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道路レポート 
静岡県道38号掛川大東線旧道にある
3本の煉瓦トンネルの先代ルート(掛川大坂往還) 机上調査編

所在地 静岡県掛川市
探索日 2023.03.19
公開日 2024.08.16

 机上調査編 〜掛川大坂往還〜 掛川と海岸地域の最短ルート 


旧道 青田隧道檜坂隧道岩井寺隧道
竣工:明治28(1895)年竣工:明治38(1905)年竣工:明治38(1905)年
全長:224m
全幅:4.0m
高さ:3.0m
全長:47m
全幅:3.6m
高さ:3.2m
全長:137m
全幅:3.6m
高さ:3.2m
出典:道路トンネル大鑑
旧旧道 青田峠 切り通し旧檜坂隧道(仮称)旧岩井寺隧道(仮称)
竣工:明治22(1895)年以前竣工:明治22(1895)年以前竣工:明治22(1895)年以前
全長:---
全幅:---
高さ:---
全長:---
全幅:---
高さ:---
全長:約60m
全幅:約2.5m
高さ:約2.5m
全て現地調査による目測成果


まずは今回の探索の簡単なまとめから。

今回は、静岡県道38号掛川大東線の旧道にある、いずれも明治生まれである3本の煉瓦トンネル(青田隧道、檜坂隧道、岩井寺隧道)に関連し、これらが建設される以前の明治22年の2万分の1地形図に描かれていた道(現在の県道から見た旧旧道)を探索した。

この地形図には、後の檜坂隧道と岩井寺隧道に対応する旧隧道だと想定できる2本の短い隧道が描かれていたので、その現状の確認が最大の探索目的であったが、前者については新しい市道によって開削済みで、後者は廃道状態で現存していることが確かめられた。

そして帰宅後、今回探索した旧旧道の正体を調べるための机上調査を行った。
が、これは当初の手掛かりが少なく、なかなかに難航した。「岩井寺隧道の旧道にある隧道」というような分かり易いキーワードは役に立たなかったのである。

そもそも、信州街道の要衝である青田峠に鳴り物入りの大事業として整備された青田隧道については、本編第1回で紹介したものを含め、比較的に多くの資料があるのだが、信州街道から分岐した一介の里道(明治22年地形図の地図表現による)に作られた檜坂隧道や岩井寺隧道については、優美な煉瓦トンネルとしての高い知名度に反して、竣工年以外の来歴情報がほとんど知られていないように思う。
具体的には、この道は「掛川大坂往還」として整備されているのだが、このことの知名度がとても低い。

というわけで今回の机上調査は、旧旧道やその隧道を最終目的地としつつも、その手掛かりを得るために、まずは旧道について調べることから始まった。





最初に調べたのは、掛川市史だ。
その『下巻』に、明治以降の交通の進展に関する記述があり、明治10年代以降の掛川周辺の道路整備の背景を次のようにまとめている。

掛川から南北に通ずる信州街道、そして山間の村々から掛川に抜ける道路の改修は、多くの場合、茶業をはじめとする明治10年代の経済発展を背景として、貨物量の増加に応じて荷車の通行を容易にするために実施されたのである。

(明治22年に)東海道線が開通し各駅に貨物旅客が集中するようになると、掛川駅までの交通路を整備する必要が生じ、道路交通の新たな手段として馬車の普及がみられた。

『掛川市史 下巻』より

前段は明治10年代の荷車の普及、後段は明治20年代の馬車の普及を書いている。
おそらく年代的に、今回探索した旧旧道は荷車を、そして旧道は馬車を、それぞれ念頭に置いて整備されたものと考えられるが、道路整備の具体的な事例としては、やはり信州街道の青田隧道建設に関わる内容が多く、市史全体を通しても、岩井寺隧道に関しては以下の一文しか見当らなかった(檜坂隧道には言及ゼロ)。

明治36年12月には、上内田村子隣の180間に及ぶトンネル(岩井寺トンネル)が開通間近と伝えられていた(『静岡民友新聞』明治36年12月12日)。

『掛川市史 下巻』より

これはいうまでもなく、煉瓦造りの2代目岩井寺隧道に関する記述だ。

『市史』では埒があかないことが分かったので、古い資料を探すことに。
そして、大正4(1915)年に小笠郡役所が刊行した静岡県小笠郡誌を見つけた。
これが一気に調査を進展させてくれる、激アツの1冊だった。

