ミニレポ第216回 田辺市上屋敷の“X”橋

所在地 和歌山田辺市
探索日 2015.7.28
公開日 2016.1.17

二つの意味で、X(エックス)な橋


ミニレポート2夜連続更新として、昨日に引き続き同じ和歌山県から、長い歴史を有する、小さな橋を紹介しよう。
今回も大きな川の河口の近くにある橋で、県第二の人口を擁する田辺市の中心部、会津川の河口近くが舞台である。
地名としては、田辺市上屋敷1丁目のうちだ。

詳しい位置は右図の通りだが、いくら地図の縮尺を拡大して見ても、そこに橋があるようには見えないはず。
この橋は、そういう橋である。
前回とはまた違った意味で斜陽の歴史をその身に宿す、しかし、大変に働き者の橋である。

そして、名前はまだ確定していない。

例によって、この橋も偶然に私の目に止まった。
ネットで調べてもほとんど何も分からなかったので、歴史解説もない、「ここでこう言うものを見付けた」というだけのレポートではあるが、短時間お付き合いいただきたい。
そして、私が知らない事実を知っている人からの情報提供を、心からお待ちしている。





2015/7/28 10:58 

今回の橋は、こんな路地を自転車で走っている時に、偶然巡り会った。
なぜこんな路地を走ったのかと言えば、私の真面目なアルバイトなのであった。
アルバイトの最中にミニレポのネタを拵えるのが真面目なのかと問われたら、「いいえ。間違いました。」と陳謝するしかないが…。
まあ、そんなことはいいじゃないか。

おそらく、いや、確実に何の変哲も無い1車線の街路は、名も知らない田辺市道である。
だが、これを何気なく走っていくと、広い道に出る直前で、“思いがけないもの”が待っていたのだ。

まあ、レポートのターゲット的に、“橋”があったんだろうなってことは、皆さん予想されると思うけれど…。




親柱だけ、ありました!

道の両側にしっかり2本!

こちら側に銘板を収める窪みを見せて、

ここから橋だと言わんばかりに、親柱だけ!




高欄さえもなく、もちろん渡るべき川の姿も見えず、ただ親柱だけになってしまった橋の姿は、私のオブローダーとしての琴線に忽ち触れた。
もしこれらの親柱までもが失われていたら、ここに橋がある、あるいはあったという事実を、部外者の私が知る機会は絶対に無かっただろう。

自転車を止めて、即席の探橋会を始める。
まずはいつも通り、銘板の解読からだが、残念ながら向かって右の親柱のそれは失われていた。
辛うじて残っていた左の親柱の銘板にはこうあった。

「 和十年三月架 」

この上下にある意味深な空白を穴埋めすることは、銘板に親しんできた人間にとって容易い。
本来は、「昭和十年三月架設」とあったのだろう。(これも一種の地域色だが、和歌山県や三重県の古い橋の銘板は、「竣工」ではなく「架設」という表現を使うものがけっこう多くある。)

この解読は容易だったが、より多くの方向から風化作用を受ける上下の文字から1文字ずつ脱落していく様は、まさに「閉店したパチンコ店の看板が有意な確率差を持って卑猥化する現象(●ンコの法則)」と同様の現象が、それらよりも遙かに長いスパンで、この金属製の銘板に起きている事を物語っていた。
なお、既に「年」「月」「架」の3文字も剥がれ始めていて、かなり危険な状況である。これらが失われると、いよいよ意味を成さなくなってしまう。



親柱はあるが、高欄も川もないと既に述べた。
では、川の代わりに何があるのかと言えば、そこには道がある。
写真は左側だが、右にも同様に道があり、橋上は十字路になっている。(これが第一のX(エックス))

左右の道は、今まで走ってきた道と同じくらいの幅の、しかしより寂れた感じがある、“裏路地”っぽい道だ。
車も歩行者も自由にこの十字路を行き来できるが、自動車にとってはこの親柱は邪魔な存在である。特に左折するときの親柱は邪魔だ。
余り接触された痕跡が無いのは、単にここを曲がる車が少ないのだろう。
なお、写真奥で道が一段高くなってところがあるが、あれは会津川の堤防だ。

