廃線レポート 池郷川口軌道と不動滝隧道 第6回

公開日 2023.04.07
探索日 2023.03.16
所在地 奈良県下北山村

 不動滝隧道北口(上流側坑口)と周囲の状況


2023/3/16 16:27 (入洞から4分後) 

計らずも、隧道を潜るという最も順当かつ穏当な手段で辿り着くことができた、不動滝隧道の上流側坑口。
永冨氏のレポート以外の事前情報は一切持ってこなかった私にとって、ここから先は、完全に未知の領域だ。

隧道はまもなく突破するが、私がこの隧道より遠く離れて上流へ向かう理由はない。私の探索の目的地が、まさにここだった。軌道の終点(トチノキダイラ)が最初の目的地かつ経由地で、その先に待ち受ける不動滝を潜る隧道の上流側坑口、すなわち“ここ”へ辿り着くことが、探索の最終目標だったのだ。
それを、予想しない幸運によって、容易に達成してしまった。

でも、これを拍子抜けなんて嘯く不敵さは、私の性分ではない。
不運にも隧道に“蹴られ”てしまった永冨氏たちが、それでもどうにかして“ここ”へ辿り着こうとした、その悪戦苦闘と結末を読んでいる私にとっては、もし私がこの幸運に巡り会わさなければ、彼らと同じく、ここへは辿り着けず終わった可能性が大きいと分かっているのだ。本当に、助かったよ。

さあ、どんな場所に出たんだ私は! 見せてくれ! 悲願の地上!




「 予 習 」

最新の地理院地図に描かれているこの場所は、

まあ普通の渓谷の一角って感じだ。

目立つ特徴といえば、ポツンと堰堤(砂防ダムかな?)があるくらい。
まあ、よくよく地図を見ると、川が一気に50m分の等高線を跨いじゃっていて、
それが実は「不動滝」というオチが付くわけだが、滝の記号はなぜか描かれていない。
あと、林道が近くにあるが、高低差がきっかり100mもある。

それでは、実際の風景をご覧いただきます!



あと2mくらいで外へ出るが、この時点で、【南口の眺め】との立地の違いは歴然だ。

あちらは河床から30mも高い絶壁のただ中だったが、
こちらは見るからに周囲を岩の壁で取り囲まれた、峡谷の底っぽい風景だ。
坑口よりも低い所には、水面しか無さそうな気がする。実際、川の水位が上がると、
自然に水が流入しているわけで、景色を見る前から谷底であることは確定していた。

実はブラフなんかではなかった、南口まで届いていた風と川の音の出所も、
間違いなくこの先の地上だ。音については、川の音というよりは滝の音と言った方が近い。

そして気になるのは、外へ出たところに動き回れる地形の余地があるかどうか。
それと、南口に通じていた遊歩道みたいな道の続きがあるのかどうかも気になるところ。




見えたッッ!!! 砂防ダムだっ!

地形図上で存在感を見せていた構造物だが、実際の姿が、いま初めて私の目に晒された。
一見してかなりの月日を重ねていそうな、古びた色をした堰堤だ。それに、高さがある!

隧道の内壁からそのまま連続している右の岩壁が邪魔をして、見通せない部分があるが、
この段階でもう感じられるのは、空の存在感が恐ろしく希薄な、狭隘で陰湿で谷底ということだ。
背後は隧道だけが抜けている岩の壁、左も岩の壁、右は確定で不動滝の落口であり、
唯一開けていてもおかしくなかった正面にも、文字通りの壁となって堰堤が立ちはだかっているのだ。



地上でありながら、いかにも逃げ場の乏しい、窮屈という言葉を地形に置き換えたような谷底である。
ここからわずか100mほど川を下れば、不動滝を通り越して、あの【広々とした滝壺の河原】なのだが、本当に一つの滝の前後で地形の印象が大きく変わっている。ここから先はもう池郷“川口”とは呼ばないだろう。池郷谷の深長な奥部、その始まりに立っている。

