ミニレポ第238回 滝の間海岸の謎の穴群

所在地 秋田県八峰町
探索日 2003.3.2
公開日 2018.6.6

13年ぶりに判明した、穴の正体!



突然だが、秋田県八峰町の滝の間海岸にある町道沿いに、こんな穴がある。

矢印などで強調しなくても、2つの穴ははっきり見えると思うが、それらの穴に挟まれた中央辺りにも、穴というほどではない凹みが見える。

この写真を撮影したのは、15年も前の平成15(2003)年3月2日のことである。
ぷらぷら自転車で走り回っている時に、たまたま路傍にあった穴を見つけたから、興味を覚えて撮影したのだった。
見るからに観光名所ではなかったし、当然、案内板などもなかった。




この写真は、向って左に見える穴の内部である。
入口に立って撮影したもので、奥行きはせいぜい3m程度しかない。
幅は2.5m、高さはそれより少し小さいくらいであった。

素掘りのため、天然洞窟に見えるかも知れないが、よく見ると内壁の方々に削岩機のロッドによる小口径の丸孔がいくつも空いており、人工的な穴と判断できた。そして、このあと同じように内部をチェックした右側の穴も、ほぼ同じようなものであった。


これは最初に入った穴の内部から、外を撮影した。
すぐ目の前を2車線の町道(当時は町村合併前で八森町の町道だった)が横切っており、その向こうはすぐさま海岸である。

このような立地から推測できる穴の正体は、いくつかあった。
まずは、天然海蝕洞説だが、削岩機による掘削跡が沢山あるので、この説は真っ先に否定された。
同様に、横穴住居遺跡説なんてものも、否定された。
有力だったのは、漁具や漁船を収納するために近隣の住民が掘った漁具倉庫説だ。実際そのように利用をされている穴を見知っているわけではなかったが、消去法的にもそれ以外は思いつかなかった。(当時の私には思いつかなかったが、今だったら、海に面した穴群を見たら大戦中の軍事遺構説も疑ったことだろう)

ここは特別人通りの少ない場所ではないが、このときは周囲に誰もおらず、穴の正体を人に聞くことは出来なかった。
とはいっても、秋田では少しばかり珍しかったものの、もし先に房総辺りを知っていたら歯牙にも掛けなかっただろう小穴群であり、結局は私の中でも正体が確定しないまま月日が流れていったのだった。あそこに正体不明の穴があったなぁという、薄らかな記憶だけを残して……。




事態が私の中で大きく動いたのは、それから13年も経った平成28(2016)年3月14日のことだった。
キーマンは、我が盟友ミリンダ細田氏。
彼が送ってきた1枚の新聞記事が、あの穴の正体に全く思いがけない答えをもたらしたのだった。



『秋田魁新報』平成28年3月13日朝刊20面より転載

彼が、「興味深い記事だス」というコメントと一緒に送ってきた新聞の切り抜きは、秋田の地元紙『魁新報』に掲載された「ふるさと小紀行」という連載記事だった。(→)
その目立つ黒抜きの見出しには、こう書いてあったのである。

“青函トンネル試掘跡”

青函トンネルだと?! 秋田県だぞここ!

一瞬混乱したが、掲載されている写真は、明らかに私が13年前に見た滝の間海岸の穴群だったし、読み間違えなどではないようだ。

こうして新聞に掲載されている以上、どうやら本当にあの穴は青函トンネルの試掘跡だったらしい。
記事本文ももちろん読んでみた。
まずは冒頭の辺りを書き出してみよう。

 青函トンネルを通る北海道新幹線が、今月26日に開業する。1988年に開通した全長約54`と世界最長の海底トンネルの建設は、土木技術の粋が結集された「世紀の大事業」だった。その一端を担った場所が、八峰町八森の滝の間海岸にある。津軽海峡の海底を想定した試掘跡である。
 海岸沿いの町道を通り「八森いさりび温泉ハタハタ館」の裏手に差し掛かると、崖に二つの穴が開いているのが見える。「トンネル掘削機の試運転で掘られたといわれている」。八峰町白神ガイドの会会長辻正英さん(62)はこう説明する。


(←)秋田県八峰町などと言われても、どこだか分からない人が多いだろうから、簡単な地図を用意した。
秋田県八峰町は、秋田県内の日本海岸最北部にあり、青森県深浦町に接している。
試掘跡の穴がある滝の間海岸は、八峰町のやや北寄りにある2kmほどの海岸線であり、青函トンネルとは直線距離でも100kmくらい離れている。ひとことで言って、両者の間に全く関係はなさそうな土地である。

さて、個人的にはここまででも十分すぎる驚きがあったが、記事はまだ続いている。
なんと、試掘されたのは地上の穴だけではなかったというのである。

 崖のすぐ近く、町道を挟んだ向いの海岸で実際に海底トンネルが掘られた。試掘後、すぐに埋め戻されたため当時の面影はない。

海底トンネルが、掘られていた?! マジかよ!!