同書は、郡内の道路網について、明治の道路制度(国道・県道・里道に別れていた)に照らして、国道は東海道(現在の国道1号)の1本、県道は信州街道と横須賀街道(現在の国道150号)の2本があって、それ以外はみな里道としたうえで、県道と、里道の中でも重要な路線を、県の土木費補助規定が定める県費補助道路として整備していることを述べている。そしてその整備対象となった具体的な路線名を次の通り挙げている。下線部に注目。

本郡に属するもの第一類には掛川停車場往還、堀之内・池新田往還、横須賀街道、第二類には掛川・森往還、第三類には相良・掛川往還、金谷・日坂往還、相良・池新田往還、伊達方・堀之内往還、掛川・倉真往還、横須賀・掛塚往還、掛川・大坂往還、掛川・笠井往還、原田・原泉往還、西郷・原泉往還、掛川濱街道、掛川・堀之内往還、堀之内・横須賀往還、堀之内・佐束往還、西郷・雨櫻往還、以上15線とす。しかして第一類は全て県経済とし、第二類・第三類は全て町村の負担とし、県費より二類は十分の七、三類は十分の五を補助するものとす

『静岡県小笠郡誌』より

県土木費補助規定による第三類道路(県費5割補助)の中に、掛川大坂往還という道路名がある。

この段階ではピンときていなかったが、各路線ごとの説明書きがこの後に続いており、それを読むと……(↓)

掛川大坂往還
本郡掛川町において東海道を分岐し、上内田・佐束・土方諸村を経て大坂村に至り横須賀街道に接続す、里程3里7町53間。
本道路は従前上内田村板沢より信州街道を分岐し大坂村に至る線路たり、明治34年より改良道路として修築に着手し、大正3年度を以て漸く全線の開通を見るに至れり、明治39年掛川より板沢に至る信州街道を本線に編入せられたり。

『静岡県小笠郡誌』より

この説明によって、今回探索した道の昔の名前が、里道・掛川大坂往還であったことが判明した。

文字通り掛川と大坂を結ぶ路線であり、終点の大坂とは現在の掛川市大坂のことだが、そこは平成17年まで小笠郡大東町の中心市街地だった。したがって、起点も終点も現在の県道38号掛川大東線に近いが、その途中経路についても、経由地として掲げられた地名(上内田・佐束・土方諸村)を見る限り、県道と合致する。ようするに、現在の県道掛川大東線は、明治〜大正初期の里道掛川大坂往還を継承した路線である。

そして、「明治34年より改良道路として修築に着手し、大正3年度を以て漸く全線の開通」とあるが、この改良工事こそが、今回の探索のテーマとなった3本の煉瓦トンネル+αを生み出している。(+αは今回の探索範囲外に整備された4本目のトンネルのことで後述する)

改良の進展によって、里道掛川大坂往還は、従来は県道として格上の存在だった信州街道を“食う”利用度となったのか、明治39(1906)年(檜坂隧道と岩井寺隧道が完成した翌年)に、元信州街道である掛川〜板沢間、すなわち青田隧道の区間を編入している(残りは相良掛川往還となった)。
こうして、今回のテーマの3本の煉瓦トンネルは、全て掛川大坂往還の所有するところとなった。

なお、今回探索した“旧旧道”は、いまの県道から見ての旧旧道であり、掛川大坂往還の改良道路から見れば旧道だ。すなわち、認定当初の掛川大坂往還そのものだったのだろう。
この路線の認定時期は書かれていないが、太政官布達によって国道・県道・里道の別が定められたのが明治9(1876)年だから、それ以降なのは間違いない。


 掛川大坂往還の正しいルートについて


『静岡県小笠郡誌』

非常に有力な情報を提供してくれた『小笠郡誌』であるが、同書の付録である絵地図(→)は、少々ややこしい問題を提起するものとなっている。

この地図の赤い線は、凡例では単に「道路」となっているが、おおむね本文に解説がある県費補助対象の15路線を描いているようだ。

チェンジ後の画像に、掛川大坂往還の経路と考えられる道を赤くハイライトした。これは本文の経由地(上内田・佐束・土方村)に合致し、かつ現在の県道とも合致する経路だが、よく見ると、このルートではない別の道にわざわざ「掛川大坂往還」の注記がある。