都会にお住まいの方であれば、それなりに目にしたり、何となく痕跡を肌で感じたりしていると思うが、このように小さな河川が道路に埋め戻されて、或いは地下化して、地上から姿を消してしまうことは珍しい事では無い。そしてその場合、架かっていた橋の処遇は様々である。おそらく最も多いのは、橋だと分かる外見の全てが撤去されてしまうパターンなのだろうが、中には高欄と親柱がそのまま残ったり、このように親柱だけが残るパターンもある。
私もこのパターンを目にするのは初めてでは無かったが、それでも目にする度に心を奪われる。




失われた橋の面影を探す旅は、早くも後半戦。

交差点を横断するという名の渡橋を果たし、見えない川のおそらくは右岸に到達。
今でも地下には川が流れているのではないかと思うが、今の私に真夏のアスファルトの底を確かめる術は無い。

振り返ってみる、未だ名前の知れぬ橋。
本来は残り2本の親柱&銘板に期待を込めたいところだが、当初、それらは既に失われたと考えていた。
まず、こちらから見て左側のそれは、明確に存在しないのだ。
道幅が拡げられた際に、容易く居場所を追われてしまったようだ。これまた、私には追跡の術が無い。

そして右側の親柱も、“対岸”からは全く見えなかったので、失われていると思った。
だが、実際にはそうでは無かった。
見えなかったのは、単に障害物が置かれていたからだったのだ。




私はこの橋の素性を知る最後の手掛かりかも知れない親柱に、喜々として飛びついた!
するとそこには私が希う通りに、赤茶けた色の銘板が、現存していた!

竣工年は既に明かされている。となれば、残りは恐らく「橋名」「橋名の読み」「河川名」のいずれか。

このうちどれか一つしか明かされぬのなら、願わくは橋名であってほしいが…。さあてどれ!



うぬぅ…ッ!

な、難解だぞ、これは……。
ひと目見ただけで重くのし掛かってくる、「貴様にこれが読めるか」感。(第二のX(エックス))
先ほどの竣工年が書かれた銘板でも、文字の脱落に危険を覚えたが、今度はいよいよ致命的なレベルで問題になっている。
1文字目の大きさから考えて、恐らく4文字なのだと分かるが、3文字目と4文字目がほとんど脱落してしまっているのだ。

そもそも、読む読めない以前に、錆びたチェーンでグルグル巻きにされた姿が既に“ワル”そうで堪らない(妖怪でも封印してあるのか)。
冷静に見ると、このチェーン武装はなんのことはない、ある意味では親柱を保護する優しさである。裏側に車の衝突に対する緩衝材が取り付けられているのだ。(実際は親柱の保護ではなく、駐車する車の保護が目的だろうが)

このチェーンに文字が邪魔されていることもあり、大変読みづらいと感じる文字の解読に移る。
といっても現地では到底無理だったので、撮影した写真を持ってきて、ツイッターやフェイスブックの仲間達と一緒にやらせていただいた。


解読をする前に、ある程度予想をしておきたい。その方が候補を絞り込みやすい。

前述の通り、書かれている内容は、恐らく、「橋名」「橋名の読み」「河川名」のいずれかである。
ただ、既に川が地上に存在しないので、河川名を知る手がかりが無いうえに、4文字目は完全に脱落しているので、「川」か「橋」かそれ以外か判別出来ない。
また、1文字目は明らかに漢字に見えるが、この時代の銘板は、読み仮名であっても変体仮名が使われている可能性がある。前回の「昭和橋」が「志ようわはし」と書かれていたのは、その例だ。

