ミニレポ第203回 国道20号旧道 高尾山IC内

所在地 東京都八王子市
探索日 2015.1.18
公開日 2015.1.20

過密なインターチェンジ内に残っていた!


いきなり見て頂いた3枚の地形図は、東京都八王子市内の高尾山付近である。 【位置図(マピオン)】
ここは案内川の谷沿いに明治以来の甲州街道が通じ、現在は国道20号となっている。通ったことのある読者も多いことだろう。
道の際に迫る深い緑に関東平野からの脱出を意識し、来る都県境大垂水峠へ意識を向ける、そんな印象深い谷間の道に、平成24年3月、鮮烈なインパクトを持った新しい場面が加わった。
長い工事の末に出現した圏央道(首都圏中央連絡道路・国道468号)高尾山ICである。

今回のレポートは、この高尾山ICの敷地内に残る、国道20号の旧道についてである。
上の3枚の新旧地形図を見較べると分かるが、現在の高尾山ICがある場所には、込縄という小さな集落があったのである。
さらに昔に遡ると、国道が通っていた場所も少し変わっており、大正12年の地形図では、国道は案内川の右岸を通っていたようである。

これらの情報を念頭に、現在の高尾山IC付近の大縮尺の地図を見てみる。


大きな縮尺で見ると、狭い谷間に納められたランプウェイの込み入り方が余計に目を引く。
ICの形式としてはトランペット型であろうか、圏央道の本線は前後が長いトンネルで、本当に無理矢理狭い空間に納めている感じがする。
ただでさえ錯綜するランプウェイで地表の様子が見えにくいのに、そこに国道20号の現道と八王子南バイパスの分岐が納められているので、余計にごちゃごちゃして見えるのである。

しかし、良く見ると現在でも、案内川の右岸を通る道が存在するようである。
これは大正時代の地形図にあった古い道、“大正国道”であろうか。

ICが出来る前にもここの国道は何度も通っているが、右岸の道を探ったことはなかった。
ICの建設で状況が変わってしまっていることが想像出来たが、気付いたのが遅かったのだから仕方ない。
今からでも何か見つかることを期待して、行ってみることにした。





2015/1/18(日) 11:20

大垂水峠側から高尾山ICへ近付くと、巨大な橋の“かたまり”を背負って、青看が現れた。
その内容は精一杯簡略化されていて分かり易いが、実際のごちゃごちゃぶりは既に地図で見たとおりだ。

まあ、IC内の細々とした車窓については、おそらくグーグルストリートビューとかで見ることが出来るだろうから、私は深入りしない。
私はこのまま、案内川右岸の“大正国道”かもしれない道へ向かう。




この写真の「現在地」は、画像にカーソルオンで確認していただきたい。
ここで説明したいのは、国道20号が高尾山ICの周辺で現道と八王子南BPに分かれるだけでなく、(「現在地」でもある)1車線の“不思議な道”がある事だ。

地図中に黄色い矢印で書き足したのは、国道20号の進行方向である。
この“不思議な道”は、北行き(上り線方向)の一方通行だが、ICの真ん中辺りでループし、南行き(下り線方向)の本線に合流している。
つまりどういうことかというと、この“不思議な道”は、方向転換路としてのみ機能している。
先述の青看からも完全無視されているし、一見すると何のためにあるのか分からないが、一応国道に指定されている。

もちろん、意味と由来がないわけはない。後述する。



“不思議な道”と、“大正国道”の分岐地点である。

地図だと上部にあるランプウェイのために完全に隠されている(=描かれていない)が、ちゃんと写真のように道は繋がっていた。
ただし、車止めが設置されている。「通行止め」とは書いてないので、歩行者には開放されていると判断して良さそうだ。

…もうここから眺めた時点で、“大正国道”の痕跡は無さそうだと、思った。(苦笑)

さすがに立地的に無理があったか。
あったのだろう。
大いに無理があった。
でも、せっかく来たんだから、先へ行ってみよう。




えっらい活きが良いな!