この地図が掛川大坂往還と注記している「入山瀬」地区を経由して上内田村と土方村を繋ぶルート上には、檜坂・岩井寺両隧道よりも多少先行して明治35年頃に開通した2本の隧道(第一・第二風吹隧道)があり、かつこの経路を「県道掛川大坂線」としている次のような昭和20(1945)年の文献もあったりする。

県道掛川、大坂線は、掛川町の東部より、小笠山の東麓を、山に添い或は田圃を横切り、南へ南へと走る、土方村に達するまでには、大小四つの隧道を通過する。

『大日本報徳 39(8)(459)』より

これは、「土方村に達するまでには大小四つの隧道を通過する」という内容や、本文の他の部分から、入山瀬経由の道を指していることが明らかだが、「県道掛川大坂線」という路線名を記す文献は、今のところこの雑誌の外だと、昭和34(1959)年の雑誌『報徳 58(6)』に、「掛川大坂線の県道沿いに二階建の事務所がある」という一文しか確認できていないうえ、これは佐束農協に関する文章なので、その位置は佐束地区であり、入山瀬経由の道を指してはいない。

本稿においては、入山瀬経由の道も古くから整備された重要な路線ではあったものの、『郡誌』本文の県費補助対象15路線に該当するものは見当らず、かつ郡誌地図の注記も誤りであると判断して先へ進む。


「掛川大坂往還」という強力なキーワードを入手した私が、再び『市史』に戻って調べると、「乗合馬車の発達」という項目の中に次の記述を見つけた。

乗合馬車の運行していたのは、@掛川・大坂間乗合馬車、A掛川・日坂間乗合馬車、B掛川・倉真間乗合馬車、C掛川・森間乗合馬車の四つであった。

(i) 掛川・大坂間乗合馬車
明治35年西郷村の岩清水金蔵は、当時の南郷村上張四八〇番地を起点にした乗合馬車組合を設立し、手始めとして掛川・佐束間で、掛川・大坂往還上の運行を開始した。以後順次運行区間を延長し大坂まで達した。
これに参加する馬車は掛川2台、佐束2台、土方2台、大坂1台と合計7台で、初期は六人乗りの馬車を用い、後には八人乗りを用いていた。運賃は掛川から板沢まで5銭、和田まで8銭、岩井寺まで12銭、佐束まで15銭、土方まで20銭であったという。

『掛川市史 下巻』より

残念ながら写真などは見当らないが、明治35(1902)年に岩清水金蔵という人物が乗合馬車組合を設立し、その後に掛川大坂往還上に六人乗り、ないし八人乗りの乗合馬車を運行したという。
大掛りな馬車であることから、明治38年の檜坂・岩井寺両隧道開通後の運行ではないかと考えているが、運行開始日の情報はない。
馬車と煉瓦トンネルという、まさに絵に描いたような取り合わせが実際あったことが分かるのは、楽しい。
また、運行の終了時期も明らかでないが、さほど経たず乗合自動車へ置き換えられたものと考えている。


ところで、掛川市史には、その論述の元となった史料を集めた掛川市史 資料編が存在している。
こちらも調べてみると、掛川大坂往還の改良工事に言及している貴重な史料を見つけた。

それは、「掛川町土木事業の経緯 明23〜37」という表題で収録されているもので、収録元は「明治四十五年五月九日編纂 掛川町沿革誌」である。表題通り、明治23年から37年までの掛川町と関わりのある土木事業の経緯が述べられており、その明治27年の段に次の内容があった。少し長いので二つに分けて引用する。

明治27年10月、城東郡沿海諸村より掛川町に通ずる新道開鑿の計画あり。掛川町外8ヶ村の町村長連署を以て、本線を市町村土木費補助処弁規則第一条第二類に編入の願書を本県知事へ提出せり。その理由は従来横須賀街道より掛川町に通ずる線路は千浜村より通ずるものと大坂村より入るものとの二線ありて、佐束村に抵り一線となり掛川町に達する枢要の道路なるが、その中間の土方村に太平坂あり、土方村と佐束村の境界に能ヶ坂あり、上内田村の子隣と和田との間に檜坂あり。就(いず)れも険峻なる坂路にして車馬の交通極めて困難なるにより、城東郡の重要物産として掛川町に輸入する米麦製茶等の運搬容易ならず。然れどもその改良工費は多額にして関係町村民の負担に堪ゆること能わざるにより、地方税の補助を得て改修工事を起さんとするに在り。

