これ以上ないほどミニレポ向きの探索をしてきたので、軽く紹介しよう。
場所は滋賀県甲賀市の南部で、平成の大合併までは“たぬきの焼き物”で有名な信楽(しがらき)町に属していた、多羅尾(たらお)という山里である。
多羅尾は昔から国境の村で、四方を峠に囲まれている。南は伊賀国、南西は山城国に接し、いまはそれぞれ三重県と京都府だ。
歴史上、この村で起こった最も有名な出来事の舞台は、村の南東にある御斎(おとき・おとぎ)峠であろう。本能寺の変の2日後、当地を治めていた武家・多羅尾氏の護衛で、かの徳川家康が堺(大阪)から伊勢へ逃げ延びたことが伝わっている(神君伊賀越え)。
また、日本を代表する忍者の里である甲賀と伊賀を最短で結ぶ峠でもあり、表の街道にはない様々な歴史ロマンを秘めた土地とも見なされている。
さて、ロマンの話はそこそこに現実の道路世界の話をしよう。
現在、御斎峠を越える道は滋賀県と三重県がそれぞれ県道に認定している。路線名は、一般県道138号信楽上野線という。
三重県側には未だに県道の車道未開通区間があるが、代わりに舗装された林道がリレーし、両県間の抜け道の一つとして活用されている。
今回紹介するのは、そんな御斎峠の頂上から滋賀県側に約3km下った辺りにある、同県道の“怪しい区間”だ。
何が怪しいかと問われれば、地図上での描かれ方が怪しい。
右図はお馴染みの地理院地図であるが、県道の色で塗られている道が一箇所だけ、とても細い「軽車道」の記号で描かれている。地図中の「六呂川」から「茶屋出」までのおおよそ800mの短い区間である。
まあ、それだけならば特別珍しいことではないが、狭い区間のすぐ近くにそれを迂回する道(川沿いの道)があり、別の道路地図では路線バスもそちらを通るように描かれていたことが、興味を惹いた。
私の大好きな、うらぶれた、忘れられたような、そんな県道風景があるのではないかという予感がした。
さらに、国道や県道は相当レベルまでカバーしているグーグルストリートビューでさえも、この狭い区間には立ち入っていなかったことが、探索決行の決め手になった。
まあ、どう転んでもミニレポレベルだろう。かる〜く行きましょうネ!
2017/12/2 10:10 《現在地》
ここは六呂川という。名前からすると木地師の住まった土地だろうか。
御斎峠から3km下ったところにある多羅尾地区の中では一番奥にある集落で、旧信楽町の中心地から約10km離れているが、設置されている「六呂川住宅」のバス停を見ると、中心地まで1日6便があるようだ。これでも意外に多いと思ってしまうのは、もっと辺鄙な場所を沢山見てきたからだろう。しかし、国境の山村というわりに周りの峰は低く、長閑な感じを受けたことも事実だった。
今回探索しようとしている“怪しい区間”は、この六呂川から始まる。
私はすぐ近くまで車で来たのだが、いまはもうサドルに跨がっている。
六呂川を後にして信楽方面へ出発すると、すぐに葡萄色の派手なバスがセンターラインを跨ぎながら向ってきた。
いま話題に上げたばかりの路線バスの姿だった。
だが、ここで真に注目すべきものは、別にあった。
それを見逃さなかった自分の“探索眼”を、私は褒めてあげたいと思う。
皆様も、お気付きだろうか?
視界の隅。
電柱の裏からわずかに覗く、某スポ根漫画のお姉ちゃんを彷彿とさせる何モノかの姿を!
見えねー!
通行する車からは、基本的に見えない位置だ。
ガードレールを越えなければ、読むことは難しい。
そんな見捨てられたような看板に、いったい何が書かれているかといえば――
めっちゃ大切なこと書かれてた〜!
