廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第2回

公開日 2021.07.31
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 工事用軌道の痕跡を求め、中津川キャニオンへ


砂利を満載したダンプカーが似合いそうな道が、分度器を当てたような一定勾配の急坂で、一気に30m下を流れる中津川の河畔へ突き進んでいく。
行く手の谷は、両岸に顕著な角を持っており、どことなくグランドキャニオンを流れるコロラド川じみている。緑化したグランドキャニオンだ。

脚下には入浴剤が入っていそうな真っ青な激流が轟音を奏でながら迸っているが、最近洪水があって河道が変動したのか、おそらく生涯最後となる新緑を茂らせた氾濫林の巨木が、水流の真ん中に突っ立っているのが凄絶だった。

この豪快な谷底へ、私は自転車の勢いに乗せて一気に乗り込んでいく。
正直、この動きの速い谷底に、大正時代の工事用軌道の遺物なんてものが、大人しく残っている気がしなかった。

それと、今下っているこの坂道が、この勾配のままで、工事用軌道の跡という可能性は低いと思う。さすがにこれは、ダンプ向きの現代道路だ。
工事用軌道がどこにあったのか、予断を持たずに探す必要がありそう。



5:43 《現在地》

下りきると舗装が現れ、同時に勾配が平坦化し、段丘崖下の氾濫原を上流方向へ進むようになる。これは地形図に描かれている通りの道である。
そのまましばらく行くと、全く唐突に、道が川に呑まれて切れている場面に遭遇した。

最近の氾濫で道が流されたものらしく、すぐ隣に迂回する仮道が作られていた。
先に見た水没した氾濫林といい、この道の欠壊といい、広大な中津川の谷底は、未だに中津川だけが支配する領土であって、現代文明も制御はできていないことが窺えた。
ちなみに中津川には水路式発電所はあるが、本格的な洪水調整のできるダムはなく、平時こそ水量の多くを発電所に取られているが、洪水時の牙を抜かれていない川である。




川欠部分を迂回してさらに進むと、水田が現れた。
ここまで来ると、pop氏隧道擬定地の尾根も近づいてきている。とはいえ、具体的に尾根のどの位置、どの高度に彼が発見を達成したのかは、分からない。
近づけば自ずから解明の糸口が現れると期待したいが、とにかく、今いる道が軌道跡というわけではないことは、既に察しつつある。

で、このタイミングで気になる道が視界に登場した。
この道の上に、反里口集落から下ってくる別の道が現れ、問題の尾根の下あたりで合流するようになっている。
これは【前回見たこの交差点】で国道から分かれた道である。

今いる道が軌道跡でないとしたら、上の道が軌道跡なのか。



5:52 《現在地》

合流地点に到達した。
反里口の河岸段丘上から下ってきた2本の道が、ここで1本となってさらに上流へ通じている。
当初の私は、この2本の道のどちらかは軌道跡だろうと単純に考えていたが、実際に現地を見てみると、どちらも軌道跡ではないという結論が見えてきた。

pop氏が隧道を見つけた場所はこの近くだとは思うが、軌道跡の位置がまだ見えない私には、どこを探していいのかが分からなかった。
闇雲に探し回ってどうこうなるとも思えない。
もう少し冷静に周囲の観察をしてみよう。絶対にどこかにはヒントがあるはずだ。




合流地点のすぐ上流に、こんなモノを見つけた。
モノというか、これはモノレールだ。
急傾斜地にある工事現場などで利用される作業用モノレールであるが、留置されている車両が単車でなく、機関車―貨物車―客車という昔ながらの混合列車編成のようになっていて、格好よかった。
仕事はキツいと思うが、これに乗って現場へ通勤する部分だけは、きっと楽しいと思う。




恐るべき急傾斜となったモノレールが、見えない山の上へ消えていくのを見送りながら、私は川べりの道を少しだけ上流へ進んでみた。
するとそこには「車両通行止」という工事看板が立っていた。
おそらく昨春ここを訪れたpop氏が、「南口については、道路が通行止めのため確認できませんでした」と報告して下さったのは、この工事絡みかと思う。
しかし時間が早いせいか工事関係者の姿はなく、今なら進めそうだった。

このまま川べりの道を行けば間違いなく上流へは進めるだろうが、pop氏が現存を教えてくれた隧道の北口を取りこぼして進むことになろう。
今後、南口が首尾良く発見できて、そこから北口へ通じていれば失点は取り返せるが……。




まさか、モノレールを這い上がっていくと、隧道に辿り着けたりするのだろうか?


