道路レポート 栃木・茨城県道1号 宇都宮笠間線 仏ノ山峠旧道 後編

公開日 2014.8.02
探索日 2014.3.12
所在地 栃木県茂木町〜茨城県笠間市


私が熱くなった碑について語ります


2014/3/12 11:04 《現在地》

峠の集落を過ぎて少し行くとバリケードがあり、車両通行止めになっていたが、逆にいえば歩行者の通行までは妨げない。
そしてバリケードの目と鼻の先にある最初のカーブに、普通に走っていたら見落としようもないほどに目立つ石碑が立っていた。
この道で出会った第二の石碑。
前の石碑には、格式高い漢文で、明治時代の新道工事の沿革が刻まれていたが、今度の石碑には一体どんなことが記録されているのだろう?

私は吸い込まれるように、その石碑の前に立った。




一見しただけでは内容を把握出来ない難解な前碑とは対照的に、今度の碑の表現は極めて簡素かつ抽象的だった。そこに刻まれていたのは説明的な文章ではなく、当時は説明不要なほどに誰もが知る神の名だった。

馬力神」。極めて力強い筆致で刻まれたこれを、「ばりきしん」と読む。

この碑にピンと来た方は、栃木県周辺(茨城や福島も)にお住まいではないだろうか。
字面から想像出来るとおり、馬力神とは馬の神さまで、人間の活動の手伝いをしてくれる馬への感謝を、信仰という形で示したものである。
ほぼ全国で見られる「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう。(「馬櫪神」(ばれきしん)や、「勝善/相染」(そうぜん)なども、地域的に偏りが見られる馬神さまの碑である)

特筆したいのは、この「明治38年建設」とある馬神碑が、半ば封鎖された旧道沿いにありながら、なおも“祀られ”ているという点だ。
ただ“置かれ”ているものが多く見られる同種の碑の中では、非常に恵まれた扱いを受けている。
今日の日本では、乗馬レジャー、競馬、食肉といった分野以外ではあまり馬と接する機会が無く、馬神さまはあまり親しい存在ではなくなっている(現代社会と親しい神さまがいるかは知らないが)にもかかわらず、この碑にはさほど古くない生の花や榊(さかき)が供えられていた。

誰がと問わば、おそらく旧道沿いの住民だろうと思う。
そもそも、台座などは明らかに後補の移設を感じさせる綺麗さだ。
現在の旧道沿いの“とびきり良い場所”に石碑を移して台座や献花台まで設けたのは、この道とともに先祖代々を暮らし、未だに馬匹交通時代の繁栄に感謝を忘れない、信心に明るい沿道住民の寄進によるのではないだろうか。行政である道路管理者がここまでサービスすることは通常無いのだ。




だが、私にとってのこの碑の肝は、
「馬力神」ではない。

それは、碑の下部に細々と刻まれた文字の中にあった。



実はこの碑の表面には、ほとんど“余白”というものがなかった。
遠目には余白に見える部分にも、実は無数の文字が刻まれていた。
その大部分は人名の羅列であり、右端に「発起人」という文字も見られるので、建碑に携わった人々(発起人だけでなく寄進者もか?)の氏名を、貢献度や寄付金の多寡などに応じた大きさで刻んだものと推測される。刻まれた人名は数十人にも及んでいた。
(例えば、大きな「神」という字の右側のスペースにもびっしりと細かな文字で人名が刻まれているのだ。)

そして多数の人名の中に、それらを代表し、または総括するような文字が含まれていた。
その内容こそ、今回の探索で私を最も興奮させた発見であり、かなり貴重だと思われるものなのだ。

当該部分を拡大してみよう。



“馬車組合”

人名よりも少し大きな文字で、くっきりとそう刻まれていた。
また、そのすぐ上には――

“ 茂木 北山内 笠間 ”

――という、この道路沿いにある3つの地名が並べられていたのも嬉しかった。

「茂木」は栃木県の現在の茂木町、「北山内」は現在地である茨城県笠間市片庭の旧村名(昭和30年に笠間町と合併するまでの北山内村片庭といった)、「笠間」は茨城県笠間市の旧称(笠間町)を意味している。したがってこの記述は、「茂木―北山内(仏ノ山峠)―笠間」を結ぶ“この道”を馬車が通じ、馬車による運輸事業を営む人々の組合(馬車組合)が本碑を建立したという意味に取れる。(茂木馬車組合、北山内馬車組合、笠間馬車組合の記述を略したのかもしれない)


なぜ私がこの記述に殊更惹かれるのか、理由を説明しないと理解されないだろう。少しマニアックな話しだ。
だが、余り踏み込むと我が国の交通史に関わることなので、私の手には負えないことになる。
だから、端的に言う。

これが、我が国では短期間だった“馬車交通時代”の実在(特に中山間地での活躍)を明確に示す現地資料というところに興奮した!