右図は滝の間海岸周辺の地理院地図だ。

試掘跡がある現場は、記事にもある通り、「ハタハタ館」という観光施設の裏手の海岸で、町道が通じている。(この町道は旧国道ではない)
JR五能線の八森駅がある旧八森町の中心地からは約3km、最寄りの滝の間集落からは約500mの位置だ。
地図上でも海岸線に鋸歯状の凹凸が見て取れるが、一帯は白神山地が日本海に削られて出来た荒々しい磯であり、風光明媚で知られている。
こんな場所に、海底トンネルが掘られていたとは…!

前述の記事には、試掘された海底トンネルの規模も書かれているが、これについては別にもっと詳しい記事を入手しているので、後ほどそれを引用しながら紹介しよう。

記事の後半には、実際に試掘の工事を目撃していた地元の人々の証言が掲載されている。以下の部分を読む限り、地元ではそれなりに知られている事実だったようだ。

 「大工事というほど多くの人が関わっているようではなかった。それでも、町として青函トンネル建設という大事業に協力できたことは誇りだった」。当時の旧八森町職員で、後に町長を務めた後藤茂司さん(86)は振り返る。現場の一部は後藤さんの所有地だった。
 辻さん方も所有する畑地を提供していた。「やぐらや作業小屋が建てられていた。埋め戻しを含めて、3、4年ぐらいは事業が行われていたと思う」と辻さん。
 周辺に当時のことを伝える案内はない。立て坑のあった場所は、町道や護岸の整備で確認できなくなったという。



この試掘工事は、いつ頃に行われていたのだろうか。
前述の記事の省略した部分に、「秋田魁新報の1960年10月14日付夕刊は「津軽海峡海底トンネルの模型━八森町滝の間に」の見出しで報じた」と書かれていたので、秋田県立図書館にマイクロフィルムとして保管されているバックナンバーを捜索したところ……


『秋田魁新報』昭和35年10月13日夕刊より転載

なぜか書かれていた日付とは1日違いの昭和35(1960)年10月13日号の夕刊に、その記事はあった!(→)
いずれにせよ、トンネルの試掘が行われたのは、青函トンネル開通の28年前にあたる、昭和35(1960)年のことであったらしい。

“津軽海峡海底トンネルの模型 八森町滝の間に
似ている地質条件 秋大も一役 学術的なメス

以上の見出しが躍る記事の内容を、いくつか書き出してみよう。
まずは冒頭の前文だ。

青森、北海道を結ぶ海底トンネルの構造研究のため、青森鉄道管理局特殊技術課では、北海道大学、秋田大学などの協力で、山本郡八森町滝の間に海底トンネルの模型を作り、地下浸水度や圧力、地質などを研究することになった。海底トンネルで、このような大がかりな研究をするのはわが国でもはじめてとのこと。十二日午後三時からは現地で、関係者だけが集まり起工式を行った。

わが国初の海底トンネルでの大掛かりな研究だった?! 実は凄い場所だったのか、滝の間海岸!
続いて本文から、海底トンネルの規模について。

海底にトンネルを掘る作業は鹿島建設。工費は明年三月まで三千万円といわれ、六千万円ともいわれている。海岸に幅二メートル、長さ三メートルの立て坑を約二十メートル掘り下げ、そこから海底に約二十メートルのトンネルを造るというもの。

上記より想像された試掘海底トンネルの姿は、右図のようなものである。
海岸の陸地に深さ20mの立て坑を掘り、そこから奥行き20mの横坑を海底に向けて掘ったらしい。

立て坑と横坑を合わせて40mからの穴であり、地上にある試掘跡(奥行き3m程度のものが複数)と較べれば、相当に巨大だ。
地上の穴群は、先に紹介した記事にあったとおり、あくまでも「トンネル掘削機の試運転で掘られた」もので、メインはこの海底トンネルであったのだろう。

記事の中では「海底トンネルの模型」ともあるが、全長50kmを越える世界最大(だった)海底トンネルにとってみれば、これでも“模型”といえるサイズ感だったのだろう。スケールが違う。

