久留和漁港の海上に伸びるレール 後編

公開日 2014.12.02
探索日 2014.11.28
所在地 神奈川県横須賀市

 初冬の海でチャプチャプする


2014/11/28 13:55 《現在地》
まあ、こういうこともあろうかと、心の準備だけはしてきたのさ。

え? 装備の準備はないよ。着替えもないし、もちろんウェーダーなんて言う嵩張る道具を、サイクリングに持ってきているはず無いでしょ。
もうこの時間に濡れてしまったら、夜までに乾くこともないだろう。絶対寒いだろうけど、どうせまた来てやり直すくらいならばね、今でしょ?

それに、装備の準備こそないものの、周到に時間を調整してきたのである。
気象庁サイトの潮位表を見て、本日日中の干潮時刻14:58(ここに近い湘南港の数字だが)を目安にしてここへ来たというクレバーぶり!
そういう意味では、内心では最初から覚悟を決めてきていたとも言える。

といいつつ… 探索当日の(日中の)干潮時刻における潮位は91cmで、同日の満潮の潮位より30cmくらい低いとはいっても、実は1ヶ月の中でも最悪の高潮の日を選んでいたという事実が後日発覚した(←馬鹿)。最も条件が良い日の干潮時に探索していれば、この時より約1mも潮位が低いこともあるようだから、濡れずに上陸する事も可能かも知れない。



で、本当にズボンも靴も靴下もそのまんまで海に入ったわけだが、思ったより海水は暖かいというか…、まあ暖かいは言いすぎだけど、体が悴むほど冷たいとは感じなかった。これはラッキー。
現時点では、膝くらいの深さでチャプチャプしている。

前方の波の高さが気になった。結構ざんぶざんぶと海面が上下に動いている。
沢山の岩礁があるのは良いのだが、岩礁同士の隙間の海面がこんもりと盛り上がって、その都度一部の波が白く砕けて騒ぎ立てている。
また、岩礁が見える事からも予想できるが、海底は全然平らではなく、段差に気をつけないと、転倒したら最悪だ。
なんと言っても、今は両手で(生活防水程度の)一眼レフカメラを掲げたまま海に入るという、何とも粋な事をしている。

(この程度ならば転倒しない自信があったし、サブカメラの防水性能は皆無なので、どうせならばメインカメラで行った。な〜に、みんなが泳ぐ夏の海との違いは、人間の感じ方一つだけさ)



こんな事は時間を掛けてやっても良いことは無いので、心置きなくザブザブと突き進んだ。実はうっすら期待していたほど海は浅くなくて、最初の二つの岩礁を伝う間に、もう太腿どころか、すっかりヘソまで海に浸かってしまっていた。だから、もう濡れるのは怖くなかった。(限度はある)

そして、ついに一方が外洋に面している、やや大きな陸地を持つ岩礁へ辿りついた。
ここまで来れば、最終目的地の“人工島”はもう間近で、海を越すのはあと1回だけだ。
ここに至り、後悔は全くしていなかった。
今はただ、今日の景色の中では人跡未踏の気配さえ思わせていた人工島が、私の英雄的決断によって目前まで迫ってきたことの興奮が、あらゆる小事を忘れさせていた。興奮がハンパ無かった。

(安心してくれ。経験的にラッシュがキツイ横浜線の乗客に迷惑は掛けないぜ。少し遠回りだが、帰りは藤沢まで走って、そこから小田急の多摩センターに輪行するつもりだ。小田急の方がきっと空いてるだろう?)



なお、途中の小島(岩礁)に、ポシェットを外して置いてきた。
ワケは、そこから先の海が深く、腰に巻いたポシェットが水没してしまうからだ。
命の道具が色々入っているので、淡水ならまだしも、潮水は堪忍だぜ。(少し濡れたけどな)

あと、陸から人工島までの最短距離は直進している廃橋と同じルートになるが、そこは案外深く流れも複雑そうだったので、岩礁伝いに迂回してきた次第。



で、ここが最後の難関。

大袈裟に言っているのではなく、本当に難関だ。

なにせ頗る潮が速い。そして深い。これは渓流の細い岩間の流れが危険なのと同じである。
ただ、渓流と違うのは水位が全然一定しておらず、タイミングを計ってピョンと行かないと、波に足元をさらわれかねないことだ。
(写真は波が引いているときで、数秒ごとに手前と奥の岩場が完全に浸水する。)


いっせーの…

せっ!