『掛川市史 資料編 近現代』収録「掛川町土木事業の経緯」より

ここに述べられているのは、掛川大坂往還の大改修工事の経過である。
『郡誌』には「明治34年より改良道路として修築に着手し、大正3年度を以て漸く全線の開通」と出ている工事だが、その前段としての計画の発案が、明治27(1894)年10月に、掛川町ほか8ヶ村による県土木費補助願書の提出としてなされていたという。
ようするに、県費補助道路の第二類(補助率7割)として整備をしてほしいという願書だ。

その理由は、海岸沿いの横須賀街道(県道)から掛川に通じる道路として、従来より千浜村と大坂村からの2本の道があり、これらは佐束村で合流して1本になるが(大坂村からの道が掛川大坂往還)、途中に難所が多くあって米麦製茶等の物産運搬の妨げになっているから改良したいというもの。
具体的な難所として、太平坂、能ヶ坂、檜坂の名が挙げられているが、檜坂は今回探索した檜坂のことである。

掛川大坂往還は、掛川から直線で約15km離れた海岸一帯の地域を結ぶ最短ルートに近い経路をとっている。
ただ、川に沿った経路ではないので、小笠山周辺の複雑な起伏を有するケスタ地形の丘陵地帯を横断する。ケスタは平地より急傾斜の浸蝕面がせり上がる特徴があるので、高度は低くても急峻な地形である。そのために多くの隧道が誕生したといえる。

そしておそらく、古くはこの経路も信州街道と同じ“塩の道”であったと考えられる。信州街道は相良藩の城下町で大型船が出入りした相良港に延びていたが、掛川からは少し遠い海である。かつて製塩は遠州地方の海岸一帯で広く行われており、大坂や千浜も例外ではない。『掛川市史 上巻』にも、「掛川と海岸地方を結ぶ道は古くからあった」「浜の女性が自転車やリヤカーでワカメやアラメ、芋切り干しを売りにきた。以前は塩を運んで来たのであろう」という記述がある。

ところで、列記された難所の中に、いかにも難所らしい青田峠と、岩井寺隧道のある峠が含まれていない。
まず青田峠については、明治27年にはすでに青田隧道の建設が進行中だったので難所解消の見込ありとして含まれなかったか、そこは当時は掛川大坂往還ではなく信州街道だったから含まれなかったか。まあこれはいい、本当に気になるのは、岩井寺隧道がある峠が含まれていないことだ。

岩井寺隧道もこの改修工事で掘られることになるが、明治27年の願書提出時点で既に初代の隧道が存在していた。だから喫緊に改修したい難所とまでは言えなかったのではないか……という、これはちょっとした深読みだがどうだろう。

ただそうなると、同じく明治22年の地形図に初代の隧道が描かれていた檜坂が、難所として挙げられている理由が分からないが。
もしかしたら檜坂の初代隧道は、改修効果に乏しい微々たる存在でしかなかったのだろうか…。

それはともかくとして、現在の檜坂隧道と、初代の檜坂隧道は、同じ尾根上の400mほど離れた位置にあるが、初代隧道がある峠道が檜坂と呼ばれていたようだ。
地名が継承されているので、これらは新旧道の関係にあったといっていいだろう。
もっとも、初代隧道がどう呼ばれていたのかについては、未だ情報はない。


明治32年6月に至り掛川町、上内田村、佐束村、大坂村の1町4ヶ村は組合を組織し35年2月13日本県の許可を得て工事に着手し、已(すで)に子隣岩井寺等の隧道を貫通し、能ヶ坂峠をも切り下げ、現に大坂と土方村の改修工事を継続せるにより予定の地点に達するは一両年の中にあるべし。当町にて負担したる工費は約(おおむ)ね12000円なりとす。