記事は続いて、この海底トンネル試掘の狙いや、ここが選ばれた理由を述べている。

このトンネルにはセメントを塗り、おもに浸水状況を研究するほか、地質、圧力、トンネルに発生するガスなどの研究もするという。
これには、秋田大学鉱山学部、北海道大学などが協力し、学術的な面からメスを入れることになっている。
同海岸が選ばれた理由は、海底の地質が津軽海峡のトンネル予定地に似ていること、駅があって、交通も比較的便利であること、住民が協力的であることなどがあげられている。


八峰町の海岸風景(左)と、津軽海峡に面する龍飛崎付近の海岸風景(右)。似ている?

私には地質の専門知識が全くないのでコメントが難しいが、産業技術総合研究所地質調査総合センターが公開している日本シームレス地質図で、滝の間海岸辺りと津軽海峡辺りを比較してみると、確かに同系統の色で塗られているので似ているのか。

また現地の風景的にも、北東北の火成岩からなる岩礁海岸という点で、龍飛崎あたりと八峰町の海岸が似ている印象は確かにある。ともに観光地だしね。

記事は最後に、実際の工事の模様の紹介と、工事にあたる鹿島建設の関係者のインタビューを掲載している。

現地の作業は九月からはじめられ、この間、海岸までの道路が完成、機材がはこばれている。組み立て式住宅も造られているが、土地の人たちはもちろん町当局でも詳しい事情についてはわかっていない。
▽鹿島建設八森作業所長守井敏雄氏の話=私からトンネルの件については何も申しあげられない。やれといわれた仕事だけについてやっているだけです。

いかにも昔の土木マンらしく寡黙そうな現場所長のコメントや、土地の人も町当局もよく分かっていない工事がまかり通っていた“お国の工事”らしい大らかさに時代を感じるが、道路趣味者的には地味に見逃せないのが、この工事が現在ある町道の先駆けになっていた可能性だ。

先ほど引用した部分に、駅があって交通が比較的便利という記述があったが、この工事が昭和35年であったならば、駅というのは現在の最寄り駅である「あきた白神駅」(平成9年開業)でも、次に近い「滝ノ間駅」(昭和38年開業)でもないはず。おそらく「八森駅」のことだろう。八森駅までは現在ある海岸沿いの町道を通ると約3.5kmであり、これが最短ルートとなる。

昭和45年と50年の航空写真を比較すると、海岸沿いの町道はこの間に生まれたように見えるのだが、さらに10年以上昔に現場(赤丸の場所)へ通じる何らかの道(重量物などを運搬できるそれなりの道路だったろう)が作られていたということになる。…それがどのようなルートであったかは、はっきりしないが…。
(個人的に一番怪しいと思っているのが、矢印の位置にある道だ。国道との間を最短距離で結んでおり、昭和45年の航空写真にも海岸道路に先駆けて存在しているように見える)

なお、海底トンネルは「試掘後、すぐに埋め戻され」「町道や護岸の整備で確認できなくなった」と先の記事にあるので、町道や護岸が整備される以前の昭和45年の航空写真に何か痕跡がないかを探してみたものの、解像度が高くないこともあり、特にそれらしいものは発見できなかった。



『秋田魁新報』昭和35年10月13日夕刊より転載

『秋田魁新報』昭和35年10月13日夕刊より転載

記事には右の2枚の写真が掲載されていた。
1枚目には「起工式=手前の海底にトンネルができる。」、2枚目には「トンネルを掘るためのボーリング」というキャプションがある。

1枚目の写真は祝詞を捧げる神主を多くの関係者が見つめている、起工式のお馴染みの風景である。小舟のようなものも写っている。
2枚目の写真は、なんとも時代を感じさせる、同時代の油田櫓のようなボーリングマシンの姿である。



以上、平成28年と昭和35年の魁新報に掲載された2本の記事を見てきたが、青函トンネルの建設に先駆け、100kmも離れた秋田県の海岸で試掘が行われたていたという事実には、改めて驚きを感じる。総延長40mにもおよぶ海底トンネルが試掘されていたとは…。私が目にした地上の穴群は、氷山の一角だったのだ。

しかし、地元では誇らしさと一緒にいまも記憶している人がいるこの事実だが、国家百年の計を地で行く青函トンネルという巨大プロジェクトの中における位置付けは、マイナーでしかなかったようだ。
地元紙のほかにこの試掘工事について触れた資料がないかを探してみたのだが、ひとつも発見できなかった。
青函トンネル建設そのものについては膨大といってよい数の資料があり、私が読んだのは一般に刊行されているものを中心にその一部でしかないだろうが、「八森町滝の間海岸」の名前が出てくるものには遂に出会えなかったのである。

