ミニレポ第112回  旧旧国道4号 小坂橋

所在地 岩手県一関市 
探索日 2006.10.28
公開日 2006.11.18

地に埋もれたアーチ橋 


 岩手県の南玄関、一関市。
現在の国道4号は町の中心部から西へ外れているが、古くは駅前を通っていた。
その経路は右の地図の通りで、かつての国道4号の南半分は国道342号、北側は県道19号や260号などとなっている。
市街地の中心部を貫流する磐井川には昭和26年竣功の磐井橋が架かり、国道だった当時から相変わらず膨大な通行量を捌いている。

 今回紹介する小坂橋は、この磐井橋のすぐ北側にひっそりと架かっている。
そこは、旧国道よりもさらに古い旧旧道と言うべき道筋だ。
次は拡大図をご覧頂こう。



 左の図の通り、旧旧道は旧道の東側を通っていた。
手元の資料によれば、ここはさらに古い奥州街道とも重なっているように見える。
もっとも、街道時代には磐井橋が無かったので(初めてここに木製の仮橋が架けられ「磐井橋」と命名されたのは明治3年)、渡し場があったのだろう。
また残念ながら、旧旧道が確実に国道のそれであったという確証もないが、ともかく街道時代に由来する相当に古い道であろうと言うことは断言できる。

 そして、そこに架かる橋の姿は、私の涙を誘った。






 レポは北側から南、つまり郊外から市街中心部へ進む方向で進む。
ここは、上の拡大図の北端付近、旧道と旧旧道とが分岐する三叉路だ。
町中の三叉路には付きものの、三角地の建物が窮屈そうに挟まっている。
左右どちらの道も歩道さえないギリギリ幅の2車線で、バイパス化され郊外の丘陵を突っ切る現道とは較べるべくもない。
現在、右の旧道の方は県道14号(主要地方道一関北上線)に指定されているが、旧旧道は市道となっている。




 旧旧道へ進行する。
すぐに無骨な印象のコンクリート橋が現れた。
橋の幅は狭いが、隣に歩道橋が新設されている。


 銘板によると、この橋は堺橋という。
親柱と共に銘板が健在であり、しかも御影石製のそれは綺麗に磨かれている。
後補、もしくは補修されたものかも知れないが、今も手入れされている印象。
橋自体は古びているものの、銘板が綺麗で整っているだけで、全体に引き締まった印象を受ける。
親柱や銘板は橋梁の顔であり、見た目の印象を大きく左右するものだ。



 竣功年も銘板が教えてくれた。
「昭和十三年三月竣功」である。
肉厚で高さの足りない欄干は、まさに昭和初期のコンクリート橋の特徴そのものだ。
これでも、昭和初期の橋としては幅広な方で、ここが天下の国道4号だった事を臭わせる。
(ちなみに、昭和27年の道路法(新)による国道指定以前と以後で番号が異なる道が多いが、この4号は大正9年の道路法(旧)による路線指定時からずっと4号であった)



 堺橋の上から上流を見ると、すぐ近くにもう一本よく似たコンクリート橋がある。
向こうが旧国道(この道に対しては新道)の橋である。
注目は、その手前の向かって左の石垣の一部に、二段だけの階段のようなコンクリートの構造物が見える点だ。
その向かいの対岸には何の痕跡もないが、これは堺橋よりもさらに古い橋の痕跡なのでは無かろうか?
昭和13年以前に存在した…。



 こちらは一代新しい旧道の橋。
今でも県道に指定され市内有数の通行量を誇るだけあって、国道4号と言っても通じる現役風景だ。
一回りは幅も広いようだ(が、歩道はなく、歩行者にとっては堺橋より不便かも)。

 このように、今も大活躍中の本橋だが、現地では遂にその名を知ることが出来なかった。
親柱はあれども、銘板が一枚も見当たらないのである。
はめ込むような凹部さえないので、或いは元もと銘板の無い橋だったのかも知れない。(戦時中?)
 橋の名は、地図に載っていた。五代橋と言うようだ。
五代は川の名前であり、これはまさに主要国道の橋の命名法則に則っている。
(法則と言うほどではないが、主要な国道の場合、川の名前をそのまま橋の名前にする場合が多い)


 で、さっき気になった2つの橋に挟まれた場所の、謎の構造。
岸の上から見下ろしても、確かにそれは存在するが、きわめて古そうなコンクリートの段があると言うだけで、正体は掴めない。
 しかし、これを橋と仮定すると、その延長上は右の写真の通り、地割り的に道っぽい。
やはり、この界隈でもっとも古いルート(=奥州街道)の痕跡なのではないかという疑惑は、大きい。


 旧旧道も放っぽり出して、降って湧いたような旧道 の“疑惑”道に駆け込む。
すると、新旧の住宅が入り交じる宅地の中にも、一本のラインが確かに存在しているではないか。
旧旧道とは、家一軒分の幅だけ空けて平行している。
先に挙げた拡大図(地図)にも、よく見ると極細のラインでこの道が描かれているのだ。

 臭うぞ。  クッサ



 完全にこの界隈だけの軒道になっている小道を、目玉を爛々と輝かせた私がチャリで通る。
既に、疑惑の道の虜である。 だが、通報されなくて良かった。

 疑惑の道は、更に進むと4車線の県道19号バイパスに遮られた。
だが、その先にもやはり同じ幅の小道は続いていた。
残念ながら、この50mほど先で地割りが変化し、そこで道の痕跡は途絶えていたが…。

 …まあいい。
旧旧道へ戻ろう。



 旧旧道を県道19号との交差点から更に南下。
なんて言っても、まだレポ開始地点の三叉路から500mも来ていない。
このあたり、ただの市道にしては、通行量の割りに幅が広い。

