令和3(2021)年10月下旬に、大変貴重な橋が発見された。
Twitterにこの驚くべき発見を投稿されたのは、星(富田) 昇(@hoshitomita)さまで、私もさっそく同年の11月6日に現場へ行って確認した。
発見されたのは、明治15年から17年にかけて建設されたとみられる石造アーチ橋で、この建造時期と石造アーチ橋ということから察せられたかも知れないが、かの三島通庸が福島県令時代に整備した会津三方道路の一部を構成していた橋である。明治初期の橋が、架かったままの姿で、右図のような現役国道のすぐ真横という場所に、残されていることが発見されたのである。
右のチェンジ後の画像は大正2(1913)年の地形図だが、今回発見された石橋が描かれている。現在の地形図と比較すると、ほぼ同じ位置だ。
なぜいままで気付かなかったのか!!
何度もこの国道を車だけでなく自転車でも走ったことがある私は思った。
例えば平成18(2006)年には、このすぐ傍にある会津三方道路由来の“非道隧道”を探索してレポートしている。その時もここを自転車で走っている。
だが、今回改めて現場を見て、納得した。
なるほど、これは気付きづらいと。
それだけに、ますます素晴らしい発見だと感嘆した!
2021/11/6 11:35 《現在地(マピオン)》
ここは福島県南会津郡下郷町の弥五島(やごしま)という集落の一画だ。
集落は国道121号に沿って細長く延びており、典型的な街村の形態を持っている。このように集落が形成されたのは、江戸時代に会津中街道が通じていたこともあるが、会津地方を南北に貫く最大の幹線道路として大々的に整備されたのは、明治前期の会津三方道路によるものである。
馬車道だった当初から見れば拡幅もされているだろうが、いまでも集落内の国道は明治の道をそのままなぞっている。(現在ようやく集落の外をバイパスする高規格道路の建設が進められている最中だ)
チェンジ後の画像は、進行方向の先を拡大した。
この先は集落の南の外れだが、国道を跨ぐ水路橋と、同じく国道を跨ぐ会津鉄道の橋が見えている。
これら2つの橋の中ほど国道路上が、今回の驚くべき発見の現場である。
……こう書かれただけだとピンとこないと思うので、まずは現場を見て欲しい。
ここが現場だ!の、360°パノラマ画像。
この画像の矢印の位置に、明治の石造アーチ橋が残っているのだが、
ここからは絶対に見えない。
大きな画像で凝視しても、絶対に見えない。
……本当にすごく近くに“ある”のだが……。
これを発見者さまは良く見つけられたものだ…。
私なんて、そもそもこの場所に“橋が架かるような沢”があること自体、
今日初めて理解した。これまでの通過時はそれすら見逃していたのである。
だって、現代の国道は、特に橋という感じにはなっていないのである。
先ほどの全天球画像を見てくれれば、きっと皆様もそう思うはずだ。
「現在地」は、ここである。
水路橋と、跨道橋の間の、路上。
この「矢印」の位置に、明治の石橋がある。
それを見つけるためには――
現国道の西側へ少し身を乗り出して――
ここから――
下を見る !!!
石造拱橋!
11:37
明治の石造アーチ橋が、現国道と斜めに接触するような位置に残されていた。
「点線」が橋の縁の位置だが、そこに高欄や親柱は見当らない。
そして反対側の縁も、土で埋められているのか、どこにあるのか分からない。
数十センチ程度、現国道の路面よりも高い位置に橋面がある。
また現国道は坂道になっているが、橋の路面は平坦である。
石橋の先は直ちに家屋に遮られており、道としては使われていない。
これ、さすがにまさかとは思うが…、
現国道を、この石アーチが支えていたりはしないよね?!
さすがにそんなことはないと思うが、現国道と石橋が一体化しているように見える位置だけに、早くアーチの奥を覗き込んで確かめたい!!!
というわけで、谷底への侵入を試みるぞ!
11:40 《現在地》
谷底へ下りて石橋へ肉薄したいが、橋の袂は相当急傾斜であるうえ、上から見ると草が邪魔で下の方がよく見えず、もし石垣があったら墜落する恐れがあるので、避けることにした。
石橋がある谷の北岸に沿って、地形図にはない林道か農道らしき道があるので、これを使って谷の少し上流、樹木が生えている場所まで遡ってから、木々を頼りに下ることにした。
というわけで、この左の写真の場所から、右の谷底へ下る。
ものの数秒で谷底に入った。
地形図では水線が省かれている小さな沢だが、透き通った水が流れていた。
集落に近いところなので、ポンプ引水用のゴムホースがのたうっていた。
真っ正面、流れの行く先に黒く起ち上がっている壁が見える。
それこそが、石橋だ。
橋というより隧道を前にしたような風景だが、石アーチと石の隧道は構造的に同一のものであり、風景が似通うのも当然である。
チェンジ後の画像には、国道を走る車の姿が写っている。
ここから見ると、本当に石橋の上を国道が通っているように見えるが、実際は石橋の少し奥に国道はある。
また、国道の路面よりも石橋の方が少しだけ高い位置にある。
めっちゃ格好良くてゾクゾクする〜〜。
やっぱりアーチ橋は、下に潜り込んで眺めるのが一番好きだな!