長い青函トンネルの歴史において、滝の間海岸の試掘トンネルは、建設前史に属する存在である。
ここでいう建設前史とは、様々な準備を経て、青函トンネルの本工事が始まるまでの段階だ。
青函トンネル建設の背景や内情について詳しい『青函トンネル物語』(昭和63年刊行・非売品)の記述をもとに、建設前史を概観してみたい。

青函トンネルの建設前史は、おそらく大正12(1923)年の『大函館論』という書物の中で必要性を熱く語られてたときに始まる。
日本初の海底トンネルである関門隧道(山陽本線)が貫通した昭和14(1939)年に、鉄道省盛岡建設事務所が下北半島の大畑大間間の建設線地質調査に付随して、津軽海峡東口の調査を大臣官房技術研究所に依頼した記録が残っている。しかし戦争のため調査は完成しなかった。
昭和21(1946)年には運輸省鉄道総局にて「津軽海峡連絡隧道調査法打合せ会議」が開催され、この時点で津軽海峡西口がトンネルの本命ルートになっていた。以後本格的な調査がスタートし、昭和22年に本州と北海道の陸上で、23年には海底でも地質調査がおこなわれた結果、トンネルは技術的に実現可能だという見通しが立った。だが、翌24年に連合軍の指令により独立採算制を取り入れた日本国有鉄道が運輸省から分離独立したことで、鉄道連絡船がある津軽海峡トンネルは緊急性が低いと見なされて調査は中止された。昭和26年に日本はふたたび独立国となり、この島国を立派に復興させるには四つの大きな島を鉄道で結ぶことが必要だとする機運が高まった。昭和28年に「青森県三厩付近より渡島国福島に至る鉄道」が予定線として鉄道敷設法に追加された。この年に地質調査も再開されている。翌29年9月に日本列島を縦断した台風15号が洞爺丸台風と呼ばれた原因である青函航路上での大惨事(1430余名が死亡)は、津軽海峡にトンネルを求める国民の声を加速させた。そして昭和30年に「日本国有鉄道津軽海峡連絡ずい道技術調査委員会」が設置され、さらに本格的な地質調査に加えて、様々な工法を検討研究する技術調査が本格化した。
八森町滝の間海岸での試掘は、この時期の出来事であった。

海底部には少なくとも10本以上の断層の存在が確認され、且つ、可成りの割れ目の多い火山岩も存在することが明らかになった。このため施工面での研究として、注入止水試験を実施した。この試験は、昭和33年から4ヶ年にわたって、海底で遭遇すると思われる各種の地質に類似した陸上を選び、地表からのボーリング孔を使用して注入工法の試験を行った。しかし、この方法と高水圧の海底湧水の状態は求むべくもなく単なる注入試験に過ぎなかった。又北海道2ヶ所、本州2ヶ所でも、注入材料、注入法の試験を実施した。
『青函トンネル物語』より転載

おそらく、ここに述べられている割れ目の多い火山岩で安全に海底トンネルを掘削するための技術的研究が、似た地質にあった滝の間海岸でのタスクだったのだろう。昭和33年から4ヶ年というのは、時期的にも概ね合致する。

こうした研究が進むなか、昭和36(1961)年5月に開催された第31回鉄道建設審議会にて、調査線への格上げが決定する。
昭和38年から北海道と青森の現場で調査の最終段階となる試掘坑の工事がはじめられた。国鉄の新線建設を担当する日本鉄道建設公団が昭和39年に設立されると、工事は同公団に引き継がれた。この年には試掘坑の工事が終わり、全長10km近い調査坑の建設が始められた。海底に長く伸びる調査坑が完成した翌年の昭和46(1971)年、運輸大臣はいよいよ工事線への格上げを指示した。ここに青函トンネルの本工事着工が決定した。
ここまでが建設前史。実際の開業は、昭和63(1988)年まで、さらに一時代を要する。




ミリンダァー最高ォォォ!!!

突然のシャウトであるが、ミリンダ細田氏の本件に関する2度目の手柄は、彼が秋田支部長を務めていた(私も支部会員)鉄道友の会の会報誌「レイルファン」のバックナンバーに、関係ある記述を発見し、送ってきてくれたことである。
私だっていろいろな資料にあたって見つけられなかったというのに、ミリンダ凄い!美味すぎる!



