ミニレポ第207回 日置大橋と日置小橋 後編

所在地 和歌山県白浜町
探索日 2015.7.26
公開日 2015.8.11

大橋と小橋の組合せは常に変化する


まずは「前編」の積み残しの解決から。

現地でうっかりチェックし忘れてしまった、現国道の2本の橋の名前を含む、日置川を渡る新旧国道に関わる5本全ての橋の名前が、読者さまからの情報提供により右図の通り判明した。
情報提供者は国土交通省近畿地方整備局の資料「橋梁長寿命化修繕計画(平成24年)」から橋名を拾ってくださったそうなので、正確性は保証できる。

私が現地で名前を調べ忘れた2橋は、現国道の新日置小橋と日置橋という名前であった。
新日置小橋は全く以て直截なネーミングで、私が仮称したものと変わらないが、中洲に架かっている避溢橋の「日置橋」という名は予想外だった。
これはぶっちゃけ、橋名を考えるのめんどくさくなったのかな?って疑ってしまうくらいのシンプルさだ。まあ、中洲の中とはいえ確かに地名としては白浜町日置に架かる橋なのだが。

といった胸の支えも取れたところで、いよいよ旧道の日置大橋…
 こわれた橋 …にロック・オン!!




2015/7/26 15:22 《現在地》

衝撃の告白、「この橋は、こわれています」を前にした私は、顔がほころぶのを禁じ得なかった。
もちろん、この橋に愛着を持って大切に使ってきた人々から見れば、私の反応は不謹慎でしか無いだろうが、それでも私は道路の様々な姿を見たいと願う者。
健康な姿だけではない、病んだ姿も、死したる姿も愛したい。最後まで楽しみたい。

わたらないでください」という赤文字の警告板に強制力を付与すべく、橋の前にはコーンからU字パイプから反射ポールからAバリケードから仮設バリケードまで、様々な封鎖物が互いの場所を取り合うようにひしめき合っているくせに、なぜかその全て片手落ちでどこか壊れているという、なんともカオスな状況になっている。
だから、歩行者や自転車程度であれば、何かを乗り越える手間も無く「するーっ」と脇をスルーできてしまうのだから、ユルユルにもほどがある。




カオスな橋前空間をすり抜けると、まずはこんな看板が私を出迎えた。

この橋は幅員が狭く駐車
すると駐車違反になりま
す。駐車しないで下さい。
  白浜警察署・日置川町

ここに書かれている内容は、普通ならば「駐車禁止」の道路標識1本で足りそうなことである。それを敢えてこうして、車のドライバーは読みそうも無い看板にしているのは、ちょっと普通のことでは無い。




でも、なぜそうしているのかについては、この段階では想像も付かなかった。
とりあえず分かる事としては、これを設置した当事者が日置川町であることから、同町が白浜町と合併する平成18年以前の看板だという事くらいである。
色褪せ具合からすれば、昭和くらいまでは遡りそうではあったが。

そして続いてチェックしたのは、何とも良い具合に古色を帯びた親柱である。
よく観察すると分かるが、これはコンクリートに石組みの模様を付けたのではなく、本物の石組みの親柱である。
しかも頂部には照明灯を取り付けていたような痕跡があり、まさしく昭和初期以前に架けられた初期の永久橋にしばしば見られる凝った意匠である。

情報を収集する意味で惜しむべきは、銘板が剥がされていたことだが(向かって右の親柱も同様であった)、個人的に廃止した橋の銘板を取り外す行為は、「魂を抜く」儀式だと思っている。
画竜点睛の逆で、使い終わった橋から銘板を剥がし名無しの存在に戻す事で、その長く続いた重い任務から解放するという感謝と安らぎの儀式だ。
(粛々とそんな儀式が行われているシーンを見たことは無いが、あってほしいと思う)