不動滝が、池郷谷を遡ろうとする者を選別する門戸であると前に書いた。だから私が見ているこの景色は、隧道という裏技を使うことで、本来なら滝を越える技量を伴わない者が特別に触れているものなのだ。周囲の地物全てが醸し出す無言の圧力に、いささか私が気圧され萎縮するのは、やむを得ないことであろう。

だが、私の限られたポテンシャルを発揮して、ここに足を踏み入れた数少ないオブローダーとして出来る仕事をしよう。
ここでの私の最大の目的は、隧道が作られた目的とされる、流材に関する痕跡を見出すこと。
それともう一つ、存在するかは分からないが、隧道と周囲を結ぶ“道”を探ることだ。

で、まずこの段階で何か“道”が見えるかということだが、ぶっちゃけ、見えない。
いくらか歩けそうな場所は見えるけれど、道かと言われれば、微妙。
少なくとも、隧道まで私を運んできた遊歩道じみたあの道の続きがあるようには、思えなかった。

いまから全方位的に検分を進めるが、まずはいま潜った隧道の出口を振り返ってチェックする。



これが、不動滝流材隧道の北口だ。

写真に比較対象物を置き忘れたのでサイズが分かりづらいが、幅は1.8m、高さは2.2mくらいで、つまり南口と変わらないと思う。
が、ちょっと上方向が崩れたのか、亀裂のように開口部は広がっていた。

坑口前は、崩れてきた土砂が自然に堆積したように見える瓦礫の地面だが、実は坑口は少しも埋まっておらず、開口部は完全に保持されている。
これは落石で埋めようにも、洪水の度に水流で突破される形になっていると考えられる。相当大規模な崩壊でない限り、池郷川の流れが隧道を自然に貫通させ続ける立地である。これはある意味“無敵感”がある隧道だ。普通の廃隧道では望むべくもない、永久機関的な自動復元装置があるのだから。

チェンジ後の画像よりもさらに引きのアングルで坑口全体を見るには、坑口前の狭い河原状の陸地を離れて、上流の堰堤に繋がる岩場に取り付く必要があるので、それはちょっと後回しにしたい。

次に、この写真の向かって右方向への“道”、というか、ルートを探る。
この方向には100m頭上に林道が通っているので、林道から隧道へ下降し、あるいは隧道直上の尾根から下降してくることが、方法としては考えられる。
そして実は、隧道の通り抜けが叶わなかった永冨氏たちが最後に北口到達への一縷の望みを賭けて挑戦しようとしたが、あまりの傾斜のキツさで、尾根上からこの谷底を見下ろしただけで断念したのも、このルートだった。

そんな彼らの“悩地”を、下から検分したい。




そこには、一縷の望みを感じさせるようなお誂え向きのルンゼが、尾根に向かって直登していた。

ルンゼを上るのは登山のセオリーだし、道具を含めた技術程度によっては十分通路たり得るであろう。
が、例えば私がいまの徒手空拳で挑んで成功するのかと問われれば、なんともいえない。
ここから見上げただけで成否を断じられないくらいには、このルンゼは険しく、高く見えた。
林道までは比高100mだが、とりあえずここから見えている永冨氏たちが実際通った尾根まで40mある。

まあ幸いにして、私はここを試す必要が無くなったが、探索が終盤まで永冨氏と同じ流れになっていたら、
これに挑戦するつもりだったのだ。このルンゼを往復することで、北口を攻略するしかないと考えていた。



(この画像の撮影地に一度戻って)
次は、右の矢印に従って、下流側をチェックする。

流れの先には不動滝が待ち受けていることは確定しているが、
この川べりというか滝沿いも、一度は永冨氏らによって通行の可能性を期待された。
彼らも最初からキツイ尾根越えでアタックしようとしたのではなく、隧道以前の旧道が、
滝の尾根を回り込むカタチで南口と北口の間をトラバースしていることにも期待を向けていた。

が、彼らの夢はあと一歩、残り20〜30mのところで潰えてしまう。
そんな彼らの“悲地”を、上流側から検分しよう。



うん…。 この方向には、まず最初の一歩目からして、道らしい地形がない。
足元にある平らな石舞台みたいな大岩は道に見えるかも知れないが、
坑口前とここを繋ぐピースがない。よじ登って来れはするが、道を感じない。

で、その前提の上で、刮目すべきはこの背後に見える薄暗い谷。

超狭く、超暗い。

あと、遮るものがなくなったせいで脳を震わせるほど大きくなった、瀑音!