本当に凄いお宝だ! 令和の世に会津三方道路の橋が残っていようとは!
11:43 《現在地》
到着!
さあ、幸せのひとり鑑賞会、スタートだ!
私の熱吐きに、ついてきれくれよな!
それでは見ていこう!
明治17(1884)年頃に完成し、令和4(2022)年現在も原型を止めているが、現存しているという事実は令和3(2021)年10月にツイッターで発見報告がされるまでオブローダー界隈では知られていなかったと思われる石橋のディテールを!
(発見報告については、私の認識が甘いだけで、2021年以前から知っていた、あるいはどこかで報告されているのを見たことがあるという方がいたらご一報ください。逆にそのような報告がなければ、知られていなかったことがより確かになるでしょう。もっとも、地元住人(少なくとも隣の民家の住人は間違いなく)や道路管理者あるいは河川管理者などは知っていただろうが。彼らは趣味界隈に向けて広く報告する機会や場所を持っていなかったのだろう。)
まずは橋全体の形状だが、間違いなく、石アーチ橋である。
サイズ的にはだいぶ控えめ。鉄道の複線隧道の断面くらいだな。全体的なサイズ感の印象は。これは木橋でも十分に足りる架橋規模だが、敢えて石橋を選んだ理由は、気になるところ。
なお、アーチ橋とひとことで言っても、素材(石・コンクリート・鋼材など)や構造的な型式によって様々な種類に分類されるが、石アーチ橋は中でも最も単純な型式(単純アーチ)であり、その単純さと圧倒的な強度から、地球文明上で最も古いものが現存する型式である。
したがって、本橋が明治時代の橋だということも全く不思議ではない型式であり、実際に全国に点在する明治前期からの現存橋で2mより長いものの多くは石アーチ形式である。
もっとも、石アーチ橋の全国的な分布には著しい偏りがあって、そのため皆様のお住まいの地域によっては、「見たことがない!」という方もいれば、「え?珍しいの?!」という方もおられるだろう。
このことも本橋の由来と重要に関わってくる興味深い点なのだが、その前に、ディテールや橋としての保全状態のチェックを先にしよう。
石アーチの本領たる堅牢さを堂々と誇りつつも、確かな経年と、保存のための手入れは特段行われていないことを窺わせる、野趣のある側面。
まるで少しだけ断面が大きな石造隧道の坑門を見ているようだが(奥が暗いせいで余計に)、常々書いているとおり、石アーチ構造物の力学的な構造は、石造坑門と石造アーチ橋で全く同じだ。
隧道の場合は重力のほかに地圧が外力として作用し、アーチ橋の場合は重力の他に通行の荷重が外力として作用するくらいの違いしかない。
もっとも、坑門の場合は日常的に通行人が目にするが、下を道が通っているとか舟運のある川に架かるでもない限り、石アーチ橋はあまり近くから鑑賞されないので、装飾的な要素は坑門に比べて控えめなのが通例だ。
本橋の場合も特に装飾と思える要素は無い。アーチ天頂部の要石も他の輪石と同じで外見的な区別がないし、当然、扁額もない。輪石に隅切りなどの装飾的加工もない。強いて言えば、最上部に笠石があるようだが、これはむしろ橋面の地覆であろう。(石橋の各部名称については、こちらが参考になる)
ところで、石の積み方が綺麗な亀甲模様になっているが、これも別に装飾というわけではなく、同じ形ものは二つとない石材を、パズルのように積み上げて作り出された、究極に構造美的な模様である。
重い石材を、足場の少ない場所で、ノミやタガネで整形しながら組み立てていく大変さを、想像してみて欲しい。
先に、石アーチ橋は単純だと書いたが、橋としての大きさやアーチの曲率といった形状の部分の他に差が出るのが、石の積み方だ。
これについては少しだけ複雑で、言葉で説明するより他の例と見較べて貰った方が分かりやすいと思うが、石アーチ橋におけるスパンドレルの埋め方(要するに石の積み方)は、どのような石材をどのように積むかという多彩な選択肢がある。
そのうえで本橋は、一つ一つ微妙に異なる形の石材を用いて、谷積みを基調にしつつ隙間を作らないよう順序よく積み上げる、切り込み接ぎ(きりこみはぎ)という技術が用いられている。
一見すると、よく目にする自然石の空積み石垣と同じように思われるかも知れないが、多くの石垣は垂直に積まれていないし、隙間もある程度許容されている。
だが石橋の場合は、もっと遙かに丁寧かつ緻密に積み上げないと、容易く崩壊してしまうだろう。重力に反抗して空中に楼閣を作るわけだから、大胆の中にも繊細な仕事は必須なのだ。
この切り込み接ぎは、日本古来からの建築技術で、築城の術に通じている。
同じ形の石材を水平に積み上げる布積みや、斜めに積み上げる谷積みとは異なる、特殊な組積技術を要する積み方である。
改めていうまでもないと思うが、石材と石材を接着するセメントを全く用いない空積みで、百有余年を堪える構造物を作り出しているのだから、この技術は極めて高度だ。
石橋を見慣れている人には、「今さら何を大袈裟な」と思われるかも知れないが、この切り込み接ぎの石橋というのは本当に凄い技術だと思う。
とはいえ手のひらを返すわけではないが、これは石橋としては比較的によく見る積み方でもある。
