廃線レポート 第二次和賀計画 その3
2004.11.8

 石 碑
2004.10.24 8:36


 通常の水位では決して地上へと現れることもない、廃止されたダムの堤体を通って、左岸間近へと我々は移動した。
だが、ここから通常の汀線である湖岸の斜面までは、泥の沼地をおおよそ20mほど歩かねばならない。
一見して、そのうちの手前側10mほどは表面にひび割れもなく、足を踏み入れればどうなるのかは、もう体がよく分かっている。

体験したものにしか分からないことだと思うが、深い泥というのは、本当に危険なものであり、水ならば泳げば進むことも出来るだろうが、泥はそうも行かない。
実は、時として水没以上に難地であったりもするのだ。

写真でも、僅か2歩分だけ泥に進入した痕跡があるが、これは私が早まって進入し、危うく再び帰れなくなるところだった名残だ。

だが、くじ氏が指さす方向に、活路はあった!



 これが、答えだ!

とは言っても、意味が分からないだろうから、補足説明。

最後尾のHAMAMI氏が通っている場所が、唯一通れるコースである。
そこは、コンクリの堤体の縁になっており、このときはちょうど汀線でもあった。
この縁の部分だけが、僅かに波で泥が流され、辛うじて定規一本分程度のコンクリが見えていた。

あとは、両足でしっかりと泥を切り崩しながら、足場を広げつつ歩くことで、此岸までのルートを確保できた。
言うまでもないが、泥のぬめったコンクリ上を滑り落ちれば、即 底の見えぬ湖にドボン! 
かなり、恐かった。

恐かったが、全員無事にここを突破し、見事左岸に辿り着いた。



 左岸の斜面。

通常は水面下になっている部分には、なにやら橋台のようなものが瓦礫に半ば埋もれていた。
この斜面の上部には、国道107号線が通っており、賑やかな道の駅も間近だ。
これらコンクリートや石垣の構造物が何であるかは、推測の域を出ないが、大荒沢ダムの関連施設であった可能性の他に、旧平和街道の遺構である可能性も捨てきれない。
確かに当時は、後の国道となる平和街道が、この左岸を通っていた。


 やや左岸上流側から見た大荒沢ダムと、管理事務所跡と思われる建物(右)。

昭和初期としては規模の大きな発電用ダムだったが、“日本のTVA”とまで呼ばれた湯田ダム国策の前ではあえなく水没し、僅か20年と少しの寿命を終えてしまった。


これら失われた土地での体験が、私の和賀への愛着をより一層深くした事は間違い無い。



 この水位でも、なお立ち入ることを許さない2階建ての建造物。

おそらくは、広大な水没域に無数に存在した建物の中で、唯一原形を留めている物だ。
どうして、壊されずに残ったのかは、分からない。

私たちは、一歩一歩進むごとに眼前に広がる景色に、子どものように歓喜し、声を上げた。


日本の中の、身近な場所にもこんな探険がある。

普段通っている道の傍にも、こんな冒険が潜んでいる。

好奇に生きる私にとっての至福の時間は、まさにこんな時だ。


 そして、これが初見の瞬間より、私の心を捕らえて放さなかった、問題のモノである。

明らかに人工的な盛り土の先端に立つ、小さな石碑。

こんな景色、見たことも聞いたこともない。

ダムに水没する村の話は、よく語られるけど、大概は重要な移転事業として「墓碑・記念碑などの移転」というのがある。
この湯田ダムでも、もちろんそうだったはずで、水没地域の中心である大荒沢には古くから鉱山が発達し、鉱山墓地などもあっただろうから、うっかり移転を忘れてしまうなどと言うことは、想像しがたい。



一体、なんの碑だろう…?

人目に付くことを望まれないような、なにか忌むべき碑なのだろうか…?

正直言って、少し恐い。


それに、我々よりも先に碑へ行った者が居る?

一直線に碑へと続く足跡… ?!



…よく見ると、足跡は小さく、人間のものではなかった…。




それは、自然石を利用した、簡素な水神碑だった。




 碑面の保存状態は非常に良好で、その建立年を知ったときには、軽く驚いた。

碑面にある通り、建立は昭和15年12月。

大荒沢ダムの竣成が昭和16年だから、やはりダムと関連した碑だろうと推測される。
一般に、水を司る神が水神であるが、河川工事などに際してこれを祀ることは、よく行われている。
土台のコンクリは少し手抜きな感じもしないでもないが、なかなかに立派な石碑である。

私は、誰かがそうするよりも早く、おもむろに碑の前に正対し、目を閉じた。

 そして、手を合わせ、

  祈った!

きっと何十年分の溜まりに溜まった御利益が、一挙に私の祈りを叶えてくれると私は考えたのである。
今は、まだその答えは出ていない。
だが、今に私は、きっともっと幸せになることだろう…。


我々が目撃した、孤独な石碑、

その正体は、

主と運命を共にした、水神碑であった。





 石碑の正体を確認し満足した我々は、この大いなる寄り道を終えて、また右岸へと戻ることにした。

だが、戻るには再びこの遺跡を渡らねばならない。
特に、その前後の泥地帯が、危険であり、神経を使う。




今ごろは、きっと水中に戻ってしまっただろう。

だが、再び地上へと戻ってくる日も来る。

それはもう何年先か、或いは何十年も先のことかも知れないが。

今回は、湯田ダム完成から41年ぶりの初めての水抜きだとアナウンスされている。

もしもう一度、
私がこの水神碑の前に立つことがあれば、それは、
私の山チャリ生活が幸せのうちに、
幕を閉じたということかも知れないのだ。




 小荒沢暗渠
9:33


 来たときとほぼ同等の時間をかけて、再び我々は大荒沢集落跡のある右岸へと戻った。
ここから、旧北上線の廃線跡に沿って、目指す仙人隧道まで湖畔を歩く。

大荒沢駅を出た廃線跡は、まもなく複線が単線となり、点々と木製架線柱の一部が残る築堤を連ねる。
その築堤が山肌から続く瓦礫に呑み込まれて一旦消えるが(写真の辺りがそこ)、次の小荒沢暗渠から再び鮮明な掘り割りとして現れる。