『掛川市史 資料編 近現代』収録「掛川町土木事業の経緯」より

当初は1町8ヶ村による出願だったが、最終的には1町4ヶ村による工事組合が工事主体となって明治35年2月に着工、この史料が作成された明治37年時点で子隣(檜坂隧道のことか)と岩井寺隧道が貫通済みで、明治38〜39年の全通を見込んでいるが、『郡誌』によると、全線開通は大正3(1914)年までずれ込んだようだ。

なお、この掛川大坂往還の改良路線には、先ほど「+α」とした4本目の隧道が存在した。
それは土方村と大坂村の境に掘られた池之谷隧道で、『道路トンネル大鑑』によると、大正3(1914)年竣工、全長49m、幅3.6m、高さ3.1mのものであったようだ。幅や高さが檜坂・岩井寺隧道とそっくりだが、煉瓦トンネルであったかは記録がなく分からない。
長らく県道上のこの位置(池ノ谷バス停付近)にあったが、既に開削されて地形も変化しているので跡形がない。
ただ竣工年的に見て、この隧道がある区間が最後の開通区間だったのだろう。まさに大坂の入口に当る場所だ。



@
明治中頃
A
大正初期
B
昭和初期
C
昭和中頃
D
現在

明治27(1894)年に出願され、32年に工事組合設立、35年着工、そして大正3(1914)年に全線が完成した、足かけ20年にわたる掛川大坂往還の改良事業であったが、開通後の経過については、まとまった情報がほとんどない。

また、路線名の変遷についても、静岡県における大正期以降の県道の変遷をまとめた資料が見当らないため、いくつかの資料からの断片的な観測になる。

道の変遷をまとめた右図のうち、@とAは既に紹介した内容なので、B〜Dについて簡単に説明する。

Bは、大正末から昭和初期の状況を書いている。
具体的には、昭和7年の静岡県現行土木関係例規という文献に、大正9(1920)年に旧道路法の公布を受けて静岡県が認定した県道の一覧があり、そこから判断したものとなる。昭和初期の静岡県統計書も参考とした。

で、この時期の特徴だが、Aでは起点から終点まで1本の里道だった掛川大坂線の経路が、4本の県道に分割認定された。
北から順に相良掛川線、掛川横須賀線、千浜掛川線、堀之内横須賀線の4路線で、前の3路線は掛川から単独区間の開始地点までは重複している。しかも、青田隧道、檜坂隧道、岩井寺隧道、池之谷隧道が、全て別の県道になるような路線配置である。従来の1本の道路としてのまとまりは失われたが、見方を変えれば、掛川大坂線の整備が海岸地方と掛川との結びつきを深め、その結果枝分かれした多くの県道が認定されたといえるだろう。また、明治27年の願書にあった千浜起点のルートも千浜掛川線として県道に昇格している。

Cは昭和中期、具体的には現行の道路法による県道認定が行われて間もない昭和36(1961)年に静岡県が発行した静岡県総合開発計画書 第6次(2)を根拠としている。
この時点では、県道掛川大須賀線が主要地方道として認定されており、その経路は、Aの掛川大坂線に大坂〜横須賀間を加えたもので、歴代最長となっている。

その一方で、県道掛川城東大須賀線という一般県道も認定されており、その経路は、Bの掛川横須賀線のものである。

なお、昭和43(1968)年に刊行された『道路トンネル大鑑』でも、掛川大須賀線として青田、檜坂、岩井寺、池之谷の4本のトンネルがリストアップされている。

本稿では「大須賀」と「横須賀」という地名が混在しているが、これは基本的に同一の場所を指している。というのも、明治22年に横須賀町と周辺の村が合併して大須賀村が誕生したが、大正3年に大須賀村は横須賀町となり、昭和31年に大渕村と合併し再び大須賀町となった経過があるためだ(平成17年に大須賀町は掛川市と合併し、現在の掛川市横須賀周辺が明治以前の横須賀町である)。

最後のDは現在の状況を下地の地図とともに現わしている。
Cの掛川大須賀線は、再び区間が短縮され、現行の県道掛川大東線となっている。
この変化は昭和52年以前のことだが、詳しい認定年は不明である。Aの掛川大坂線と比較すると、終点側が僅かに延長されているものの、基本的に同一経路のものとなっている。