特に山間部のように、同じ形に整形された工業製品的な石材を大量に調達し運び込むことが難しい土地で、近隣や現地で調達した石材の利用を念頭に設計された橋では、このような技術を用いて架けることが要求されたということだろう。ごくごくごく稀に、切り込み接ぎで作られた隧道の坑門もあるが、ほとんどは橋や、見栄えを重視した城垣などで用いられる技術だ。
一朝一夕にマスターできる技術ではないもので作られたこの石橋と、薩摩人である三島通庸との関わりにピンと来た方は鋭い。その話はまた後で。
(←)
百有余年を耐えてきた橋が、残念ながら危険な兆候を示しているのが、この左岸の部分だ。
橋そのものである石積みの崩壊が、始まってしまっている。
端の方から徐々に石が崩れ落ち、それが次の石の支えを喪失させることでまた落ちるという、止らない大連鎖をはじめているように見える。
まだアーチの部分は辛うじて健在であり、また奥行き方向にも強い粘着力が働くので、これでも見た目よりは堅牢なのだろうが(そうでなければ毎年くる雨風に耐えていまい)、おそらく今後も手入れされるということはないだろうから、今後次第に加速度を付けて崩壊してしまう危険性は高いと思う。
もっとも、無数の廃橋を目にしてきた私も、石アーチ橋が自然崩壊した跡地というのを見たことがないし、その途中経過に接したのも、おそらくこれが初めてだ。
このことは、石アーチ橋生来の堅牢性を物語っていると思う一方で、崩れるときはあっという間だということも、数多くの崩壊した隧道坑門によって知ってしまっているのである。アーチは構造上の要となる部分がいくつかあって、その最たる部分が要石、輪石、迫石など、アーチそのものを構成する石材である。だが全体でバランスを取って重力に抵抗しているわけで、どこが崩れでもバランスは欠いていく。そして、石という素材の特性上、本格的に崩れるときに粘りはないはずだ。
左岸側の状況は、側面だけでなく橋の内側を含めて本格的にボロボロだ。
積み木ならとっくに倒壊していそうだが、緻密な造りであったことから、まだ耐えている。
しかし耐荷重性能は大幅に低下しているだろうから、毎年2m以上も積もる豪雪はたいそう応えているだろう。下手したら隣の国道で排雪された重い圧雪に乗っかられているかも知れない立地だ。
無残と思えるくらいボロボロだが、それでもまだ耐えられているのは、流れているのが極めて水量の少ない渓流で、石材が流水に晒されることがあまりないためでもあろう。
アーチ下端部の石材を増水から守るように、コンクリートの壁で蓋をしていた後年の補強の形跡があるが、その手前側半分はアーチ側から押し出されるように破壊されていた。
一方、右岸側は極めて保存状態が良く、手入れされていない橋とは思えないほどである。石材の表面なんかも、定期的に清掃されているんじゃないかと思えるくらい綺麗。
おかげで、本来の形状がどのようなものであったかや、前述した後年の補強の姿を見ることが出来る。
アーチと側壁が接する部分にある、アーチ側の一つ目の輪石を迫石というが、安定感を増すためだろうか、側壁が迫石より少しだけ川側にはみ出した積み方をしてある。
隧道の坑門だとあまりこういう造りを見ないので、やはり流水や流木に対する強度アップが目的だろうか。
そんな側壁をさらに強化しているのが、コンクリートの補強だ。
この補強、一見すると側壁の石材を取り崩して代わりに置かれているようにも見えるが、現実にそのような工事をすることは(アーチを支えないといけないので)難しいはずで、実際には薄いコンクリートが石材の手前に巻かれているだけだ。崩れている左岸側の状況から、そう判断できる。
では、いつ補強が行われたのかという話になるが……、普通に考えれば、現役時代に行われたのであろう。
そもそも、この橋が現役時代の終わりはいつだったのだろうかという大きな疑問点がある。
石橋を真っ正面に見た時点で、「やはりそうなっていたか」と思ったのが、これだ。(→)
この石橋、下流側に巨大なコンクリート暗渠が接続していて、まるで石橋とコンクリート暗渠を一体化させた構造物のようになっている。
もしこれが隧道だったら、坑口は石造なのに内部は全然断面が異なるボックスカルバートという、変態的な組み合わせだ(苦笑)。
しかも、とても興味深いことには、この接合部で何かしら石橋側に手を加えた形跡がない。
例えば幅を切り詰めるとか、継ぎ手のような構造物で固定するようなことが、なんら行われている様子がない。
おそらく極めて単純に、既存の石橋の下流側にぴたり接合する位置に、コンクリートの暗渠を作ってある。本当に隙間なく。
石橋の下流側側面は、暗渠の型枠を固定する役割を最後に与えられたことだろう。そして、コンクリートの流し込みの完了と同時に、国道の地下となって、2度と日の目を見ないことになった。
独立した橋としては屈辱的な扱いのようだが、同時に、寄りかかれる相手を持ったともいえる。
しかも既に見た通り、石橋の橋面は草生した空き地として国道の脇にあるだけで、なんら道路の荷重は与えられていない。楽な余生といえば、確かにそうだろう。おかげで持ちこたえているというのはあるかも知れない。
そしてこの暗渠の入口の部分には、奇行者の訪問を待っていたかのように、秘やかな“文字情報”があった。…まるで、隧道の扁額のように。
表札くらいのタイル板に塗料で書かれていた文字の内容は、竣功年月日と施工者名の二つ。
石橋の独立が損なわれると同時に支えられる待遇となった、その記念日は……、肝心の年の部分がコンクリート鍾乳石的な汚れで読み取れないという無念ッ!
