさんたちの集合知に期待して“X”で情報を募集したところ、さっそく多数のドイツ語堪能マンたちが協力して下さったので、あっという間に解決した。以下、いただいたコメントの一つを記載する。

「ハルプパラベルトラゲル式」ですが、ドイツ語では“Halb Parabelträger” と表記するようです。
「Halb」(半分)、「Parabel」(放物線)、「Träger」(支持体や梁)とのことで、つまりは半放物線桁という感じでしょうか?
wikipediaにも該当ページがありました。https://de.wikipedia.org/wiki/Halbparabeltr%C3%A4ger


wikipedia(ドイツ) Halbparabeltrager より

すばらしい! wunderbar!

教えていただいたドイツ語のwikiを翻訳を通じて読んでみると、「半放物線桁は、道路用の直線の水平フランジと、放物線に従って多角形に湾曲したフランジを備えたトラス桁で、その端は垂直柱の両端に触れずに接続されています。側面から見ると、サポートは両端が切り取られたアーチ部分の形状になります。」という概要説明とともに、右の図が掲載されていた。
これは日本の橋梁形式としては紛れもなく曲弦トラス(図は下路式曲弦プラットトラス)のことを指しているであろう。

付け焼き刃の知識で大変恐縮だが、ヨーロッパでは古くから採用された型式であるようで、1868年にライン川に架けられたクレンボルグ鉄道橋が、径間長154mという驚愕の長さの半放物線状の下路式トラス(曲弦トラス)であるほか、同じ年にスイス国鉄トッゲンブルク鉄道に架けられたシッター橋は、径間長120mの半放物線状の上路式プラットトラス橋であり、同じ上路式ということで池田橋の親分の姿に見えた。

……というわけで、池田橋の橋梁型式は、ドイツ語で“Halb Parabeltrager”、日本の用語を使えば“曲弦トラス”が3径間ということで良いと思う。

続く「橋の大きさ」の欄によって、このトラス部分の長さは186.6mとされているので、各径間長は62.2mと計算できる。
意外だったというか、自分の目の節穴を疑わざる得なかったのが、両岸の橋台の長さが随分と違っていたことだ。
北側すなわち左岸が23.6m、右岸は14.5mの長さであった。両岸橋台の特徴的なアーチ部分は同じサイズだったので、アーチより陸側の部分の長さが随分と違っていたことになる。



『池田町誌』より

(↑)こうして改めて橋の設計を詳しく読んだ後だと、町誌のこのイラスト(おそらく町誌編纂者が設計書をもとに描いた完成予想図)が、相当忠実に設計書を再現していることが分かる。
桁がHalb Parabeltragerであることはもちろん、照明設備の配置や数、手摺りの外観や配置にも、設計書の内容が反映されているのである。
橋全体がダイナミックに撓っているのは魚眼レンズ的なスケール表現かと思ったが、設計では橋の中央が両岸より30cm高い拝み勾配になっており、それを表現したのかも知れないと思えてきた。
やはりこの町誌の執筆者は、池田橋ガチ勢とみて間違いないな。


 【追記の中の補記】 吉田初三郎が描いた池田橋

大正から昭和にかけて独特の鳥瞰図表現で全国各地の旅行案内図を描いて大活躍した吉田初三郎をご存知の方は多いだろう。

taka氏のブログ「自転車物見遊山」の「吉田初三郎が描いた徳島」のエントリによると、昭和8(1933)年10月に池田観光協会が発行した初三郎作鳥瞰図「阿波いけだ」に、池田橋が完成した姿で描かれているという。

同作品は国際日本文化研究センターの吉田初三郎式鳥瞰図データベース公開されているので、確認したところ、確かに描かれていた!(↓)



吉田初三郎作「阿波いけだ」の一部分を拡大

さすがは初三郎!!!

凄い精細さだ。そして、驚くほど前述した設計書に忠実だ(だから町誌のイラストにも近い)。
上路の曲弦トラスであり、しかも町誌だとよく分からなかった構配置が拡大図のように見て取れ、これはプラットトラスではなくワーレントラスのようである。
もしこれが正しければ、本橋のより詳しい型式は、上路式曲弦ワーレントラス3径間となる。

池田橋の周囲の昭和9年頃の情景にも、令和6年の探索シーンとの符合が多くあってビックリする。
私が登り降りした【石段】があり、これは当時から諏訪公園(神社)までは達していなかったことが判明した。
池田橋の右岸袂には現存しない赤屋根の建物が見えるが、もしやこれは賃取橋の監視小屋兼料金収受所であろうか。