このすぐ奥には、下流からだと頑なに【入口の小滝】しか見せようとしなかった不動滝
地形図では等高線を5本も乗り越えてしまっている隠された巨爆の落ち口がある!



ドドドドドドドドドドド
ドドドドドドドドドドドドドド

あー怖い怖いムリムリムリ。ムリムリ。ムリ。

これはもう近づけない。ここは俺の世界じゃない。
あと一歩も進めないし進みたくない。本当の落口は目測6mくらい向こうだが、
その直上にある次の大岩に辿り着くことが、私はもうムリだ。行く理由もないし。

しかし、落口を境にして、その向こう側が底知れずに深くなっているのが感じられる。
見た目だけじゃなくて、音の聞こえもそうである。瀑音の最大発生源は遙かに下方だ。

画像の(後述)については、後述する。



これは、足元にある滝というほどは落差のない急流が流れ込んでいる部分のアップだ。

もう見ているだけで目が回る。なんぼ深いんだこの淵。10mくらいあるんじゃないの…。
ここを泳がないと滝の落口には行けないし、専門家でない私は見ているだけで震えるよ。

というわけで、こちら方向には絶対に進めないのだが――



永冨氏らが、ひらめき(彼自身が「珍しく、「アタリ」を引いた思いつきだった」と表現している)と隧道攻略への執念とで、
南口から延々と崖を回り込もうとして、最終的に辿り着いた地点が、先ほどの画像では「後述」という目印を置いた、
この画像に矢印で示した地点であった。こちらから見るとよく分かるが、彼らはほぼ滝の落口の直上まで到達していたのだった。
(そのことを彼らが自覚することはおそらく出来なかったろう)

彼我の距離は、このとき30mくらいだが、この崖はどうやっても通過不能と判明し、
それで、もう最後の手段で、あそこから直上の尾根へ登って北口へ乗り越えようと考えたが、
非常な急斜面と疲労のため、尾根からの下降は断念し、そのまま尾根を上って林道へ脱出して投了した。(私は…それをせずに助かった…)

それにしても、この絶壁の一枚岩である岩場を横断する道が、隧道が作られる以前はあったのだろうか…。
だとしたら、橋以外は考えられないが、桟橋を挿した形跡もないので、あったとしたら、吊橋だろうな…。




(↑)この石舞台のような岩の上で撮影した全天球画像だ。

堰堤から流れてきた池郷川は、ここで進路を90度直角に折って、
空から見ればほとんどクレバスも当然の超絶狭隘な峡谷へ落ちていく。
その核心部分に不動滝があるのが主に音と空間で分かるのだが、
その滝の本体を目にすることは、この上流側からでも、
やはり素人お断りで無理だった。(“お高い”滝だぜ……マジで)

で、私はここで何気ない位置に、気になるものを見つける。

この場所に来なければ、絶対に気付かない。

たぶん人工物。


黄色い丸の中に、何が見える? (↓)




岩面に顔面が見える!

……

…………

……のはシミュラクラ現象の仕業であって、本題ではない。

その“片目”の部分にあたる、「矢印」の位置の凹みが、問題だ。



これ、人工的に岩を削って掘った孔!

もしかしたら周りに見える凹みもそうなのかもしれないが、この1つは際立って人工感がある。

でも、なぜ、こんな隧道があるのとは川の反対側の岩場の一角を孔のように削ったんだ?

ちなみにサイズは軽く50cm四方はありそうで、桟橋を支柱を立てる孔よりは遙かに巨大だ。



これはもしや、隧道の存立と関係がある、流材関連遺構では?!

こいつはなにげに、アチィ気がするッ!



