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ミニレポート第288回 新潟県道5号新潟新津線 亀田跨線橋 後編

所在地 新潟県新潟市江南区
探索日 2024.03.23
公開日 2025.02.28

 続・隙間があったら潜り込むのが、“ワルぬこ”流オブロード術!


橋頭南東角の隙間から、旧橋へ潜り込みに成功。
現橋に頭上を掌握された旧橋空間へ、第一歩を記した。

高度に人目を避けうるうえ、都会にも近いこの場所に、何か得体の知れないもの(ぶっちゃけ事件性のあるものとか…)が遺棄されていないか少し恐かったが、一望した限りはもぬけの殻で、安心した。
安心して、床下活動を続行しよう。



遠目に観察するのは簡単だが、間近に見るのは面倒な現橋を極限の至近距離から観察する。
普通の橋であれば、点検用足場を架設するなりドローンでの空撮するなりしなければ観察が難しい部分、歩いて観察できるのは、「橋オンザ橋」の特典である。
そして既に述べた通り、現:亀田跨線橋は明らかに本設構造物ではない仮設構造物の外観的特徴を持っている。
旧橋に突発的な不具合が生じ、築堤や橋台など再利用できる部分を最大限活用しながら大急ぎで橋としての機能を復旧させるため仮設されたのが、この橋なのだろう。

仮設という言葉の通り、基本的には一時的利用を念頭に置いた構造物であるから、全体に安普請というか、例えば鉄骨の切断面が剥き出しであることなど見栄えにはあまり意を払っていないが、かといって橋としての強度や安全性に妥協は許されない。ましてやここは大型車を含めた一般の車両が毎日何千台も通行する主要地方道の橋なのである。
こうして近づいて見なければ分からないことだったが、本仮設橋には振動を抑制し、地震動による落橋を制御するオイルダンパーが完備されていた。仮設橋といっても侮れない。

一方、旧橋についての観察も同時進行で進めていく。というか、私はこちらがメインの観察対象だ。
真っ正面に旧橋の親柱の1本が見えており、そこに銘板が取り付けられているのも、ギリギリ見える。
まずはあの銘板からチェックだ。



旧橋の南西寄り親柱に取り付けられた銘板は金属製のもので、「かめだこせんきよう」の文字が刻まれていた。
今のところ竣功年は不明だが、廃止されているくらいだから新しいものではないと思っていた。
その予想を、古風な銘板は後押ししてくれている。「きょう」じゃなく「きよう」なのがまたね。
残りの親柱の銘板も確かめられれば、たぶん竣功年を自白してくれるはずだ。



南西親柱前から、旧橋空間の全容を臨む。
強烈な斜橋であることが、親柱の位置や、路面を斜めに走るジョイントラインの角度から、よく分かると思う。
次は、右手前の親柱(南東の親柱)へ向かうぞ。

なお、この写真は膝立ちの姿勢でカメラを構えて撮影した。
頭上にある現橋の7本の桁にあたる部分は立ち上がれない高さで、桁と桁の間は天井が高い。
全体に屈んだ姿勢であれば歩き回れるので、窮屈さとしてはそこまで辛くはない。

辛いことがあるとしたら、ときおり予告も前触れもなく、全く愛情の感じられない勢いで、頭の傍にある鉄板をスレッジハンマーで叩かれることだ。
ハンドルを握る一人一人に、橋の下に誰かが潜んでいる“かも知れない”という意識を持って、優しい運転をして貰うことは社会通念上無理なので、変なところに入り込んでいるワルぬこの耳が壊れる前に、探索を完結させなければなるまい。



毎度おなじみ、全天球画像である。
橋の前後の築堤が、完全に現道の仮設物の設置場所となっていて旧道当時の路面を失っていたのに対し、橋の上には旧道の路面が、“何かがあって廃止されたその日のまま”放置されている様子だ。

路面を見る限り、傾いているとか、ひび割れているとか、そこまで分かりやすい橋の故障は見られないが、封鎖されている原因がこの橋にないというのは考えがたい現状だ。それでも信越本線を跨いで架かっているくらいだから、自重さえ支えられず崩壊するような末期的状態ではないのだろう。私が歩いた振動で落ちることもないはずだ(苦笑)。



「昭和三十七年四月竣功」

さっそく自白しましたよ、竣功年。
昭和37(1962)年竣功といえば、60年以上も昔の橋ということになる。
仮設橋による復旧を要するようなトラブルが、老朽化を原因に発生しても不思議はない橋齢だろう。

