常磐線 旧隧道群11連発 その1 

公開日 2006.01.29
探索日 2006.01.21



 これから数回にわたり紹介するのは、常磐線の旧隧道たちである。

 常磐線は東京都荒川区にある日暮里駅と宮城県岩沼市の岩沼駅を太平洋岸に沿って結ぶ全長343kmあまりの幹線鉄道である。
首都圏と東北地方を繋ぐ鉄道として東北本線を補完するのみならず、福島県浜通地方や茨城県海岸沿い及び宮城県南部の動脈となっており、多くの特急列車や貨物列車が日夜疾駆するこの路線は、東北地方では東北本線に次いで歴史の深い鉄道である。

 その誕生には東北本線同様、日本鉄道株式会社が深く関わっており、明治38年に日本鉄道によって現在利用されている全線が完成している。
その翌年には国有化され、それまで「磐城線」や「海岸線」などと呼ばれていた本路線は、「常磐線」が正式名称となる。
全線開通以前の明治31年に開通した久ノ浜〜小高間は丘陵が海岸線に落ち込む縁に鉄道が敷かれており、これらの起伏を突破するために多くの隧道が建設された。

 その中でも最長のものは、竜田〜富岡間の丘陵地帯に掘られた、全長1656mの金山隧道である。
その他の隧道と同様に、昭和40年代初めに電化工事に伴い廃止されているが、今日でも、その坑口に掲げられた日本鉄道の社紋である動輪が、多くの廃線ファンの心を捉えて離さない。
ここは、日本有数の廃線ファンの聖地として、その手の本には大概紹介されている。

 「山行が」としてはあまりメジャーな物件。
とくに多くの媒体で紹介され知り尽くされた感のある常磐線の隧道群については、いずれも接近が容易いと聞いていたこともあって、あまり食指を動かされなかったのであるが、昨年末になって、この有名な金山隧道の全長を初めて知ると同時に、この長さ故に洞内を貫通して紹介したレポートが皆無であるという話を聞き、俄然意欲が湧いてきたのである。

 あの“手垢べったり”かと思っていた動輪の奥に、未知の暗闇が長々と広がっているのだとしたら…。

 これはもう、居ても立ってもいられない。
私は秋田県下の豪雪に嫌気が差しきった06年1月末に、長足で常磐線北の終点である岩沼市へと車を走らせた。

 当方の調べでは、常磐線には現時点で22の休廃止隧道が存在しており、そのうちの半数である11までを紹介しよう。(残りは今後の探索待ちである)
北から順に紹介していくが、最後に控えるのが最長最強の金山隧道である。
お楽しみに…。



下郡隧道

岩沼〜逢隈 間

 東北本線から常磐線が分かれる岩沼駅と、常磐線一つめの駅である逢隈(おおくま)駅の間に、早速にして一つめの廃された隧道が眠っている。
まずはここから紹介しよう。

 この区間は、明治30年に中村(現:相馬)〜岩沼間の開通にあわせて供用された区間だが、当時はまだ逢隈駅は影も形もなく、信号所時代を経て逢隈が駅となったのは昭和63年と、常磐線区内では最も新しい駅である。
このすぐ北側に小高い丘を貫通する下郡隧道があり、その先では築堤と橋が連続して阿武隈川の大河を跨ぐ。
 旧線と平行して建設された現在線が昭和42年に利用開始となり、旧線上の阿武隈川橋梁他幾つかの橋梁と下郡隧道を含む1.8kmが廃止された。
これは、常磐線内の他の線路付け替えと同様に電化によるものだ。
つまりは、明治の隧道が電化工事に支障したということだ。(もちろん老朽化も理由に含まれるだろう。)


10:28

 前日夜に秋田を自身の運転するエスクードで発ち、当日0時頃に仙台市へ到着。
適当なコンビニの駐車場で仮眠をとった後、仙台市街を縦断し国道4号線のバイパスから岩沼市街で国道6号に進入。
阿武隈川を渡り最初の逢隈地区にて合流してきた県道52号線に折れた。
間もなく県道は工事中のため片側交互通行となったあたりでガーダー橋の連続する常磐線を潜る。
これが阿武隈川避溢橋梁で、前後の築堤にはガーダー橋の載っていないもう一線分の幅がある。
現在線と平行して旧線が存在していたのだが、橋桁は全て取り外されている。
この少し北の阿武隈川橋梁も同様である。


 阿武隈川橋梁もその氾濫原である低地帯を跨ぐ避溢橋梁も橋台以外は現存しないが、これらに挟まれた場所に町道を跨ぐガードがあった。
 ここも橋桁は撤去されているが、写真の通り煉瓦積みの重厚な橋台を間近に見ることができる。
(奥のガーダーは現在線のものだ)

 右の地図で言えば、赤字の「跨道橋」の位置にいる。


 橋台の上部はコンクリートになっており、その接線には煉瓦の切り欠きがあり、旧来の橋台はコンクリートの分だけ低かった可能性がある。
廃止以前にも橋の架け替えが行われ、嵩上げされたのだろうか。
コンクリートの様子から見ても、昭和に入ってからの施工と思われる。

 それにしても、ツッコミたくないが、敢えて突っ込ませてもらう。
ここに「SEX」って落書きした奴!
なんで「SEX」なんだよ。
だからなんなんだよ!
何を言いたいんだ!!
そんなにこの煉瓦に欲情するのか?!