そんなわけ、ないよなぁ……。



有力な事前情報を得ていたことで、少し油断していたのかも知れない。
思いのほか、入口の所で苦戦してしまっている。
出来ればここはすんなり通って、隧道内探索からさらなる奥地の探索という、pop氏から託された領域へ踏み込みたいのだが、出鼻を挫かれている。
だがまだまだ時間はある。焦ってはいけない。
冷静に、持参した新旧地形図を、もう一度よく見直してみる。

……見直してみると……

隧道は、もう少し高い位置にあったのかも?

旧地形図で、隧道へと通じていた“軽車道”は、全体的にもう少し高い位置に描かれている。
さっきから私がいるのは谷底だが、探すべきは、もう少し高い位置かも知れない。
あながち、モノレールを辿るのは間違いではないのかも……。

旧地形図の正確性を考えれば、現在の地形図に重ね合わせて見較べることに過剰な期待を持ってはいけないのだが、それでも谷底より等高線1〜2本ぶん高い位置(+20〜40m)に隧道が描かれていることは、重視すべきかもしれない。



というわけなんで、越えたばかりの分岐へ戻り、まだ通ったことがないこの右の道を、反里口集落まで辿ってみることにした。

軌道がこの斜面のもっと高い位置にあったとしたら、反里口集落まで行く途中どこかでこの道とぶつかるところがあるはず。
それを見つけ出して、探索の糸口を掴みたい。




右の道を登り始めた。
左下に先ほど通った道が見下ろされる。
しかし、下から見た時の印象以上に、この道も勾配は急だ。
やはり、軌道跡はこの道でもないということだろう。

そうなると、いよいよ可能性は上方に絞られる。
探すべきは、もっと上だ。
上に目を向けながら、先へ進む。

……次の写真は、画像の“☆印”の位置から撮影した、“上方の眺め”である。





おわかり、いただけただろうか?




斜面上部に、石垣らしきものを発見!


ようやく、軌道跡のしっぽを掴んだか?!

見るからに古そうな、河原の丸石を空積みしただけの素朴な石垣に見える。
とはいえ、河原からあの高さまで石を運び上げるのは大仕事であって、
冗談で作ったものであるはずはない。真摯なるもの。すなわち……!

植物が邪魔をしてよく見えないが、道より15mくらいは高い位置だ。
だがこの落差なら、今の道をこのまま進めばやがて追いつくだろう。



やはり、一筋縄ではいかない模様。
初めて捕えたかに思われた石垣も、道を10m上流へ進むと、ご覧の見上げた草斜面に呑み込まれて、全く痕跡がなくなってしまった。
ここは凹んでいて、いかにも地すべり跡地である。

おそらく、大正時代に使われて以来、再建されたことがない軌道跡である。
どんなに荒れ果てていたとしても、驚くにはあたらないのだろう。
そうなると逆に、今見つけた石垣の貴重度はグンと上がる。
今は素通りして反里口集落を目指すが、必ず戻ってくるので、その時には石垣に近づいてみようと思う。
あれが本当に軌道跡なら、そこを基点に隧道を探し出してやる!




最後は猛烈といっていいくらいの急坂を越えて、道は段丘面の上に辿り着く。
先ほど見えた“石垣”を基点に水平のラインを延長すると、ちょうどこの段丘面の高さに合致するようであった。

……いや、さすがにこれは少し出来すぎな牽強付会の説か。(汗)
計器測定したわけではないので自信を持っては言えないが、とりあえずここではそういう“仮定”で先へ進んでみたい。




6:01 《現在地》

いま私の中の“仮定”では、軌道が右から合流してきたことになっている。
前方には反里口集落のカラフルな家並みが、自分と同じ地平に現れた。
あそこまで行けば国道が待っている。
もしも“仮定”が正しければ、この先の集落内で何か軌道の痕跡を見つけられるかも知れない。

早く軌道跡を辿り始めてくれ。このような試行錯誤の過程はいらないという声もあるかも知れないが、詳細な位置も、何が残っているかも、どちらも分からない軌道跡を探索しようとすれば、入口の部分が一番難しいのは当然で、私はいまその難しい部分にいる。




最後に少しだけ上って、反里口集落へ。



(………………ピクリ……)




(……いや違うかな……? 一旦、先へ行こう。)




6:04 《現在地》

国道の交差点に辿り着いた。
ちょうど30分前に、国道側からここを【撮影】している。
これ以上進んでも、探索対象から離れるだけなので、ここで引き返すことにする。

いま、実は凄く気になっていることがある。
1枚前の写真の場面だ。
そこが凄く気になった。

戻りがてら、よく調べよう。



6:05 《現在地》

ここで交差してる道って、軌道跡じゃない?