なお、橋が跨ぐ信越本線のこの区間(亀田駅〜新津駅)の複線化は、昭和35(1960)年3月10日と時期が近い。跨線橋の新設は、これを念頭に置いた工事だったかもしれない。
また、橋が完成して間もない昭和39(1964)年6月16日にはマグニチュード7.5の新潟地震が発生しており、新潟平野一帯に大きな被害を及ぼしたことが知られるが、本橋はそれに耐えたようである。

チェンジ後の画像は、親柱の位置から外へ顔を出して撮影した信越本線の亀田駅・新潟駅方面。
こうして見ると、現橋はほんの数十センチだが、旧橋よりも幅が狭いことが分かる。



たまたま列車が通ったので撮影。
この中だけだと普通に跨線橋から撮影した写真にしか見えないが、現橋から撮った場合は、もう3〜4mは高い視座からになるだろう。だから何と言われれば、なんでもないです。



橋の上で屈伸運動。
しゃがんだ姿勢で撮ると最初の画像。
立った姿勢で撮るとチェンジ後の画像となる。

こうして間近で見るとよく分かるが、そんなに古くもないはずの現橋の表面にも随分とさびが出て、塗装が剥がれ始めている。
これは積雪の多い地方の共通の悩みだが、毎年路上に大量に散布する融雪剤に含まれる塩分が、道路の部材である金属を腐食してしまうのである。
塩分を含まない融雪剤の開発も進められているものの、価格の高さや融雪能力の問題で、十分に置き換えられているとはいえない現状のようだ。

さて続いては、北西の親柱の銘板だ。



渡り終えて最初に辿り着いた北岸左の親柱に取り付けられた銘板には、「主要地方道新津新潟線」と、刻まれていた。
新潟県の道路における最大の地域色といえるものが、橋の銘板セットに路線名が含まれることだろう。特に県道や国道においては、よほど古いもの以外ではほぼ完備している。この路線が昭和37年の架橋当時、主要地方道新津新潟線であったことが分かる銘板である。

……で終われれば良かったが、これ、銘板が間違っているんだろうな。
探索後の机上調査として路線名の変遷についても軽く調べたが、現在ある県道新潟新津・・・・は、昭和29(1954)年に現行道路法下で最初に認定された新潟県道の一つであり、途中で名前が変化して新津新潟線になったことはない。

銘板の間違いに気づいたから恥ずかしくなって急遽橋を封鎖した……ワケはないが、銘板の間違いというのは珍しい。
が、新潟・新津と新津・新潟は紛らわしいので同情はする。そしてさらに余談だが、新潟市の近くには新発田という地名もあり、新潟と新発田を結ぶ国道7号の一部を「新新バイパス」という。新潟と新津を結ぶこの県道とは異なるところにそれがある。紛らわしい。



……まあ、現場の私はこの路線名の「間違い」には気づかず流し、いよいよ最後の四隅である北東の親柱へ!

そこには親柱の銘板だけでなく、鋼橋大好っ子ならみんな大好きな製造銘板も残っていた。



橋名は順当に「亀田跨線橋」。これは最新の道路地図にも記載されているネーミング。

続いて製造銘板によって、この橋桁が当時の国鉄によって建造されたものであったことが判明した。
正直いままで、鉄道を道路が跨ぐ跨線橋を、鉄道事業者と道路管理者のどちら建設するのが普通であるかを深く考えたことがなかったが、少し調べてみたところ、これはケースバイケースで、どちらが事業を行うこともあるらしい。ただ一般的には、道路の新設や改良など道路側の事由が主な場合は道路管理者が、鉄道の新設や電化、複線化など、鉄道側の事由が主である場合は鉄道事業者側が行うことが多いそうだ。

この橋は国鉄が建造しているということで、その背景としてはやはり鉄道の複線化があったのではないかと推測できる。
ちなみに桁の製造者は「浦賀船渠株式会社」とあり、同社はこれを建造した年に社名を浦賀重工業へ変えていることが分かった。もしかしたら旧社名を使った最後の橋かもしれない。あまり見ない製造者名だなと思って調べてみたが、とんでもなく有名で歴史深い橋を作っていて衝撃を受けた。



