国鉄橋場線 および橋場駅 再訪編  

所在地 岩手県岩手郡雫石町
探索日 2011.11.05
公開日 2011.11.07


平成18年の最初の探索で撮影。この廃駅は一目で私を虜にした。

エターナル・ターミナル、橋場。

小粒ながら、当サイトでも人気の高いコンテンツのひとつであり、実は私も前のレポートを公開後、新たな発見を求めて何度か再訪を繰りかえしてきた。

なかでも、転車台の発見こそは、その最大の目的であった。

転車台(ターンテーブル)とは、地上に設置される回転する円盤状の装置であり、ここに車両を乗せることで、その場にいながら進行方向を変更することが出来る。鉄道の蒸気機関車は、車輪を逆回転させて走行すると、本来の性能を発揮出来ない。そのため、終着駅など、運転の方向を頻繁に反転させる箇所には、転車台を設けることが多かった。

転車台こそは、蒸気機関車時代の終着駅におけるもっとも象徴的な存在といえ、橋場線の終点である橋場駅にも設置されていたと考えられるが、これまで構内配線図などは発見されておらず、その規模や位置も不明のままだった。



この図は、これまで想像されていた橋場駅の構内の配線である。

橋場駅は基本的には1番線と2番線の相対式ホームを持つ駅であるが、2番線の北側も路盤と同じ高さの広い空き地になっており、このまま島式ホームとして3番線を設けることが可能である(実際に敷かれていたかは不明)。また1番線ホームの終点側(大曲側)には、終点側に開口した頭端式のホームが存在し、貨物用ホームとして利用されていたと考えられている。

転車台は発見されていないが、ホームの終点側に広大な空き地が存在することから、そこにあったものと想像した。



そしてこれが、この構内配線における、実際の列車の取り回しの想像図(アニメーション)だ。

転車台がこの位置に存在していれば、1番線と2番線に敷設されたレールを用いて、無理無駄なく列車の進行方向を変えることが出来る。
(貨物ホームについては検討を省略した)

だが、3つのホームはほぼ完全な形で現存するにもかかわらず、“コンクリートに周囲を囲まれた円形の窪地”という、特徴的な遺構を残すはずの転車台については、想像された位置をいくら捜索しても、発見することが出来なかった。

さらに、現地の安栖(あずまい)集落での聞き取り調査において、「人力で動かした転車台が(図の位置に)あったが、いまは埋め戻されて跡形も無い」という証言が1件発生したことで、捜索を中止した。




橋場駅の転車台問題は、「現存せず」という判断で終了したかに思われたが、この膠着した状況に大きな進展が見られたのは、今年(平成23年)5月だ。
それは、実家が安栖集落にあるという安本氏から届いた次のようなメールである。

駅跡地も子供の頃は、まだ、草もそれほど覆い茂っておらず、夏場は、肝試しや、エアガンの撃ち合い等、よくやっておりましたので、懐かしく思います。
さて、橋場駅について、近所の老人方に聞いた話ですが、線路は、駅から更に現橋場小学校前付近まで延長されていたらしいです。その証である車両止め等は、数年前解体してしまいましたが、車庫として利用されていた跡があったようです。……@
また、回転台ですが、駅から「犬のいる家」方面へ進みますと、大きな池があるのですが、どうやら、それが回転台の跡のようです。……A


新情報は主に2つ!

レールは橋場駅のホームの終端よりさらに西まで延びており、その終点にも車止めが設置されていたが、数年前に解体されてしまったこと。

そしてもうひとつが、

転車台跡が、「犬のいる家」の傍に、大きな池となって現存している!!



この情報をもとに、11月5日の早朝、細田氏を伴って再調査を実施した。
果して念願の転車台は、どこに、どのような形で、その遺構を留めているのだろうか?!