結局、真面目に文字に向き合う以外に解読の術は無いらしく、皆さまのお知恵を拝借したわけであるが、ありがたいことに、ものの数時間で10を越す読み方の案が示された。

やはり目立っている1文字目が最大の焦点になったが、ここは「遅」「遍」「直」「魚」「恵」などの文字が候補になった。
次いで2文字目は、「以」「能(の)」「毘」「比」が有力な候補であった。
さらに3文字目は、左側の部分しか残っていないが、「は」なのだろうと私は考えた。
となると、4文字目は「し」であったとすれば、「●●はし」となり、変体仮名で「橋名の読み」を書いてあるのではないかというのが、さっき辿り着いた地点である。

で、辿り着いた地点は、それとは違う。

この銘板の読みは、高い確率で次の通りだと推測している。

「恵比須橋」

その根拠は、「恵」「比」「須(の左側)」と読むことが可能であるということはもちろんだが、何より――



こんなに周囲に「ゑ(え)びす」という文字があるんだぞ!! (さっき気付いた)

特に、すぐ近くの会津橋袂にある戎神社は、歴史の古いものらしく、
この周辺に住居表示には現れない「戎」という通称的地名を残したと見える。
こうなれば、戎の真っ直中にあるこの橋の名前も、同音の「恵比須橋」であったろうとなるのだ。

多少乱暴な論理ではあるが、この道しかない!




竣工年と橋名を解き明かしただけで、私は(苦労しただけに)一応満足してしまったのであるが、もちろんこの昭和10(1935)年架設の古橋に隠された歴史は、こんな表面的なものだけではないに違いない。
目立たない橋ではあるが、都会に生まれ都会と共に生きてきたこの橋を知る人は、地元には大勢いるはずである。
往時の姿を知る人も必ずいるであろうし、今のような姿になった経緯にも、何か深いワケがあるのかも知れない。
何とかこのレポートが地元の方の目に止まり、そうした情報が寄せられることに期待したいところである。

とまあ、他力本願なのはいつものことであるが、私に出来る一応の締めくくりとして、前回同様に新旧の航空写真で本橋周辺の変化をご覧頂こうと思う。
カラーの新しい写真は昭和51(1976)年のもの、白黒(水域を着色した)は昭和22(1947)年の撮影である。

案の定と言うべきであろうが、昭和22年の時点でははっきりと恵比須橋の下には川が存在していた。
もっともそれは、川というより、濠といった方がしっくり来る。
というのも、ここ田辺という街は、近世を通じ紀伊徳川家の家老安藤氏が治める城下町として栄えたところである。現在の会津橋から田辺大橋にかけての会津川河口左岸部には、広大な面積を有する田辺城があったそうだ。
この城は明治以降に取り壊され宅地化し、現在の上屋敷一帯となったらしい(現存する遺構は「水門」のみである)が、恵比須橋が架かっていた濠状の川は、外濠の北西角部だったのではないか。

そして、恵比須橋から少し北に行けば、紀伊徳川家の時代から橋が架けられていた旧会津橋(近世には田辺大橋と呼ばれた)のある「熊野古道」が通っているという立地。
恵比須橋は昭和10年以前から先代の橋が存在して、城下町と郭内を結ぶ重要な通路の一つであった可能性がある。

地元紙「紀伊民報」の記事「田辺城の絵図見つかる 田辺市教委「貴重な発見」」に掲載された、明治5(1872)年に陸軍省が制作した城絵図を見ると(記事へのリンク/画像のみ)、恵比須橋が架けられていた水域が確かに田辺城の外濠であった事が確認された。ただし、当時は(そしておそらく近世においても)橋は架けられていなかったようである。



既に地上に呑み込まれ、ほとんど見過ごされたような小橋であるが、
こうして親柱の位置をじっくりと眺めていると、存外に長い橋だと気付く。
全長20mくらいはあるだろう。たぶん単径間では無いはずだ。

果たして80年前、昭和10年の架設当初には、どんな佇まいだったのか。
会津橋が初めて永久橋化したのは、昭和30(1955)年と案外に遅い。
となれば、本橋は町内最初の永久橋として、大いに文明の勇姿を誇っていたのではないだろうか。



完結。



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