そしてこれら橋頭部の諸々を過ぎると、いよいよ「壊れた」橋上の人となる。

あのカオスなバリケード群や警告板など、まるで幻であったかのよう。

橋上には、清々しい解放感が満ちていた。

長大橋独り占めの快楽。

隣に現国道の喧騒があるとはいえ、両者は微妙に離れているから、

耳をくすぐる海風の囁きの方により存在感を感じられた。




こいつが、日置大橋からの眺め。もちろん下流側だ。
この橋より下流に橋は一つも無いから、眺めは素晴らしい。

日置小橋が渡った水路もなかなかだったが、やはりこちらは桁が違う。大河の風格がある。
まさに小橋と大橋の架橋規模は名前通りという印象である。もっとも、橋の作りとしては、
単純なコンクリート桁橋である大橋よりも、曲弦トラスの小橋の方が贅沢かも知れないが、
大橋と小橋は同時に架けられたものでは無いのだろう。小橋よりも大橋は古いに違いない。

写真を一箇所拡大した場所は、別にそれが橋と関わりのある何かというわけでは無いのだが、
中洲の一番下流の辺りに、周囲をぼうぼうの夏草に囲まれて一軒の家屋があるのが、なんか
孤立の極みのようで目を引いた。おそらくこう言うのが好きな人が私の他にも居るはずだ。




それはそうと、

こわれた橋

って、何だったの? 




…涙…

こいつは確かに、壊れちまってる。




これは橋のいったいどの辺りだろうか。
ちゃんと計ったわけでは無いが、多分橋のまん中から少しだけ右岸寄りかと思う。
いずれにせよ下には常時河水(というか汽水かな)が浸かっていて、この橋の陥没を直そうと思ったら、もう大変だと思う。

おそらくは橋脚が1本傾くか陥没しているだろうか、修正のためにはその橋脚を建て替えなければならない。
そのためには河中にケーソンを設置し、河水を抜いて地中から作業を積み上げる必要がある。
まさに橋を2径間くらい一から架けるのと大差ない大変な仕事になるだろう。

そして、そんな大変な修繕工事が行われている気配も無い。
今回の最初の写真から見直してもらうと分かるが、なんか本橋の周辺に大型の重機がチラチラと写っている。
しかし、この重機がしている仕事は本橋の修繕では無かった。
橋頭に置かれていた看板によると、現国道の日置大橋に歩道橋を設置する工事らしいのだ。

(なお、この写真をじっと眺めていると、陥没は左右対称では無く、右側の方が寄り凹んでいるように見える。橋上でボールでも転がしてみれば調べることが出来ただろうが。探索後に写真を見返してみてそう思った。)



左右の写真は、ちょうど橋桁の陥没の頂点。上り勾配と下り勾配が切り替わる“折れ”の地点の欄干である。

昭和初期の色香を残す飾り付きの欄干が、見るも無惨に圧迫崩壊している。
まさに橋桁が下向きに折れ曲がった事を伝えている。

また、この桁を自転車で走ると、歩く以上に勾配の存在がよく分かる。あっては成らぬ勾配の存在が。



穏やかな天候と、歩行者の通行だけがずっと続くならば、すぐに落橋するようなことはないであろうが、しかし古い永久橋にとってこの故障は致命傷だろうと思う。
(なお、「永久橋」という表現は本橋に対する皮肉でも何でも無く、木橋が主流であった時代には、こうした耐用年数の比較的に長いコンクリートや鉄の橋をそう呼んだ。最近はあまり聞かないが。)

写真は、問題の陥没地点を振り返って撮影。

なお、陥没にばかり目が行きがちだが、道幅の狭さもかなり印象的である。
普通車同士ならばすれ違いは出来るだろうが、大型車が絡めば無理。
もちろん、本橋しか無かった時代には、歩行者や低速車(荷車とか)も自動車と一緒に渡った筈なので、その混雑を想像するのは容易い。
また、最後まで欄干の嵩上げが行われていなかったというのも、市街地にある古橋としては珍しいことである。
自動車だけならばいいが、歩行者も通行する部分の欄干としては、今の高さだと現代の道路構造令には適合しない。