「昭和●●年3月31日」なのだが、●●は逆立ちしても読めそうにない。
そして施工者名だが、こちらも同様に汚れがキツイが、私の執念EYEが読み取ったぞ。
「仙建工業株式会社」と書かれている。
この社名、聞き覚えがあると思ったが、ある廃線跡探索で、この社名を目にしていた。
そして調べると、仙建工業株式会社は、昭和32(1957)年2月に現在の社名になったことが分かった。つまり、「●●」に入るのは「32〜63」だね。
また、以前のレポートに読者様から寄せられたコメントによる情報によると、同社はもっぱら東北地方の鉄道関係土木工事で、その業績を高めてきたそうだ。
……なるほどいろいろ繋がったな。 私はそう思った。
右の画像は、最近の航空写真で見る現地だが、レポートの冒頭で最初にここを見たとき、私は従来ここに橋があることはもちろん、沢があることにさえ気付いていなかったと書いた。
実際に航空写真を見ても、橋や川の存在が感じ取れない。
なぜなら、この沢に架かる暗渠は、国道だけでなく、そのまま隣の会津鉄道の線路も跨がせているために、全長50mくらいの稀に見る【長い暗渠】になっている。そのため地形としての沢をすっかり隠してしまっている。
そしてここに繋がってくるのが、仙建工業の得意分野が鉄道土木だという話だ。
おそらくこの暗渠は、国道と鉄道を一挙に潜る目的で、仙建工業が昭和32年以降に施工したのだろう。
その時には確実に石橋は役目を終え、現在の位置の国道に付け替えられていたであろうが、直前まで石橋が現役であったどうかは、残念ながら分からない。
昭和22(1947)年の航空写真を見ると、当時まだ国道ではなく県道若松宇都宮線であった道路は会津線を潜る手前でくの字型に折れており、これは直線化している現在の国道と異なっている。つまり、遅くとも昭和22(1947)年までは、石橋は現役だったのだ。
コンクリートを盛んに利用するようになった昭和時代まで現役だったなら、側壁をコンクリートで補強したのもその時期だろうと想像できる。
ちなみに、会津鉄道の前身である国鉄会津線が当区間を開業させたのは、昭和9(1934)年である。
その段階では石橋は健在で、また道路との立体交差も【現在の橋】ではなかったようだ。
現在の跨道橋が出来たのは、おそらく昭和44(1969)年である。これは橋台近くの擁壁に付けられた年号プレートからの推測だ。もしかしたらこのとき同時に、国道の直線化と、鉄道と国道が大きな暗渠を共用する改築が行われたのかもしれない。しかし、昭和40年代まで石橋を使っていたのかと言われると、疑わしい気持ちも湧いてくる。これを否定する明確な根拠もないが。
なお、昭和45(1970)年の航空写真では間違いなく石橋は使われていない(国道が直線化している)ので、まとめると、石橋が廃止されたのは昭和22〜45年のどこかというのが現段階での回答となる。
アーチ内側の壁面は、このようになっている。
長方形の石材を、縦の目地をずらしながら敷き並べる、いわゆる布積みになっているが、
縦の目地の位置に注目すると、様々な長さの石材を任意に組み合わせてあることが分かる。
同じ長さの石材とか短長二種類の組み合わせではなく、1m近い材もあれば、30cmに満たないものもある。
やはり職人が細々とバランスを整えながら、調達した石材を整形して配置したものと思われる。
そして一番最後に、アーチ天頂の列の材を木槌で強く押し込むことで、強力なアーチが完成する。
ちなみに、石材の向こう側にある、いわゆる“石橋の中身”というのは、
完全に崩壊しないとまず見ることは出来ないが、本橋はおそらく砂利や砕石が
充填されているのだと思う。もしも残念なことに橋が倒壊する日が来たら、
最後に本橋が守ってきた“明治の中身”を、我々は見ることが出来るだろう。
この地で無名の渓水を通すこと、130年あまり。
この水面を、みっちーも高橋由一も、一度は見下ろしたはずである。
特に前者は、自らの懐刀ともいえる技術者たちの仕事の技を誇ると共に、
敵対者も多かった会津の土地に打ち立てた道路の礎に、にやり笑ったやも知れぬ。
橋が力尽きて倒壊してしまう前に、石橋健在の事実を知ることが出来て、本当に良かった!