本当にいっさい事前情報はないし、また最終的に正しいといえる証拠もないのだが、

私の嗅覚がそう訴えていた。

ここまではっきり書いたからには、もし間違っていたら私は恥ずかしいが。



(↑全天球画像)

位置的には、私がさっきから盛んに述べている“仮定”と、合致する。

“仮定”のルートでこの反里口集落へ辿り着いた軌道が、ここで町道と交差しているのではなかろうか。



なんか興奮するの私だけ?

林鉄の探索とかでも、こういう発見のシーンはたくさんあるのだけど、
今回の中津川発電所工事用電気軌道は、存在した期間が余りに短く、しかも古く、
日本の鉄道シーンにおける隠しキャラのようなレア廃線跡の(勝手な)認識があるせいか、
しれっと事前情報にない廃線跡をこんな街中で見つけたということに、とても興奮した。



期間762mmのレールと枕木がうっすら見えそうな気がしてこない?

林鉄でとても見慣れた道幅だよこれは。(ここは電気軌道だったので架線もあったはずだが)

道行く古老がいたら聞いてみたかったけど、こういうときにあいにく誰もいない。

とりあえず、少し辿ってみよう。



間違いないと思う。

軌道跡だこれ。

幻の工事用電気軌道の廃線跡が、反里口集落内に残っていた。

ここでは古びた灌漑水路と軌道跡が並走していた。

排他的な造りではないので、両者は同じ時代の生まれなのかも。



なるほど〜、こういう感じだったんだね〜。

よく見る感じの軌道跡で、ほっこりする。
勾配の緩やかさ、道幅、カーブの急さ、あらゆるところに軌間762mmの軌道跡らしさが滲み出ているように思った。ひとことで言えば、馴染みのある風景だった。

また、これが普通の道の跡ではないと考えられる特徴も有していた。
それは、地形的な必然性がないのに、迂回してまで斜面を選んで道を通したとみられる点だ。

ここには空積みの低い石垣が道の上下にあるが、これは本来斜面だったところに道を作ったためである。
すぐ上に平らな土地があるのに、敢えてそういう斜面を選んで通ったのだ。それはなぜか? ここがもともと沿道からの出入りが自由な普通の道ではなかったからだ。

たとえば、田畑に元からある畦道は、耕地の中についている。
集落に元からある生活道路も、集落の中ほどにあるはずだ。
これらが敢えて端を選んで通ったりはしない。

だが、既に田畑や集落の開発が行われているところに、後から外部資本の作る軌道、たとえば鉱山軌道、森林軌道、工事用軌道などが割り込んでくる場合、出来るだけ土地の買収価格を抑えたいという敷設側の意識や、軌道による地区の分断を避けたいという地元側の思惑から、従来はあまり利用されていなかった斜面を選んで敷設されるケースが多い。
ここにもその特徴はありありと見て取れた。これは軌道跡と察するに足る大きな特徴である。




『津南町史 通史編下巻』より

このひっそりとした細道を、約100年も前のわずか4年間、右のような奇妙な姿をした機関車たちが、建設資材や関係者を乗せて行き来していた。

この路傍に並ぶ大木が、鉄道防雪林だったらムネアツだ。
ここ津南は、毎年の累積積雪量が3mをこえるような日本一の豪雪地だが、工事を急ぎたい会社の命令により、起点から穴藤までの区間では冬期も除雪しながら運行していたというから、防雪林があっても不思議はない。



6:09 《現在地》

交差点からおおよそ100m。
民家裏の斜面を石垣によって切り抜けた軌道跡は、段々畑の縁に突き当たって、一旦途切れた。
しかしこの先にも続いていた気配がある。素直に辿っていけば、まだ発見がありそうだが、
今回の探索目標は「反里口〜穴藤」であり、この先は「反里口〜釜落し」の区間である。
小さな楽しみをひとつ、将来に取っておこう。

今はここで引き返し、今度こそ、“pop氏隧道”の在処へ!

ようやく探し求めた軌道の一端を見つけ出した今の私なら、ちゃんと隧道も見つけられるはず!



