ブナオ峠概史(1) 近世以前
『富山県歴史の道調査報告書 飛騨街道 その2 (五箇山道)』より
ブナオ峠を越す県道54号の現道に「塩硝街道」の通称があることは本編冒頭でも述べたし、現地沿道にも「塩硝の道」を指し示す標柱が複数みられた(【例1】・【例2】)。
現代人にとって馴染みのない塩硝というワードには秘境感を駆り立てる不思議な魅力があるようで、現代ではブナオ峠といえば塩硝街道というくらい、この名前が一人歩きしているが、近世の大半を通じて塩硝という火薬の原料となる特殊な産物が、米をほとんど産しない五箇山地方における年貢として、この峠道を通じて加賀藩金沢城下の塩硝蔵へ運ばれていたことは事実である。しかし塩硝街道の呼称は現代のもので、当時の加賀藩が幕府に提出した国絵図では道自体が秘されていた。
もっとも、ブナオ峠が塩硝の輸送路として開発されたわけではなく、中世以前から峠を介した山村(飛騨や五箇山)と平地の村(砺波平野や金沢)の間の素朴な物資の交換が行われた。現在では全て廃村となったが、この道に沿って点在した刀利谷の村々は、いずれも中世以前の由緒を持っていた。
右図は、富山県教育委員会が昭和56(1981)年にまとめた『富山県歴史の道調査報告書 飛騨街道 その2 (五箇山道)』に掲載されている、砺波平野と庄川(五箇山)地方を結ぶ近世の主要な道を赤線で描いたもの。ブナオ峠の他にも、細尾峠や小瀬峠といった峠があったが、金沢にはブナオ峠が最短コースであった。
古文書まで含めれば古い文献的情報が膨大にあるとみられるブナオ峠だが、当サイトの主題は近代以降の道の盛衰であるから、近世までのこの道の性質については、昭和46(1971)年に刊行された『福光町史 下巻』の以下の記述の引用で簡潔に総括したい。
引用文
2014/6/2 11:48 《現在地》
振り返れば石仏群があり、チェーンゲートもぎりぎり見える位置に、2度目の広場が現れた。
【前回の広場】と同じような雰囲気の場所で、もう座る人も絶えて久しかろうという3つの擬木ベンチと、「富山の名水 小矢部川の長瀞橋」と書かれた疑木標柱が立っていた。
前の広場に案内があった遊歩道というのは、この辺りに続いているのかも知れないと思ったが、それらしい道はやはり見当らず、それよりも私の興味は、チェーンゲートを過ぎたこの場所がちゃんと封鎖区間を脱しているのかどうかということに向けられた。
ブナオ峠の封鎖区間を完遂出来たという確証が、欲しかった。
答えを確かめるべく早く進もう。
11:50
広場を出てまもなくの小さいが荒々しい切り通し。
ここから道は再び下り基調となる。それも進むほど勾配は増していった。
思えば、朝から5時間近く同じ峠道をたどり続けている。
そして、峠を越えた後だけでも、廃道に廃村、険しい峡谷、そんな様々な場面があった。そしてこの後にもまだ、ダム湖という新しい場面が現れるはずだ。
ブナオ峠、口にすればたったこれだけの名前だが、20kmを越える長い峠道を生身の体で通ろうとすれば、色々な記憶は乱暴に上書きされる。
私が何を言いたいか。
10年前のこの探索、その終盤に差し掛かったこの辺りの出来事については、あまり憶えていることが多くない。
そもそも、自転車で長い下り坂を走っている時の記憶が飛ぶのは、サイクリストあるあるなんだよ。
私が無茶な24時間サイクリングに没頭していた若い頃には、下り坂でハッと気付いた時に路傍の草地や側溝の中、或いは植え込みなんかに自転車と一緒に倒れていたことが何度もある。下り坂の運転中、極度の疲労で眠ってしまったのであろう。