 小さな人工島、 その正体は?!


13:58 《現在地》

上陸地点は、“静かの海”。

ご存知の通り、人類が初めて月に下り立った場所が、“静かの海”であるが、
私が人工島に最初に上陸した地点も、そう呼びたくなる場所だった。

人工島の内側にもまた、海があったのだ。

明鏡止水の、静かな海が。




これが人工島の正体。

不等辺多角形ではあるが概形としては楕円に近い2〜30m四方の広がりを持った人工島は、その内部のほとんどがプールになっていた。
プールの水面は周囲の海面と同じ高さで、湛えられている水も海水とみて間違い無いだろう。
漁業には疎い私も、ここに至ってようやく事を理解した。

海上に設置された生け簀、或いは養殖池と呼ぶべきものが、この島の正体であった。

しかし、海の上に人工島を建造する仕事は、土木の専門家の中でも限られた人にしか出来ない芸当だ。
それも周囲は結構な深さがある。
こんな場所に、これだけ大量のコンクリートを使って建造するくらいだから、養殖業とは随分儲かるものなのだろうか。

この島が現在使われていないのは明らかだが、島そのものには、ここへ至る橋ほどの致命的な故障は見られなかった。



せっかく上陸した島だから、くまなく歩いて確かめたかったが、島内では数少ない“歩ける場所”である外壁の歩行は、かなりの危険を伴った。

外壁の厚み(=足元の幅)も場所によって一定ではなかったが、一番狭い部分は写真のように足を並べておけないほどで、ほとんど平均台のようだった。
もちろん手すりも何もないし、必然的に下を見て歩くことになるが、“片側の海”に押し寄せる波が壁に沿って上下に動くのを見ていると、徐々に遠近感に不調を来たし、妙な浮遊感のある歩行感触が出てきたので、半周ほどしたところで素直に「負け」を認めて引き返した。
また、島内に張り巡らされた縦横の仕切りというか梁も歩く事は出来るが、特に意義を見出せなかったので、適当に終えた。

外海とは隔絶され清みきった養殖池の中に、魚を見る事が出来た。
特に魚影が濃いということはないが、目測30cmくらいの“大物”も目に付いた。
そんな大きな魚がどうやって進入したのかを考えると、釣り人が手を貸したのでない限り、外壁を乗り越えるような大波の仕業なのだろう。 餌は…?



さて、お得意の勿体ぶりも、この辺にしておこうか。

敢えて犠牲を払って(犠牲の大半は、帰りの電車に同乗する皆さまで出来ている)、私が島へ上陸した最大の目的は、

人に聞けば答えが分かりそうな島の正体を知ることではなくて…

レールの続きと終点を確認する事にあった!!



上陸地点からは45度離れた外周にある橋の袂へと向かう。

細田氏は、島側から撮した軌道跡の写真はネット初公開ではないかというのだが、

この注目度の低さは、「たかがトロッコ」と、侮られた故であろうか。




この軌道においては唯一の“地上”区間がここにあった。

陸側はどういうわけか突如橋の途中から始まっていたが、人工島側には僅か3mほどではあるが、コンクリートの地平に直接レールが敷かれた部分があって、そこが終点だった。

もはや、いかなる車輪を持ち込んだとしても、このへろへろのレールに乗せることは難しいだろう。
レールは橋の上と大差のない、酷い腐食具合である。


右の写真は終点から陸を振り返って撮影しており、微妙に陸側に向かって橋全体が上り坂になっているのが分かる。

この勾配は、人工島から陸へトロッコを運ぶ作業を、疲れるものにしていただろう。
と同時に、陸から人工島へ向かうときには何らかの制動をしなければ、終点を突き破って、そのまま養殖池に墜落する危険を持っていた。
終点に車止めはなく、養殖池の縁に近接していた。




撮影時刻を少し遡るが、終点とは反対側の外周から撮影した、軌道終点部および軌道橋の全容。

軌道終点部はプラットホームを兼ねていたはずで、周囲に立つ数本の“柱”が運用方法のヒントになるだろう。
左に1本だけ橋脚と同程度の太さを持つ際立って高い柱があるが、これはクレーンの支柱であったと想像する。
動力源は不明(人力かも知れない)であるが、クレーンを用いて養殖池からの“水揚げ”その他の仕事をしていたのだろう。