明治維新と共に始まった我が国の馬車交通であるが、明治中頃には長距離輸送を鉄道に、短距離輸送は人力車や自転車に、それぞれ主役の座を奪われた。さらに大正以降になると自動車が中量輸送機関としての馬車の命脈を絶ったとされる。そして今日(ほぼ)絶滅状態になっている。

日本中に、オブローダー達から愛される明治馬車といわれる廃道が存在するのは、短命だった彼らがかつて全国で活躍していた名残である。
だが、実際にはかつて馬車道として作られた道路でも、馬車交通が盛んに行われたという記録や証拠は乏しい場合が多く、中にはそれゆえ、道自体が失敗作であったとみなされる場合もある。

そんななかにあって、この道には明治時代に作られた証拠の漢文碑に加え、馬車交通が盛んに営まれていたことの証しまでが残っていたのである。
これまで霧に包まれた幻のような馬車交通路を山中に探し求めてきた私だが、ここにあるのは現実の道と記録だった。


明治19年に開通。
明治38年当時、この道を沢山の馬車がのんびりと往来していた。
やがて馬車の後を継いだ自動車たちは、大挙してあくせくと走った。道は踏みしめられ、固められ、広げられた。
そんな長く重い任務をようやく終えた道を、いま一度自転車で、ゆっくりと通ってみようと思う。


…全然短くまとまってないね。スマン。でも、この道を語るためのアイテムが揃いすぎていたので、つい私も熱く語りたくなってしまった。





たっぷり語ったので、あとは流れに任せて行きます。
幸い(?)にして、こちら側から辿る旧道は全線にわたって一方的な下り坂なので、自転車で流れるにはうってつけである。

旧道の全長は約1kmで、現在地からの残り700mもぜんぶ下りだ。
ちなみに1kmの間の高低差は60mくらいに過ぎないが、これでも栃木側と較べれば4倍の高低差がある、いわゆる片峠になっている。

また、旧道が1kmで下る60mを、現県道は650mで下っているので。1.5倍急といえる。
こうした勾配への受容度は、馬車交通路と自動車交通路に最も分かり易い線形上の違いを現す。
この写真も、旧道が緩やかな勾配と引き替えに手にしなければならなかった急カーブである。




どう。 いいでしょ?

思わずそう問いかけたくなる、素朴で素敵な旧道風景。
苔生したり落ち葉がうっすら堆積した路面が美しいのは言うまでもないが、単純なストレートと急カーブを交互に見せる線形も、「クロソイドなにそれ?」な感じに古色を帯びていて愛着を感じる(=自動車には不興をかったことだろう)。

残念ながら現時点までの調査では現道の開通年が特定出来ておらず、冒頭で紹介した昭和26年の旧版地形図に現道が描かれていないことと、ネット上で閲覧出来る昭和49年撮影の航空写真に現道が見えることから、昭和26〜49年の期間に現道が開通したという大雑把な推測しか出来ない。

しかしともかく旧道化40年を経過しようという道である割には、当時から既に鋪装が行われ、しかも大体において2車線分の幅員を有しているなど、この道の重要度が窺い知れる。



この旧道にある全てのものが好ましい。

いくら何でもこれは少し褒めすぎかも知れないが、私はそう感じた。

トンネルは無論、小橋ひとつ見あたらない凡庸さを、欠点という気にもならない。

赤錆びたガードレールが最強に見える、穏やかな春の眠り道。




最高だ!
これは個人の感想です。この道の感じ方にはきっと“季節差”があります。




写真を撮る以外で自転車を停めねばならない難場も無く、至福の旧道ははやくも終盤へ。

笠間の町へと続く谷の広がりが、木々の向こうに近付いてきた。
現道とは谷を挟んで反対側を下っているために、向こうを走る車の音も聞こえない。旧道は静かである。
もちろん、誰と会うこともなかった。




11:07 《現在地》

旧道へ入って6分後、ゲートインからたった4分。

幸せな道はいつだって短すぎる!