 再び廃線跡が現れるのは、この小荒沢暗渠から。

ダムの濁った水と、小荒沢の透き通った流れは、この暗渠を境に接している。
今もちゃんと水を通していることが、その流れから分かる。

写真では、左側の築堤が廃線跡で、僅かに見えている石垣が暗渠上部である。



 小荒沢暗渠上から、小荒沢上流を眺める。

この沢を少し遡ると、現在の北上線の小荒沢橋梁の下をくぐり、さらに秋田自動車道をくぐると、「謎のトンネル」から続く高速道路の側道にぶつかる。
このルートは、湖岸で工事を行っている場合の迂回路になる。

私も歩いたことがあるが、河口付近の瓦礫斜面は急で、滑落に要注意である。


 そしてこれが、小荒沢暗渠から大荒沢を渡る築堤までの掘り割り区間である。
妙に幅が広いのは、複線だったのか、或いは道路が併設されていたのか。

正面の斜面に仙人隧道が口をほんの少しだけ開けている事を、この2週間ほど前の夕暮れに発見したのは、以前のレポに詳しい。
この写真では坑門は判別できないが、この掘り割りの高さと、奥の斜面の木々の生えている下端の高さとを見比べれば、大体どれほどの水深に、通常時の隧道が沈んでいるのかが想像できよう。

掘り割りを境に、湖側には運動場一つ分くらいの広さの平坦部がある。
この平坦部には、いくつもの廃墟の痕跡がある。



 大荒沢の集落よりも一段高い台地上のこの平坦地は、泥の堆積も少ない。
大きな石がゴロゴロとしており、それらに混じっていくつものコンクリートの破片や、金属塊、木製の柱の残骸などがある。
また、高さ1m程度の大きな建物の基礎部も残存している。
おそらくは、大荒沢集落か、大荒沢鉱山に関連する施設があったのだろうが、正体は分からない。

ムードとしては、古代遺跡の発掘現場のようだ。
また、真新しいゴミも目立つが、それらは人が持ち込んだものではなくて、ダム湖の水が運んできたものに違いないだろう。


 ふみやん氏の向こうに落ちているのは、複数の碍子や電線が収納された金属製のボックス。
正確性を重視する学者肌のふみやん氏は、物体の余りの破損ぶりに、敢えてこれが何であるかを明言しなかったものの、こと電気関係については並々ならぬ知識を持つ彼に、この物体が何であったのかは想像できたと思う。

私には、分からないが…。
変圧器か何かか?
奥に立っているのは、紛れもなく電信柱だろう。




 いくつもの遺物に囲まれた、遺跡そのものの廃墟。

ダムが出来る以前は、この辺りの和賀川のV字峡谷も、かなりの深さだったに違いない。
その断崖に面したこの建物は、一体何だったのだろう?
その基礎の大きさから、かなりの規模であったことは間違いないのだが。

茶と灰色だけの湖底に、手がかりは決して多くない。


 廃墟から、上流方向を眺める。

大分遠くになったが、やはり大荒沢ダム跡が、異様な存在感を醸しだしている。

我々は、廃墟を後に、再び廃線跡の掘り割りに戻った。

そしてすぐに、大荒沢の難地形が我々を阻む。


 大荒沢を越えて隧道へ
9:22


 まるでグランドキャニオンのミニチュアのような、乾いた谷となっている大荒沢。
谷の深さのわりに、水量は極めて少なく、渡渉は容易である。
しかし、両岸の斜面は垂直に近い上に、崩れやすい瓦礫であり、降りることは出来ず滑り落ちるしかない。
登るときも、かなり運に左右される。
不幸ならば、何度もアリ地獄に嵌ったように滑り落ち、振り出しに戻されることになる。

ここにも、鉄道は「大荒沢疎水隧道」というものを設けていたが、その痕跡は一切認められない。
疎水隧道というのは、暗渠に似ているが、水だけではなく場合によっては人や車も通れるほどに広い断面を持つ、規模の大きな水路隧道である。
それがあったはずの河口部分は、すっかり地形が変わっており、それが人工的な破壊によるものかは不明ながら、とにかく貴重な遺構は現存しない。

そして、ここから仙人隧道の坑口は、ほんの20m程度しか離れていない。


 仲間達の誰も、坑口に10m以内に近づくまで、どこに坑口があるのか分かっていなかった。
私も、初めはそうだった。
この写真にも、写ってはいるが、分かり難いはずだ。

坑門の真っ正面に立っているのに、まだキョトンとして辺りを見回しているくじ氏(右)
さっきの廃墟で見つけた黒いドーナツがお気に入りで、連れて歩いているふみやん氏(正面)
このドーナツは、大きなチューブで、しかも空気がある程度入ったままだった。

 「これ、浮き輪に使えるな。」

万が一ボートが転覆したときには…。



 9時16分、心強い仲間達と、これがなければ手も足も出ないだろうボートを持って、私はここにカムバックを果たした。

今度は、絶対に閉塞点まで行ってやる!

覚悟は決めてある。

写真撮影の直後、早くもくじ氏は隧道に吸い込まれていった。
私たちも、間もなく後を追った。

そして、2週間ぶりに見た内部では、思いがけぬ変化が、起きていた…。






< 次 回 予 告 >




探険隊はこの後、

未知なる生命体に遭遇する!!







その4へ

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