
私は胸までびしょ濡れ、ぬこに怪訝な顔をされながらも、すぐ近くでお仕事中の漁師さんにお話しを伺うことに成功した。
そして次のような情報を得たのである。
名も知らぬ海上の小軌道に、いま少し光をあてる。
- 人工島は生け簀で間違いはなく、伊勢エビの養殖を行っていた。(誰が?というのは聞かなかったが、お話しを伺った漁師さん本人ではない)
- 養殖池の使用は30年くらい前に始まり、20年くらい前に止めたと思う。以来、放置されている。
- レール上にトロッコを置いて、生け簀までの輸送を行った。手押しではなく、人間が引っ張っていたように記憶する。
- 使われていたトロッコは処分されたようで、その後の行方は分からない。
なるほどなるほど。軌道について驚くべき新情報といえるものはないが、私の期待に沿った解答を現地の人から聞くことが出来たこと自体が成果であろう。
間違いなく「貨物輸送用の軌道」として利用されていた事が分かっただけでも一安心だ。(最悪、ここまで来て実は廃レールを使っただけの人道橋でしたと言われたら、ショック)
使われていたトロッコの行方が分からないのは残念だし、“手押し”軌道ではなくて、人がトロッコを“引っ張っていた”というの風景も、少し想像しにくいものがある。
だが、全線に陸から海へ下る勾配が付いていたことを考えれば、もしブレーキを持たないトロッコを使っていたとしたら、押すよりも曳く方が安全だろうとは思う。
それにしても、人はどうやってこの橋を渡っていたんだろうなぁ。
さすがに今の状態では、墜落の危険度が高すぎるよな。おそらく鉄枕木に木の板が敷いてあったんだろうな。
なお、私が無知であるゆえに現場では聞き流したが、この「伊勢エビの養殖」というのが間違いでないとしたら、大変に大胆なチャレンジである。
ウィキペディアの伊勢エビの項(#養殖の試み)によれば、「1898年頃には日本でイセエビのフィロソーマの飼育が試みられていた。1988年には三重県の水産技術センターと北里大学において別個に稚エビまでの飼育に成功しているが、幼生期間が長くその間の死亡率も高い事など、減耗率を抑え稚エビまでの成長を管理する上で問題も多く、事業化には至っていない。
」というのである。
専門家でも困難な養殖にチャレンジしていた個人がここにいたのか、それとも行政の補助を受けた公的な事業だったのかは不明だが(「横須賀市史」に記載はなかった)、いずれにせよ、首都圏の三浦半島で伊勢エビ養殖の可能性を追求していたというのは、大いにロマンがある。
そして、それが成功の可能性の低いチャレンジであったことが、軌道や人工島を短期間(10年間程度であるという)で廃墟に変えてしまった根本の原因だったと考えれば、納得しやすい。
また、海上に養殖用の生け簀を設けることは珍しくないようだが、その輸送にわざわざ軌道を敷設したという、余所では見あたらないような気合いの入りっぷりも、これが前人未踏のチャレンジの一部であったからかも知れないのである。
おそらくこの伊勢エビ養殖の試みについては、その真偽を含めてお詳しい方がまだいると思うので、追加の情報を待ちたい。

最後に、現役当時を撮していたと思われる空中写真をご覧頂こう。
「地図・空中写真閲覧サービス」で久留和漁港の空撮画像を時系列順にチェックしたところ、昭和38年の写真には影も形もない人工島や橋が、昭和53年の写真から出現していることが分かった。
右図は昭和63年のものだが、当時は人工島の生け簀に蓋がされていたのか、水面は見えずに白い面が見えている。
また、近くの海上にも別の生け簀があったようで、現在のgoogle mapでもこれは確認出来る。
(私も現地で目には付いたが、やはり使われてはおらず、また橋の跡も見あたらなかった。こちらに軌道はなかったものと思う)
おそらく昭和53年頃から63年頃までは生け簀が使われていたのだろうが、次に撮影された平成19年の写真では、人工島の生け簀は現在と同じように蓋のない状態になっていて、既に廃止されていたようである。
これらの空中写真の変化と照らしても、前出の漁師さんの証言はかなり信憑性があると思う。
そういえば書き忘れていたが、漁師さんに軌道の名前を聞いたら、分からないと仰っていた。
なので、ここは11月の強行上陸者の権限をもって、正式名判明までの暫定名を付けたいと思う。
“久留和漁港養殖業用軌道”。
ひねりも何もないが、冗談みたいな見た目の割に大真面目に仕事していた「せんろ」に、軽率な名前は付けられない。
湘南の海に、“日本一シンプルな軌道橋” は、確かに実在した!
(細田さん、ご満足いただけましたか?)
