廃線レポート 栗駒山地獄釜の硫黄鉱山軌道 中編

公開日 2018.7.15
探索日 2018.6.24
所在地 岩手県一関市〜秋田県東成瀬村

地獄釜の鉄板レール観察記録


2018/6/24 7:02 《現在地》

2013年10月に発見の報告があった地獄釜の木製レールは、2018年6月24日の時点での現存が確認された。
これにはしばし放心に陥るほどの衝撃があった。発見されたものが文化財レベルに貴重かもしれないからということのほかに、もっと個人的な理由もあった。

ふるさと秋田の南東端の県境線から、わずか100m足らず隣県へ出た場所に、幼き日より図鑑の中だけの失われた遺物だと信じていた鉄道の原点的風景――「木製レール」の軌道跡――が、存在していようとは!!

これまで15年以上のオブローダーとしての活動の中で、一度として出会うことのなかった「木製レール」に、まさかここでまみえようとは。
まして私は、13年前に間違いなくこの地を踏んでいる。
あのときは分厚い火山砂利の層に埋もれて秘蔵されていたのだ。そうでなければ、見つけていただろう位置だった。
いまになって私の前に現われるとは……。


まだドキドキしているが、最低限の落ち着きを回復して観察すると、明らかにえぬ氏が2013年11月に撮影された状況よりも状況は悪化している。

ひと目で分かる最大の変化(劣化)は、向って左側のレールの遺失だ。
写真上に付した実線は木製レールが残っている部分、破線は失われているか、土山に遮られている部分を示している。

このことは、非常に大きな痛手といわざるをえない。
私は旧状を見ているからこれが木製レールの軌道跡だと断言できるが、現状をはじめに見せられたら、「木を敷き並べた道になぜか木の棒が敷いてある、不思議な景色だなぁ」なんて感想で終わった可能性だってある。なにせ、通常の探索時は木製軌道なんてものの現存を想定していない。



5年間でのこの劣化を大きいとみるか小さいとみるか。
写真だけで判断するならば意見も分かれそうだが、実際にレールを触ってみれば誰もが、「よくぞ5年を耐えられたな」と感心するだろう。
そのくらい、レールは華奢だった。想像していたよりも遙かに。

長年の風雪に耐えた遺跡が醸すような、頑丈さのオーラが全くない。
苔生した石垣でも、崩れかけた木橋でも、ピラミッドでもなんでもいいが、廃止されてから長く原形を留めたものは、見るからに頑丈だ。
だが、このレールだった木材を見てくれ!
言葉は悪いが、見るからに木っ端じゃないか! スポンジみたいにスカッスカで、乾ききっている。

挙げ句は、枕木との緊結も弱い。壊してしまうからやらないが、少しでも強く引けば間違いなく外れてしまうと分かるくらいにぐらぐらだった。
乱暴に扱えばすぐさま失われてしまう。

これが明治時代の硫黄鉱山の遺物であるなら、100年余りを耐えられた理由は、95年をずうっと土の下に隠れていたからとしか思えない。
まるでセミのようだが、これはどう考えても奥羽山脈の風雪に1世紀を耐えるような遺物ではない。

しかも、埋もれていたのがただの土ではなく、火山由来の不毛で水捌けの良い土だったからこそだとも思う。

100年前の鉱山では、木製レールが珍しくなかった可能性もあるが、現存品が珍しいことは間違いない。
なぜ珍しいかといえば、木製レールを屋外に放置しておけば、まず100年も原形を留めないからだ。
廃止直後に偶然土に埋もれ、現代になって偶然出土し、出土後に偶然すぐに発見されるという、幸運な偶然が重なってようやく、目の前のこれは「ある」のかもしれない。 そう考えると、本当に奇跡に思える。

しかし、そもそも論として、本当にこれが100年前の硫黄鉱山のトロッコレールであるかについては、机上調査を行った(後編で改めて述べる)が、未だ確定は出来ずにいる。
正直、このレールだけを見せられて、土に埋もれていたことを教えられなければ、20年くらい前の物だと言われるのが一番信じられる。
だが、そんな最近にここでトロッコを動かしていた記録も記憶も理由も、私の調べでは浮上しなかった。
分かったのは、ここには明治中頃に稼働を開始し、明治末には廃止された硫黄鉱山があったという事実だ。