 溶けゆく山の軌道跡


6:11 《現在地》

探索開始から1時間半、ついに見つけた、自信を持って軌道跡と思える遺構。
レールや枕木といった直接の証拠や、信頼できる古老の証言がないなかで、“絵的”にはいまいち確信が持てないと思うが、私の中では妙に自信を持てていた。

というわけで、これでようやく探索は、表題である「反里口〜穴藤」の本当の意味でのスタートラインに立った。
現在地の反里口集落から、中津川沿いにあると見られる軌道跡を辿りながら、おおよそ3.5km離れた穴藤の第一発電所を目指すことにする。

次の小目標として、ここへ来る途中に見つけた【斜面上方の石垣】を確かめに行こう。
おそらくあれが軌道跡の続きだ。
写真正面の軌道跡とみられる小径へ出発進行!




軽トラ専用と言わんばかりの激狭道だが、軌間762mmの軌道跡としてはありがちな広さだ。
全国Q地図によると、この道も町道に認定されている。
しかし、令和の今となっては、大正時代にここに線路が敷かれていたことを知っている人は地元にさえ少ないのではないだろうか。もしこれが知られている事実なら、案内板とかが立っていてもおかしくないくらいには珍しい電気軌道の跡だと思う。

すぐ下に並走するのは、先ほど通った町道だ。
この写真だと、このまま町道へ通り抜けられそうに見えるが、実際は無理だ。




軌道跡とみられる道は、床固工が連なる急傾斜の小川を横断する。
山田橋という狭い橋が架かっているが、橋は昭和47年竣工で、谷を改修した際に架けられたもののようである。
軌道時代もここに橋が架かっていたと思うが、橋台を含め全く痕跡は見いだせなかった。

橋を渡ると民家に突き当たり、そこで道は終わっていた。
かつてはそのままの高さをキープしながら、棚田の縁の石垣をなぞるように、奥の町道まで辿り着いていたはずだ。
町道の整備と引き換えに、この短い区間の軌道跡は道路としての役目を終えたのではないだろうか。

以上で、反里口集落内での探索は終わりとなる。



6:13 《現在地》

さっき上ってきたこの坂道を今度は下る。
集落からここまでの軌道跡は町道と重なってたと思うが、おそらくここが分岐地点だ。
町道は谷底にある田んぼに用事があるので下って行くが、軌道はもっと上流の穴藤まで行くことを考えて、高度をキープしていく。
電気軌道といっても、勾配に対して非力であることは手押し軌道と大差なく、出来るだけ避けようとするのは当然だ。

ここから始まる坂道の途中で先ほど石垣を見つけているので、そこを目指す。
ピンクの矢印のところだ。




ここから山へ入る。

道のようなものは見当らないので、適当に杉林の斜面をよじ登る。
もちろん、自転車は連れて行けないので、ここに置き去りだ。
pop氏はどこから入って隧道に到達したのか気になるが、今の私が手にしている唯一の手掛かりは、この上の石垣である。
まずはこれが軌道跡の遺構であると確信したい!




到達!

まさしく空積みの石垣。

よもや見間違いはないと思っていたが、これは確かに石垣だ。
それに、この苔生しきった感じは、いかにも古そう。
そもそも、空積みというだけで古さの塊みたいだ。

石垣を左へ迂回して、それが守り抜いてきた平場へ、初めて立つ!




来た。

静かに頷く私。
派手なものは何もない。
ただの平場だ。
余りに見慣れた、かつて道だった平場の姿が、そこにはあった。

平場に“名札”は付いていないが、無関係の道との偶然の遭遇だとは思わない。
地方の山奥に、偶然遭遇するほどの密度で、石垣を持つ廃道が張り巡らされていたりは普通しない。
推理の先でこれに出会ったということ自体、推理が正しく働いて、正しいものを探し当てた可能性が高いことを物語っていた。

さて、ここから進めるのは写真手前の穴藤方向だけだ。
奥の方は【こういう斜面】で、道は跡形もないことを既に確認している。



この道の先に、数年来の謎であった、“昭和26年地形図上の隧道”が待っているのか!

地形的にはもう少し距離がありそうだが、高まる遭遇の予感に、ボルテージは急上昇。
今日の最初に目にした、いろいろ不穏で不安なもののことも一時忘れたように楽しんだ。

しかし、冷静に観察すれば、この写真の風景は既におかしい。
平場の続きがあるべき位置を、妙に緩慢な、弛緩したような明るい斜面が占めているではないか。

この撮影のわずか1分後、写真のすぐ奥の地点で私は前進を断念し、下の町道へ戻る羽目になった。



撤退の理由、 これ→

これは町道から見上げた写真だが、こんなに広い崩壊斜面になっていた。
こんな柔らかそうな土の山に線路を敷いても、長持ちするはずはなかったろう。
工事用軌道ということで、最初から長く使うつもりもなかったものと思われる。