 神削の峡谷に人が挑みし “セギ” の痕


2023/3/16 16:31 《現在地》

「これは凄い発見だ。」

そのように、しみじみ思った。
これは、橋や隧道のような派手な発見ではないけれど、この地に昔人の創意工夫を凝らされた、特異な林業の技が為されていた“証し”だと察したから。

ここは池郷不動滝を迂回する流材に使われたという隧道の上流側坑口に隣接する、滝の落口の間近である。ここの左岸の岩壁の水面から5〜6mの位置に、50cm四方ほどの四角形をした人工の孔(あな)が穿たれているのを見つけた。天然の穴ではなく、また通り抜けるための奥行きを持つ坑(あな)でもない、孔だ。

孔は岩壁に対して横向きに掘られており、かつ流れに対しては直角に近い角度だった。このことから、谷を跨ぐ橋の脚を支える孔ではないと分かる。そもそも、両岸ともずっと上まで絶壁で、ここに脚を置いて橋を架けるような立地ではなかった。

孔の正体として思いつくのは、池郷川を堰き止めるために堰を作った名残であろう。
現在も巨大な砂防ダムがすぐ上流にあるこの場所だが、それとは用途が異なる、永久的な構造物ではない堰が、ここにあった可能性が強く示唆されている。
いや、何らかの堰の存在自体は、永冨氏のレポートにある古老の証言からも予期された事柄ではあったのだ。
具体的には、第3回でも一度引用している次の部分だ。

隧道に水を導き入れ、一緒に材木を流した、いわば水路隧道だったのだ。隧道を通った丸太は勢いよく飛んで、崖下の淵へドボンと落ちた。それを製材所で引き上げて製板し、トロッコで東熊野街道まで運び出していた。

『日本の廃道 vol.78』より

「隧道に水を導き入れ、一緒に材木を流した」とある。

このようなことを実現するためには、川の流れを操作するための堰がどこかに必要になるはず。具体的には、池郷川を堰き止める堰と、隧道の入口を塞いでおく堰、それらの両方か、少なくともどちらか一方は必須であったろう。
そうでなければ、隧道はただの川の一部となってしまい、人の制御のもとに木材を流すことは叶わないだろう。


というわけで、この写真の孔(すぐ近くにいくつもある似た凹みも同様のものかもしれない)の正体としては、池郷川を堰き止めて水位を調整することで、水面よりも一段高い位置にある流材隧道へ必要なだけ水を流し込むために設けられた、水位調整のための堰の名残と推定している。
すなわち、隧道と一体となって不動滝の運材を実現するための重要な装置であったのだと。

この構造物についての技術的な推測は、分野の専門家でもない私には難しく、高度な推理を持ち込むことは出来ないが、その代わりに、この岩の孔を見ていると、ひどく感情を心を揺さぶられるものがあった。理性の外に働きかけてくる情動があった。

ここに独り立って、瀑音に頭を揺らされ、冷たい水煙を頬に浴びながら、岩崖に刻まれた魔神の拇印の如き孔を見ていると、人間の底力に対する畏怖というべきものが沸々と湧き上がってくる。天地創造の神々が作り出した、生身の人には到底太刀打ちの出来ない巨爆の大悪地でさえ、人は知恵を働かせ、自ら持ち込んだ小さな道具と、そこにある岩や木を加工する技、欲と勇気、時には命を賭すことで、遂には克服してしまう。これが、畏れ多くも、人だけが持つ業(わざ)。



私が凄いのではなく、かつてこの地に働いた人々が凄いのだが、例によって、私という道を通じて人間の持つ力を賞賛したい欲を持つ“人間賛者”は、これを自らの偉業のように誇らしく思って喜んだ。人の“御業”を最前列で鑑賞したような気がして、とても痛快だった。

隧道の北口という、私の探索における明解な行き止まりの地での調査活動も、孔の発見で期待以上の成果を収めた感があり、唯一の生還路として理解される隧道への帰還まで、残すところはあとは「上流方向」の調査だけとなった。