“永遠の終着駅” 2011秋  路盤の終着を求めて


2011/11/5 06:06 【周辺図(マピオン)】

ぶっちゃけ、「車両止め等は、数年前解体してしまいました」とのことなので、具体的な遺構の発見は期待薄である。
しかし、これまで終着駅である橋場から先の路盤がどこまで続いているのかを、確かめたことがなかった。
橋場駅から先の路盤は、休止線という名の廃線であると同時に、橋場線の延伸線である「盛曲線」の未成線とも重なる部分だ。
その現状を確かめておくのは、有意義なことだろう。

というわけで、レポートをするのは5年ぶりとなる橋場駅に潜入する。
天気はよいのだが、まだ夜が明けるか明けないかという早朝で、かつ強烈な放射冷却による結露のため、全体的に白っぽい風景である。
この安栖集落は木村商店前の国道46号から分岐して、“駅前通り”は始まる。




橋場駅が健在だったら、流石にこの道は舗装され、突き当たりに駐車場と駐輪場、そして電話ボックスが設置されていただろう。
上手くすれば、県道化(橋場停車場線)の可能性もありえた。
もちろん、駅名板に書かれる予定の「最寄りの観光地」は、「国見温泉」で決まりだ。

国道と“階段”とを結ぶ私称“駅前通り”の全長は約50m。
この真っ正面の杉林の中に、駅は横たわっている。

現状では、完全に両隣にある民家の生活道路であり、それ以前に前庭のようでもある。
したがって、このような早朝に踏み込むには、多少の躊躇いを禁じ得ない。
いつ家人と出会っても大丈夫なように、いいわけ(橋場駅云々)と、えがお(いらっしゃいませ)を準備して、進む。




突き当たりにある階段は、橋場駅の唯一の出入り口である。

そういえば、駅舎があったという話しを聞いたことがない。
しかし、最低でも改札はあったはずで、その位置は、階段下のコンクリートが敷かれている場所かと思う。
階段の途中と上にも踊り場があるが、そこは狭い。

約30段のやや急な階段は、枯れ草や落葉によって、カモフラージュされていた。
訪れる人は居るとしても、整備されている様子は全くない。
再訪と言う事で、まさかの観光地化を恐れていた人は、安心して欲しい。


背後の細田氏、意外にもここへは初めて来るらしく、盛んに「おおー!」と歓声を上げている。
私はそれを耳にして、内心ほくそ笑む。

「ふっふっふ。この階段を上りきれば、もっと驚くことになるぞ…。」


そこにはきっと、 ↓この景色↓ が、

今日は黄金色に色づいた森の中に、眠っているのだから。

さあ、こい!







ー……

喉から出かけた歓声が、詰まる。

それは急激にトーンを落として、僅かに漏れた。

予想した叙述的かつ牧歌的な情景は裏切られ、
そこにあったのは紛れもない、“怪しの森の廃駅の風景” だった。
朝靄と薄霜のホームは、不気味な静寂に支配されていた。

平成18年のホームは、鉄道の魂が見せた幻だったのかと思うくらい、
それ以降の再訪では、二度と綺麗な姿を見せてはくれないのである。
(雪解け直後で」全ての藪が倒れている僅かな期間こそ“奇跡の刻”だ)

しかし、細田氏はそれでも「良く残っている!すごい」と言ってくれた。
私も気を取り直して、第一の目的である路盤の終端を確かめるべく、ホームを西へ歩き出した。




この状況で構内配置を確かめるのは至難であるが、
よ〜く見ると、ホームと路盤の起伏が見えてくるはずだ。

進路はこのまま真っ直ぐ西へ。
ホームが尽きたら、路盤を歩くしかない。




結露でびしょびしょに濡れたススキの藪に入るのは嫌だったが、仕方ない。

垂れたススキを掻き分けながら、1番線ホームの端から、路盤へ降りた。

(写真の細田氏が立っている場所はホーム上、私の立ち位置は路盤だ)




1番線ホームが尽きても、島式の2番線ホームが、アカマツの林の中にしばらく続く。
それも尽きてさらに50mほど進むと、ひときわ深いススキの藪に周りを囲まれた大きな畜舎が現われる。
ここまでの地形はあくまで平坦であり、依然として広大な駅構内にいると思われるが、特に遺構は見あたらない。

なお、これまでの探索では、この畜舎をもって路盤の終点と判断していた。

今回は、この先を確かめようというわけだが…。




畜舎は無人であり、その用途では既に使われていないように見えたが、軒に新しい干大根がぶら下がっていた。

問題はこの畜舎のどちら側を通っても、背丈に勝る笹藪だと言う事である。

我慢して通り抜けたが、何かを発見し得るような状況ではなく、しかめっ面になる。

すると今度は、赤い屋根の民家が正面に現われた。

そこまでがまた凄まじい笹藪で、やむなく右の杉林へ迂回進路を取った。
藪は酷いが、平準地形はずっと続いている。




迂回進路から赤い屋根の民家の敷地へ入る。

おいおい。これは完全に庭の中では?