とはいえ、そんな工事用仮設物でしかなかった軌道に、トンネルや石造橋脚を持つ橋のような工費のかかる恒久的構造物を設けていたところが興味深い。
工事完成後に他の用途に転用するつもりがあったならまだしも、今のところそういう状況も見えてこない。

思うに、この工事用軌道の完成は、大量輸送手段がなかった秋山郷に発電所を完成させる必須の準備であった。
そして、工事主である信越電力にとっても、そもそもの会社設立の目的であったこの発電所を遅延なく完成させることは、当時の極めて激しい中小電力会社間の競争の中で会社を生存させるためには必須であった。
ために、工事用軌道の完成も絶対に遅れることの出来ない仕事として、短期集中的な投資を惜しまなかったものと解釈している。

もしもこの段階で気を緩め、1年で50km近い工事用軌道を完成させるほどの集中投資をしなかったら、数度の越冬による荒廃で余計な資金と工期を費やし、会社は当初の目的を果たせなかったかも知れない。そういう失敗談は、この頃の資金力に乏しかった様々の事業で聞く話である。
信越電力が中津川発電所に見せた本気度は、第一第二中津川発電所の全てをわずか4年で完成させたという事実によって証明済であり、上記の仮説はおそらく正しい。



巨大な土崩れの斜面を町道でやり過ごし(自転車も一緒に移動中)、その先の軌道跡へと意識を向ける。
崩壊地を過ぎれば、先ほどの石垣の延長線上に再登場しているはずだ。
そこを目指す。

(それにしても、pop氏が初めて廃道探索をして、わずか10分で坑口に辿り着いたという話が、眩しく思われた。彼は隧道を探し、私は軌道跡全体を探索しようとしているという違いがあるとはいえ、この地形の中で的確にピンポイントに坑口に辿り着いているのは、才能なのか幸運なのか、どちらにしても、早くも汗にまみれ始めた私には眩しかった。)




仕切り直しで、今度はここから軌道跡を目指す。

先ほど通りがかったときには気付かなかったことだが、ここにも石垣の残骸が残っていた。
今度の石垣は、モルタルで目地を埋めた頑丈な間知石の石垣だ。
しかしこれも崩れてからは相当に時間を経過しているようで、苔に覆われていた。

石垣上の路盤へ、再び到達!




6:33 《現在地》

よしよし! あり申した!

杉林に守られるように、前よりひとまわり広くなった感じの道があった。
相変わらず、レールとか枕木とかは見当らない。どこにでもありそうな廃道だ。
体感できるような勾配はなく、ほぼ水平勾配と思われる。

GPSで《現在地》を確かめると、もう隧道擬定地まで残り200mを切っている。
正確な隧道の位置が分からないので、場合よっては100m以内に出てくるやもしれぬ。




うわー……。 

ここもまたずいぶんと緩慢な感じの明るい斜面である。
大木が根を張れるような固い地面がないこと、地すべりの起こりやすい土地であることを物語っている。
路盤はここを低い築堤で越えていたようで、わずかに名残があった。

この先の状況は分からないが、集落からここまでの印象は、とにかく脆い土山に尽きる。
崖のような場所でヒリつく危険は大きくないが、人工的な造成の痕跡を、自然の地形と区別するのが難しい状況になっている。
集落内は、人が手を入れ続けているから、こんなに風化はしていなかったが……。
探索者目線では、断崖絶壁とは違った意味で、やはり難しい状況にあると感じる。

というか、こんなに崩れやすい山の中で、大正時代に廃止された隧道が現存していたとか、なかなか凄い。
……ほんとうに、現存、してるんだよね?
この春にちょうど崩れてしまったとか、止めてよね…? (←変なフラグ立てんな)






!!!



6:37 《現在地》

よくこんな脆そうな山で
開口していたものだ。

周辺の斜面が全て溶けかけたアイスみたいになっているのに、

よくこんな立地で埋没せずに開口して残っていたものだと、本当に驚いた。



……もしかして、待っていたのか? 潜られる日……?

私が知る範囲では、昨年4月末にpop氏がこれを初発見し、約1年遅れでいま私が辿りついた。

pop氏がすぐに教えてくれたおかげで、どうやら私は、間に合ったようだ。




非電化飯山線の全線開業よりも先に、秘境秋山郷に4年間だけ“電車”が走った。

その歴史上唯一の出来事を記録する、おそらく当時に掘られたままの隧道が、現存していた。


そしていま、秘め続けた内部が――












白日のもとに晒される。



魔窟”、再び。