もっとも、途中にあった4本の狭隘な古トンネルは全て旧道ないしは撤去となり、青田隧道に対応する新青田トンネルが掘られたが、檜坂隧道と岩井寺隧道は、それぞれ切り通しによる新道が整備され、池之谷隧道は撤去された。
昭和40年代以降のこれらの整備の進展は、明治以来のこの経路がなおも掛川と海岸地方を連絡する幹線として有利性と重要性を失っていないことを現わしているといえる。




明治から現代に至るまでの掛川〜大坂間の道路の変遷を、大事業となった里道掛川大坂往還の改良工事を軸に説明したが、未だに登場していないのが、明治22年の地形図に描かれていた旧檜坂隧道(仮称)と旧岩井寺隧道(仮称)である。
特に、旧岩井寺隧道については、百余年を耐えて現存しているにもかかわらず、いつ、だれが、どうして掘ったのか、全く伝わっていないとしたら、それはあまりに悲しい。

私は、調べた。


徹底的に。



しつこく。




念入りに。





結果、辿り着く。


奇跡の一報に。


時は明治12(1879)年6月、佐野郡と城東郡(明治29年に合併して小笠郡となる両郡)の郡長である岡田良一郎(雅号:岡田淡山)は郡内の巡視を行い、紀行を翌13年4月に『巡回紀行』として刊行している。

岡田良一郎は、後に衆議院議員となった政治家であるとともに、農政家、実業家、そして報徳運動家としても知られる。
報徳運動とは、二宮尊徳が体系立てた経済と道徳が融和した社会を目指す思想で、良一郎はその弟子として学び、明治9年に全国の報徳運動の拠点となる遠江国報徳社(現在の公益社団法人大日本報徳社)の2代目社長に就任、それから間もない明治12年に郡長になっている。

彼のこの『巡回紀行』は、後に大日本報徳社の機関誌『報徳』に「郡中小孝節録」として連載され、その第2回は昭和45(1970)年7月の報徳 (767)に掲載されている。その文中に、以下の内容があるのを見つけた。
これは明治12(1879)年6月28日の内容である。


高瀬村を経て牛ヶ谷の地道をみる。高瀬、岩井寺両村の民相謀りてうがつ所なり、本年四月を以て功を竣ふ、洞をなす。四十余間、直にして的を射べし状もっとも功妙、しかして車馬通路の便また弁にまたず、ただその費用いまだ全く償わざるを聞く、よって聊か金円を寄附してその労を慰す。こいねがわくは有志諸君、成功者の力を助けて、猶その前後を修理あらんことを。

『報徳 (767)』掲載「郡中小孝節録(2)」より

キッ

キター!!!!!

やりました。

これによると、旧岩井寺隧道こと、「牛ヶ谷の地道」は、高瀬、岩井寺、両村住民の計画と実行により、明治12(1879)年4月に竣功と判明!
「全長40余間」というから70m強とのこと、私の目測(60m)は少し外れているが、大差なし。
高瀬村から岩井寺村へ向かっている途中で通過していることからも、旧岩井寺隧道であることは疑いがない!

洞内は直線で、車馬の通路として便利だとしている一方、未だ建設費用が全く回収できていないとある。
これはどういうことなのだろう。直接的に建設費を通行料で回収する有料道路(賃取道)だったが通行量が少なくて(あるいは開通からの日が浅くて)回収できていないのか、それとも遠回しに開通によって間接的に得られる地域の利益がまだ賄われていないということなのか。もし前者であれば、県側に賃取道としての許認可に関する資料がありそうだ。

ちなみに、同じ静岡県の東海道の難所・宇津ノ谷峠(国道1号)には明治9(1876)年に初代の隧道が建設され、これは通行人から利用料を徴収する本邦最初期の有料道路であった。
そのニュースは、同じ東海道沿いで数十キロしか離れていない掛川地方にも響いていたに違いないが、もしこれが本当に有料道路だったとすると、掛川地方最古の有料道路とも考えられ、単なる素掘り隧道に終わらない重要な情報となるが…。

ただ、どちらにしても期待されたほどの十分な利用状況ではなかったらしく、その原因を、隧道前後の道の整備が完成していないことだと、間接的な表現で述べている。
現在では隧道の前後にこれといって難所はない(藪は濃いが)ので、もっと前後に広い範囲(現在では旧旧道として残っていない部分)について述べているかと思う。
明治12年当時、この道がどういう位置づけであったのかも情報がないが、完成から間もなく郡長が巡視するくらいには、工事中より知られた存在だったのだろう。