『レイルファン』(号数不明…昭和36年頃か)より転載

“青函海底トンネル“実験用トンネル”試掘さる”

そんな見出しで始まる記事は、前掲した魁の記事から約2ヶ月後の昭和35年12月17日の期日が記された大脇幸安氏(後の秋田支部発足後に支部長になった人物)による報告である。
前掲した新聞記事と重なる内容も多いが、より詳細な部分もあるので、以下に全文を掲載する。

 国鉄の青函海底隧道建設工事は、数年らい現地で測量調査を実施しているが、こんど秋田県山本郡八森町滝ノ間海岸(五能線八森、岩館間)で青函海底隧道工事のためのセメント注入試験と、海水の浸入、水圧などの実験をすることになった。この実験は国鉄盛岡工事局が工費6千万円を投じ北大、秋大(鉱山学部)などの応援を得て滝ノ間海岸に実験用海底隧道をくっさくして行われるもので、さる10月10日から隧道のくっさく工事に着手している。
 セメント注入試験は海底隧道全断面注入試験と呼ばれ、地盤に数ヵ所あなをあけ、一気にコンクリートを注入して隧道をつくる方法でタテ坑は外径3.5m、厚さ30m(cmか?)の円筒形にコンクリートを流しこみ、タテ20mのところからさらに横へL型に20m注入して内径2.9mの隧道をつくることになっている。12月17日現在ではタテ坑の注入が地下16mまで順調に終り近く完成する運びになった。来年1月早々に横坑の完成をまって、海水の浸入、水圧などの状況を調査するのだが、滝ノ間海岸は津軽海峡と同じ安山岩であることから試験地に選ばれたもの。
 現地には鹿島建設の作業員と国鉄盛岡工事局の職員その他約50名で実験隧道建設工事を急いでいる。
 工事事務所の前に秋北バス岩館線(能代→岩館間)の臨時停留所ができている。    (35.12.17)(秋田・大脇幸安)
『レイルファン』より転載

『青函トンネル物語』より転載

海底隧道全断面注入試験というのが、ここで行われていた試掘の名目であったようだ。

記事を読む限りこの工法は、まずトンネルの外壁となる予定の位置に多数の小孔を穿ってセメントコンクリートを注入して固化させ、その後固化した部分に囲まれた地山を一気に掘削することで、出来上がったトンネルを地中から発掘するようなイメージか。一般的なコンクリートでの覆工とは違い、えらくゴツゴツとした内壁になりそうな、大胆な工法である。

せっかく作った海底試掘トンネルは、試験の終了とともに(おそらく3〜4年)で埋め戻されて跡形もなくなってしまったようだが、こうして培われた注入工法は実際の青函トンネルの建設でも大いに活躍した。長くなるので引用はしないが、『青函トンネル物語』にはそうした事例が数十ページ分も豊富に出てくる。
同書から転載した右の写真やキャプションから、雰囲気だけでも感じ取って欲しい。これらは青函トンネルの現場写真だが、滝の間の海底トンネルもこれと似たような風景だったのではないかと思う。

記事には、工事事務所へのアクセスについても書かれており、バスの臨時停留所が設けられているとある。バスが通っていたのは海岸段丘上を走る国道だから、海岸へのアクセス道はやはり、【この矢印の道】であったようだ。

以上が、これまでに判明している資料調査の成果である。
研究に協力したという北海道大学や秋田大学にも何か記録が残っている可能性があるが、そちらは未調査だ。だが大体のことは分かったと思う。
海底試掘トンネルが、痕跡すら残っていないとされていることだけは心残りだが、それは仕方のないことである。





2018/6/3 15:42 《現在地》

失われたとされる海底試掘トンネルの痕跡発見に一縷の望みをかけつつ、15年ぶりの試掘跡穴群の現状確認のため、平成30(2018)年6月3日、ミリンダ細田氏を誘って現地を再訪してきた。
最新の現地風景を見ていただくとしよう。

(→)前回ここを訪れてから15年も経過していたが、場所はすぐに分かった。
ちゃんと陸上の穴は残っていた。
しかし、時期的な違いからくる緑の濃さ以外にも、変化が生じていた。
穴の前の土地は、前は空き地であったが、今回はイチジクの木が沢山植えられていて、イチジク畑になっていたのである。
そのため、穴の見えにくさも、穴へ近づくためのハードルも、以前よりも少しだけ上がっていた。




