ミニレポ第165回 国道49号旧道 旧旧藤橋 前編

所在地 福島県河沼郡会津坂下町
探索日 2009.5.12
公開日 2011.8. 8

130年間で8度架け替えられた橋


【所在地(マピオン)】

国道49号を会津若松から西へ向かうと、会津平野を離れる直前に、只見(ただみ)川の太い流れを一度横断する。
その先は、新潟平野に出るまで続く広大な山岳地帯であり、旅人は渡河の前にある七折(ななおり)峠と渡河後に現れる藤(ふじ)峠とを自然に見較べ、山国へ踏み込んだ実感を得るのである。

この渡河地点の東を坂本(会津坂下町)、西を藤(柳津町)といい、明治初期の三島通庸県令時代、「会津三方道路」建設の一環として初めて架橋され、藤橋と呼ばれるようになった。
以来ずっと、会津と新潟を結ぶ第一路線である越後街道(会津街道)は、この地を通い続けている。

「柳津町史」によると、本橋は水量豊富な只見川を渡る都合上、かつて頻繁に流出・架け替えを繰りかえしており、現在架かっている藤大橋(昭和58年完成)は、少なくとも9代目の橋であるという。(初代橋は現在の橋の旧旧旧旧旧旧旧旧橋ということになる…笑)


そして今回探索したのは、大正4年から昭和28年までの藤橋架橋地点であり、代でいうと6代目(旧旧旧)と7代目(旧旧)の橋がここにあったのである。




左図は大正6年版地形図の藤橋周辺で、橋の東側(只見川右岸)に九十九折りのような線形が存在する。

ここで岸辺の等高線をよく見ると、右岸の平原のように見える部分は川岸から30m以上高くなっており、九十九折りは川岸に降りるためのにあることが読み取れる。
また橋の右岸には平井という集落があり、左岸には大巻という集落が見えている。

なお、大正6年当時この道はまだ国道ではなく、仮定県道一等の越後街道と呼ばれていた。




右図は上の図から約90年経った現在の地形図である。

仮定県道から一般国道になっても越後街道の名前を引き継いでいる国道49号だが、藤橋(藤大橋)前後の線形は大きく変化している。

あれだけ地図上で目立っていた九十九折りが跡形も無くなっているようにみえるが、いったいどこへいってしまったのか。

こういう新旧地形図で場所を比較する時、大きなヒントになるのが、あまり位置の変わることのない存在―水準点―である。




新旧地形図の水準点の位置を基準にして、かつての国道を地図上に再現してみた。

なお、「かつての国道」と書いたが、この道の国道昇格(二級国道115号新潟平線)は昭和28年5月3日で、同年8月7日に現在の藤大橋付近に8代目の藤橋が開通したため、旧道(一部廃道)となった。
したがって、わずか3ヶ月ほどではあるが、旧道も国道だった時期がある。(一級国道49号への昇格はその10年後)

話しが脱線した。
旧地形図にある九十九折りとは少し形が異なっている(切り返しの数が多く形が小さい)が、現在の地図にも同じ位置に九十九折りが存在しているので、これが旧国道だろうと判断した。
だが、只見川に近付くと道は消えてしまい、河中はもちろん、左岸にも旧道の姿は見あたらない。
とりあえず今回の探索は、時間的な都合もあり、水準点のある地点から右岸橋頭までとした。






2009/5/12 17:50 《現在地》

会津坂下町坂本の水準点がある変則十字路。
直進するのが現在の国道49号(昭和28年開通)で、左折は只見方面へ向かう国道252号の旧道、そして右折が国道49号の旧道である。

近くのバス停の名は「藤街道別(わかれ)」とあり、いかにも歴史ある分岐地点のように思えるが、実際は昭和28年からの分岐であり、それまで明治以来の道は、ここでクイッと右に曲がっていた。
(水準点はチェックしなかったが、現存するはずだ)




右折してすぐ、とんでもなく驚かされた。

なんと、路傍にある一軒の民家の窓を、巨大なクマかゴリラのような生き物が覗き込んでいる、まさにその場面に遭遇したのである!

明らかに人ではない姿に、ギョッとするのを通り越して、自転車ごとひっくり返りそうになったが、妙に光沢のある姿を改めて仰視してみれば…。

【なんだこりゃ。】




まったく馬鹿らしいことに“超”消耗させられたので、もう帰ろうかと思ったが(マジ)、廃道がオレを呼んでいる気がしたので(これは嘘)、先へ進んでみた。

すると、分岐から120mほど進んだところで、いかにも地味ーな脇道があった。

辺りには青看はもちろんないし、道標石とか石仏とか、古くからの分岐を思わせるようなものも見あたらない。

しかしそれもそのはず、古地形図はここも一本道として描いている。
川べりへの九十九折りは、ここを切り返すことから始まるのだ。
ちなみに、ここを曲がらず直進すると片門ダムへ通じている




脇道に左折するとすぐに下り坂が始まるが、30mほどでまた分岐。

直進する道は地形図には描かれていないが、試しに入ってみたところ、宅地に迷い込んで行き止まりになった。

消去法で右折ということになるが、この部分の線形は幹線道路とは思えぬ不自然さがあり(カーブが小さすぎバスやトラックが通れたとは思えない)、また旧地形図と現在の地形図で九十九折りの数が不一致であることも加味すると、旧道化後の宅地化などで線形が変化しているのかも知れない。




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きっ、キタゎーー!

これぞッ!

これぞ見まごう事なき、旧幹線道路のあるべき線!

1車線ではあるものの、カーブ内は前後に較べ大幅に拡幅されており、大きな車も道幅を一杯に使えば、なんとか切り返さずに転向出来そう。

それにこれは、ただのヘアピンカーブではないかもしれない。

この勾配の緩さ…。

これぞ三島による明治馬車道に起因するものなのではないか?! (ただし明治ルートが別にあった可能性もあり、今後調査が必要)




《現在地》

ほら、もういっちょ!

これだよなーこれだよ。

地形図だけでは決して読み取れなかった、この雰囲気。
これぞ旧道…旧幹線道路の味わいというものだ。

しかもそれが、目立つ峠の途中とかではなく、どうでも良さそうな集落(まだ根に持ってます)の裏手にこっそり眠っている辺り、ミニレポにしておくには惜しい逸材!!(でもミニレポなのは、本当に短い道だからね)




2つの大きなヘアピンカーブを経て平らなところに下り着くと、会津地方のあらかたの集落にある古峯神社の石塔(矢印部)が、まず出迎えてくれた。

道はここで90度左に折れて、いよいよ只見川と正対するわけだが、その前に橋守のような集落が待ち受けている。
かつて坂本村(大正12年八幡(やわた)村、昭和30年会津坂下町へ合併)に属した小集落、平井である。

ここでは只見川の急な河岸段丘の斜面が、少しだけU字にくびれて内陸へ入り込んでおり、この川沿いには珍しい水面近くの小平地を作っている。
洪水になれば真っ先に沈んでしまいそうな怖さを感じる地形だが、猫額の平地に、数反の水田と、両手で数え終えるほどの民家が並ぶ。


さあ、クルッと曲がるぞ。




にゃ〜〜ん。

一見のどかすぎる集落風景だが、その向こうには…。




道と村が、揃って川へ消えていく。
それだけでも、精神を不安定にさせる眺めだが…。

いくら水色に塗りたくっても、目立たぬはずがないではないか。
我が進路上に、まったくKYな存在感を見せつける現道、藤大橋、マジ大橋。


新旧道対比における、一極致!




つづく



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