また、その先にもたくさんの民家が建ち並んでいた。

土曜日の朝6時。流石に庭先に人影はなく、むしろ気まずいシチュエーション。
流石にノックして、「昔、車止めが昔あったお宅は、オタクですか?」と聞いて歩くわけにも行かない。




苦しくなって、そのまま民家群の正面を通る国道に出る。
するとそこは、まさに橋場小学校の正門のど真ん前だった。

事前情報の「線路は駅から更に現橋場小学校前付近まで延長されていたらしい」は、こうして確からしいことが確かめられた。
途中にある畜舎や住宅地は、全て細長い平坦な土地にあった。背後は傾斜した山林なので、自然地形としては不自然だ。
そこが橋場駅の構内として均されたのは、ほぼ間違いないだろう。




駅から続く細長い平坦地はこの住宅地を限りにしており、その裏手にある神社の附近から先には、手を加えられた様子はない。
結局、橋場駅のホームが尽きてから、約150mは路盤跡と思しき平坦地が続いたことになる。

これ以上線路を延ばすとしたら、神社の移転ないし参道の踏切化が第一の仕事となっただろう。
その先はすぐ安栖沢が行く手を遮り、国道の安栖橋近くでそれを渡らねばならなかったろう。
そしてさらに先となると、国道も苦しんだ“へぐりの難所”が待ち受ける。
雫石川を串刺しにして、現在の国道のように通ったろうか。
終着駅の名となった本当の橋場集落は、その難所の向こうであり、今は“道の”駅「雫石」がある。
道の駅から仙岩峠は始まるが、接続を目論んだ秋田県の生保内駅は、標高1000mの県境を越えた17kmほど先だった。
大正時代の鉄道には、決して容易な計画ではなかった。





これは、終戦直後の昭和23年に米軍が撮影した航空写真(引用元)。

橋場線の雫石〜橋場間からレールが引き剥がされて休止となってから僅か4年後の風景だけあり、空から見た限りは現役の鉄道と区別がつかないくらい鮮明に、その路盤が写っている。

やはりその“線”は、現在の橋場小学校付近まで伸びているが、国道にぶつかる寸前で消えている。
また、私が当初考えていたような位置には、転車台やその跡と思しきものも見あたらない。

続いては、転車台探しの結着である。




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転車台を求めて


転車台の場所は、事前情報によれば、「“犬のいる家”の傍」とのこと。
そしてこの“犬のいる家”は、前のレポートの中にも登場している。

本当にそこが転車台の所在地だったとしたら、それは私の予想(や以前の聞き取り調査結果)とは違っている。

従来、転車台は橋場駅の西側の空き地だと考えていたが、“犬のいる家”は東側(盛岡側)にあるのだから。

もちろん今回はその“犬のいる家”周辺を探索したが、経路の写真を新たに撮っていないので、前(平成18年)の探索時の写真を流用する。

この写真は、駅前に通じる階段である。
今度はここから路盤を歩いて東へ向かう。




前のレポでは使わなかったアングルだが、好きな写真の1枚だ。

廃駅の西側は眩いばかりの草原(ただし眩いのは春先限定)だが、
西側はホーム遺構もそのままにアカマツやスギが林立し、文字通り森に還った状態。
路盤に生えた木の太さが、列車が来なくなってからの60年を証言している。




東側に一番長く続いているのは1番線ホームで、杉の植林地を貫通して、その先の民家の庭先にまで達している
写真はそこからホーム末端部を振り返って撮影した。

橋場駅に到着していた列車が、どのような編成であったかを私は調べていないが、当然蒸気機関車が木造の客車と貨車を数両牽くような、貨客混合列車が運行していたものだろう。最も長い1番線ホームの全長は150mくらいあるかと思われ、田沢湖線時代に新設された各駅のホームとは比べものにならない長さである。
しかし、実際にこのホームの長さに見合うような列車が入線していたとは思えない。
おそらく2番線ホームなどは、利用さえされていなかっただろう。

全ては秋田県へと全通して、北東北を横断する(余り知られていないが、現在の田沢湖線と山田線は軍港船川と軍港宮古を東西に短絡する列島横断鉄道として、軍部の強い要請で計画化されたものと言われる)優等列車が運行された時を想定し、建造されたものだろう。