書かれている内容を見る限り、やはり県道は地理院地図に描かれている通り、このすぐ先を左折するルートであるようだ。
だが、そこにはわざわざ×印を4つも描いて、「通りぬけ不能」と注記してある。
だから、県道の進行方向である信楽市街方面へ行きたい人は、このまま分岐を直進し、500m先を左折しろという“とても大切な内容”だった。
こんな大切なことが書かれている看板が、実際の道路利用者からはほとんど見えない状態のままで放置されている。
これは大変なクレームものなのではないかと戦々恐々の思いで、その案内されている分岐へ行ってみれば……。
10:12 《現在地》
看板なんて要らなかったんや…(涙)
だって、こんな分岐、わざわざ左折の道に意識を向けるのなんて、道路マニアだけでしょう…。
なんの心配もせず、あなたはただここを直進すれば、ちゃんと目的地へ行くことができるのである。
いつの間にか県道138号から外れて、市道や別の県道に入ってしまっていても、気にする必要はない。
むしろ、一般の道路ユーザーには極力あの看板を見せないことで、管理者である県は、
「しょぼい県道がある」という汚点を知られずに済むメリットまで生んでしまっている。
こんな逃げ得を許してなるものか! 私がいま白日の下に晒してやる〜!(大袈裟)
左折地点には、他になんの看板も標識も警告もないし、特に塞がれていたりもしないので、誰でも入れる状態になっている。
そして実際に入ってみると、舗装はされているが、さっそく道が狭かった。
とはいえ、県道であることを無視すれば、どこにでもありそうな脇道の景色だ。
例えば車道外側線を敷くとか、県道として無理に体裁を整えようという足掻きすら感じられないのは、潔いともいえるし、やる気がないともいえた。
この県道はこれから、約800mで完結する小さな山越えをする。
だがその前に、これまで一緒にいた小さな川を渡る。
それは昔ながらの土橋を思わせる、欄干のない小さなコンクリート橋だった。
銘板もないので名前も竣工年も分からないが、年季は入っていそうだった。
やる気なし!
いきなりそう断じてしまえるくらいには、県道として、しょぼかった。
しょぼい。一応舗装されてるんだけど…、ボロすぎる。
でも、これがよくある不通県道(車道として通じていない県道)の入口ではなく、最後まで自動車で通り抜けできるとしたら、それは別の意味で貴重な県道風景だと思う。
今のところ轍があるし、特に塞がれてもいないので、廃道ではなさそうなのだ。
自動車も通れるけど、しょぼい。
そういう道には、たぶん一定の需要はある。 マニア的な……。
別に険しいということはない。
そこそこ広い谷の中に溜池が作られていて、その脇の山際を県道は通っている。
峠に向っているので上り坂ではあるが、急ではないし、激しく蛇行しているようなこともない。
路面は、舗装路としては認めたくないくらいに雑然としているが、未舗装ではない。手入れを忘れられた舗装路というのが正しいか。
そしてなぜか、真新しい轍が付いている。
舗装路のくせに轍の新しいことがなぜ分かるかといえば、舗装の幅が狭すぎて、しばしば土の上にタイヤ痕(轍)がはみ出しているからだ(苦笑)。
この県道にいまも託されている役目としては、前述した溜池へのアクセスのほかに、六呂川のライフラインである送電線の管理道としてのものがありそうだ。
沿道に「タラオ」のプレートが付いた小電柱が淡々と設置されていた。
また、道の山側に目を向けると(←チェンジ後の画像)、高さこそ大きくないがしっかりとした造りの石垣が続いていた。間知石の石垣である。
これは、本道の来歴がただの山道ではなく、県道に足るだけの歴史性を有しているのではないかという考えに傾く、最初のきっかけになった。
それにしても、道があんまり狭いと思ったので、メジャーで測ってみることに。
……
幅160cm?!
マジ狭かった!
軽自動車(全幅148cm)なら、約10cmの余裕があるが、普通車以上だと初めから脱輪前提の車が多そう。
幸い(?)舗装部分の両側には土の地面があるので、脱輪しながらでも走ることはできそうだし、そんな感じのタイヤ痕も沢山付いているわけだが、地形的にはもっと道を広げるのも簡単そうなのに、敢えて160cmしか道幅を与えないところに何らかの意思を感じる。
というか、これぞまさしく「軽車道」であった。地形図(地理院地図)の表記が全面的に正しい!