倒壊後、「なんでこんなに石材が散らばったんだ?」「まさか石橋だった?!」ってならなくて良かった!
ただ…
↑同じみっちー由来の石橋で、隣県にはこんなに輝かしい、太陽燦々な橋があると思うとね……。
…………
……ちょっとだけね、この橋の日陰っぷりには、同情しちゃうよね。
だって、名前さえ知る手掛かりが、ここにはないんだぜ。
隣にあるのが橋ならばまだしも、名前がない暗渠なばかりにな。
橋として形は存在するが、道路としては機能しておらず、
しかも隣地を暗渠に占領されたために、橋らしい明るい眺めを見ることが出来ない有様だ。
暗渠の出入口としてだけの存在で、しかも構造物としての意味はないんだもんなぁ。
さすがに貴重とはいえど、文化財指定までは望めそうにない、圧倒的存在感欠如の橋だ。
眠り橋だ。
……せめて君の名を知りたい。
そしてなおも望みうるなら、
在りし日の姿が見たい!
現地調査の最後に、石橋が現存する周辺状況を、石橋を利用していた“旧道”の存在を念頭に確認しておきたい。道あっての橋である。プチ会津三方道路探索だ。
まずは現国道から見る旧道の北側の分岐地点がここだ。
旧道はここで現国道から右に分かれていく。
そしてここに小さな沢を跨ぐ石橋が現存する。
石橋は幅5m、長さ10mほど(いずれも目測)で、国道路面より数10pから1mほど高い。だが橋の上に土があって草が密生しているので、当時の路面は確認できない。(早い時期に使われなくなった石橋の路面には、もしかしたら石畳が露出しているかも知れない。許されるなら掘り返して確認したいものだ。)
また、残念なことに親柱らしいものはなく、高欄も見当らない。
しかも、橋が橋として独立しておらず、左の国道の暗渠と地面を連ねているので、上からの眺めだと橋の幅が分からない。
こういった状況であるから、橋の存在は非常に目立たず、国道を行き交う車も会津鉄道の乗客も、橋はおろか暗渠を跨いでいることにさえ、ほとんど気付いていないだろう。
そしてさらに旧道の存在を分かりづらくしているのが、対岸の民家の存在だ。完全に旧道路上に建っている。
11:52 《現在地》
上の写真の地点から20mほど国道を進むと、会津鉄道のガードを潜る。
その直前、橋台を掠めるように右から国道に合流する砂利道があるが、これが旧道、すなわち石橋を渡り民家の敷地を突破してきた、会津三方道路だ。
(写真右下に見えているのは民家への進入路で、本当の旧道は右奥に見える道)
鉄道を潜った国道は、弥五島集落からずっと続く直線をそのまま延ばして大川(阿賀川)を渡る。橋の名前を若水橋といい、昭和41(1966)年の竣功だ。
この橋が完成するまでは大川を渡らず右へ曲がり、その先に非道隧道があった。
(2022年現在、レポートした当時よりもかなり藪化が進んでいるが健在だ)
はいこれが三島会津三方道路です。
わずか20mくらいの本当に短い区間だけど、現国道に呑まれずちゃんと残っていたことに、ちょっと感動。これがそのまま石橋に繋がっていたら、オブローダーは石橋の現存にすぐ気付いたと思うが、民家の存在がそれを難しくしていたと思う。
しかも、この小さな旧道では受け止め切れなさそうなほどの“古物”がある。
この写真のところで右を見ると――
(チェンジ後の画像)
大小取り混ぜ、両手でも数え切れないほどの多くの石仏が、行儀良く山側一列に並んで、国道を行き交う車を遠巻きに見守っていた。
それぞれ、「古峯神社」「湯殿山」「巳待供養塔」「庚申供養塔「法華二十部」「巳待塔」「二十六夜塔」などの文字が刻まれており、いずれも信仰に関わる碑である。
建立時期は確かめていないが、会津中街道の時代からのものが、三方道路整備や国道整備などの折々に集まってきたのかも知れない。路傍の石仏群としては豪勢だ。
ミニ旧道を振り返る。
弥五島集落から若水橋へ至る、何の変哲もないというには少しだけ頭上が賑やかな、
しかしほとんどの車は車速を緩めず一瞬で通り過ぎていく直線の路傍に、
明治の道路整備の貴重な置土産が残っていたというお話しでした。
まとめると、
大正2(1913)年の地形図(→)に描かれている橋が、国道の路傍に残っていた。
橋の型式は1スパンの石アーチ橋で、規模は目測だが橋長10m、高さ6m、拱矢3m、幅5m程度だった。