この詳細な鳥瞰図が作成された詳しい経緯は不明だが、発行者の池田観光協会が初三郎に作図を発注した時期は、発行が昭和8年10月であることから逆算して昭和7年中か8年の初頭くらいだろうか。当時建設中であった池田橋(この年の8月に橋脚が倒れ工事が終焉するのであるが…)を描かせている。設計図を資料として渡したのかな。

なお、この鳥瞰図が表面を飾る旅行案内図「阿波いけだ」の裏面は、観光協会執筆による写真付きの池田地方観光ガイドである。
その本文は“四国の心臓部”という独特な表現を使って、次のように池田の繁栄を高らかに謳う。

池田は西阿の首都で人口8千吉野川上流の河畔にあり、古くから阿波煙草で知られ現に専売局の製造工場がある上水道は四国の嚆矢で明治41年の敷設である(中略)、近時交通網の発達につれ四国の心臓部である池田は長足の進展を遂げつつ昭和10年4月全通すべき鉄道土讃線は一大動脈となり、香徳線の開通と相まって四国四縣はさらなり、近畿、中国と完全に握手が出来物資の集散工業の勃興に頗る将来性に富んでいる。
また池田を中心に附近一帯の勝地をひかえ観光客誘致にはその第一条件である旅館(即ち一旅館でしかも100人以上を宿泊せしめ得る施設あるもの数戸あり)自動車その他統制ある接客業者のサービスはまさに100パーセント必ずや客を満足せしめるであろう。

池田観光協会発行「阿波いけだ」(昭和8年)裏面より

観光案内ゆえ仮に大言壮語があってもやむを得ないが、もしそうでないにしても言葉が強い。
わざわざ旅館業者が非常に多いことを書いているのも注目で、実は本編中で述べたとおり、昭和初期の鉄道発展によって池田に滞留する旅客が大幅に減少し、近世の宿場時代から大繁栄した旅館業者たちこそが当時最も危機感を憶えていた。そこで資本力のある彼らは観光池田を標榜して様々な開発に取り組み、その一環としてこのようなパンフレットも作成されたのであった。

そして、観光ガイドパートには、今まさに建設中である池田橋についての言及もしっかりあった(↓)。

書院橋==アーチ橋で近く出来あがる池田橋と併せて遊覧の名橋である。
池田橋畔==そこは清澄瞳の如き吉野川の流れである、遊船、ボートの設備あり、夏日は納涼に鮎狩に水泳に、冬は牡蠣料理に味覚の洗礼をうくるに充分である。

池田観光協会発行「阿波いけだ」(昭和8年)裏面より

池田橋の畔には、確かに初三郎の画でも多数の川舟が浮いていた。池田橋の原点を発案した八木卯蔵氏が浮べる舟も、きっとこの中にあるのだろう。

以上、初三郎の作品の精密さはさすがだという補記終わり。


池田橋架設工事仕様書内容の続きである。
が、その内容は一項目だけである。だが私にとっては重要な大きな疑問の答えを含んでいた     ……と、思ったんだ。

※(附記) 池田橋架設工事仕様書内容の一部の続き

橋銭取り場鉄筋コンクリート造り地上面積にて9㎡、上階は㦮取り場に使用し下階は公衆両便所とす (以下略す)

これ、私は思ったんだ。「下階は公衆両便所とす」というのは、橋台中にある【謎の中二階空間】の正体なんじゃないかって。
現地でも、左右の狭い空間は便所っぽくね、なんて思ったくらいだし。

でも、この予想は多分間違っている。
おそらく本当の「橋銭取り場」は、初三郎の画に描かれていた【右岸橋台脇の建物】のことのような気がする。
2階建のようには描かれていなかったけれど、もし橋台の中にあるならそう明記するだろう。


と  い  う  わ  け  で  し  て

ここまでしつこく迫ったが、結局、橋台内部の謎空間の由来は現時点では不明!

引用元の最後が「(以下略す)」となっており、その後にもしかしたらこの謎の答えがあるのかも知れないが、ネットにある情報からは解明出来なかった。池田にまた行って調べないと分からないことも当然あるだろうと思う。
とはいえ、よく分かった方だと思う。たった一冊の本がソースの大半を占めはしたが、ここまで詳細に書いてくれたのは感謝しかない!



結論、

町誌の熱がヤバかった。

池田橋は当時実現出来なかったけど、今となっては架橋に恵まれていることに救いを感じる。
池田橋の跡地は、吉野川と共に歩んできた池田の発展の原点ともいえる池田川港の跡地(千五百川原)であった。そこに立ち約90年倒れぬ橋台は、かつて自らを避けて選び進んだ町の行く末を静座で見守る、先人たちの思い詰まったモニュメントだ。





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