これで橋の上を一通り探索出来たと思うので、離脱前にもう一度、今度は北岸側から振り返って撮影した。

頭の上にはひっきりなしに車が通る県道があり、足元には数分間隔で列車行き交う鉄道がある、その間隙に、取り残されたように昭和30(1955)年代の跨線橋が、そっくりそのままの姿で架かっている本橋は、珍しい「橋オンザ橋」の中でも特に隣接する交通量とのギャップが大きい、ギャップ萌えに特化した逸品であった。

橋の北西側角から這い出して、築堤上へ。



8:30 《現在地》

さらにそこから築堤の斜面を下って、線路沿いの農道へ。

遠目には接触しているのではないかと見えるほど近い新旧の橋だが、実際にはこれらは完全別個の存在である。橋台は兼用しているが。
橋の型式はどちらもプレートガーダーだが、旧橋は下路橋で、現橋は上路橋になっているのも違いである。

チェンジ後の画像は、旧橋の桁を下から覗いて撮影した。
予想はしていたが、コンクリートの床板いっぱいに細かい白い亀裂や白化した形跡があり、経年劣化は進んでいそうだった。



8:37 《現在地》

そして最後は、忘れちゃいけない現橋のレビューを。
(現橋架設以降に、現橋よりも先に旧橋を渡った人ゼロ人説あるよw)

国道49号と県道5号がハーフインターで接続する城所(じょうしょ)IC交差点を背に、【本編1枚目の写真】とは逆方向に亀田跨線橋を見通している。
こちら側もやはり、旧道時代の築堤に盛土をしてスロープの勾配を増大させており、そのことはスロープの急さや長さの両面に微妙な違和感を与えているのであるが…

……さらに渡り進めていくと……

“違和感”などというユルいワードでは言い尽くせない“衝撃的なインパクト”が…!



グオーッと登っていく急さは、ちょっとした“べた踏み坂”っぽいが、

頂上の勾配の付き方、ヤバくねーか?!



これ車ジャンプするだろ?!

エキサイトバイクなら間違いなくジャンプ台の勾配の付き方だぞこれwww

いかにも仮設道路らしい“粗削り”で“優しくない”仕様が、メッチャ顕現している!!

もちろん制限速度で走っていれば問題はないんだろうが、ヤンチャしてアホみたいなオーバースピードで突進したら、マジでぶっ飛べるだろこれ。



いや〜、正直これには笑ってしまった。
まさか、2階建ての2階部分がこんな状態になっているのを知らずに、1階を楽しんでいたとは。
そりゃ、車が走る度にバンバン振動もするだろうよ。
ぶっちゃけこの2階の現橋の方が衝撃的だったわww

……読者の皆さまの中で、ここでうっかり車がジャンプした、あるいはシャコタン車の腹を擦ったという人が居たら、こっそり教えて下さいね…。




 机上調査編 亀田跨線橋の歴史とその故障


まずはさっそく、亀田跨線橋に起った“故障”について、これは調べればすぐに分かると思うので勿体ぶらず明かしたい。

国土交通省北陸地方整備局のサイトに「道路の老朽化対策」というページがある。
このページに掲載された「損傷と対策の事例」として、亀田跨線橋が掲載されている。
リンク先を見て貰えば、何が起ったかをすぐに把握できると思うが、一応転載しておく。(↓)



国土交通省北陸地方整備局「道路の老朽界対策」より



○印は資料から推定される橋の損傷位置を示す

潜り込んで確認した旧橋の親柱に昭和37(1962)年竣功の銘板があったことから、経年に伴う老朽化が架け替えの原因であることは十分予想が出来たが、実際その通りであった。
本橋は、探索(2024年3月)の12年前となる平成24(2012)年9月15日より、老朽化に伴う損傷を理由に全面通行止となっていたのである。

ただ、これが通常と少し異なるのは、点検によって発覚した老朽化の程度が思いのほかに深刻で、通常の道路計画のスケジュールで架け替えが行われるのを待つことが出来ず、早急に通行止をしなければならなかったことだろう。
しかし、通行量が多い重要な道路であっただけに、通行止の長期化を避けるべく、「応急対策として仮設橋を設置し、平成25(2013)年12月30日に全面通行止が解除され」たという。