【追記1】 岡本憲之氏提供 平成21年当時の状況
このレポートを公開した直後、なんとこの探索のきっかけとなった「ジェイ・トレイン」の記事の執筆者、せんろ商会の岡本憲之氏ご本人より、平成21年当時の写真をお送りいただいたのである。
岡本氏は、鉱山鉄道のバイブル『全国鉱山鉄道 JTBキャンブックス』の著者であり、林鉄や軽便鉄道なども含め、“せまいせんろ”を網羅的に研究されています。
掲載の許可も得ているので、是非皆さまにもご覧頂きたい。
これはほんの5年前の風景だが、私が見た廃墟のような印象とは異なっており、本来の軌道としての姿をとても良く留めていた。
その直線的な美しさは、感動的でさえある。
|
|
いかがであろうか。
これらの写真から新たに分かる事は、海上軌道の勾配が、陸から人工島へ向かっての単純な下り片勾配ではなく、序盤の下りで橋の中ほどに差し掛かった軌道は、そこからしばらくは水平に走り、最後にやや上りとなってから人工島に上陸するという、全体としては“凹型”の縦断線形を持っていたという事実だ。
これにより暴走事故の発生を防いでいたのであろう。
また、もう一つの注目点としては、現在は失われている消波ブロック上の起点部が見えていることだ。
そこに半分写っている鉄の台のようなものこそは、ここを運行していた台車(トロッコ)ではないかと思われるのだが、この件について岡本氏にさらに問い合わせ中である。
あれはトロッコではなく、進行方向側のプラットホーム的なもののようです。 ※縞鋼板に枠がついた簡単な構造のものです。 (←岡本氏談)
以上、たった5年という月日であっても、かような極限的不利の立地にある廃軌道には大きな犠牲を強いたという事が分かる写真であった。
岡本さま、ありがとうございました。
【追記2】 「伊勢エビ養殖」の解釈について
更に追記である。
人工島上の生け簀では伊勢エビの養殖が行われていたと現地の漁師さんは話ししていたが、このことについて私が本稿で展開した“解釈”が誤っているのではないかというご指摘が、複数の読者さまから寄せられている。代表的な意見として、軽便行者氏の以下のコメントを転載する。
【久留和漁港養殖業用軌道は「くもじい」に聞け】
この物件?は、数年前に見に行きましたが、つい最近まで忘れておりましたが、BSジャパンのお馴染み番組「空から日本を見てみようプラス」の8月12日放送分「三浦半島2」で、生簀(同じ物か忘れましたが)が紹介されておりますです、そのとき思い出しました。
今回の探索記事をみてあれだとわかりましたです。以下引用
『さらに佐島漁港へ進むと、岩場に掘られた巨大なプールのようなものが。これは冷蔵技術が普及していなかった頃のいけすで、かつてサザエやアワビなどを保管していました。』
と番組サイトに書いてありますからご参考までに。
おそらく養殖ではなくて、禁漁期や天候不順等に備えて、安定出荷するためではないでしょうか?
イセエビでも禁漁期間でも産地にいけば食べれますが、大概、生簀保存のモノです。
このコメントの内容を私は支持したいと思いますが、引き続き事実関係の確認に努めます。
【追記3】 宮川氏提供 私が訪れた5日後の久留和漁港

細田氏と同じように、この軌道跡を見て「●●●●がぶっ飛びそうになった」人が多かったのかは分からないが、当サイト読者の宮川氏が、平成26年12月3日の久留和漁港の光景を写真と動画で撮影して送って下さった。
私の探索のわずか5日後だが、正直、私の想像を超えた変化を見せていた風景を、ぜひ皆さまにもご覧頂きたい!
晴れればこんなに風景の良い場所だったのだ。→→→
背景の海には右端に江の島が、左端には遙か富士山が霞んでいる。
東海道中を強く思わせる眺めである。
だが、ここで海上に目を凝らせば、かの軌道跡が、いつ終わるとも知れぬ太平洋の荒波の前に、孤軍奮闘をしている姿を見る事が出来る!
この日は台風接近中とか異常低気圧とか、そんな記録に残るような日では決してなかった。
ただ普通の寒波が近付いている晴れた日であったのだ。
そうであるにもかかわらず、この光景だ。
もちろん、更に迫力満点の動画も見て欲しい。
さすがに無茶だろ、この軌道!
いやはや、驚いた。
海上を渡る線路が、平成の廃止と見られるにもかかわらず酷く傷んでいた理由は、これでよく分かった。
塩害だけではなかったのだ。
むしろ、こんな状況でよく現存していてくれたと言うべきだろう。
それと同時に、通常の橋桁を組まず、レールだけを海上に渡すような特殊な構造をしていた理由も、単に省略や節約といったことだけではなく、この環境に適応する一種の“工夫”であったと、そう考える事が出来るかも知れないと思うようになった。
ほとんど全方向から激しくぶち当たってくる激浪に耐えるために、中途半端な堅牢さを持つ表面積の大きな体になるより、抵抗を受ける面積が限界まで少さい体を選んだのではないか。
この宮川氏の写真と映像は、幸運にも平穏な日に探索出来た私に対し、それゆえ見落とした真実への示唆を与えているのかもしれない。