それにしても、「地道」というトンネルの表現は初めて触れるものだ。
トンネルが昔は隧道と呼ばれていたのは皆知っていると思うが、隧道も中国語の借用で日本源流の言葉ではないから、さらに前には穴道とか洞門という言葉が使われた例がある。「地道」は初めて聞くが、どのくらい通用していた言葉なのか気になる。

「牛ヶ谷」は地名だが、これも他の文献では見たことのない小地名だ。牛が越える峠筋の谷というくらいの意味合いか。
そして探索中は気付かなかったが、岩井寺隧道の北側にある小さな橋が「牛ヶ谷橋」という名前である。
これでいよいよ、「牛ヶ谷の地道」が当地のものであると断定できた。

そして、明治12(1879)年4月竣功というのは、掛川地方で竣功年がはっきりしている隧道としては、私の知る限り最古の1本となっている。
正直、思っていた以上に古かったし、これだと開通から(明治38年まで)20年以上は当代であったことになり、最終的には元も取れたのではないかと期待したいところ。
と同時に、峠上の切り通しに至っては、明治12年以前に開削されたものと考えられ、輪をかけて古いものだった。

「牛ヶ谷の地道」について、完成以後の経過や記録は発見されておらず、明治22年の地形図に採録されたことが当時の刊行物への最後の登場なのかもしれない。
また、もう1本の「檜坂の地道」とでもいうべき檜坂の初代隧道については、未だ一切の記録は未発見である。

ただ、いずれの隧道についても、地元には住民がいるので、彼らの証言から知られていない多くの新情報が露見する期待がある。
当サイトに寄せられている読者様情報に限っても……(掲載不可タグのつけられた投稿なので個人特定可能性がある部分を加工して紹介)

現在90才の人が子供のころ、岩井寺トンネルが不通になった時があり、その時は今回のレポートの素掘りトンネルを通ったと話してくれたことがありました。バスの車窓から、あそこの谷にトンネルがあるよと教えてくれたことを覚えています。

読者様コメントより

こんな具合に、地元で長く生きた人であればたぶん知っているし、またこれはどういうわけかは知らないが、古い道の存在というのは、なかなか記憶から消えにくい種類の情報であるようだ。
おそらくそれは、原始の時代から人が生きる知恵として重要な種類の情報だったから、本能的に忘れにくいのではないかな。


 「牛ヶ谷の地道」の世話人が判明
2024/8/17追記

入手した「牛ヶ谷」という新たなキーワードを用いて検索を進めた結果、新たな文献情報が発見された。

昭和11(1936)年に発行された鈴木良平小伝という文献がある。
これは中内田村(現在の菊川市中内田周辺)出身の農業指導者・鈴木良平氏(1854〜1932)の生涯を綴った伝記であるが、同書の「良平年譜」より、明治10年と11年の項目に、それぞれ次のような記述がある。

二十四才明治十年四月、小区事務所ヨリ高瀬村伍長ヲ命ゼラル
八月、父ト力ヲ協(あわ)セ高瀬村中組ニ報徳社ヲ結ブ
二十五才明治十一年十二月、牛ヶ谷隧道開鑿世話係ニ挙ゲラル

これにより、当時静岡県城東郡高瀬村の伍長(大区小区制における小区内の役職名で10〜30戸の代表者)であった鈴木良平氏が、明治11(1878)年12月に、「牛ヶ谷隧道開鑿世話係」に任命されていることが分かる。
世話係というのは文字通り、ある事業を成功へ導くための世話を率先する主導的のことである。

残念ながら、伝記の本文内ではこの事績について全く触れられていないので、彼が隧道建設の世話係となった背景(計画立案にどう関わっていたのかとか)や、その経過は分からない。
ただ、前掲した『郡中小孝節録』によれば、就任からわずか4ヶ月後の明治12年4月に隧道は貫通しているようだから、彼はこの仕事を遅滞なくやり遂げたのではないだろうか。