やはり、現在の状態は応急措置によるものであり、現道は仮設道路、現橋は仮設橋であったのだ。
現地で見て感じた“ジャンプ台”などへの違和感は、確かに真実を見抜いていたといえる。
しかし、いかに仮設橋である現橋が多少不格好でフレンドリーではなかったとしても、点検によって落橋のような大事故を未然に防げたのは素晴らしい対処だった。失敗に人は学ぶというが、学んだ先で成功体験を積み重ね、それが正しく評価されることも同じくらい重要だと思うので、これをきちんと称賛したい。事故(=失敗)が起らないと報道されにくいからね…。

なお、本橋は県道だが、政令指定市である新潟市内にあるため管理者は新潟市となっており、点検や架け替えも新潟市が行った。
そのため、一連の経緯についても、新潟市議会会議録から、もう少し詳しく知ることができた。
まとめると、平成24年1月の点検で橋に損傷が確認されたため同年2月から大型車を通行禁止とし、9月より全面通行止として仮設橋の工事を行ったとのことだ。平成25年12月30日に仮設橋が開通し、全ての通行規制が解除されて現在に至る。




あっけなく(?)ネタバレが済んだところで、ここからはいつもの流れで、今回のレポートの主役である亀田跨線橋の歴史を調べてみたい。
本橋は、道路橋として特別珍しい型式や古さを持つものではなかったし、その歴史も興味を惹くようなものではないかも知れないが、少々奇抜になってしまった“最期”の姿ばかりがクローズアップされるのでは浮かばれないだろう。普通の跨線橋の普通の歴史にも、少しだけ光を当てて弔いとしたい。

まずは、歴代地形図のチェックから。


@
明治44(1911)年
A
昭和22(1947)年
B
昭和45(1970)年
C
昭和48(1973)年
D
現在

@は明治44(1911)年版だ。亀田跨線橋が後にどの位置に登場するのかを想像してみてほしい。

明治期この一帯は亀田郷と呼ばれ、中蒲原郡に属する農村地帯だった。ただ当時の水田は今のような乾田ではなく、胸まで泥沼に浸かる湿田であった。それはさながら巨大な潟湖のようなもので、その中に点在する古砂丘の微高地に亀田町を初めとする集落が点在していた。泥沼の大地を南北に貫く鉄道の登場は明治30(1897)年のことで、私鉄である北越鉄道が同年11月20日に亀田駅を開業させている。

Aは昭和22(1947)年版であるが、描かれた地図風景にはほとんど@との違いが見えない。@でも同じだが、亀田町の中心で東西方向と南北方向の「県道」が交差している。
これらは古くからある県道らしく、大正9(1920)年の旧道路法施行時においては、北から東へ抜ける路線が県道新潟福島線となり、亀田町で分岐し南へ抜ける路線が今も名前の残る県道新潟新津線となっている。『新潟県統計書 大正9年』

Bは昭和45(1970)年版である。現地の銘板に昭和37(1962)年竣功とある亀田跨線橋が初めて描かれた地形図である。もちろんその位置は、県道新潟新津線が信越本線を跨ぐ位置で、現在と変ることはない。余談だが、Aの県道新潟福島線については、昭和28(1953)年に二級国道115号新潟平線へ昇格し、これが昭和38(1963)年に一級国道49号へ再昇格、同40年から一般国道49号となっている。

Cは昭和48(1973)年版だ。Bからわずか3年後だが、国道49号の大規模なバイパス(亀田BP)が完成している。

Dは最新の地理院地図である。CからDの間に国道49号は亀田BP単独指定となり、その旧道は県道新潟新津線に編入された。
また、亀田BPから分岐する国道403号新津BPが新たに登場しているが、実はこの道路は、昭和43(1968)年に県道新潟新津線の新潟新津BPとして着手し、昭和56(1981)年5月1日に供用した新道である。『わが国の道路 昭和56年度版』
したがってこの時点で亀田跨線橋は県道新潟新津線の旧道となったが、わずか1年後に国道403号が指定され、新潟新津BPは同国道へ移管のうえ新津BPと改名されたので、同じ新潟市内に新新BPと新潟新津BPがある混乱は収束し、再び亀田跨線橋は県道の現道となったのである。

……以上の地形図の変遷からは、大都会新潟の拡大発展に伴って亀田一帯が農村から近郊型ベッドタウンへ変貌していく過程で、旧来の県道と、新設の国道バイパスが絡まり合うように育ってきたことが読み取れた。この複雑に変遷する環境の中で、亀田跨線橋は誕生以来ずっと国道に比肩するような重労働に耐えてきたといえるだろう。
……手の施しようのない末期の病が発覚するまで……。