道がぴちぴち跳ねよる。

この激しいアップダウンが、無数にある圏央道の橋脚群によって
行き場を失った旧道の精一杯の逃避行だというのが、また泣かせる。
地形を無視してグネグネするために架けられた小さな橋も二つあった。



山際をアップダウンしながら続く道からは、IC内を俯瞰することが出来た。
中ほどに大型バスが駐まっている場所が見えるが、あの場所へのアクセスこそが、先ほどの“不思議な道”だけが持っている機能である。
ただし、一般の駐車場というわけではないようだ。
高速バスが高速へ乗る前の時間調整にでも使うのだろうか?あとは、ねずみ取りとか?
周辺は谷間で大型車が待機できるような空き地に乏しいので、それなりに価値があるのだろう。

“不思議な道”については、他にも用途があるというご指摘がありました。
八王子南BPから現道の高尾方面に向かう場合、【図】のように不思議な道を使うことで進むようです。(しかし,、なんとも複雑である…!)
教えて下さった方々、ありがとうございました!

こうして“不思議な道”の役割は一応納得が出来たが、あの道自体の由来については、さらに後述する。




随分と頭上の橋脚が近い場所があった。
さすがに通る事は想定されていないだろうが、路線バスが通ったらぶつかりそうである。

圏央道の本線や様々のランプウェイにもみくちゃにされながら、道は“峠”を越して下って行く。
両側の勾配は、12%の勾配標識があるから、相当急である。

で、あっという間に下りきると…。





今度は間髪入れずに、八王子南バイパスによって空を奪われるのであった。

上下線それぞれの分の地下道を、続けて2回潜る。

ここまで全く“大正国道”の痕跡は無かったのだが、そんな最後に…。




がっちり施錠した扉で道が塞がれていた。
地下道からは出られない!!

なおこの先は、ICの建設で移転した新しい込縄集落の街路である。
奥には現国道との合流地点も僅かに見えているし、この先に
“大正国道”の痕跡があろうはずもなく、私は大人しくここで引き返した。


…結果的に、それが良かったのだが。



来るときには気付かなかった、別の道形があった。(黄色の矢印)

しかも、その道形には、とても古く見える橋が架かっていた。(赤い矢印)

“本当の大正国道”の痕跡が、まだ眠っていた。



途中だが、ここで整理したい。左の地図を見て欲しい。
一気に複雑(というかごちゃごちゃ)になってしまったが、先に結論を述べると、この図のようになっている。

まず、ここには2世代の旧道が存在している。
平成24年の高尾山IC供用以前の旧国道と、さらに1世代前の“大正国道”である旧旧国道である。
地図中にはそれぞれ青の破線赤の実線で示した。

そしてこのうち、旧国道の一部を再利用したのが、先述の“不思議な道”である。
そこに旧込縄橋も存在する。

この旧込縄橋の袂で分かれ、案内川の右岸を進むのが、“大正国道”こと旧旧国道である。
そしてそこは、旧旧込縄橋が存在しているのである。

やっぱり、ごちゃごちゃしている…。
ともかくこれから、旧込縄橋と、旧旧込縄橋を見ていこう。
後者については、ICの工事が完成した今日なお残っていたこと自体、驚くべきことだと思う。



そしてこれが、旧国道と旧旧国道の分岐地点の風景である。

旧国道には「込縄橋(Kominawabashi)」案内標識があり、現在も一応は国道であるから、ちゃんと管理もされているようだ。しかしこれは多分、現道であった当時のものであろう。
元々は2車線の橋であったのだが、現在は白線が敷き直されて、余裕のある1車線になっている。
注目すべきは、両側の歩道橋部分が、すっかり“トマソン”化している事だ。
現在は歩道を必要とするような交通量がないのである。



これが旧旧国道である。
さすがに原形を留めているとは口が裂けても言い難い。
でも、位置的にはここで間違いなかったろうと思う。
ICの工事が始まる前の風景を知っている人がいたら、教えて欲しい。

そして、前方の林立する巨大橋脚の森の中に、ここが旧旧国道であった唯一の証拠と言うべきものが、残っているのである。
このミスマッチは、何ともいえない味がある。




橋脚の陰にひっそりと見えてきた、旧旧込縄橋の姿。

ここにいると、頭上から、左方から、ひっきりなしに車の走り抜ける音がする。
頭上にあるものも、確かに“橋”に違いはないが、目の前にある橋とは、同じ人類が作ったものとは思えない。