この長大なホームは、今から白日に晒される転車台の跡と並んで、橋場が古い時代の駅であった名残として存在感があり、最近のコンパクトな廃駅にはない魅力の要素であろう。




“犬のいる家”と不躾ながら呼ばせていただいた、路盤上に立つ大きな民家。

既に全てのホームは尽きているが、依然として駅の構内であり、路盤の幅は複々線以上の幅を有している。

なお、今回の探索でも“犬”は健在であったが、私と細田氏がコソコソ庭先を通行した時点では寝入っており、通過直後に口惜しそうに吠え始めた。
だが私は信じている。
彼は廃線跡を愛する我々に気を遣って寝入ったフリをして通らせ、その後で番犬としての本分を忘れていないアピールとして、吠え始めたのだと。

それと、今回は新たに中型ネコも配備されていた(野良の可能性有り)。
こちらは霜が降りた砂利場で冷たそうに丸まっており、よほど寒かったのか、その箱座りの猫背は完全にアンモニャイト形であり、接地面積は四つ折りにしたハンケチーフ1枚分にも満たないほどであった。

不躾ながら、今後は“犬がいて猫もいるかもしれない家”となった。




この写真は前回のレポでは使っていないが、撮影していたと言う事は、当然、目にしていたと言う事である。

何を言いたいか。

民家の裏庭のこの一角に、確かにそれはあったのだ。

ただ、全然私の意識の外にあったので、単なる添景として気にせず通り過ぎていたのである。

恥ずかしながら、こんなことさえ書いていた。 ↓

民家の敷地内には鉄道跡らしい痕跡は何も残っていなかった。




オイ! 

何か丸い感じの池が写ってるぞッ!


今回は、ここを再訪した。

↓↓↓




2011/11/5 6:47

後ろに元気の良い吠え声を聞きながら、情報にあった「犬のいる家」の「大きな池」と思しき現場に到着した。

以前の探索でここを見た憶えは全くなく、初見だと信じていたが、事実は先ほど述べたとおりだった。

さらに近付く。




丸い。

確かに、池の輪郭は不自然なほど丸い。

が、

想像していたものとは若干違う。

もっとコンクリートで周囲を突き固められた、円形プール状のものを想像していたのだが、
ここにあるのは、周囲に築石を施された、いかにも庭園の池である。

周囲にはたくさんのプランターや植木棚などが設置されており、現在の所有者も“庭園池”として利用している事が分かる。

払い下げを受けた後に、わざわざコンクリートの外壁を壊して、現在のように仕立てたものだろうか?




私は転車台に詳しくはないので、一般的な印象で語っているが、転車台といえばそれを囲むように扇や円形状に配置された多数のレールや、さらにその外側に控えた重厚な車庫とセットで存在するような印象がある。
だが、延伸までの一時的終着駅と見なされていた橋場の転車台は、こうした一般的な転車台のイメージとはだいぶ異なる姿をしたものだったようだ。
そういえば、以前の聞き取りでは、「転車台は人力で回転させていた」という証言もあった。

私はこの転車台の外周の壁は、元もとコンクリート製ではなく、木製の土留めのようなものではなかったかと想像する。
それであれば、廃止後には容易に破壊して築石の庭園地へと変え得ただろうし、元々は水を貯める意図はないのだから、コンクリートで外壁を固める必要など、ある一点を除いてないのである。

その“ある一点”とは、強度の問題だ。
転車台の回転する台は一種の橋梁であり、外周は橋台の機能を求められる。
重さ数十トンの車両がくり返し行き来するのであるから、線路の下にある外壁は、十分に強化されていなければならない。




ある!

円形プールの外周おおよそ40m(目測)の中で、たった1箇所だけ、コンクリートで護岸された場所があった。

これは来たべ。

私の想像を支持する、極めて大きな発見と言える。

転車台はたった1本の線路とのみ接続された、機関車の向きを逆転させるだけの存在だった可能性が高い!