結局いまの私には、「これは明治の硫黄鉱山に由来するトロッコ軌道の跡である」という、個人的にも一番望ましく興奮できる説しか残っていないから、その前提で話を進めたい。もちろん、論理的な異論は大歓迎です。


ここから木製レールを出来るだけ詳細に観察してみよう。

レール上面の一部には、レールと同じ幅をした金属の板が乗っていた。
事前情報にもあったとおり、これは単なる木製レールではなく、車輪と接する上面を鉄板で補強した鉄板レールだった。
木製レールも鉄板レールも、実物を目にするのは初めてである。

しかし、鉄板の腐食ぶりは凄まじい。
手触りがもはや“パイの実”だ。サクサクしてる。
そのため、木材だけが残っていて鉄板は失われている部分が大半で、自壊して散らばった茶色い残骸が木材の周囲に散乱していた。
木と鉄ならば鉄の方が強い部材に思えるが、置かれた環境や部材の大きさによっては逆転することもあるのだろう。

出土直後に撮影されたえぬ氏の写真と比較しても、鉄板喪失の進行は明らかだった。
このまま放置され続けても、木材はしばらく原形を留めるかも知れないが、鉄板レールであった物的証拠は先に失われるものと思う。この時点でぎりぎりだった。


木製レールの断面の形は、正方形ないしは樽形(上下面が平らで左右に少し膨らみ)で、サイズは3〜4cm四方程度である。いわゆる角材に見える。
劣化する前でも、とても荷を積んだトロッコの重みに耐えられないのではないかと思えるほど細い。サイズ的には6kgの鉄レールに近い。図鑑とかで目にしたことがある木製レールや鉄板レールでも、ここまで細いものは見た覚えがない。時代を考えてもトロッコは木製の手押しであったろうが、荷を積めばそれなりに重かっただろう。鉄板ありきの耐久力だったように想像する。

そんな華奢すぎるレールの下に敷かれているのが、枕木だ。
枕木が木製なのは後の鉄道と変わらないので、あまり違和感がない。
ただ、今日の枕木や森林鉄道で使われていた枕木と較べると扁平である。枕木の幅(線路方向)は大きく、だいたい15cmくらいあるが、厚みは5cmもない。
もちろん、工業製品のようには形が揃っていない。現地調達・現地加工の枕木であろう。枕木同士の間隔は比較的に意外に密で、華奢な木製レールと比較すると「しっかり」した印象だ。
枕木を支える路盤にバラストが敷かれていたかは、不明である。



1本のレールの長さは、そう長くない。完全な形で残っている物がないので実測はしていないが、たぶん2m程度だろう。
レールとレールのつなぎ目の部分は、右の写真のようになっている。
ただ連続するように置いてあるだけで、特別な加工はない。
少しズレてしまっているが、写真のこれが一番良く原型を止めているつなぎ目だった。

レールの端にはビスのような金属の針が刺さっているが、これで上面の鉄板が固定されていたのだろう。
そのままレールを貫通して枕木と固定する役も担っていたのかも知れないが、現状は固定はされていない。(なので、その気になればレールは簡単に取り外せてしまえるだろう。)

枕木にレールを固定する鉄道固有のアイテムとしては、言わずと知れた犬釘があるが、あれは鉄のレールに側面の凹み(フランジ)があるからこそ機能するもので、このような四角いだけの木製レールの固定には用いられない。レールと枕木の固定方法は最後まで分からなかった。


――レールの断面サイズは3〜4cm四方の正方形ないし樽形。
――レール上面の鉄板は、幅はレールと同程度で、厚みは1cmくらい。
――枕木のサイズは幅15cm×厚み5cm程度の平べったい形。
このようにいくつかの寸法を見てきたが、軌道跡を調べる上での肝心要、個人的に一番気になる“寸法”を、まだ見ていない。 ――軌間だ。