10:34

 土地勘がないために車を置く場所が定められず、とりあえず最寄りの逢隈駅に行ってみた。
スッキリとした駅舎と一段高い島式ホーム、駅前の日当たりの良い駐車場と自転車置き場。
周辺には田んぼが目立つが民家も多く、以下にも新興地らしい好ましい駅の姿だ。
昭和の最後に生まれたばかりの駅は、自分が田舎を離れ都市近郊にいるのだと実感される景色だった。

 駅前の駐車場には「利用は30分以内」と注意書きがあったので、タイムリミットを30分に設定し、チャリを降ろすと急ぎ探索に移った。
慣れない土地で車で路地に入って右往左往するよりは、チャリでパパパッと探索してしまうのがいい。


 駅の北の端からさらに北を見ると、現在線の下郡トンネルが辛うじて見えたので、その山側に並んでいると思われる旧隧道は近そうだった。
このまま線路脇を歩いても確実に接近できるだろうが、土曜日のせいか駅前の人通りが多く、せっかくチャリも組み立てたし、ここは正攻法(?)で隧道を目指すことにした。
狭い町道を走り、下郡トンネルが潜る小山を迂回して最初に来た県道へと戻った。


 片側交互通行中の避溢橋梁付近は、車だと立ち止まって観察することが難しかったが、チャリだと小径へ入ってじっくりと観察できた。
そこから近くの工場の社員駐車場へ入らせてもらい、その隅っこの砂利の上にチャリを駐めた。

 目の前には山際を流れるコンクリートに囲まれた小さな水路を跨ぐガーダー橋があり、その向こうには現在線の下郡トンネルの無表情なコンクリ坑門が見えていた。
水路脇の堤に上り、そのまま現在線のガーダーを潜った。
ガーダーには「田沢橋梁」と銘板が付けられており、橋の名前が分かった。


 現在線の田沢橋梁の隣には、なんとまだ旧線のコンクリート橋が架かったままになって残っていた。
旧「田沢橋梁」として良かろう。

 橋台は煉瓦で、最大の水面までは白っぽく変色していたが、欠けもなく綺麗なものだ。
ただ、此方からではこの橋を跨がねば下郡隧道には近づけないと知り、猛烈な橋上の枯藪にうんざりした。



 常緑の葉っぱを付けた木の幹を伝って旧線上によじ登ると、下かた見たとおりの猛烈なブッシュになっていた。

 この写真はトンネルとは逆側の阿武隈川方向を写しているが、しばし築堤の先は避溢橋梁の失われた部分に続いているようだ。
脇には現在線のガーダーが並んでいる。


 滅茶苦茶大股で枯藪を踏み分けて進む。
しかし、足が絡んだ上に転倒しそうになって手を付けた場所がイバラで、早速悶絶。
藪の向こうには初めて目指す旧隧道が見えていたが、有るのが当たり前なような醒めた気持ちで、目の前の藪に手間取っていることに苛立ってしまう。

 …修行が足りんな…。

 なお、現在地は右の地図中の赤字の「用水路橋」の位置だ。


10:42

 今年(06年)が築109年目となる下郡隧道。
阿武隈川に面した低い砂丘山を貫通する、約200mほどの隧道で、常磐線の隧道としてはいわき〜久ノ浜間の隧道群と並び最古級のものである。
両側には短い石組みがあり、その奥の煉瓦坑門は年期に違わず重厚なものである。
壁柱がない他は笠石や帯石と言った同年代の隧道らしい坑口の意匠を一通り揃えている。
ただし、全体的に黒っぽく変色していることと、ツタによって大部分が隠されていること、なによりも坑口を半ば塞ぐ鉄製の門扉の存在によって、美観は大いに損なわれている。

 よく考えると、明治30年竣功の本隧道はこれまで山行がが紹介した全ての鉄道隧道の中でもかなりの古株であり、東北本線上の有壁隧道浦島隧道などがこれよりも古いが、あの赤岩の奥羽本線隧道群でさえ、2年ほど新しかったりする。(ただしこれは営業開始年についてで、工事開始年で言えば難工事の赤岩は明治27年頃に隧道工事に着手しており、おそらく赤岩の方が古い。)


