光明電気鉄道 阿蔵隧道と大谷隧道 前編

所在地 静岡県浜松市天竜区
探索日 2009.1.23
公開日 2009.1.26

昭和の初期に静岡県西部(遠州地方)の広大な農村地帯で、まるで綺羅星のような都会的高速電気鉄道を運行させた「光明(こうみょう)電気鉄道」は、その数奇で悲劇的な歴史で知られ、地元や鉄道ファンの間では今なお語り種になっている廃線である。

今回は、資料や読者からの情報提供を元に探索した、廃線跡に存在する2本の廃隧道を紹介したい。
まず、同電鉄の歴史を簡単に紹介しよう。

鉄道計画の発端は大正10年である。
東海道の宿場町であった見付(みつけ)は、明治22年に開業した東海道線の経路から外れたため衰微著しく、対策として東海道線中泉駅(現:磐田駅)と見付(磐田市)を結ぶ鉄道が計画された。
しかも計画はそれだけに止まらず、さらに北上して北遠地方の中心都市であった二俣(ふたまた)を経由して、天竜川水運の要衝地 光明(こうみょう)村船明(ふなぎら)へと至る二十数キロの路線を、当時都会でも出始めたばかりの電気鉄道で結ぶという、夢のある計画であった。
都会や海外の鉄道事情を調査したうえで会社設立にあたった田中寿三郎翁の構想では、将来的には佐久間を経て信州までつなげる列島横断鉄道を思い描いていたというから、高速性に優れる電気鉄道も酔狂に発したものではなかったらしい。

大正11年に光明電気鉄道株式会社が設立し、当面の目的地である船明目指して、大正15年に中泉から着工した。
しかし、会社の壮大な理念は関東大震災後の全国的な不況の中で多くの株主の理解を得られず、当初から資金繰りに苦しむことになった。
そのため昭和3、4年は、見切り発車的に採算性の良くない部分開業を強いられ、経営はますます悪化、経営陣内でも内紛が発生して株主はさらに減っていく事になる。

昭和5年12月、起点周辺を除けば唯一の人工稠密地である二俣へと、まさに“這々の体”で辿り着いた鉄路は、ここで精一杯の開業式典を挙行する。社長は既に5人目だった。
しかしともかくこの日以降、新中泉〜二俣町間の全長23kmを、新造された都会的な電気鉄道が、時速60km/hという猛スピードで颯爽と駆け抜けたのである。

しかし、これだけでは収支は好転しなかった。
電気鉄道への設備投資が嵩みすぎたことと、既に沿道をバスが開業していた事のダブル…昭和恐慌と合わせてトリプルパンチである。
バスに対抗して運賃を半額にするなどのダンピングを行うが、もはや焼け石に水。
復活の手だてはもはや、より路線の価値を高める延伸しか考えられなかった。
目指す船明は、今も当時もさほど大きな集落ではないが、その名の通り天竜川水運の良港であった。
そして、天竜川の上流には日本有数の銅鉱山として当時盛んに採掘されていた「久根銅山」があり、「天竜美林」と謳われる杉林があった。どちらも天竜川水運を輸送の要としていたので、鉄道をその代わりにすることでの貨物収益増に賭けたのである。
鉱山を操業していた古河鉱山からの出資は当初から断られており、全ては電鉄側の絵に描いた餅であったが…。必死だったんだ。(何か俺まで熱くなってきた)

完全に自転車操業状態になりながらも、会社では当初の計画通り、船明までの延伸工事を進めている。



都会的な光明電気鉄道車内の風景
(『静岡県鉄道興亡史』より引用)
…が、昭和10年万策尽きる。

電気料滞納のため、送電が止められてしまったのだ。
当然、運行は全休止せざるを得ない。
列車を走らせられなければ、もはや鉄道に生きる術はない。
休止のまま、同年内に全線が廃止された。最初の開業から、わずか7年目のことである。

その後、昭和14年に正式に会社は解散され、車輌や施設の一切が競売にかけられた。
そして、阿蔵(二俣口)駅〜田川駅の約4kmのみが国鉄によって買収され、国鉄二俣線の一部用地として転用された。
それが現在の天竜浜名湖鉄道、天竜二俣駅〜豊岡駅間である。(この間にあった2本の隧道は今も当時の姿のまま使われているという)




いかがだろう。
廃線はいつだって悲哀を感じさせるが、「悲劇の廃線」と呼ばれるゆえんが、お分かりいただけただろうか。
しかも、廃線になる直前まで、さらに先を目指していたのだから、悪あがきというか何というか…痛々しい。
最初に身の丈を越えた「電鉄」を指向しなければ、おそらくはモータリゼーションまでは生き延びて、平凡な幸せをもっと多く運ぶ事が出来ただろうが、私は翁のロマンを愛したい。(まあ、経営不振になると早々と身を退いているようだが…)
それにしても、昭和後半にほとんど同じ経路を指向してやはり夢半ばで未成に終わった「国鉄佐久間線」の事もあり、何か因縁めいたものを感じさせる「二俣」であり「船明」なのである。

このように、簡単に紹介するつもりがついつい“入れ込んで”しまうほどアツいバックストーリーを持った廃線だが、現存する遺構という点では比較的凡庸だ。そもそも全線が平野部にあった廃線だしね。
これから紹介するのは、そんな廃線跡中のハイライトもといえる2本の廃隧道だ。
開業区間にあった「阿蔵(あくら)隧道」と、未開業区間にあった「大谷隧道」である。
さほど長いレポートではないので、どうぞ肩の力を抜いて読んで欲しい。