現地で分からなかったことは、橋名、竣功年、廃止年などであるが、このうち竣功年については、発見者によって明治15年から17年に整備された会津三方道路として架けられた橋であることが説明されており、私もそれを信じているが、根拠となる資料は、この机上調査の中で皆様に提示したい。
(←)現地の状況を地図上に示すと、この通り。
赤破線が、今回探索した旧道の区間となる。
石橋は、国道と鉄道をまとめて潜る長い暗渠の入口に接触する状況で現存しており、暗渠の竣功年は昭和32年以降の昭和年代と、現地の銘板から判断したが、絞り切れない。
石橋が廃止された時期もはっきりしておらず、航空写真によって、昭和22〜45年のどこかということまでしか分かっていない。(歴代の地形図を見たが、前掲の大正2年版以降、昭和43年版までずっと橋の部分の表現が変わっていないが、小規模な変化のため見逃されただけかも知れない)
この橋については、最近まで現存していることがほとんど知られていなかった(と思われる)こともあって、近年の状況を知る手掛かりは極めて少なく、私も情報は持ち合わせていない。
なのでこれから説明できることの多くは、完成当初のたいへん古い話である。
この橋は、会津三方道路として整備されたとみられることは再三述べた。
会津三方道路の解説も、他のレポートでも再三しているので簡単に済ますが、右図の太線のように、会津若松を中心に隣県へ通じる3本の新道の総称で、総延長200kmを越える馬車道であった。明治15年に着手し17年に完成しており、当時の福島県令三島通庸の強行と強権によって(大袈裟でなく)全会津人民の血と汗と金で竣成したものである。
このうち会津若松を起点に栃木県境山王峠に至る「東京街道」の一部として、本橋は誕生した。
(山王峠の先は、明治16年に栃木県令兼任となった三島通庸が整備した塩原新道に繋がる。一人の男の舵取りによって整備された道路の【規模】が凄すぎる!汗 そもそも東京街道という名前がロマンありすぎ)
三島通庸文書「若松地方道路開鑿工事順序」によれば、東京街道は全部で三つの丁場(工区)に分けて施工され、本橋は中間である「南二号丁場」に属し、弥五島村に工営(工事事務所)を設置したらしい。
弥五島村のどこかは分からないが、おそらく現在の弥五島の集落、すなわち石橋の近隣であったろう。
ただ残念ながら、私が持っている資料の中には、この橋の具体的な設計や施工に関する情報はない。(三島通庸文書の中に含まれている可能性がある)
三島の道の完成当時の姿が見たいとなったとき、まず頼りにすべきは、高橋由一が描いた石版画集『三県道路完成記念帖』だろう。
彼が明治17年に三島から依頼を受けて描いた128枚の石版画には、各地の新道の主要な隧道や橋が網羅されており、例えばすぐ近くの非道隧道(岪岩隧道)も左の通り、しっかりと記録されている。
三島と由一のタッグは明治の道路風景を知る手掛かりとしては今日も第一級のものであり、現在風景の同ポジ撮影をテーマにしたものなど様々な関連書籍もあり、三島ファンの間ではよく知られている。
だが、ごめんなさい。 今回、由一先生の出番はございません!
だって先生、非道隧道を描いた後は弥五島集落を過ぎて“塔のへつり”の近くまで進んでしまっているのだもの。
まさか先生までこの石橋に気付かなかった?! そんなまさかですよね? ……でも、結構石橋は描いてらっしゃるのになぁ…。
なお、石版画として清書された128枚の他に、下書きだけが存在する風景もいくつか知られているが、残念ながらその中にも本橋はない。
由一先生、本橋にはあまり画家としての感性が刺激されなかったのか、それともスケジュールの都合か分からないが、(この段階では存在しなかったことを疑うのが普通だろうが、そうではないことは後述する)とにかく描かれていない!
というわけで、現役当時の姿を知る手掛かりは他にないのかというと……
… … …
… … …
あるんです!
宇都宮鉄砲町13番地に上埜写真館を経営していた写真家・上埜文七郎先生の写真が!
由一先生と同じく、明治17年に三島の依頼を受け撮影された37枚の写真からなる『福島県下諸景撮影』(福島県立図書館蔵)に、この橋が写っている!
これが、完成当初(明治17年)の若水石橋の姿だッ!