次は、亀田跨線橋に焦点を当てながら、歴代の航空写真をチェックしていこう。
そこには思いがけない発見が隠れていた。



(5)
令和4(2022)年
(4)
昭和48(1973)年
(3)
昭和37(1962)年
(2)
昭和31(1956)年
(1)
昭和23(1948)年

今度は(5)から(1)へ順に古くなるよう画像を配置した。
(5)は令和4(2022)年版で、ほぼ探索時点の状況である。写っている橋は仮設橋だが、航空写真では区別は付かない。

(4)は昭和48(1973)年版。平行する国道403号ができる前であり、交通量的にも亀田跨線橋の全盛期といったところだろうか。昭和52年当時、県道新潟新津線の新津市内の昼間12時間交通量は11000台以上参考資料あった。平成27年の調査では亀田跨線橋周辺で5700台ほどだから、はるかに多かった。

(3)は昭和37(1962)年版だ。ちょうど本橋の竣功年のものであり、画像を見ると、確かにまっさらな路面の跨線橋だ。しゃきっとしている!

で、ここまでは予定調和的内容だろう? だが……

(2)は昭和31(1956)年版である。

亀田跨線橋が写っている?!

さらに、(1)は最古の昭和23(1948)年版である。

やっぱり亀田跨線橋が写っている!!!

え?! エエ?! となった。

航空写真は嘘をつけないはずである。

これをきっかけに、より深く調べてみると、昭和37年よりも随分と昔から今と同じ位置に亀田跨線橋が存在していたことが判明した!

先ほど歴代地形図のAを見ながら説明したことだが、新潟県は旧道路法が施行されされた当初の大正9(1920)年に県道新潟新津線を認定している。
そして次に紹介する『新潟県土木季鑑 昭和14年版』という資料の中に、「指定府県道改良事業」として、新潟新津線の整備に関する興味深い記述が見つかったのである。

 新 潟 新 津 線
指定府県道第七號線は本県の首都たる新潟市と本県中部に於ける枢要市場たる五泉市を通過し東蒲原郡下條村に達する重要幹線である。
然してその一部を成す所の新潟新津線は中蒲原郡亀田町に於いて新潟福島線を分岐し、本郡内の枢要市場である新津町に至る重要幹線であるばかりでなく、更に此れに接続する府県道と連絡相俟って三條市、長岡市、高田市等各方面と新潟市を結ぶ県内有数の縦貫路線の一つである。【略】而して沿道村落は即ち蒲原平野の中枢を占め、肥沃なる耕地に囲繞せられ農産物の産出豊富で、殊に農家副業の一たる梨の生産地一帯も其の沿道に含まれて居り、何れも本線を利用して両都市に搬出集散せらるるのである。
然るに其の改修前の現況は僅かに三米内外の幅員であるばかりでなく、紆余曲折相接して居り、飛躍的進歩発達をなす自動車交通に危険甚しき状態で、従って沿道村落産業の振興を阻止し能はざる実情である。
依ってその第一着手として亀田町、横越村地内に於ける本線中最も不良なる通称七曲の箇所を改良すると共に、本県としては最初の施設である鉄道線路との平面交叉を除き之を立体交叉に改むる等、交通上の容易と安全とを期した次第で、昭和十一年度に引続き目下工事中であるが、間もなく竣成を告げ其の効果を発揮する日も近いことと思われる。

『新潟県土木季鑑 昭和14年版』より

なんと、昭和14(1939)年当時既に県道新潟新津線に跨線橋を建設する工事が進められていたことが出ていた。

亀田跨線橋という名前こそ記されていないが、同路線が信越本線を跨ぐ箇所はここだけなので、間違いない。

しかもそれは、新潟県における最初の道路と鉄道の立体交差であったという!