14:03 《現在地》

猫の額ほどの小さな人工島で、しかも歩ける場所はといえば子猫の肉球ほどしかない。
在島5分目にして、早くも手持ちぶさただ。
濡れた下半身は、海中よりも風に吹かれている今の方が寒い。
細田氏ならば、「この島で夜を明かしたい」と言い出すに違いないが、私はもう温かな我が家に帰りたい。
初冬の夕暮れは、待ったなく湘南の海と陸を不安な色に染め変えていく。
一度来た道とはいえ、それが海中となれば決して心穏やかではない。

帰ろう。



海がやや深い部分には、橋脚を波浪から守る為であろうか、簡易な防波堤のようなものが橋の下に築かれていた。さながら“陸橋”である。

帰りはここを先端まで辿って、そこから左に“ポシェット岩礁”へ寄りながら、本土を目指す事にした。




“陸橋”部分は、ちょうど立ち上がった時にレールが目線の高さにあった。
だから容易くこんな低いアングルの写真を撮ることが出来た。

なお、本橋を渡ろうとはしない方が身のためだ。
試みに片足を乗せただけで、間違いなく大人の体重を支えられないと断言出来るような動きをした。



行きはヘソまでの浸水で済んだが、帰りは「どうせなら」と、出来るだけ橋の近くを通ったので、胸の辺りまで水に浸かってしまった。えいままよ!

しかしその甲斐あって、本橋ならではの風景を撮影することが出来た。

こんな所をトロッコが通っていたのだから、ただ驚くよりない。
もちろん、木材とか鉱石のような重量物を運ぶ軌道ではなかったからこそ、こんな奇抜が許されたのだろうが。




行きには気付かなかったことだが、本橋は二代目である可能性が高い。

現在の橋脚は、外を塩ビ管で囲んだ鉄の芯材入りコンクリート柱のようであり、それがおおよそ2mの間隔で海底から直に立っているのだが、これとは別に、同じくらいの間隔で海面上に顔を出しているコンクリート製の台がいくつか発見された。
台の上部には二つの突起部の痕跡があり、おそらくはこの画像に重ねて描いたような橋脚が立っていたものと思う。

先代の橋の構造は全く不明で、軌条が敷設されていたかも分からない(情報無し)。




14:16 《現在地》

陸に帰ってきたぞ〜!

目立たぬ服装で突然海の中から現れた私は、端から見れば明らかに密入国者級の怪しさであろう。
幸い、一部始終を目撃していた釣り人達はこれをスルーしたが、車上のぬこだけは激しい警戒の視線を向けてきた。

私の笑顔を見てごらん、怪しい人ではないよ!




私は胸までびしょ濡れ、ぬこに怪訝な顔をされながらも、すぐ近くでお仕事中の漁師さんにお話しを伺うことに成功した。
そして次のような情報を得たのである。
名も知らぬ海上の小軌道に、いま少し光をあてる。


  • 人工島は生け簀で間違いはなく、伊勢エビの養殖を行っていた。(誰が?というのは聞かなかったが、お話しを伺った漁師さん本人ではない)
  • 養殖池の使用は30年くらい前に始まり、20年くらい前に止めたと思う。以来、放置されている。
  • レール上にトロッコを置いて、生け簀までの輸送を行った。手押しではなく、人間が引っ張っていたように記憶する。
  • 使われていたトロッコは処分されたようで、その後の行方は分からない。

なるほどなるほど。軌道について驚くべき新情報といえるものはないが、私の期待に沿った解答を現地の人から聞くことが出来たこと自体が成果であろう。
間違いなく「貨物輸送用の軌道」として利用されていた事が分かっただけでも一安心だ。(最悪、ここまで来て実は廃レールを使っただけの人道橋でしたと言われたら、ショック)

使われていたトロッコの行方が分からないのは残念だし、“手押し”軌道ではなくて、人がトロッコを“引っ張っていた”というの風景も、少し想像しにくいものがある。
だが、全線に陸から海へ下る勾配が付いていたことを考えれば、もしブレーキを持たないトロッコを使っていたとしたら、押すよりも曳く方が安全だろうとは思う。