これは今の橋に代替わりした時期は、案外に古い気がする。
さすがに、この橋だけで国道42号の交通量を捌けた時代というのは、相当昔に過ぎ去ったと思うから。

…なんてことを考えているうちに、約150mの長さを持った日置大橋を渡り終える。

日置小橋に最初に足を踏み入れてからここまで、約600mの川中の旅であった。
このうち、中洲の横断に費やした部分(陸路)が半分以上(350mくらい)あったが、それを踏まえても日置川の大きさを存分に感じられる長さだった。
現代の感覚でもそうなのだから、旧橋架設の当時にあっては、まさに世間の耳目を奪う大事業であったと思う。そしてその完成の歓びが、立派な親柱の装飾に見て取れる。

ここで私は一旦引き返した。傾いた橋を再び渡る。自転車ならば時間はかからない。
そして、今度は…。




ここを左折して…。



現国道の日置大橋へ回り込んだ。

もちろんその目的は、こわれた旧橋を舐めるように眺めること!



…なんだけど、その直前で別の収穫があった。
それは、現道の日置大橋の味も素っ気も無い親柱に取り付けられた銘板に、本橋の竣工年が刻まれていたことである。
曰わく、昭和42(1967)年12月竣功であるそうだ。

やっぱりである。
やっぱり旧橋が一線を退いた時期は結構早かった。
旧橋は、もうかれこれ旧橋になってから半世紀近くも架かっていたのだ。
それならば、傾いて廃橋という最期を迎えたとしても、まあ十分に長い余生を送ったといえるのかも知れない。

またこれにより、旧橋にあった「駐車禁止」の看板にも多少納得が行く。
おそらく傾いて通行止めになるよりだいぶ前から、自動車の通行量がほとんど無い時代が続いていたのだろう。だからこそ、「駐車場として使うな」というような意味合いで看板を立てていたのでは無いかと推測する。




うぁ…あ…

やっぱりこっちから見ると、橋の歪みが一番よく分かるな…。

それに橋の構造的な部分も、ここから見て初めて知る事が出来た。

さっきまで私は、陥没地点の直下に、沈下した橋脚が
あるものと思い込んでいたのだが、実際には――



このように沈下してしまったと思われる橋脚とは少しずれた場所が、陥没の底になっていた。

なぜこうなるのかという説明は、本橋の構造さえ知れば簡単なことである。

勘の良い方は、もうお分かりだと思うが――




本橋の桁はゲルバー桁である。
その全体の構造や図説はこちらを見てもらうと分かり易いが、これは橋脚だけが全ての桁を支えるのでは無く、桁同士も支え合う仕組みになっている。

この方法は一見構造が複雑になるだけであまりメリットが無さそうだが、橋桁全体が多くのヒンジ(多少回転できる部分)で構成されるために、橋脚が不同沈下(それぞれバラバラに動くこと)してしまっても、桁がその動きに柔軟に対応して落橋を防げるという、長持ち&安全設計なのである。
とはいえ、最近はゲルバー桁を採用したコンクリート橋は余り架けられていないので、残念ながら古い形式といって差し支えないであろうが。

ともかく、ゲルバー桁を採用していたお陰で、これだけ肉眼に見て分かるほど橋が変形してしまっても、落橋を免れたのかも知れないのだ。

最後までよく頑張った!!





こうして真横から見ると、橋の傾斜っぷりが一層際立って見える。

明らかに、「折れている」のが分かるレベルだ。

もちろん、屈折点はゲルバー桁同士の接続点で、ある程度の曲がりは許容されるが、現状は完全に設計の範囲を超えていると思われる。


いったい、この橋に何があったんだ?

紀伊半島… 

橋脚が動いてしまうほどの異常な奔流……

近年であるとすれば、一つしか思い付かないが…。




15:28 《現在地》

こうして私は都合1往復半新旧の日置大橋を渡り、そして旧橋の右岸側橋頭へ戻って来た。

こちら側は県道223号日置港線と丁字路で接続しているが、反対側と同じようにバリケードで封鎖されていた。
橋頭にある看板類も反対と同様だ。

この橋が国道だった昭和42年までは、橋から来て和歌山方向へ進むには橋頭の丁字路を直角に左折しなければならなかったわけで、信号待ちの列は橋上に伸び対向車を詰まらせるという、渋滞の原因としては最悪の状況だったろうと思う。




右岸側の親柱だが、こちらには銘板が残っていた。

やった!