なんてことに一人、静かな興奮を覚えていると、早くも展開は山場を迎えようとしていた。
入口からわずか300mで、上り尽きるのである。
最後までこれと言って険しい場面があるわけでもなく、休耕田のような幅広の谷を平凡に上り詰めたところが、樹木の切れていることで遠目にもそれと分かる峠であった。
10:18 《現在地》
自転車でノロノロ登っても所要時間はたった6分。海抜490mは、六呂川の登り口から比高わずか20mという、ささやかな峠であった。
峠に名前があるのかどうかも定かでないが、滝川と六呂川の分水であり、これらの川を三角形の2辺とするとき、残りの1辺に相当する位置にある。そのため、この道を通ることで約500m、距離を短縮することができるのである(1300m→800m)。どうだ有り難かろう?
峠の頂上は切り通しになっていたが、北側法面がここまでで最大の石垣で固められているのが目を惹いた。
そのため切り通しは思いのほかに広い。現在舗装されている部分は本来の道幅の一部だけで、もとはもっと広い道だったのかもしれない。
峠を越えても、いままでとあまり印象の違わない景色があった。
同じように緩やかさで、同じような休耕田や溜池のある広めの谷を下って行く。
既に行く果てには、ゴールである茶屋出側の民家の一軒が見える。
ここに現代的な県道を大々的に作設するのに何の障害があろうかと思える地形だが、実際には古色蒼然たる軽車道だけが存在しているという、このギャップが少し面白い。
と同時に、道幅に対して妙に張り切っている気がする峠の石垣が、印象的だった。
石垣の造りがとても丁寧で手間がかかっている。野良仕事の延長という感じではない、プロっぽい石垣だ。水抜き用の塩ビパイプがないので相当に古いものだと思うが、それを感じさせない緻密さを維持していた。
この揺蕩(たゆた)う感じ…、悪くない……。
道全体から、古さというより“古み”と呼びたくなるような愛着を覚える。
ここに県道のヘキサの一つでもあれば、道路名所としてマニアの訪問が増えそうだが、そういうものはない。
しかし、こちら側もやはり狭隘である。
そのうえ、狭隘さをかなり奇妙な方法で克服しようとしている気配がある。
これは、ちょっとかばり見逃せないかもしれない! 注目すべきは、路面の模様。
すごいツギハギ感ッ!
もとはここも幅1.6mだけのアスファルト舗装路だったのだろうけど、脱輪した車が両側の側溝に嵌まるなど、いろいろな不具合があったのだろう。
見ての通り、こちら側の耕作地は峠近くまで現役なので、当然この道も農繁期にはよく利用されているはず。
そこで編み出されただろう拡幅の方法が、興味深い。
もとのアスファルト舗装を残したまま、その両側にいかにも日曜大工的なモルタル舗装部分が添加されている。
さらに片側の路肩(その外には素掘の側溝がある。他方の側溝はU字溝)は、補強する目的からか、土嚢(どのう)袋をセメントで固めたような物体が並べられている。遠目には大きな丸石を積み上げたように見えたが、そうではなかったのである。
寡聞にしてこの“土嚢袋をセメントで固めたような物体”の正式名称や作り方を知らないが、おそらく土嚢袋に固まる前のセメントを入れておいて、固まってから袋を取っ払うだけなのだろう。コンクリートブロック代わりの簡易アイテムといった感じで、これも日曜大工的だ。
(←)間近で見ると、確かに丸石ではあり得ない質感と形を持っている、セメント土嚢(仮称)。
土嚢袋が描き出した、官能的なしわまでもがくっきりと表面に刻まれていた。
(→)セメント土嚢(仮称)は何段か重ねられている場所もあった。
そして“日曜大工的土木”には欠かせない、固まる前の舗装に刻まれてしまった通行人の足跡が愛らしい。
ヌコの肉球痕が定番だが、ここは足跡ではなくタイヤ痕だった。通行が待ちきれなかったのかな?
このように、茶屋出側の道はいくらか拡幅されているものの、車での通行はオススメできない。
ところどころ、この写真のように拡幅が不十分なところがあって、デリニエータなどもないので、うっかり脱輪させるリスクが高いからだ。
こんな道で脱出できなくなって、恥をかいても知らないぞ。
しかも、峠のところが少し広い以外はほぼ退避スペースもないので、対向車が来たらお見合い必至。
10:23 《現在地》
峠から300m、ほぼ麓まで下りてきた。こちらの滝川沿いには、六呂川より多くの民家が建ち並んでいるのが見える。
この集落際の辺りも山側に立派な石垣が築かれていて、そこに不思議な凹みが設けられていた。
現状では特に何かに使われている様子はないが、道に面していることと、峠の入口であることから、牛馬の水飲み場だったのかもしれない。綺麗な場所である。
あ〜 いい!大好き♥
このヘロヘロの県道が、フラフラと古民家の軒下に吸い込まれていく感じが、たまらニャイ!