 ところで、この先に「ネタになる」小坂橋があることなど知らずにただチャリで走っていただけなのに、小坂橋だけでなくその前の写真もちゃんと存在するのは何でだろう。
 それは単純に、私がチャリで走りながらひっきりなしに写真を撮っているからだ。
常に、その先に何かネタがあるかも知れないと思いながら走っているからだ。

 …だから何だって?    いや、別に…。



 おばちゃんの漕ぐママチャリと同じペース(笑…上の写真も注目)で進んでいくと、遂に標題の橋が現れた。
遠くには磐井川の河川敷と、そこを跨ぐ水色のポニートラスが見えてきている。向こうは旧国道の磐井橋だ。

 この小坂橋、別にどうってことのない、ちょっと古びただけのコンクリート橋だと、初めは思った。
しかし、まずは欄干が片方にしかない事で違和感を覚え、銘板を見たときにその違和感は決定打となった。



 一言で言えば、この橋は可哀想な橋である。
その哀れさが私の心を打った。
だから、こうしてミニレポながら山行がに登場している。
色々と哀れな“痛い”ポイントがあるのだが、まずは全体像として、欄干が片方しかなく、片方はアパートに地続きとなっている。
橋としての大前提を既に崩されてしまっている。
だが、それでも路面の鋪装の様子から、この下に橋が隠れていることは明らかだ。



 銘板も悲しい。あと欄干も悲しい。

 白い御影石の銘板だと思ったら、なぜか四方が赤茶けて汚れている。
実はこれは錆である。御影石でなく、銘板は鉄板にペンキ塗りだ。
親柱の印象からは実に不釣り合いだ。

 さらに、まるで白粉を塗りたくったバカ殿様の顔面のように白い部分が目立つ欄干。
しかも、斑である。
欠けてしまった部分を補おうというのは良いのだが、補うコンクリの色を考えて欲しかった。



 雑な扱いを受けた古橋だな。
さっきの堺橋とは大違いだな。
やはり昭和13年頃の竣功なのかな…。

そう思って反対側の親柱へ近付いてみると…。



 当然のように、親柱など無いのである。



  …ん?

 もしや、そこに転がっているものは…?



 やっぱり、親柱だった。

 辛うじて“十四……竣功”などと読める。

 そうか、堺橋より1年新しいんだな…。



…。

えっ? えーーー!! 違くね?!

 これ、“大正”十四年でないの?!


 はい、…大正十四年十月の竣功でした。

 これまでかなりの数の古橋を見てきたが、昭和初期の橋は数がそこそこ多い。
だが、大正となると一気に数が減る。
もう、大正期に永久橋が架かっていたと言うだけで、(少なくとも東北では)それが地域で最大級に重要な道路だったと言って良いだろう。
この大正期の親柱は珍しいもので、本来の銘板の他に、側面(川側に面して?)にも小さな銘板が取り付けられていた。
そしてそこには竣功年の他に、「小野寺組竣功」などと、施工者の名前が記されていたのである。
このタイプは初めて見た。



 …だが、ゴミ扱い……。


 橋から少し離れて横っ面を見て、またも驚き!

 小さな用水路みたいな川を跨いでいるだけだと思いきや…、本橋の形式は重厚な充腹式コンクリートアーチであった。
この形式の橋は、山岳道路の古い橋などでまま見かける。
 アーチ橋の普通の桁橋に対する優位さは径間を延ばしやすい事で、橋桁を置きにくいような地形によく利用されてきた。
本橋のある地形とは、どうにもイメージが異なるのだが……。

 ゾクゾクしながら、更に近付いてみる。



 …悲しすぎる。


 もはやこの橋は、橋である必要を完全に奪われていた。
かつて川だった筈の流れは、40cm四方程度の小さな暗渠に差し変わり、それはドブのようだ。
欄干の長さを見れば、確かにこの橋は結構な長さだった事が分かる。
しかし、既にそのアーチの半分以上が土砂に埋没し(いや、埋め戻されたと言うべきか)、本来の形を失っていた。



 アーチの内部は、汚れた水が溜まった泥沼と化していた。
反対側の光は見えず、アパートの地下に没しているのだろう。

 なお、銘板が二枚しか現存しないため、ここにあった川の名前も現地では知り得なかったが、帰宅後調べると、銅谷川という名を知った。
地図によれば、この少し上流ではちゃんと地上に川が流れている。
この細い暗渠を流れているのは本来の銅谷川の水ではないのだ。
橋の真下の地下に水路が掘られていて、銅谷川の水を磐井川へと直接放流している。


 この一関という街は、磐井川及びその本流である北上川によって、かつて何度となく壊滅的な被害を受けてきた。
現在、1450haという日本最大規模の一関遊水池が北上川の氾濫原に設けらていることも、その苦難の歴史を物語っている。
特に昭和22年のアイオン台風、翌23年のカスリン台風の被害は甚大で、未曾有の大洪水の果て死者行方不明者は600人にも上った。
先代の磐井橋が洪水に対し磐井川を塞ぐ堰の役目を果たしてしまい、より市街地への溢水が激しくなったというのは有名な話である。
その時の水位を記録したバーが、小坂橋の脇にも立てられていた(が今は倒れている)。
これを見ても、その水位が如何に殺人的だったかを知ることが出来る。
大正生まれのこの坂井橋は、当然この水害も見てきたし、経験してきたのだ。
足元の銅谷川の激しい逆流にも耐えたのだ。



 小坂橋を渡ると、すぐに道は磐井川の河川敷に登る。
そのまま旧国道である磐井橋にぶつかって、旧旧道としての独自区間は終わる。


 …小坂橋。

 無意味なアーチと侮る無かれ。
彼は今でもしっかりと、冠水することの無くなった街並みを見守っている
半身だけになりながら。







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