それにしても、人はどうやってこの橋を渡っていたんだろうなぁ。
さすがに今の状態では、墜落の危険度が高すぎるよな。おそらく鉄枕木に木の板が敷いてあったんだろうな。


なお、私が無知であるゆえに現場では聞き流したが、この「伊勢エビの養殖」というのが間違いでないとしたら、大変に大胆なチャレンジである。
ウィキペディアの伊勢エビの項(#養殖の試み)によれば、「1898年頃には日本でイセエビのフィロソーマの飼育が試みられていた。1988年には三重県の水産技術センターと北里大学において別個に稚エビまでの飼育に成功しているが、幼生期間が長くその間の死亡率も高い事など、減耗率を抑え稚エビまでの成長を管理する上で問題も多く、事業化には至っていない。」というのである。

専門家でも困難な養殖にチャレンジしていた個人がここにいたのか、それとも行政の補助を受けた公的な事業だったのかは不明だが(「横須賀市史」に記載はなかった)、いずれにせよ、首都圏の三浦半島で伊勢エビ養殖の可能性を追求していたというのは、大いにロマンがある。
そして、それが成功の可能性の低いチャレンジであったことが、軌道や人工島を短期間(10年間程度であるという)で廃墟に変えてしまった根本の原因だったと考えれば、納得しやすい。
また、海上に養殖用の生け簀を設けることは珍しくないようだが、その輸送にわざわざ軌道を敷設したという、余所では見あたらないような気合いの入りっぷりも、これが前人未踏のチャレンジの一部であったからかも知れないのである。
おそらくこの伊勢エビ養殖の試みについては、その真偽を含めてお詳しい方がまだいると思うので、追加の情報を待ちたい。


最後に、現役当時を撮していたと思われる空中写真をご覧頂こう。

「地図・空中写真閲覧サービス」で久留和漁港の空撮画像を時系列順にチェックしたところ、昭和38年の写真には影も形もない人工島や橋が、昭和53年の写真から出現していることが分かった。

右図は昭和63年のものだが、当時は人工島の生け簀に蓋がされていたのか、水面は見えずに白い面が見えている。
また、近くの海上にも別の生け簀があったようで、現在のgoogle mapでもこれは確認出来る。
(私も現地で目には付いたが、やはり使われてはおらず、また橋の跡も見あたらなかった。こちらに軌道はなかったものと思う)

おそらく昭和53年頃から63年頃までは生け簀が使われていたのだろうが、次に撮影された平成19年の写真では、人工島の生け簀は現在と同じように蓋のない状態になっていて、既に廃止されていたようである。
これらの空中写真の変化と照らしても、前出の漁師さんの証言はかなり信憑性があると思う。




そういえば書き忘れていたが、漁師さんに軌道の名前を聞いたら、分からないと仰っていた。

なので、ここは11月の強行上陸者の権限をもって、正式名判明までの暫定名を付けたいと思う。


“久留和漁港養殖業用軌道”。

ひねりも何もないが、冗談みたいな見た目の割に大真面目に仕事していた「せんろ」に、軽率な名前は付けられない。

湘南の海に、“日本一シンプルな軌道橋” は、確かに実在した!


(細田さん、ご満足いただけましたか?)



【追記1】 岡本憲之氏提供 平成21年当時の状況

2014/12/3 追記

このレポートを公開した直後、なんとこの探索のきっかけとなった「ジェイ・トレイン」の記事の執筆者、せんろ商会の岡本憲之氏ご本人より、平成21年当時の写真をお送りいただいたのである。
岡本氏は、鉱山鉄道のバイブル『全国鉱山鉄道 JTBキャンブックス』の著者であり、林鉄や軽便鉄道なども含め、“せまいせんろ”を網羅的に研究されています。

掲載の許可も得ているので、是非皆さまにもご覧頂きたい。
これはほんの5年前の風景だが、私が見た廃墟のような印象とは異なっており、本来の軌道としての姿をとても良く留めていた。
その直線的な美しさは、感動的でさえある。



いかがであろうか。

これらの写真から新たに分かる事は、海上軌道の勾配が、陸から人工島へ向かっての単純な下り片勾配ではなく、序盤の下りで橋の中ほどに差し掛かった軌道は、そこからしばらくは水平に走り、最後にやや上りとなってから人工島に上陸するという、全体としては“凹型”の縦断線形を持っていたという事実だ。
これにより暴走事故の発生を防いでいたのであろう。