参考資料:『鉄道廃線跡を歩くU』、『静岡県鉄道興亡史 』、『静岡県鉄道物語』、『日本鉄道旅行地図帳 7号 東海



 阿蔵駅跡 〜 阿蔵隧道 



現役で使われている国鉄時代からの転車台

2009/1/23 7:11 【周辺地図(別ウィンドウ)

天竜浜名湖鉄道(天浜線と略されることもある)の天竜二俣駅は、同社本社屋も併設された同線の中心的駅である。
天浜線の前身は国鉄二俣線で、国鉄時代は「遠江(とうとうみ)二俣駅」と称していた。
現在も使われている「転車台と扇形機関庫」(右写真)は国鉄時代からのもので、国の重要文化財になっている。

光明電鉄の「阿蔵」という駅がちょうどこの付近にあったようだが、『鉄道廃線跡を歩くU』(以下「廃歩」とする)では「痕跡はない」とされている。




左から順に、駅前のC58蒸気機関車、駅構内の足漕ぎトロッコ、腕木式信号機、保管客車(ナハネ20形寝台客車とキハ20形気動車)
トロッコ以外は全て国鉄由来の遺物だ。光明電鉄のものは何もない。



単一の鉄道の駅としてはいやに広大な印象を受ける構内。

昭和40年代には、佐久間(飯田線と中部天竜駅接続の予定)を目指す国鉄佐久間線がここを起点にして建設されていたが、工事は途中で中止されている。(それは写真奥の山手へと伸びていた)

光明電鉄はそれよりだいぶ古い昭和一桁代の話だが、やはりこの場所に駅を置いて北を目指していた。
先ほど前説で少し説明したとおり、廃止された光明電鉄の跡を国鉄が利用したという、その一方の端がこの場所だったのだ。
だいたい光明電鉄は写真に示したような感じで左手前に折れていたと思われる。(もちろん、構内の路線配置は全て国鉄以降のものだ)




この土地にまつわる3本の鉄道の配線は、この様になっていた。

「二俣」という地名は何となく旅情をそそるものがあるが、こと鉄道に関してはどうしても二又になれなかった、そんな因縁の土地だったわけである。

注目は、『鉄歩』に明記されなかった阿蔵駅の位置である。
今回の探索で、これが明確になった。
それも、これ以上なく分かりやすい形で。




駅北西に隣接する空き地から、いかにも鉄道らしい緩やかなカーブを描く狭い道が伸びていた。
背後に見える低い山の左端のあたりを、阿蔵隧道がかすめ抜けていた。

しかも、よく見るとそこにあるのは…

カーブだけでは無い…?





うわおう。

ホームじゃねーか。これ!

ホームだよ。
少し待っていると通学の女学生が通ったが、スルー。
さらに待っていると定番の犬連れおばあさんが現れたので、すかさず伺ってみた。
確かにこれが阿蔵駅のホームの跡だという。
ただし、東側(写真奥)の方は切り崩されていて、当初の長さよりはだいぶ切りつめられている。

しかしともかくここが阿蔵駅だった。




神田公園駅〜二俣町駅間の途中駅として、光明電鉄最後の延伸となった昭和5年12月10日に開業した阿蔵駅は、後に「二俣口」へと改称されている。
“後に”といっても、現役期間は僅かに6年。
どちらの駅名にしても短命には変わりなかった。

当時の駅配線は不明だが、全線単線であった光明電鉄の終点隣接駅という性格を考えれば、一面一線のみの単純なものだったと思われる。
ホーム自体も緩やかにカーブしており、また西端にはスロープ状の階段が残っている。
思いがけない発見に、私のテンションはいきなり高まった。




緩やかなカーブは、間もなく幅の広い通りにぶつかった。
県道40号掛川天竜線である。

しかし、早くも廃線跡のトレースは不可能に。
ここまでの線形を通りの向こうへ伸ばしてみても、対応する道が無いのである。
四角い区画に整理されてしまったようで、こればかりは都会の宿命。やむを得ない。
裏山の阿蔵隧道を目指して迂回する。




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7:28 【現在地(別ウィンドウ)】

住宅地を回り込むと、小さな川に橋が架かっていた。
阿蔵川を渡る毘沙門橋である。

川は完全に開渠のようになっていて、廃線の痕跡は何も残っていない。
当然毘沙門橋も関係はないのだが、親柱に刻まれた竣工年は「昭和2年」である。
これはちょうど光明電鉄が起工された時期に当たり、当然その後の盛衰も見届けた事になる。




駅以降は特に鉄道の痕跡を見出せぬまま300mほど進んできたが、ここで光明電鉄最大の遺構としてよく知られている「阿蔵隧道」の登場である。
私も『鉄歩』で写真を見たことがあったが、それよりさらに黒ずんだような印象の坑門が、家屋に隠されるようにして口を開けていた。

下心を持って近付いてみたものの、当該民家の人ではないおばさんが、それとなく私の行動を監視。
一定以上近づくことが出来ない状況であった。

残念だが仕方がない。
いずれにしても、こちら側からでは立入は難しいだろう。
何か小屋のようなものが立ちはだかっているし。

ここは素直に?裏へ回り込むことにした。