外見的には、まるでこれらの民家の私道のようであるが、れっきとした県道である(はず)。
道と外の高低差が全くなくて、その境も曖昧なのが味わい深いなぁ。
いつ舗装されたのか分からないけど、それから一度も修理されてないんだろうなぁ。
これだよこれ! こういうの大好き!
うっかり頭をぶつけそうな低めの軒が、道路のギリギリまでのし掛かっている。しかも立派な瓦の軒だ。
そして、そんな古風な日本的景色に突然割り込んできた、現代道路的な異物の存在感よ!
県道だから設置されているのか、単に民家の主が入手して設置しているのか分からないが、しばしば道路工事現場で目にするクッションドラム(黄色い円筒形の衝突緩衝具。中に水袋を入れて使う)が、道路と民家の異常接近に警戒の叫びを上げているように見えた。
県道はこの軒先的隘路を抜けると、再び“現代”へと帰って行く。
一連の狭路区間の最後に待ち受けていたのが、六呂川側の入口で見たものよりはいくらか立派な、滝川を渡る橋だった。
狭いのは相変わらずだが、転落防止の高欄は必要以上に頑丈そうだ。反対側にも設置してあげてよ…!
また、この高欄のあるおかげで、本橋には4枚の銘板が完備されていた。
「伊賀辻橋」「いがつじはし」「昭和45年8月竣工」「大戸川」と、それぞれ刻まれていた。
このうち特筆すべきは、伊賀辻というネーミングであろう。
ここは甲賀市であり、伊賀はここから御斎峠を越えた先である。
つまり、伊賀へ通じる道の辻(十字路)といった意味合いと思われる。
伊賀辻というのは橋名だけでなく、橋の前のバス停も同名だった。ここの字名なのか。
となると、私が今通ってきた道こそが、旧来の御斎峠越え…伊賀への道だった可能性が…。
10:25 《現在地》
峠越え、完遂!!
一般県道138号信楽上野線の約800mある狭路区間を無事に突破し、反対側へ脱出した。
出迎えてくれたのは、だいぶ目下な番号の一般県道334号多羅尾神山線。この先少しの間、これらの県道は重複している。
なお、仮に【六呂川の分岐】を直進すると、途中からこの県道334号に入って、ここへ連れてこられることになる。だが迂回区間内には県道334号のヘキサが全くない(厳密には一箇所あるのだが、なぜか【消えている】)ので、ドライバーは全く気付かぬうちに、もとの県道138号へ戻るという寸法だ。なかなか周到である(笑)。
というか、県道指定を迂回路側に変更してしまえば済む話なのだが、この手の指定変更は結構面倒だったりするのだろう。まあこのままで誰も困らないなら、それでいいのかな?