と思ったのも束の間で、良く見ると銘板から文字だけが脱落していた。
え? こんなことってあり?!
どうやら文字は後から溶接か何かでくっつけていただけのようで、僅かな凹凸だけを残して消えてしまっていた。



もう1本の親柱の銘板も、ほぼ同様…。

「   橋」って、一番情報としては安い文字だけ残ってるのが泣けた。

そんなわけだから、本橋には立派な親柱が4本とも残っているにも拘わらず、解読出来た銘板は一枚も無く、実はこの現場で橋名を「日置大橋」と断定する事は出来なかった。
当然竣工年も分からず、作り的に見て昭和初期であろう(全国的に幹線道路の主要橋が永久橋に切り替えられた昭和8〜13年頃)と推測出来たまで。

今も立派に活躍を続ける小橋に対し、風前の灯火を思わせる大橋の姿が哀愁を誘った。



こわれた橋は、これからどうなってしまうのか。

その辺の事も含め、帰宅後に調べてみたので、以下の調査結果をご覧下さい。





まずは、旧版地形図をサラリとチェック。

明治44(1911)年版を見ると、まだ日置川を渡る橋は架かっておらず、中洲も平時は島でなかったらしい。
橋が無い代わりに、河口の砂丘部には渡し船があり、これが海岸沿いの道路(地形図では里道として描かれている)の一部であったようだ。
ちなみに、今の国道42号の前身であるこの当時の熊野街道は海岸の日置村は通らず、だいぶ内陸を迂回していた(近世からの熊野古道と同じ)。

これが昭和28(1953)年版になると、しっかりと日置大橋と日置小橋が描かれている。
この頃には既に熊野街道は海岸沿いに換線され、当時の路線名は旧道路法下の国道41號線であった。
なお、ここに描かれている日置大橋と日置小橋を良く見ると、大橋は木橋、小橋の方は垸工橋(石やコンクリートの橋)として表現されている。
いずれも現在の橋とは違った材料で架けられた橋のように描かれているのだが、小橋は今ある鉄橋が架設される前だから良いとしても、大橋については当時すでに今あるコンクリート橋が架かっていたはずだから、この表現は誤りである。




続いて、日置大橋と日置小橋の正確な竣工年を史料から調べてみた。
まず参考にしたのは土木学会附属図書館が公開している橋梁史年表である。

ここの情報によると、今ある壊れた日置大橋は、昭和13(1938)年3月20日の架設であるという。
橋長159.3m、幅員4.5mなどという緒元も判明した。形式はRCカンチレバー桁橋で7径間から成るが、各径間長が全部バラバラ(19.3+23.8+24.6++23.6+24.9+22.1+20.5)なのが意味深だ(そして意味が分からない)。
さらにこんな「特記事項」まで書かれていた。

1945年7月機銃掃射。1968年以降は歩道橋となる

怖ろしい機銃掃射のインパクトに掻き消されそうだが、昭和43(1968)年以降は歩道橋であったというのは、重要な新情報である。
つまり、隣にある新しい(現国道の)日置大橋が昭和42(1967)年に開通して以降は、ずっと歩道橋であったというのだ。
それならば、橋の前後に「駐車禁止」とわざわざ看板が立っていたのも合点がいく。

また、この壊れた日置大橋は、土木学会がセレクトした近代土木遺産2000選および2800選にも入っている(重要度は一番低いCランク)ほか、「歴史領域近代建造物」に以下の解説文を見つけた。

大正期までの町内の日置川には橋はなく、渡し船か「流れ橋」にたよっていました。県道田辺・串本線の改修に伴い、日置川を渡る日置大橋・日置小橋が架けられたのは大正9年です。日置大橋は、昭和10年8月の水害で約80mにわたって流失し、この災害復旧工事により、前の大橋のやや下流に平行して新しい橋が架けられました。