この方向には、地形図にも描かれている砂防ダムが100m先に立ちはだかっており、そこがゴールになることは明らかだったが、行ってみよう。
これは隧道北口の全体を撮影して記録するためともう一つ、“孔”の正体が堰であったことをより確信するためにも、坑口前から少し離れて全体を見る視座が欲しかった。

で、坑口前から上流方向へ進むのも、困難とまではいわないが、鼻唄交じりではムリだ。
増水のたびに磨かれて滑りやすくなった岩場の縁を、奥の石舞台のような大岩まで数メートル横断する必要がある。水はどこも渡れない深さだ。

改めて、隧道の北口が目に見える道の終点であり、この先には南口のような手厚い通路はない。
それだけに、なぜ南口の前まで手摺り付きの通路が存在したのかという大きな疑問が生じる。
これについては永冨氏のレポートも沈黙しているが、個人的にはとても気になるところである。
もともと滝の上下を結ぶ山仕事道として、この道や隧道が利用されていたのは明らかで、当時のものらしき崩れた石垣も見てきたが、金属の手摺りは場違い&時代違い過ぎたように思う。
(下北山スポーツ公園が、平成初期頃に滝までの遊歩道を整備しようとしたという説が私の中では濃厚だが、証拠はまだない)



辿り着いた、堰堤直下の右岸石舞台より随道坑口付近を振り返って撮影した、この2枚の写真(チェンジ後の画像とセット)を見て欲しい。
置き去りにしてきた青いザックがどちらの写真にも写っているが、こうして上流側から見ると、平水時の水面の高さと、坑口の洞床の高さには、3〜4mという小さくない落差があることが分かる。

この落差の分だけ水位を上げてやらないと、隧道に水は流れ込まないのである。
逆に言えば、永冨氏一行を悲歎に導いた流木による隧道閉塞も、私を歓喜へ導いたその自然解消、そのどちらが起ったときも、それだけ水位は上昇していたということになる。その場面の迫力たるや、想像するだけに怖気がする。
(そのときは、私が立っている場所も完全に水に浸かっていたはずで、もし居たらあっという間に流されてしまい……、池郷川へ流れれば5秒で滝に呑まれて即死、運良く隧道へ流れれば、20秒後くらいに南口から吹き出して、無事死亡となっただろう)

増水時は自然に水が隧道にも流れ込むが、おそらくそれを避けるための堰が、かつては隧道側にあっただろう。そうでなければ危険すぎる。
そして、平水時に隧道を流材の通路として利用するためには、川の方を堰き止める必要があった。
そのための堰の痕跡が、前述の“孔”だろう。



16:33 《現在地》

高さ10m以上はあろうかという、谷を塞ぐ壁そのものである堰堤。
この天端より低い谷の中には、苔以外の一木一草も生えていない感じが、世界の果てじみている。
今日の水量は少ないと思うが、それでも峡谷を渦巻く谷風で舞い上がった水煙が、坑口からここまでの谷の全体を常に湿らせている。まさに、この地の現支配者を思わせる風格があった。

この砂防ダムとみられる堰堤は、一体いつからあり、どのように建造されたのだろうか。
これを明確にする資料は残念ながら見当らない。堰堤にしばしば取り付けられている銘板も見当らない。
だが、過去の沢登りなどの記録を見る限り、戦前は無かったようである。

そもそも、堰は堰でも、固定された堰は、流材と相容れない存在だ。
池郷川で流材が行われる可能性が無くなったのは、川沿いに奥地まで運材トラックが通れる林道の整備が進んでからであり、現在の白谷池郷林道の前身である池郷林道が、昭和32(1957)年の登山ガイド書『大峯の山と谷』に既に登場しているから、おそらく昭和30年代以降に堰堤も建設されたと思う。また、外観や水流による風化の度合いからは、昭和50年代以降の印象を受ける。

いずれにしても、この巨大な堰堤の建造には、林道が主要な資材搬入路として活用されたと考えられるが、同時に今回の隧道や歩道がサブの作業用通路として活用された可能性があり、その再整備に一役買ったかも知れない。(隧道南口にあった【鉄筋の手摺り】あたりが怪しいと思う)