コンクリートの部分に立って、澄んだ池の底を見る。

深さは目測で4〜50cmであり、その底にはおそらくコンクリートが敷かれている。

当然、池の中央部には回転台を乗せるための、転車台の心臓部が何らかの痕跡を留めているだろうが、それを目にすることは、もう無理かも知れない。
池には常時裏山から水が補給されている。

それにしても、橋場駅の転車台はその位置ばかりか規模や形状についても、一般的な転車台のイメージとは大きく異なっていた。
まさに仮設の一時施設ということを、強く意識した構造であったようだ。
豪壮な施設も良いが、こうした実態に即した特徴的な遺構こそ、真に地域的価値のあるものではないだろうか。





廃駅に隣接した、妙に丸い形をした池。

知ってしまえば、明らかに転車台の遺構なのだが、

しかし、木立と苔むす庭石に囲まれた姿は、完成された絵のように美しくもあり、

相当に巧みな跡地利用といわねばならない。


…休止施設とは、流石に思えない(笑)。




橋場駅にあった転車台は、右図のようなものだったと思われる。

本文でも述べたとおり、転車台は1本の線路とのみ接続されていて、その機能は機関車を逆転させるのみ。
留置線や車庫などは接続されていなかったと思われる。

また、転車台の構造自体も将来容易に破却しうる簡易なもので、外周部は木枠(一切残っていない)か無普請で、車重が掛る部位のみコンクリートで強化してあったようだ。

もし同様の簡易構造の転車台をご存じの方がおられれば、教えていただきたい。




転車台の位置は、これまでの予想とは大きく異なり、駅の盛岡側本線脇の空き地であった。

確かに、こうしておけば、本線の延伸工事に支障することもないのである。

それにしても、使いにくそうな貨物ホームである。
ここに発着するためには、必ずスイッチバックしなければならない。

匿名の読者さまのご指摘によれば、こうした貨物ホームの配置はむしろ不自然ではないという。原文を引用しよう。

現在は車扱貨物がないので実例を目にする機会がありませんが、この貨物ホームの配置は至って通常通りです。
通常混合列車というのは機関車の直後に貨車が、その後ろに客車が連結されます。これは、途中駅で客車をホームに止めたまま、貨車の入換をするので当然です。
終着の橋場駅についた混合列車は、ホームに客車を残し機関車が貨車を牽いて入換をすると、この貨物ホーム位置が極めて便利な場所にあることがわかっていただけるかと思います。


この配線では、列車の機廻しはどのように行われていたのだろうか。

実はこれについては想像ではなく、この駅の現役当時を見て知っているという、(おそらくは)木村商店の店主氏に直接教えていただいたものである。

構内を機関車が単車でいったり来たりするのは以前の配線と変わらないが、逆行運転の割合が非常に大きい。
逆行で転車台に進入するとか、ちょっと胸が熱くなるな。

今後は、実際にどのような列車が、一日何往復していたのかを知りたいものである。
これについては、いくらでも詳しい人が、現地ではなく鉄道界にお住まいだと思う。

匿名の読者さまより、当時のダイヤについて情報をいただいた。原文を引用しよう。

日本交通公社「時刻表復元版<戦前・戦中編>」を調べてみました。
大正14年4月号から昭和17年11月号まで、橋場線は盛岡〜橋場間1日5〜6往復。
大正14年4月号からずっと「二、三等車」でしたが、昭和9年12月号からは「三等車のみ」となっています。
戦前最後の全国版時刻表となる昭和19年5号では、雫石〜橋場間が休止となり、盛岡〜雫石間のみとなりましたが、列車本数は6往復のままです。
基本的に、盛岡を起点に一列車が往復する形で、線内での交換は無いダイヤです。
昭和5年10月号掲載のダイヤのみ、午後の一部列車が続行となり、橋場駅に2列車が滞留する時間ができましたが、その後また一列車が往復する形に戻っています。



最後に、前も見ていただいた昭和23年撮影の航空写真から、転車台の面影を探してみた。


   う〜〜〜〜〜ん……


あるっぽいね。

現在、池がある地点に、何か円形の窪地のようなものが見える気がする。
周囲には見られない形状のものだ。


これで、一応は橋場駅に関するもろもろが結着したかと思う。
今後、私にこれを越えるような衝撃をあたえるエターナル・ターミナル、エターナル・ステーションが現われるか分からないが、ともかく橋場廃駅の魅力とは、コンクリートの車止め如きで止められるほど甘くはなかった。
仙岩峠を貫通し、秋田の実家まで届く勢いだ。
今日はあなたの戸口にも、橋場駅がコンニチワするかもしれない…というのはさておき、

平和の象徴としたい、地域の宝だと思う。



橋場発の出征列車で村の大勢に見送られた兵士が、遂に故郷へと戻ってきた日。

車掌は雫石が終点だと言った。

橋場駅は、故郷にありながら、同じ戦争を共に戦っていたのだ。