ミニレポ第209回 和田の岩門(せきもん)

所在地 和歌山県太地町
探索日 2015.7.25
公開日 2015.8.24

江戸時代から活躍するミニミニ隧道


【周辺図(マピオン)】

2015/7/25 16:30

先日、和歌山県の東海岸に面する太地町をウロウロしていると、県道に面して口を空ける小さな隧道を見つけた。

太地町は、紀伊半島の南東部、熊野灘にピョコンと突き出した太地半島にある、和歌山県下最小の面積を持つ小さな自治体。古式捕鯨発祥の地と言われ、現在でも捕鯨文化や捕鯨の歴史を活用した街づくりが行われている。黒潮の青い海と温暖な気候が魅力的な漁業と観光の町である。

場所は右図の通りで、地理院地図を限界まで拡大しても、隧道は描かれていない。
だが、隧道がある道自体はちゃんと描かれていて、「現在地」の地点から南に入る道が等高線を跨ぐ所にそれはある。

地図を見る限り、敢えて隧道を掘らなくても少しだけ東西に迂回すれば良さそうな地形なのだが、ここでどんな隧道が見つかったのか、さっそく写真をご覧頂こう。



これはまた、かぁいい隧道である。

手前に止まっている軽トラのお陰で、大きさが分かり易い。
高さは軽トラより少しあるくらいで、幅はその1.5倍くらいだろうか。
かなりの小型隧道であるが、掘られている山自体が凄くコンパクトなので、これ以上大きな断面にしようとすると、もう切り通しになってしまうだろう。

隧道は県道240号の脇に口を空けており、車だと少し気付きづらいが、附近はミニ公園的な整備がされていて、気軽に潜っても良さそうな雰囲気である。
特に交通規制もない。

では、私も行かせてもらいましょう。



凄い人口密度だ!!(笑)

1メートル四方辺りの人数が、日中の新宿大ガードの歩道くらいありそう。

でも、なんか嬉しくなる。

近年では等閑視されることが多いミニ隧道が、ここではこんなに活躍してる。

実はこの日はもの凄く気温が高く、海風が入り込んでくる隧道内の日影は恰好の涼み場所だった。
それで地域の人たちが何となく集まっているんだと思う。
みなさま私が会釈をしてカメラを向けても、全く動じる様子が無く寛いでいらっしゃった。


そして初見の私に嬉しかったのは、公園と一緒に整備されたらしい1枚の解説板の存在だった。
この隧道に興味を持って訪れる全ての人に役立つ情報なので、全文を以下に転載する。

 岩  門 (せきもん) 
古来、和田の岩屋とか和田の岩門(せきもん)と呼ばれていた。
紀伊続風土記には「和田の岩穴 村の端磯辺にあり。山を切抜きて
門の形をなす。中に入れば村居に適セリ。和田氏住居せし所といふ。」
と記載されている。(和田氏とは、太地古式捕鯨の創始者のこと。)
和田氏は、この石門の内側に4,5千坪もある屋敷をもち、のちに
ここを和田の東屋敷と呼んだ。
                太地町教育委員会

まじかー!!

「紀伊続風土記」といえば、江戸時代末期の文化年間に編纂がはじめられ、天保13(1842)年に完成した、紀州藩の風土記である。
つまり書かれている内容は江戸時代末期のもの。
それに、「山を切抜きて門の形をなす」ってあるってことは―――

完全に江戸時代生まれの隧道だぞ!!

まあ、冷静に考えてみれば、江戸時代隧道生まれの隧道だといっても、こいつの工事はそんなに大変な事では無かったろう。
だから土木史上において、例えば「青の洞門」とか「大正浦隧道」などに名を連ねるには、ちょっと荷が重いと思う。
また、個人的には海蝕洞を再利用して手を加えた物だという気もするのではあるが、それでも江戸時代から今日までずっと使われ続けている(だろう)隧道というのは珍しく、貴重な民俗的土木構造物ではないだろうか。

いざ、入洞!!



16:30 《現在地》

脱洞!!!

まあ、これは長くかからないよね(笑)。

それに、隧道内で壁面とかにカメラを向けようとすると、ど う し て も 
至近距離でお寛ぎ中の皆さまを撮影することになってしまうという問題(笑)もありまして、
洞内撮影は断念したものであります。「ちょっと撮影したいので退いてください」とは、
私には言えませんでした。まあ、そこまでして撮影したい内壁があったわけでもないしね。
至って普通の、コンクリート吹きつけ隧道でございました。



和田の岩門(せきもん)の南口は、こんな風である。

北口と余り違いはないのだが、出口に分岐があって一方の道は階段になっているのが、ちょっと面白かった。
ちなみに階段の上は民家で行き止まりである。隧道内にはベンチもあるし、これは恒常的な寛ぎ場ですわ。
すぐ前の県道にあるバス停が「石門」なので、これはバス待合所も兼ねてそうだな。



隧道が主題のレポートなのに、それを撮した写真が4枚くらいしか無いというのも前代未聞かも知れないが、まあもう一通りは撮った気がするので、隧道を後にして、その先の道へ少し進んでみることにした。