軌間は実測するまでもなく、見慣れている普通鉄道(1067mm)より小さい。
そして、やはり見慣れている林鉄(762mm)よりもなお小さい。
そうなると、鉱山軌道での使用例が知られている610mmないし508mmが合致しそうだが…。

すぐにでも実測して確かめたかったが、悲しいかな、左側のレールがない。
枕木を測っても、正確な軌間を知ることは出来ない。 えぬ氏撮影時点ではあった左側レールの消失が、とても痛い。

とりあえず軌間の実測はお預けにして、先へ進んでみよう。
えぬ氏の写真はこの場所であったが、レールが露出している溝の状況は日々変化していると思われ、この先にもっと条件の良いレールが忽然と姿を現している……そんな逆転パターンがないとは限らない。

7:03 期待を胸に、溝に沿っての前進を再開。



7:03 キター!

↑時刻が経過していないのは誤記ではない。土塊の山を迂回しながらわずか数メートル移動したら、さっそく再開した木製レール!!
写真は、振り返って撮影している。

チェンジ後の画像を見ていただければ、どういう状況で木製レールが埋もれているのかが、よく分かると思う。
100年くらいも埋もれていたとみられるだけに、半端ない土の厚みだ。
偉大な自然の(というか流水の)力で偶然掘り返されたのだろうけれど、レールが露出している溝の周囲は硬く締まった土砂が1m以上も厚く堆積していて、かつて地中の遺物にまるで気付かなかったのも道理だと納得した。




木製レールの2回目の遭遇現場の全容。

途中に継ぎ目のあるレールが、長さ4mばかり露出しているが、ここでも残っているのは片側のレールだけだった。
先ほどと同じ、地獄釜の底に向って右側のレールだけが現存している。左側のレールは見当たらない。おそらく溝の部分は流出してしまったのだろうが、前後は未だ土中に埋もれている可能性が高い。
そんなに私に軌間を測らせたくないのかよ! ぐぎぎぎ…

また、ここでは枕木や鉄板もほとんど見当たらなかった。前者は土に埋もれたままで、後者は流出したと考えられる。
えぬ氏の訪問時にここがどうなっていたのかは分からないが、いつ再び埋もれてしまっても不思議ではなさそうだ。



溝の底の相次いで2度発見されたレールだが、残念ながら、3度目というのは期待できそうにない。

この先の溝の位置は、レールの延長線上から少し左へ外れてしまっていて、
おそらく直線であろうレールは、完全に土の底ということになる。
そして、もう20mも進むと、地獄釜の底を満たす小さな火口湖である。


一旦ここで、発見の現場を俯瞰で見てみよう。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

この全天球画像は、現場南側の斜面を少しよじ登ったところから撮影した。

こうして上から全体像を見てみると、レールが出現している溝が見せる天工の妙に感心してしまう。
もともと100年前の軌道が谷底の低い一番低い位置に敷かれていたから、溝が再びそこに刻まれたに過ぎないとは思うけれど、
深くまっすぐに刻まれた溝の底にレールが現われた事実には、それを我々に見せようとする神の意図の介在を疑ってしまう。


木製レール発見現場の全貌を、同じ地点から少しずつ角度を変えて撮影した4枚の写真で見ていこう。

1枚目は西方向の眺めだ。
奥に小高く見える白い場所は煉瓦がたくさん落ちていた“煉瓦の丘”で、登山道はあの向こう側を南北に通じている。
私は丘を越えて地獄釜を目指して下ってきた。丘から釜の底までの距離は200mほどだが、150mほど進んだところから流水によって出来たとみられる溝が始まり、溝の入口から10mほど進んだところで木製レールが発見された。

煉瓦の丘に鉱山の重要な施設があったとすれば、軌道もそこを目指していた可能性が高いと思うが、この間に遺構らしい物は見つかっていない。失われただけで、かつては存在していたと考えて良いと思う。