「明らかに同じ橋だッ!」って、見た瞬間に思った。
「いや、今はこのようには見えないじゃん」って突っ込みが入るかも知れないが、確かに見えない。
だってこの撮影は、石橋を下流側から撮っている。
現在、下流側はには国道の暗渠がぴったりと接しており、この写真に写っている石橋は全く見ることは出来ない。
でも、現地を見た者ならば分かる、「 これは同じ場所だ。だから、同じ橋だ 」ってね。
(←)ここが写真の場所と判断できる材料はいくつもあるが、まずは全体的な道路の線形だ(現在の旧道の線形)。さらに、緑の矢印を付けた位置にある脇道(私が谷底へアプローチするのに使った)や、青矢印の位置で道路を跨ぐ水樋(これがほぼ同じ位置で現在も鋼製の水路橋となって存在することに地味に驚く)も、現在との共通点である。
そしてもちろん、切り込み接ぎで美しい面一の石面を見せる、ご存知の石橋の姿も、共通している。
古写真には、今は失われてしまった親柱と高欄も写っている。モノクロ写真なので、素材が木なのか石なのかは分からないが、今日現存する三島の石橋の多くは石製である。高欄は凝った支柱のデザインがあり、親柱には「わかミつはし」と彫られているようだ。
不明だった橋名は、写真のタイトルによって「若水石橋」と判明し、さらに被写体の中の親柱でも「わかミつはし」(若水橋)と読める。
他にも気になる部分が一つある。
アーチ天頂のすぐ上にはめ込まれた石材の形が、日の丸のある扇のように見えないだろうか?
これは、あくまでも「見える」というだけで、そういう意匠なのか、偶然見えただけかが分からない。
上埜が撮影した福島県内のアーチ橋が他にもう一つあるが、そちらのアングルは遠く模様が確認できないし、他の現存する現存する石橋にもこのような模様は見られない(と思う)。
(→)現在の上流側の同じ部分にそんな形の石はないし、やはり偶然、そう見えるだけだろうか?
偶然そう見えるように、石工の遊び心が発揮されていたとかでも素敵だと思うが。
なお余談だが、本橋発見者が発見を報告されたツイートにも、同じ『近代を写実せよ』(那須野が原博物館発行)から引用された写真が掲載されており、平成26年に刊行された同書によって、この精細な写真の存在が広く知られたことで、本橋発見に結びついた。発見者に伺ったところ、明治期の植生景観のわかる写真資料を集めている中でこの写真を見つけ、そこから「橋が現存するのでは」と考えて、探されたとのこと。
ちなみに私もこの本を手にするまで、本橋があったことを知らなかった。こんな経緯でまだ知られていないが現存している身近な石橋は、日本中にまだいくつかあると信じる。
さあ、石橋の名前が分かったし、竣功年も会津三方道路と同時と分かった。
写真1枚で大いに進展したが、ぶっちゃけ私的には、ここまでは探索前から知っていた内容である。
何か一つくらいは自分で何かを見つけなさいよということで、見つけてきましたよ。
(→)『南山史料集成 第一輯』という、南会津郡町村史編纂連絡会が平成4(1992)年に刊行した文献に収録されていたバッキバキの古文書、その名も、『南山新道之記』である。
『南山新道之記』は、明治17年10月27日に三島県令や太政大臣三条実美に臨席のもと若松で盛大に行われた会津三方道路の開通式を記念して、南会津郡長が郡書記2名に編纂を指示したもので、栃木県境から北会津郡境までの南会津郡内の新道(地元では南山新道と呼ばれていた)沿いにある、歴史的名所や各村の概況を知ることが出来る32ページの文献だ。いわば沿道の案内記である。
「山王嶺」(山王峠)から始まる各項目を読み進めていくと、全体の中盤に登場するのが「比戸巌」(比戸岩)で、「明治十五年三月本路線ヲ測定シ同年六月業ヲ創スル(中略)数月ヲ出スシテ竣功セリ工事ノ困難ナル郡内屈指ノ所トス」などと難工事ぶりを伝えている。
次の項目が「弥五島村」で、「栄富村界ヨリ湯野上村界マテ 三拾四町四拾四間三尺」と、村内の新道延長が細かく表示されているなど、まさに新道の第一級史料であるが、その次の項目が、「若水川」だ。
若水川というのは初めて目にする川の名だけど、どうやらこれが石橋のある地形図に書かれていない沢の名なのだ。同項目の解説文は、次の通りである。
若 水 川
石橋長六間幅三間川底ヨリ石ヲ疊(つ)ミ上ゲ其下ニ閘門ヲ穿貫(せんかん)ス若水橋ト称ス平時ハ水涸レテ流ヲ見ス
――と、このように、若水川には橋があり、その構造は、川底から石を積み上げて、下に水が通る門(「閘門」とある。今日では閘門は別の意味で用いる言葉だが、閘は本来は水門の意味)を穿貫させたものであること。すなわち、石アーチ橋であることを当時流の言葉で表現している! 改めて橋の名前が「若水橋」と断定できたし、水量が少ないことも書かれていた。
そしてこの資料の大きな功績は、橋の規模が明示されていたことだ。
すなわち、長さ6間(10.9m)、幅3間(5.5m)であると!