また、もう一つの注目点としては、現在は失われている消波ブロック上の起点部が見えていることだ。
そこに半分写っている鉄の台のようなものこそは、ここを運行していた台車(トロッコ)ではないかと思われるのだが、この件について岡本氏にさらに問い合わせ中である。

あれはトロッコではなく、進行方向側のプラットホーム的なもののようです。 ※縞鋼板に枠がついた簡単な構造のものです。  (←岡本氏談)

以上、たった5年という月日であっても、かような極限的不利の立地にある廃軌道には大きな犠牲を強いたという事が分かる写真であった。
岡本さま、ありがとうございました。



【追記2】 「伊勢エビ養殖」の解釈について

2014/12/3 追記

更に追記である。
人工島上の生け簀では伊勢エビの養殖が行われていたと現地の漁師さんは話ししていたが、このことについて私が本稿で展開した“解釈”が誤っているのではないかというご指摘が、複数の読者さまから寄せられている。代表的な意見として、軽便行者氏の以下のコメントを転載する。

【久留和漁港養殖業用軌道は「くもじい」に聞け】

この物件?は、数年前に見に行きましたが、つい最近まで忘れておりましたが、BSジャパンのお馴染み番組「空から日本を見てみようプラス」の8月12日放送分「三浦半島2」で、生簀(同じ物か忘れましたが)が紹介されておりますです、そのとき思い出しました。
今回の探索記事をみてあれだとわかりましたです。以下引用
『さらに佐島漁港へ進むと、岩場に掘られた巨大なプールのようなものが。これは冷蔵技術が普及していなかった頃のいけすで、かつてサザエやアワビなどを保管していました。』番組サイトに書いてありますからご参考までに。
おそらく養殖ではなくて、禁漁期や天候不順等に備えて、安定出荷するためではないでしょうか?
イセエビでも禁漁期間でも産地にいけば食べれますが、大概、生簀保存のモノです。

このコメントの内容を私は支持したいと思いますが、引き続き事実関係の確認に努めます。



【追記3】 宮川氏提供 私が訪れた5日後の久留和漁港

2014/12/4 追記

細田氏と同じように、この軌道跡を見て「●●●●がぶっ飛びそうになった」人が多かったのかは分からないが、当サイト読者の宮川氏が、平成26年12月3日の久留和漁港の光景を写真と動画で撮影して送って下さった。
私の探索のわずか5日後だが、正直、私の想像を超えた変化を見せていた風景を、ぜひ皆さまにもご覧頂きたい!

晴れればこんなに風景の良い場所だったのだ。→→→

背景の海には右端に江の島が、左端には遙か富士山が霞んでいる。
東海道中を強く思わせる眺めである。
だが、ここで海上に目を凝らせば、かの軌道跡が、いつ終わるとも知れぬ太平洋の荒波の前に、孤軍奮闘をしている姿を見る事が出来る!
この日は台風接近中とか異常低気圧とか、そんな記録に残るような日では決してなかった。
ただ普通の寒波が近付いている晴れた日であったのだ。
そうであるにもかかわらず、この光景だ。



もちろん、更に迫力満点の動画も見て欲しい。


さすがに無茶だろ、この軌道!


いやはや、驚いた。

海上を渡る線路が、平成の廃止と見られるにもかかわらず酷く傷んでいた理由は、これでよく分かった。
塩害だけではなかったのだ。
むしろ、こんな状況でよく現存していてくれたと言うべきだろう。

それと同時に、通常の橋桁を組まず、レールだけを海上に渡すような特殊な構造をしていた理由も、単に省略や節約といったことだけではなく、この環境に適応する一種の“工夫”であったと、そう考える事が出来るかも知れないと思うようになった。
ほとんど全方向から激しくぶち当たってくる激浪に耐えるために、中途半端な堅牢さを持つ表面積の大きな体になるより、抵抗を受ける面積が限界まで少さい体を選んだのではないか。

この宮川氏の写真と映像は、幸運にも平穏な日に探索出来た私に対し、それゆえ見落とした真実への示唆を与えているのかもしれない。



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