私の“素人”遡行も、ここまでだ。
この先は、もう道という手ほどきがない以上、完全に私の手に余るだろう。堰堤には両肩の部分に一応の通路目的?なのか階段状の段差が設けられていて、沢を遡行する人たちがそこを利用しているようだが、見た目以上に危険(角が取れているし濡れているし急だし、上ったは良いが下りられなくなりそうだし)なので、堰堤の上は遠慮しよう。




堰堤直下で周囲をぐるりと見回しながら短い動画を回してみた。
この恐ろしく閉ざされた感じがする狭い世界に満ちる、迫真の空気を味わって欲しい。
そしてこの動画には、私が上流側から探したいと思ったものも、しっかりと映っている。

それが何かといえば……(↓)



これこれ! やっぱりあったか!

先に見つけた左岸の“孔”と対になる、右岸の“孔”!

先ほど、滝の落口方向へ向かった時に、そこまでしか行けなかった石舞台のような大岩の上部に、
確かにその孔はあった。自然に形成されたにしては些か周囲の凹凸より深い、やはり50cm四方ほどの孔。



で、ここでミスショット。

見つけた孔を望遠で撮影しようと思ってファインダーを覗いたはずが、
それは左上に半分フレームアウトしていて、なぜか一羽の小さな猛禽が中央に収まっている。

現地ではちゃんと撮ったつもりだったから撮り直しをしなかったのだが、思い出してみると、
撮影の瞬間にこのトリが、ちょうど問題の孔が巣穴でそれを護ろうとするかのような早い動きで、
滝がある方の谷からビュッと飛来し、この岩場に留まった刹那、小さな目で私を一瞥したのを感じた。

見られた、そう思った次の瞬間には、また元の谷の方へ飛び去り、二度と現れなかった。
私は、この場所で私を雁字搦めにして全く自由を阻害している悪地形を、微塵も感じさせない
その鮮やかな動作に一瞬見とれて、おそらく半ば無意識に彼の方へカメラを向け、
シャッターを切っていたのだろう。そのまま、孔を撮った気になって帰ってきたのだった。

谷の守りトリ……は大袈裟かも知れないが、神々しいばかりの動きの切れだった。



そしてこちらは、とても大雑把な作図だが、

堰を作って滝側を堰き止め、隧道に水を導き入れていた状況の想像図だ。

堰の詳細な構造は分からないが、おそらく堰の天端の部分には、谷を跨ぐカタチで
太さ50cmもあろうかという巨大な横木が両岸の岩盤に挿し込まれていて、
それを屋台骨としつつ、他にも多数の梁材で補強しながら、木造の堰が作られていたと想像する。
そこには水位を適宜調整しつつ、材木の流失を抑える水門もあったであろう。

隧道側は、洞床を水が勢いよく流れれば十分なので、さほどの水位は必要あるまい。
この材木はまとめて流したのではなく、堰によって出来たプールに滞留させてから、
陸地より竿のようなもので人が操作しながら、1本ずつ隧道に流し込んだだろう。

古老の証言でも、池郷川で行われていた流材の方法としては、「一本流し」というワードが出ており、
これは大量の材木を増水時に一気に流す「鉄砲出し」とは異なる手法である(後述)。



堰を使った流材のルートを地図上に示せば、上記の通りとなろう。




『日本の廃道 vol.78』より

具体的な堰の形状については分からないと先に書いたが、実際に池郷川を堰き止めていた林業目的の堰という意味では、永冨氏のレポートに登場しているこの絵葉書(本編冒頭でも使用)の中に見える堰が、参考になるかも知れない。

おそらくは池郷川口の(現)旧池郷橋付近で撮影されたとみられる、笹川商店林業部の「川中土場」を撮影したこの絵葉書(撮影年不明)の上の方に、池郷川を堰き止めているらしき巨大な木造の堰が写っている。
林鉄橋を思わせるトレッスル構造の木造堰は2階建てで相当の高さがあり、手前の景色と比べれば相当に大きなものであるはずの丸太が、どれも爪楊枝のように見えるサイズ感だ。