視線を足元へ移すと、深い溝の底に露出している2箇所の木製レールが一望される。
2本並んだレールを見られないことは残念だが、それでもこの直線ぶりは、いかにも鉄道らしい。
というか、木製レールというものはカーブを作ることがとても大変であるから、できる限り軌道は直線ルートで敷いたに違いないと思う。

それにしても、自然に生じた溝が片側のレールをなぞるようにまっすぐ掘られているのは、なんとも不思議な偶然だと思う。
しかし、片方のレールの在処は、未だ大半が深い土の下だ。




さらに視線を右に進めると、地獄釜の底にある灰色の湖面が見えてくる。

レールは地面の下に入り、現在の地表からはその存在を全く窺い知れない。

そしてそのまま、火口湖の水面下へ。




地獄釜の底はお椀の底のような地形で、私がいる西側を除く三方は30mを越える岩稜に取り囲まれている。
いかにも火口らしい地形だが、肌に感じるような熱や噴気の活動はみられない。

そしてここが、明治時代に硫黄の採掘が行われていた現場である。
おそらく、発見されたレールをまっすぐ火口湖の反対側まで延長した辺りの露頭で採掘を行っていたのだろう。
採掘した硫黄鉱石は、手押しトロッコによって緩やかな坂道を上り、“煉瓦の丘”の方へ運ばれていたのだと思う。




7:17

ここで、私の脳裏に悪魔のささやきが。

ここは栗駒国定公園の区域内であるため、あまり大胆に土を掘り返してみたりは出来ないのだが、私は目の前にある土の斜面をちょっと掘って、中を見たかった。
全く見ることが出来なくなってしまった片側のレールが、土の下には今もなお眠っているということを、確認したかった。

私は近くにあった平べったい石をミニスコップ代わりに持つと、画像に赤く着色した辺りの土を、表面からほんの10センチほど掘ってみることにした。ちょっとだけだよ。




7:34

土は良く締まっていて作業は難航したが、15分ほどで私は目当ての物を掘り当てた。もう片方のレール発見!

あるはずだとは思っていたが、やはりあった。
レールはあるべき位置から少しも外れず、ちゃんと枕木に乗っかった形で出土した。
ただし、鉄板はもう溶けてしまったのか見当たらなかった。




この発掘により、軌道を埋めている土砂の下には、未だ数十メートルにおよぶレールが枕木と共に埋没している可能性の高いことが分かった。

もしも許可が与えられるならば、さらなる発掘は魅力的な探索にもなるだろうが、出来れば私のような興味本位の趣味者によるのではなく、学術的な調査のメスが入れられて、遺構全体に然るべき評価が下される機会になることが望ましいと思う。

写真では、近くの溝の中に落ちていた、おそらくレールの断片とみられる小さな角材を、発掘したばかりのレールと対になる位置に置いてみた。
二条のレールが並走している“線路らしい”情景を、やや強引ではあるが、ようやく目にすることが出来て満足だった。



そして最後に、写真のような方法で、ずっと気になっていた軌間を測定した。

計測された軌間は、画像の通り、約50cmだ。

狭い狭いと思っていたが、本当に狭かった。
これまでいろいろな廃線跡を見てきたが、屋外でこんなに小さな軌間の廃線跡を見たのは2回目だ。万世大路工事用軌道(←未完レポ)が軌間500mmだった)

今日まで世界中で様々な軌間の鉄道が作設されてきたが、わが国でも500mmや508mmといった軌間の採用例がある。(参考:ウィキペディア「軌間の一覧」
導入に要する空間の小ささから地下鉱山での採用例と、作設や撤去の取り回しの簡単さから工事用軌道での採用例が多かったようである。

この軌道は青空の下に終始していたと思うが、鉱山としての規模が小さかったから、これで用が足りたのだろうか。
ちなみに、わが国初の鉄道として冒頭にも名前の出て来た北海道の茅沼炭鉱軌道の木製レール時代の軌間は、1050mmという今日の普通鉄道なみのビックスケールだった。
それと較べて、地獄釜の硫黄鉱山軌道は、あらゆる面でささやかな存在だったと思われる。