茶屋出側から振り返ると、伊賀“辻”というか典型的な追分(三差路)形状の分岐地点が鮮明だ。
しかし、付近に分岐を案内する青看などはないので、やはり六呂川側と同様、大半のドライバーには全く等閑視される存在だと思う。
敢えて500mばかり距離を短縮できるからと選ぶ人は少ないだろう。
あとはカーナビに騙されるパターンだが、一昔前ならばさておき、今のカーナビはこういう場面もちゃんと現実に即した案内をするようになったと聞く。
なお、こちら側には滋賀県が設置した「この先(幅員狭い)通り抜け不能」の看板が1枚だけ立っていて、ここが県道であることを隠していなかった。
六呂川側に較べるとフェアである(笑)。
とまあ、こんな感じで当初の予想通り、終始長閑な県道探索であったが、謎があるとすれば、このしょぼい峠道が県道になった経緯である。簡単に迂回できるもっと便利な良い道があるのに、なぜ隘路が県道指定を受けているのか。
当サイトの経験が長い人なら、とっくに予想が付いてしまっているかも知れないが…。
10:29 《現在地》
ここからは、今回の探索の机上調査に代わる内容だ。
ありがたいことに、家に籠もって何かを調べるまでもなく、この道の正体について語ってくれるものが、「伊賀辻」の交差点から県道を信楽方向にわずか200m進んだところにあったのである。
この写真の磨崖仏(自然の岩場に彫刻された仏像のこと)と、隣に立つ解説板がそれだ。
以下、解説板の内容だ。
信楽から多羅尾を経て御斎峠へ通じる道は、京街道と呼ばれる、古い歴史を持つ街道だったことが理解された。
10:32 《現在地》
磨崖仏からさらに250mほど信楽側へ進むと、そこに茶屋出バス停のある十字路があり、県道138号は右折(県道334号は左折)するのだが、ここに奇妙な交通安全カップル人形と一緒に、人の背丈ほどもある大層立派な道標石が存在する。
「左 伊賀伊勢道」「左 ●●●京道」などと書かれており、年号は読み取れなかったが、江戸時代以前のものではないかと思う。
この道標の位置や向きが昔と変わっていなければ、「伊勢伊賀道」は御斎峠方面、「京道」は信楽方面となり、いまの県道と一致する。
以上のようなことが、狭路区間の探索後ものの数分で判明したことであり、ここから推察されることを、あとは帰宅後に歴代地形図で“確認”するだけであった。
← 新しい (歴代地形図) → 古い | ||
@ 昭和45(1970)年 | A 昭和25(1950)年 | B 明治25(1892)年 |
右図は、昭和45(1970)年、昭和25(1950)年、明治25(1892)年の3世代の五万分の一の地形図で、図中の赤矢印の峠を越えるのが、今回紹介した狭路だ。
まず、昭和45(1970)年版であるが、なんとここには今回紹介した狭路区間が全く描かれていない。代わりに川沿いの迂回路が描かれている。
この原因だが、単純に五万分の一地形図に描くに足らない道だと判断されたのだろう。
だが、次の昭和25(1950)年の地形図を見ると、大きな変化がある。
今度は峠越えの道が太い二重線で描かれており、川沿いの迂回路はそれよりも細い表現になっている!
ただし、昭和45年版とは地形図の図式(凡例)が違っており、基本的に図中の道の太さは実際の道幅の大小ではなく、国道・府県道・町村道などの旧道路法における道路の格に対応している。
だからこの太く描かれている道は、府県道であったことを示している。
そしてこの府県道は、甲賀方面から来て茶屋出より六呂川を経由し、御斎峠から伊賀方面へと通じているのであり、この一連のルートは、現在の県道138号信楽上野線とほぼ一緒だ。(六呂川〜御斎峠間のルートが変わっている)
さらに時代を遡り、明治25(1892)年版に目を向けると、川沿いの迂回路は存在せず、昭和25年版の府県道と同じルートが、「達路」(里道の中でも特に重要な路線)の細い二重線で描かれていた。
まとめると、旧道路法の時代から既に県道138号の前身となる府県道は存在していて、それは明治以前からの古道(甲賀と伊賀を結び、京と伊勢を結んだ街道)に由来していたということが、これらの地形図から窺い知れるのである。(ちなみに、資料によると県道138号が県道に認定されたのは昭和33年で、これは他の多数の路線と共に滋賀県における現行道路法下で最初の一般県道だったようだ。旧道路法時代の府県道を引き継いだのだろう。)
そしてその古くからの道は、茶屋出と六呂川の間で小さな峠を越えていた。おそらくそこに川沿いの迂回路が整備されたのは、現代に入って自動車交通が盛んになってからだろう。徒歩交通が主力の時代には、平坦で迂回の大きな道よりも、少しばかり上り下りがあっても近い道がありがたがられたし、川道は災害にも弱かった。
つまり、今日では不自然にも思える“しょぼい峠道”が県道になっている理由は、こうした歴史的な経緯を引きずっているからであると思われる。
いちいち不思議ではあるのだが、道路世界ではよく見る光景なのだった。
…というわけだから、今回のこの道は、“天下人”となる直前の徳川家康が歩いたのかもしれないのだなぁ……。
完結。