また、記事では「牛ヶ谷の地道」を「牛ヶ谷隧道」と表現しているが、これが当時実際使用された隧道名なのか、読者に伝わりやすいように著者(良平氏の長子)が意訳したものなのかは定かではない。ただ、これが「岩井寺隧道」と呼ばれずに、あくまでも「牛ヶ谷」を冠して呼ばれていることから、明治38(1905)年完成の2代目隧道が「岩井寺隧道」を命名された最初の隧道であった可能性が高いと思う。初代についてはやはり、「牛ヶ谷隧道(牛ヶ谷の地道)」というのが相応しい名称だろう。

隧道については以上であるが、本文を読み進めてみると、鈴木良平は明治13(1880)年5月から岡田良一郎のもとで報徳学を深く学び、以後ますます地元や山梨県での農業指導に力を注ぐことになる。若かりし鈴木が世話役として完成させた隧道を、郡長である岡田が視察するのが『郡中小孝節録』の場面ということであり、『小伝』によれば、両者の出会いは視察の翌年ということになるが、当時の掛川地方の指導層に広く普及した報徳学という、利他の行為が最終的に自身を豊かにするという道徳によって紡がれた、不思議な縁を感じる。


 旧檜坂隧道(仮称)の諸元データが判明?! 「和田隧道」が正式名の可能性大 
2024/8/17追記

これまで情報が皆無であった旧檜坂隧道(仮称、右写真は跡地の切り通し)であるが、こいつの諸元データと思われるものが、近年の意外な資料に記録されていることに気付いた。
灯台もと暗しというべきだが、当サイトでしばしば参考資料として引用している『平成16年度道路施設現況調査』である。

同資料は、平成16(2004)年4月1日現在に全国の道路法の道路に存在したトンネルを網羅している。
『道路トンネル大鑑』のトンネルリストは都道府県道以上の道路のトンネルが対象だが、こちらは市町村道のものも含まれているので数も多い。

同資料の静岡県掛川市部分には、全部で14のトンネルが記録されている。私が宣伝している「トンネルの街」という印象の割には少なく思うかも知れないが、(道路法的に供用を終了している)廃トンネルは除外されているので、こんなものである。で、この14本を1本ずつ、「アオタズイドウ」はここで、「ガンショウジズイドウ」はこっちというふうに、半角カタカナ表示の名称とスペックを参考に地図上へ当てはめていくと、最後に(↓)この1本のトンネルだけが、所在不明として残ったのである。

道路種別トンネル名称竣功年延長幅員有効高壁面路面現況
市町村道その他ワダズイドウ明治29年28m2.5m4.0m素掘り未舗装通行制限なし

偶然「ヒノキザカズイドウ」(檜坂隧道)の次の行に記されている
この「ワダズイドウ」こそが、
旧檜坂隧道(仮称)の廃止直前の時期のデータだと考えている。


そう考える根拠はたくさんあるが、一つは「和田隧道」と漢字が当ると思われる名称だ。
件の隧道跡地は、ちょうど掛川市“和田”と子隣の境界であるので、この名前で違和感がない。

そして、竣功年が明治29年と十分に古いこと。
本来であれば、明治22年の地形図に描かれている隧道だから、もっと古いはずだが、正直この手の資料の竣功年はあまりあてにならない(改修した年や法的に認識した時期が竣功年として記録されていたりする)ので、単純にこんなに古い隧道が他にはそうないことが根拠になる。

さらに、28mという全長だ。これは現地の切り通しの規模に合致している。
加えて、道路種別が「市町村道その他」となっていることも、切り通しとなっている現在の道路が市道和田子隣線であり、合致する。

ただ、繰り返しになるが、このデータは平成16年4月1日時点のものだ。
第2回で考察したように、航空写真を見る限りは平成13年〜15年に切り通しが出来ており、その段階で確実に隧道は撤去されたはずだから、このリストに載っていることが不思議ではあるが、リストからの削除が「すぐ」ではなかったのかもしれない。

私は総合的に判断して、ここにあったものが「和田隧道」である可能性は極めて高いと考えているが、二度に分けて切り通しが整備されたのではないかという現地での考察とどのように整合するのかなど、よく分からない部分は色々ある。
こうした疑問については、意外にも最近の出来事であるらしい隧道の撤去を目の当たりにした地元証言者の出現に期待したい。

おっけい?



以上、名前を取り戻した「牛ヶ谷の地道」(牛ヶ谷隧道)より、お伝えしました!!






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