今ある日置大橋は2代目(現国道のは3代目)で、初代の橋(これは橋梁史年表によると木橋)は大正9(1920)年に架けられたが、昭和10(1935)年の洪水で流失してしまったとのことである。

そして、これまでの情報(読者さまから寄せられた現国道の橋についても)を全てまとめると、各橋の竣工年は次の図の通りである。



日置小橋については、橋梁史年表には今ある昭和31(1956)年竣工のトラス橋しか記録されていないが、それ以前にも大正9年竣工の初代橋(おそらくは木橋)があったと思うし、先ほど掲載した昭和28(1953)年の地形図に垸工橋が描かれていたことも加味すれば、日置大橋と同じ昭和13(1938)年頃に架設された2代目橋があったのかもしれない。
その場合、今ある日置小橋は3代目で、昭和63(1988)年に完成した現国道の新日置小橋は4代目ということになる。

なお、左図を眺めて頂ければ一目瞭然だが、現国道に架かる3本の橋は、一度に開通したものでは無い。
日置大橋と日置橋は昭和42(1967)年の竣工だが、前述したとおり新日置小橋は昭和63年と20年以上も新しい。
この新日置小橋は、国道42号の日置川道路(バイパス)として比較的最近に建設された部分なのである。




現在の国道で日置川を渡ると、途中(新日置小橋の西橋頭)で緩やかにカーブしていて、全体として直線では無いのだが、新日置小橋が出来るまではほぼ一直線に日置大橋、日置橋、日置小橋が並んでいた。
その状況は、昭和40年代から最近までの航空写真を比較するとよく分かる(右図)。
写真に記した赤い点線は、昭和42年から昭和63年までの国道が描いていた「一直線」だ。


大体これで本件橋梁群に関する歴史の解説は終わりだが、最後に気になる、「こわれた橋」の「こわれた」原因と、その今後についてである。

これについては、「2013年12月県議会 建設委員会 高田由一委員の質問概要記録」に、一通りの事が書かれていた。

関連する部分を抜き出すと…

《質問》高田由一 委員
 旧日置川大橋についてであるが、路面もゆがみ、人も通れないという状況であり、地元の人からも、早く撤去してほしいという要望がある。
 その見通しについてはどうか。
 新しい橋だけになると、人が歩いたりする歩道整備の問題が出てくるが、その見通しについてもあわせて聞きたい。

《答弁》 道路保全課長
 旧日置川大橋については、平成11年度から歩道として供用していたが、平成23年の台風12号により橋脚が沈下したことから通行止めとしている。
 これにかわる機能として、隣接する国道42号日置大橋において、国が歩道を設置することになっており、この歩道設置が完了すれば、
 県が旧日置川大橋の撤去を行う。

《要望》高田由一 委員
 あの状態では歩けないと思うので、早急に撤去されるよう要望しておく。

なんか、日置大橋とか日置川大橋とか名前がごっちゃになっているが、敢えてそこは触れない。

やっぱり、元凶は平成23年台風12号だったか!

それは予想通りだったが、隣接する現国道の日置大橋に歩道設置の工事が終わり次第、県は日置大橋を撤去してしまうつもりのようだ。
まあ、あの姿になってはやむを得ないだろうが…

賞味期限はあと僅かだぞ皆急げ! (←いや、もう過ぎてますから!汗)


おまけ

地理院地図は、こわれた日置大橋を県道の色で表示している。
だが、壊れてしまう以前から40年以上も歩道として使われていたらしい(歩道化は平成11年という説も有る)橋は、本当に今も県道で在り続けているのだろうか。
このことに興味を持って調べてみたところ、「和歌山県道路情報」に本橋の通行規制情報が掲載されているのを見つけた。
一般県道日置川すさみ線の日置大橋は、橋梁損傷のため終日全面通行止めという状況が、平成23年9月9日から現在まで続いており、規制終了日時は「未定」となっている。
どうやら現在も県道の指定が行われているようである。




完結



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