なんという、カオスな景観か。

時間的に遙かに離れたもの達が、同じ橋を共有している。
昔の橋をハイブリッドカーが走るギャップにも似ているが、本橋が一際目立つのは、
現在の使われ方が決して橋としての本分を全うしていないからだ。
今はただ、IC内の排水管を通す敷地として、使われている。

もっとも、排水管の施設工事を行う段階では、この古ぼけた橋を、
工事車両が通行したこともあったと思う。(工事用の仮設ガードレールの痕跡あり)
当時既に廃止されて時間が経っていたであろう旧旧橋が、眠りから醒めて、
IC建設の役にも立ったとしたら、なんとも孝行者な“働き橋”である!



最初に私を出迎えてくれた、南側の向かって右の親柱には、見事な文字で 「こみなははし」 と刻まれていた。
残りの親柱から竣工年のデータを得るのが楽しみになる、古色蒼然たる親柱であった。


欄干にも注目したい。
これまた現代の道路橋では滅多に見られない、強度よりもデザインを優先した鉄製の欄干。
オーダーメイドだったのだろうか。

なお、橋の下を流れるのは案内川支流の無名の小川で、後の2世代の込縄橋が、共に案内川を渡っているのとは異なっている。
ここにあった集落名に同じ「込縄」の名の由来は分からないが、他で聞いたことのない変わった地名である。どんな由来があるのだろう。




南側の向かって左の親柱は、どれだけ近付いてみても、文字が書き込まれているようには判別出来なかった。
おそらく(これは珍しい事だが)、この親柱には何も刻まれていなかったようである。

続いて右の2枚の写真は北側の2本の親柱で、橋に向かって右側のものには、「込縄橋」の大きな刻字。
そして左側のものが、私の一番求めていた親柱だった。

「大正十四年十一月成」

そう刻まれていた。

期待よりも、微妙に少し古かった。
昭和初期かと思ったが、大正末期であったのだ。
さすがは、大正時代はおろか、明治時代から連綿として国道の格を受け継いできた、甲州街道筋である。



ICの敷地内に、大正時代の橋が残されていた。

それは、明治18年に「東京ヨリ山梨県ニ達スル路線」として「国道十六號」に指定された、我が国最古参の国道上にあったものである。
指定当初の道は、近世以来の小仏峠越えであったが、明治21年に新国道として大垂水峠が開通している。込縄を国道が通るようになったのも、その時からであろう。
そしてこの“明治国道”は、大正9年に同じ起終点で「国道八號」へと再認定されている。
親柱によれば、(旧旧)込縄橋はこの“大正国道”時代の大正14年に完成している。
それ以前の道も多分同じ場所にあったろうが、木橋だったものと思われる。
その後、昭和27年に至って甲州街道は一級国道20号となるが、その頃は未だこの旧旧橋を通っていたようだ。旧橋に切り替えられた時期ははっきりしないが、歴代地形図を見較べる限りは、昭和40年頃と思われる。
【修正】昭和16年の航空写真でも既にこの橋が旧道化していることが確認出来た。再度資料を確かめてみたところ、大垂水峠の両側は昭和8年に時局匡救事業等で本格的な改修が行われており、峠の頂上から東京までの間は当時早くも鋪装が行われたようである。つまりこの橋、昭和8年頃には早々と旧道化していたことになる。 以上、ご指摘下さった読者さま、ありがとうございました。




ここにあるのは橋だけかと思ったが、実は小さな馬頭観音碑が一基、橋の袂に残っていた。

すぐ隣を我が物顔で真新しい水路管が通っていて、肩身が狭い。
蹴飛ばせばあっという間に旁らに転げ落ちてしまいそうな、小さな碑だ。

残念ながら表面の摩滅のため、奉納された時期などは定かではないし、IC工事の前後で場所が移っていない保証もないのだが、それでも橋の隣にある姿が最も好ましい。
まるでICの敷地内に橋だけがあるのでは寂しかろうと、誰かが情けをかけて置き残したかのようでもあった。




旧旧道の辿りうるのは、ここまでだ。

橋より少し北へ行くと、完全に更地化しており、何もなかった。

以上、高尾山IC内部からのレポートでした。



完結。



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