なんというか、この道に惹かれた。
普通の車道があったらすぐ引き返そうと思っていたんだが、この四輪車お断りの入り組んだ小路の雰囲気は、私の大好きな離島みたいだ。

まあ考えてみれば、紀伊半島から更に伸びた半島の先の、しかも以前は和田家の大きな屋敷内であった場所なんて、いかにも外界と隔絶している感じがある。
しかも鯨漁で生計を立ててきた町なんて、あまりないしな。




うん、何とも良い感じに入り組んでいる。
地図も見ないで当てずっぽうに歩いているんだが、もう現在地が分からなくなった。
微妙に盆地みたいな地形なのか、随所に起伏があって三次元的だし、しかもどの方角を向いても同じような形の(地元の人ならもちろん見分けるであろうが)小山が見えるという、まさに迷わせるための道だ。
いいねぇ。
この感じも離島の街路だ。
しかも、建て込んでいる民家もいぶし銀を纏ったものがおおく、長屋まで現れる始末だ。

ただ、自動販売機も何も見あたらないので、このまま歩いているとやがて熱中症になりそうだ(苦笑)。
民家が密集しすぎてて、風が微動もしていない。





………

どれ…、

俺の本気(GPS)を見せてやるか。


……

ぜんぜん思ってたのと違う方向に進んでたし… 汗。

つうか、この路地が正解とか分からないからこれ。部外者無理だから。



ホッ。

一時は彷徨し、このまま “和田の迷い家” で一生を終えるのかと恐怖したが(なんか彷徨ってる間、誰とも会わなかったのが不思議だったなぁ)、何とか無事に岩門(せきもん)に戻ってくる事が出来た。

しかも実は5分しか経ってなかったという。
もっと彷徨ってたハズなんだがなぁ。

ともあれ、岩門(せきもん)には相変わらず人が大勢いて、というか前よりも増えてるし、話しに花が咲きまくってる。
笑い声が絶えない隧道である。




和田の岩門(せきもん)。

こいつを潜って進む場合は、戻ってくる確かな意志を持ち続けることだ。

迷っても絶対に危険は無いと思うが、迷うのが嫌いな人は進まない方がいいだろう(笑)。



なお、今回紹介した和田の岩門(せきもん)は、太地集落の南端近くにある。
右の写真は高台から撮した太地湾奥の風景だが、赤く囲んだ小山を貫いて、その左手のここからは見えない街地に通じていた。


こうして眺めると、細長い小山全体が和田氏の屋敷を津波や高波から守る防波堤のように見える。
事実、そうした意図をもって屋敷の土地が決められたのかも知れない。
もちろん、外敵からも身を守りやすいだろうしな。

高台から眺めていて、そんなことを思った。





帰宅後に気になって調べてみたら、この隧道には「和田の岩門(せきもん)」という“通称”の他に、町道のトンネルとしての“正式名”と言うべきものがあることが判明した。

全国の市町村道以上にあるトンネルを網羅した「平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)」に、このトンネルが記載されていたのである。
以下が抜粋したそのデータだ。

大東隧道
延長:6m 幅:2.3m 高さ:2.2m 竣工:昭和15年

昭和15年って、ぜんぜん「江戸時代」じゃねーじゃねーか!

いやいや、多分これは、改修されたか何かの年度が上書きされたのである。
全長6mなんて超短スペックのくせに、歴とした現役の町道トンネルなのが面白い。
また、大東という名前の由来についてだが、「太地町津波ハザードマップ(PDF)」に細かな地名が書かれており、この辺りがまさに「大東」という事が分かった。

最後に、この隧道の本当の竣工年はいつなのかという疑問についてだ。
「紀伊続風土記」が完成した天保13(1842)年以前であることは確定だが(なお、「紀伊続風土記」も明治時代の復刻本を確認してみたが、ちゃんと「解説板」と一字一句同じ内容が書かれていた)、江戸時代をどこまで遡れるのだろう。

太地町公式サイトの歴史のコーナーに目を通したが、和田家一族が太地浦に基地を置いて捕鯨をはじめたのは、慶長11(1606)年であるという。
また、「紀伊続風土記」の太地村の記述によると、和田家は土着の豪族で、以前は太地の和田城という山城に居住していたらしい。

はたして和田氏が岩門(せきもん)の一帯に「和田の東屋敷」と呼ばれた4〜5千坪もの大屋敷を構えた時期はいつなのか。
ある程度捕鯨で成功を得てからであろうとは思うが、日本史に疎い私には、ちょっとこれ以上は調べられなかった。

なお、岩門(せきもん)には異説もあるようだ。
太地町公式サイトに掲載されている岩門(せきもん)の解説文には、「昔から「和田の岩屋」や「和田の岩門(セキモン)」などと呼ばれているところで、風化作用でできた洞窟です。その昔、諸国を漂泊していた朝比奈三郎義秀が太地浦に来て、ここを生涯の地と定め、この岩門の内側に居を構えて世を偲んだといわれています」とある。
朝比奈三郎義秀は12世紀末の人物なので、石門はそんな大昔からあった? 
まあ、ここにあるとおり「風化作用で出来た洞窟」だとしたら、いくら古くても不思議はないのだが。


完結



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