 有刺鉄線が張られた門扉には施錠されており、脇にも鉄線が睨みを利かせている。
しかし、向かって左側にはなぜか線が張られておらず、体格にも因るがすり抜けは可能である。

 坑口の特徴と言えるか分からないが、アーチの部分が要石を含め煉瓦ではなく、すべてコンクリートの吹きつけになっている。
ただし、これは内壁にもそのまま続いており、後の補修工事による改変であるとおもう。

 直線の隧道は、照明がなくとも出口まで見通すことが出来、それもあってあまり内部に興味は湧かないのが本音であったが、念のため進入してみることにした。

 そのことが、私の中で一気に「やべって、常磐線面白いって!」となる、きっかけだった。



下郡隧道 その内部の異様


 内部に進入すると、乾いた空気が流れているのを感じた。
隧道らしい湿り気はなく、かなり奥まで内壁が緑っぽい事からも、光のよく通る隧道なのだと分かる。
しかし、何か強烈な違和感を感じると思えば、原因が判明。

 側壁が、直線なのだ。
近年でも歩道用の極小断面トンネルなどには採用されることがある形状だが、地圧に対する負担力が低いことから余り良い断面とは言えず、鉄道においても創成期を除いては殆ど採用例がない筈だ。
明治31年に初めて断面の規格が制定されているが、これ以前に掘られた隧道や、あるいは私鉄による隧道などでは一部にこのような変わった断面が見られる。
日本鉄道も当時の一私鉄だったわけで、この奇妙な断面もその辺に理由があるのかも知れない。
(同じ日本鉄道によって建設された現在の東北本線旧線にある仙台市の根廻隧道(明治23年竣功)も同様の直立した側壁を持つ隧道である。参考写真(根廻隧道)



 は?

 なんですか?
 このポッコリは?



 向かって右側の壁に浅い待避坑がある。

その脇には、やはりポッコリが。

 なにこれ?

 素堀り なのか?

 でも、なんでポッコリしてんの?




 ポッコリは、まるでかさぶたのようである。
ゴツゴツとしており、かといって堅い感じがするかと言われれば、全然そんなことはなく、触ればボロボロとこぼれてくる。

 実際に自然に崩壊してしまったと思われる部分もあるが(左写真)、決して煉瓦の壁の上に発生した何かというわけではなく、崩れた奥もやはり同じようなボロボロの岩だった。


 えっ、なんかこの隧道、きもーい!



 明らかにポッコリしてるから。

ここなんて、まるで今流行の下腹ポッコリそっくり。

 こんな場所がこの短い隧道の内部に、一箇所ではなく、それこそ両側に点在している。
計ったわけではないが、内壁総面積に占める10%くらいは、このような素堀とも人造とも付かぬ、怪しい凸凹の壁である。
触るとボロボロと崩れる内壁の、正体はなんだろう?




 煉瓦部分と謎の壁部分の接線部分。
不思議なことに、煉瓦が切り取られたように綺麗に接している。
もしこの壁が変にポッコリなどしていなければ、粗悪なコンクリート補修の結果かと頷けるところだが、こんな異様なふくらみ方をしたコンクリは見たことがない。
…いや、どう考えてもコンクリートではないのだ。

 謎すぎる。
皆様のご意見をぜひ、聞かせていただきたい。
単に素堀と煉瓦捲きが混ざった隧道なのだろうか?
(いずれにしても、昭和42年までこんなものが幹線に利用されていたのかよ…)



 隧道内の美術館…

 またしても怖すぎなんですが…。

 なにやら、得体の知れない文様が一部の内壁に並んでいる。
チョークで何かが書かれているので、何らかの試験が行われた痕跡か。
洞床には車の轍がはっきりしており、近年にこの中で何かが行われたのだろうか。




 なんだか狐につままれたような気持ちのまま、出口に到着。
南側坑口には北側以上に燦々と光が注いでおり、奥羽山脈を挟んで太平洋側には毎日雪に閉ざされた場所に住む我々には信じられないような「東北の1月の景色」が広がっていた。
こんなの、東北じゃないやい!(悔しくてもう。ね。)

 出て進むとすぐに逢隈駅の手前で現在線とぶつかって轍も消えてしまった。
私は引き返すことにした。



 新旧の坑口が並ぶ逢隈側。
こちらは岩沼側以上に枯れ草に包まれており、煉瓦の坑門は全くと言っていいほど見えなかった。
歩きとチャリで逢隈駅に戻ると、ちょうど30分弱だった。

 それにしても、怪しい隧道である。
はっきり言って、進入前には殆ど何も期待していなかっただけに、意外な収穫に顔がほころんだ。
常磐線の隧道たちは、これはこれで一筋縄では行かないのかも知れない。
そう思わせてくれる、一本目であった。

 次回もさらに南下しつつ、隧道たちをばっしばし貫通していく予定だ。



隧道 のこり10本。