近づいてみた穴の様子は、特に変化していないようだった。
15年前も既に入口は半分くらい埋もれていたので、そこに草が生えているこの時期は閉塞しかけているように見えるが、まだまだ余裕がある。
この間、大きな地震もあったが、ちゃんと残ってくれていた。

しかし、かといって整備も全くされていないようだ。
北海道新幹線の開業など、青函トンネルの話題性は15年前よりは高まっていると思うが、この間に八森町から八峰町となった町当局は、世界遺産白神山地の辺縁にあるこの穴を、土木遺産としてことさら宣伝するつもりはないようである。




内部にも変化は特に見られなかった。
見返りで海を見た風景も、見覚えのあるものだ。

だが、ここから先は、15年前の私ではないところを見せようと思う。
ちょっとだけはね、見る目が、進化したんだよ。




狭い洞内に、こんな岩の欠片が落ちていた。
15年前もあったのかは分からない。記憶にはなく、この間に落石した可能性もある。
いずれにせよ、以前の私がこれを見たとしても、正体を解き明かす目は持っていなかっただろう。

この岩の欠片には、削岩機で穿たれた丸い小孔の断面が露出していた。
それだけなら、削岩機で削られた岩の欠片で終わるだろうが、小孔の大部分に、孔の断面にぴたりとハマるような石質のものが、充填されていたのである。

この奇妙な造形は、ようするに、セメント状のものを小孔に注入した痕なのだ。
この地上の穴群は掘削機の試運転で掘られたと伝えられているのであり、海底トンネルで必要となる注入操作も、ここでテストされたのだろう。
こればかりは、机上調査後でなければ理解ができなかったはず。


そういう目で改めて見ると、ゴツゴツした穴の壁面は、削岩機の丸い削り痕で満ちていた。
きっと岩が硬質なのだろう。
風雨をさほど防げない浅い位置で、半世紀以上も経っているにも関わらず、なお壁面は新鮮な岩盤の質感を持っていた。
翻って、青函トンネルも相当に強固なトンネルなんだと安心できる。


(←)
続いて、すぐ隣接する場所にあるもう一つの穴へ向ったが、こちらはやや奥まっているため、町道からはほとんど見えない状況に陥っていた。
チェンジ後の画像に穴が写っているのだが、見つけられるだろうか?


(→)
外見的にはいかにも末期的な二つ目の穴も、ほとんどは植物原因の変化であり、内部の様子には目立った変化はなかった。

また、15年前にどうだったかは覚えていないが、こちらの穴には4、5匹のコウモリが暮らしていた。
彼らが大量に生息できそうな廃トンネルは近くになく、ささやかな住居である。
青函トンネルという人類の偉業を、人類代表として彼らに教えてやりたい気持ちになった。ありがたく住めよ。


地上の穴の再確認は、以上で終了。
続いて、15年前には想像の外で疑いもしなかった、海底トンネルの痕跡探しである。
その正確な場所は分かっていないが、地上の穴から町道を挟んだ向いの海岸ということらしいから、町道の路肩から見てみると…。



う〜ん。

やはり、何も残ってないようだ。

地上に痕跡があるとしたら、立て坑の開口部である。
最小でも2m×3mほどの大きさの開口部があったはずで、ただ埋め戻しただけなら、周囲と違う不自然さが残っても不思議ではないのだが、そういうあからさまな場所はない。
この後、海岸線に降りて、目の届く海中まで目をこらして探したが、駄目だった。
やはり、新聞記事にもあったとおり、町道や護岸の工事で、その下敷きになってしまった可能性が高いのか。

ただ、奇妙なものはあった。
小さな橋脚のような形をした、倒れた円筒状のコンクリート塊だ。
サイズは1m×1m×2mの空間に収まる程度のものであるが、この場においては確かに異物である。
これについては、最後まで正体不明である。まあ、海底トンネルとの関連性を疑えるような形状でもないが…。



地上の穴の前に、お誂え向きといった感じで広がっている、小さな入り江。

この穏やかな海の底のさらに地の底に、永遠に誰に見られることもないトンネルの跡が、眠っているのだろうか。

“土木立国”日本を支えた技術者達の熱は、ここで磨かれ、今を生きる遙かな海峡のトンネルに、宿り続けている。



海底トンネルを宝蔵している可能性が高い、入り江を見下ろす町道と護岸。

そこに立って放った細田氏の名言を最後に。

「青函トンネルの最南端は、青森ではなく、秋田であった。 細田喜仁



完結。


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