このような大掛りな堰を地形を活かして即席に作り出せる技術が、この地方の林業家に備わっていた証しであると同時に、構造についても参考になるかもしれない。

また、昭和48(1973)年というかなり早い時期に刊行されている『下北山村史』には、古くから林業を経済の中心としてきた同村だけあって、村で営まれた林業の手法についての解説が膨大にある。
全てを読み込んだわけではないが、全文検索を行うと、池郷川で行われていた「一本流し」についても言及があり、事実関係や使っている用語などに古老の証言との符号が見られた。
以下はその一例。

カ リ カ ワ ( 一本流し )
材木をばらで流すことをカリカワという。つまり一本流しである。一本流しは池郷、西川などの支流の口にクミセギを作って、大川のデまで流し出すくらいで、この辺の人は大体あまりカリカワはやらなかった。

『下北山村史』より

この狩川(カリカワ)というワードも、私は見覚えがある。
この地から大峰山脈を越えて隣接する十津川村は芦廼瀬川の“謎の穴”の聞き取り調査(おこぜ氏が行ってくれた)でも、同地の古老が「カリガワ」という言葉を述べていて、木を一本ずつ流すという下北山村史と同じ内容を指していた。

おそらく、村史にある池郷川で行われていた一本流しの現場風景が、まさしく前出の絵葉書なのであろう。
「大川のデ」とは、地元の人が大川と読んでいる北山川との出合、すなわち池郷川口(絵葉書撮影の擬定地)を指しているのだ。
また「クミセギ」とは漢字で書けば組堰で、木材を組んで作った堰のことではないかと思う(当地では堰を「セギ」と呼ぶ)。

セギ ( テッポウセギ・クワンヌキ )
筏師のセギは、水量の乏しい岩の多い川を堰いて、溜まった水を一気に抜いて、その水勢で筏を押し流すテッポウセギ(鉄砲堰)である。池郷ではずっと奥で藤田組などがやったが、土地の人はやらなかった。
川のトコ(岩盤)が見えるまで掘り下げて、底にネギといって大きな材木を横に入れて築いてゆく。次にたてに材木を並べて、すき間に土やコケを詰めて水もれを防ぎ、真中をあけて板をはめ、水が溜まればボンと抜いて、集積した筏を流してやる仕掛けである。

『下北山村史』より

上記の鉄砲堰の築造方法は参考になりそうだが、実際に不動滝で行われていたのは鉄砲堰を使った鉄砲出しではなかった。池郷でも奥地で藤田組がやったと書かれているが、これは村史の別の部分で、不動滝より遙か上流にある支流大又沢でのことであることが判明している。

セギダシ ( 堰出し )
ダシの作るセギは水を溜めるだけで、筏師のテッポウセギのように水勢によって押流す仕掛けではない。半道も一里も奥から小谷を階段状に堰いて、コケなどを詰めて水を溜め、下の段のセギの湛水に材木を落とし込む。

『下北山村史』より

不動滝上部で行われていたのは、こちらの堰出しの方だと思われる。
説明文の冒頭にある「ダシ」というのは、その名の通り、杣が伐採した材木を、筏師が流材を行う広い川まで運び出す過程の仕事を行う職人をいう。
池郷不動滝での仕事はまさにこの「ダシ」の領分であった。

極めて危険な地形を舞台に、機械力よりも人力を遙かに多用した北山地方でのかつての林業は、超人的な職人たちの住む世界であった。
前の回で引用した前鬼谷不動滝での出材はその一例であり、池郷不動滝もまた極まった職人たちの跋扈する世界だったに違いない。
村史の記述を読み進めると、比較的早期にさまざまな分野の機械化が進められた国有林とは異なり、民有林が大半を占めた北山地方林業独特の冒険的世界を垣間見る気持ちがする。


……発見に満足したし、ここを出るぞ。


16:38 撤収開始。




戻り道、隧道を北口から南口に通り抜ける一部始終をノーカットで動画撮影した。

サイズ感や空気感が伝わると思うので、ぜひご覧いただきたい。



(心残りは、何かあるか?)