…………

……な、なんだよ……、しっかり尖ったところがあるじゃねーか、こいつめぇ……。

ちなみに、上記引用文中に登場する「指定府県道」というワードは、現在の道路法における主要地方道とほぼ同じ制度である。
旧道路法時代も府県道の一部は指定府県道として国に指定され、国庫補助などの厚遇が行われていたのである。

というわけで、歴代航空写真の(2)と(1)に写っていたのは、この初代の亀田跨線橋と考えられ、現在の旧橋は2代目の亀田跨線橋であったと考えられるのである。
残念ながら、初代橋の写真は未発見であるが、航空写真を見る限り、2台目と全く同じ位置にあり、築堤については同じものを利用しているに違いない。

また、本編中では昭和35(1960)年3月10日に行われた新津〜亀田駅間の複線化に合わせて架けられたものと推測したが、それに加え、昭和37年5月20日に長岡〜新潟間が電化していることも関わりがありそうだ。

昭和31年と37年の航空写真をよく比較すると、初代と二代目の橋桁の形の変化が読み取れる。(→)

初代は単線の線路を跨ぐ短い直橋(おそらく長さ10m程度)だが、二代目は複線の線路を跨ぐ斜橋(全長22m)となり、桁も橋台も作り替えられていることが分かる。
現在も残る初代橋の面影があるとしたら、両岸の築堤だけかもしれない。

それでも、この場所が新潟県における道路跨線橋発祥の地であったことは、たぶん今までほとんど知られていなかったと思うので、この機に積極的にアピールしてみてはどうだろうか。もちろん、今後いろいろな資料を精査すると、実は誤りであったとなる可能性はあると思うが…。

……書き忘れていた。
初代橋の竣功年は、はっきりしていない。
先ほどの資料では、昭和14年時点で建設中となっていて、また昭和23年の航空写真では既に完成しているようである。
この期間内に完成したことは疑いがないが…。

この疑問の答えとして、昭和14年完成説がある。
というのも、2018年度全国橋梁マップに掲載されている亀田跨線橋の竣功年が昭和14(1939)年となっている。
ただ、一緒に掲載された延長22mという数字は、明らかに昭和37年の架け替え後の数字である。

同マップの原典情報によると、『国土交通省資料(令和元年度 道路メンテナンス年報等の作成に向けたデータ整理・検討結果)』というものが挙げられている。私はこの資料を所有していないが、この原典では亀田跨線橋の竣功年が昭和14年となっているそうだ。
新潟市の資料だと昭和37年竣功となっているので、このデータ不一致の理由は分からないが、昭和14年説に一役かうのは確かだろう。




県内最古の跨線橋という栄誉ある血統が判明した、現在は悲しい“下敷き”となっている2代目の亀田跨線橋であるが、最後にこの橋の未来についても調べてみた。

これを書いている令和7(2025)年2月末時点で、“下敷き”にされてから実に13年目を迎えており、一体いつまで仮設橋に甘んじなければならないのかということは、“明日へのジャンプ”を決めかねない沿線ドライバー達にとって、重要な興味であると思う。

調べてみたところ……、


なんとタイムリーだろう!!

今年、令和7年1月24日に、新潟市都市計画道路3・4・157号亀田中央線の都市計画変更が公示されていた。

なんのこっちゃかもしれないが、亀田跨線橋は上記都市計画道路の一部を構成しており、かつこちらの資料から、この都市計画の変更内容が――

「新潟市公告第430号新潟都市計画道路の変更に関する公聴会の中止について」

――というものであることが判明している。

令和6年11月27日の第157回新潟市都市計画審議会の会議録に、架け替えの詳細が説明されているが、それによると――

「第157回新潟市都市計画審議会」会議録より抜粋要約

――とのことだ。

おそらく右画像に私が付け足した点線のようなルートで都市計画決定が行われており、今後、事業に着手するものと思われる。

どちらにしても、現在の奇妙で賑やかな「橋オンザ橋」が仮設という時限性の存在であることは確かなようだ。ジャンプするなら今のうちだぜ!


2025年1月27日の北陸工業新聞の記事に、今後行われる予定の架け替え工事のスケジュールが次のように書かれていることが判明した。

工事にあたっては老朽化に伴う新橋架設および現橋撤去をJR東日本に委託。4月以降から工事に着手し、2030年度の供用開始を目指す。2032年度までに現橋および仮設橋を撤去する。工期が複数年度となるため、12月補正予算に25―32年度を期間とする債務負担行為で限度額47億3100万円を設定した。なお、取付道路部分は市が施工する。

「北陸工業新聞2025年1月27日号」より

というわけだから、現在の風景が見られるのはあと5年くらいということになるようだ。


そうそう、グーグルストリートビューには以前撮影された画像を遡って見られる機能があるが、それでこの跨線橋を見ると、仮設橋に置き換えられる前後を仮想的にドライブ出来て楽しい。
【旧橋】2011年9月撮影 → 【仮設橋】2014年10月 是非試してみて!





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