「若水橋」といえば、現在の国道が大川を渡るところに架けられた昭和41年生まれの橋の名でもある。
明治に若水川を渡ることから名付けられた石橋の名を、すぐ近くとはいえ別の川を渡る橋の名として受け継いだのは、故意なのか、偶然なのか。
前者だったら、少しほんわかする心付けだな。
まあ、おそらく単純にこの場所の字名が若水で、共通する名付けになっただけだろうが。
以上が、この文献から分かることで、ここまでが私が知るこの橋の全てである。
本稿の最後に、若水石橋の話から少し離れるが、三島通庸と石アーチ橋の関わりと、彼の歴任地の山形県と福島県に残る石橋の現状について、少しだけ言及したい。
我が国における石アーチ橋のルーツは、(琉球王国を除けば)九州地方とされる。
江戸時代にオランダや中国から九州地方に技術が入り、今日まで残る名橋がいくつも誕生した。そしてその背後には、独自技術を身につけた職人集団が存在した。
だが、他地方への普及は江戸時代にはほとんど進まず、九州から遠い東北地方への普及は明治時代のことで、山形県が最初であった。
これは、明治7(1874)年に酒田県令になった薩摩人の三島通庸が、9年に山形県令となって万世大路などの新道工事を県内各地で大々的に行う際、架橋の方法について、耐久性と美観に優れる石アーチ橋の建造を計画したことによる。彼は薩摩から連れてきた石工職人集団の棟梁・奥野仲蔵に設計と建設を指示し、手始めとして万世大路に瀧ノ岩橋を架けたのである(現存しない)。
論文『山形の石橋』(土木史研究 第20号 2000年5月)を読むと、山形県内の石橋の全容がよくわかる。
三島は山形県令時代(明治9〜15年)に65橋を架設し、うち12橋が石アーチ橋だったという(他は全て木橋)。
そして、このように短期間で多数の石橋を建築したことで、技術は地域に根付くことになった。三島が福島県に転任した後の明治20年代までに、県内にさらに7本の石アーチ橋が主に地元技術者の手で建造されている。
こうして、全て明治生まれだった石アーチ橋が山形県内に19橋あったが、平成12(2000)年当時、なおも11橋が現存していたそうだ。
その中には、三島の石橋としては最大のスパン(16.4m)と拱矢(8.2m)を誇った山形県小国町の綱取橋(明治14年完成、全長27.3m)のような巨大な橋もある。
もっとも、現存・非現存を通じて、全体としては1スパンかつ径間長も10mに満たない、小さな橋が多かったのである。
若水石橋(全長11m)は、その中でも小規模だが、特異に小さいわけではない。
小規模であればあるほど、木橋でも代用できたところだろうが、石橋は架設後の寿命が極めて長くメンテナンスフリーに近いメリットがある(地元に凄く優しい)ほか、三島の新道工事の成功に懐疑的だった人々の目を開かせる(啓蒙する)意図があったともいわれる。実際、人目に付きやすいところを選んで架けられた傾向があるようだ。
水量が少なかった若水川にコスト高の石橋を設けた理由は明確でないが、工営の近くであり、人目に付きやすいという理由があったかもしれない。プロモーションするのに手頃なサイズだったのかも。
一方、明治15年から17年までの三島の赴任地福島県で、どれだけの石アーチ橋が架設されたのか、総数は不明である。
しかし、山形県と同様に多数の石橋が誕生しており、その後の技術の定着もあったようだ。
残念ながら現存はしないが、県都福島のシンボルブリッジである信夫(しのぶ)橋も三島の時代に架け替えられ、彼が関わった石橋で最大スパン数を誇った13連の壮大な連続石アーチ橋で全国屈指の橋だった。
こういった経緯から、東北地方では山形県と福島県にだけ石アーチ橋が多数ある。
完成から百年あまりを経た平成以降、このように明治時代に短期間ながら技術の定着があった両県の石橋に対して近代化遺産としての評価が進み、土木学会が毎年全国から選定する選奨土木遺産への認定が相次いで行われた。
平成21(2009)年に「山形県の石橋群」として中山橋をはじめとする現役11橋が、そして今年、令和4(2022)年春には「福島の石橋群」として、松川橋をはじめとする現役9橋が、それぞれ認定されている。
計らずも今年は福島県の石橋にとっては記念すべき誉れの春となったがわけだが、皆様ご想像の通りで、選奨土木遺産に認定された9橋の中に若水石橋は入っていない。おそらく、候補として橋の存在自体が土木学会や自治体に認識されていない。また、他に県内に現存するが認定を受けなかった石橋があるとの情報もない。
もっとも、仮に現状のままで判定を受けても、土木遺産に認定される見込みはほぼ無いだろう。
指定された橋はいずれも、現役である。
橋や隧道が認定されるときは、現役であることが重視される。これは絶対の基準ではないものの、そこを重視していることは明言がある。
だから、辿り着くことが危険な山中に廃橋として残る綱取橋は、三島の石橋として現存最大の規模を誇りながら認定されていない。
現役でないどころか、橋としての独立した姿を保つことすら許されなかった若水石橋は、きっと選奨されないだろう。
眠りの若水石橋、こいつは日陰で本当によく耐えてきた。
完成当時の美しい姿をもう一度見せられそうにないのは残念だが、道路界の日陰を愛するオブローダーなら、詣でて損はないだろう。
完結