鋪装された1kmの道を自転車で下っていれば、どうしてもこうならざるを得ない。早くも現れてしまった、ゴールの前兆としての車両通行止めゲートだった。作りは峠側と全く変わらない。



なお、ゲートの脇にはどういう訳かは知らないが、巨大な六角形の石柱が2本置かれていた。人為的に整形されたものだが正体不明。購入したらべらぼうに高そう。重すぎる不法投棄物?
ただ、ここにある石材自体がさほど突飛に見えなかったのは、この笠間界隈が北関東有数の石材産出地で、方々に採石場があるのを見ていたからだ。
笠間界隈の石材業(特産品の名前は稲田石という)の勃興は明治以降の話しなので、時代的にはこの仏ノ山峠も石材の輸送路や販路として使われた可能性がある。
もっとも、石材輸送の中心は明治22年に開業した水戸鉄道(現在のJR水戸線)であり、またそれと接続するように敷設された稲田駅中心の石材運搬軌道であったのだが、それらの話しはまた別の機会に。

え?
画像と話しが噛みあってない?笑
この画像は、ゲート越しに見通した現道との合流地点だ。
すぐ手前に見える石垣が面白くて、旧道時代にも法面の改良や道路の拡幅が盛んに行われていたことが窺える(にしても中途半端な拡幅)。




11:09 《現在地》

ああ、終わってしまった。

現道合流地点から振り返る仏ノ山峠には、小さいながらも峠の風格があった。
よもやそのてっぺんに集落を隠し持っているようには見えない。
また峠側の新旧分岐地点に集落があり、麓側にそれが無いというのも、普段とは逆で面白かった。

なお、ここからはほぼ平坦な道が川沿いに続き、約5kmで笠間の中心部に達する。





明治馬車道の名残を留める仏ノ山峠の旧道。
探索は以上で終了だが、帰宅後に『笠間市史 下巻』(笠間市/平成10年発行)を取り寄せてみたところ、少ないながら関係する記述を見つけた。

“宇都宮街道は、北山内村片庭から仏の山峠越えの路は、山間を幾重にも曲がりくねり、昼でも追剥が出ると言われ、人馬の往来に難儀していた。明治十六年に片庭地区、小貫地区の有志が道路改修を協議し、同十九年十二月から工事に着工した。(以下略)”

だがその内容は、現地にある「佛山修路記」碑文の粋を出るものではなかった。
代わりに有意義だったのは、明治期の笠間町の交通事情について述べた部分だ。

“明治から大正にかけて、地方の貨物輸送は荷馬車が中心だった。明治二十二年に水戸鉄道が開通すると、笠間運送会社が資本金五〇〇〇円、株主五〇人で設立された。(中略)大池田、北山内、南山内、七会の山村から切り出された薪や木材が、荷馬車によって笠間町内の薪炭業者や木材工場から笠間駅に運搬された。(中略)明治四十一年笠間町の荷馬車は、四二台が登録されていた。(中略)
馬市場は、明治三十八年三月荒町に、翌年九月大町に設立され、春秋二回、それぞれ七日間馬の競売が行われた。福島県の三春や田村地方から馬が運ばれ、また近隣の農家で飼育された農耕馬も取引された。
笠間運送会社は、明治四十二年に解散し、新たに資本金一万円で笠間運送合名会社が設立された。
昭和になると貨物自動車が登場してきた。昭和七年には笠間町の貨物自動車は十二台登録されている。山間部が多い笠間地方では、ガソリン事情の悪化などもあって、戦時中から昭和二十年代にかけて荷馬車による貨物輸送がつづいていた。”

明治19年の宇都宮街道の改修完了と、明治22年の水戸鉄道開業。
これら“明治流”というべき交通インフラの整備が、地域の先達たちによって早期に実現されたことで、やがて笠間は茨城県央地域における(県庁所在地水戸に次ぐ)第二の都市に育ったのだと思う。
旧道を知る事が地域を知る(そして愛する)道であるといういささか大仰な持論も、こんな実例に根ざしている。


…にしても、気持ちいい旧道だった。



附記: 「佛山修路記」全文の意訳

当サイト掲示板の記事no.8351に「さきほどコメントしたひと」氏が投稿された、碑文の写し、書き下し文、意訳文をここに転載します。(解読者さまより「あくまで、意訳です。必ず、誤読が含まれています。」とのコメントがありました)
大変な解読へのご協力、本当にありがとうございました! 
※原文※

佛山修路記

凡除害興利其事益於世者宜紀勒以傳焉若鏟險夷阻以便交通則
其一也常野之界山嶺重沓通路甚少我西茨城郡西北自片庭里達
野之小貫部者曰佛山阪路陂陀陟降亘數里稱山而實嶺也封建之
世恃為險要故雖官道不甚修治久委荒障車馬苦往来加之地勢深
阻刧盗出没有畏途之稱焉明治十六年片庭人民相議曰今也世運
日開古来無徑之地往往開通而興委其阻阨不獨行旅之患實吾邑
之恥也其可以不拓修乎小貫人民應之議以克諧遂各請於其縣而
得允乃界山分功不辭勞費勉強異常起功于明年一月告竣於十九
年十二月其所拓修延長四百八十餘間靡金一千二百餘圓役夫五
千餘人而屬小貫者不算焉於是險阻大夷略成沮途人馬往来絡繹
載路刧盗遠跡而行旅倍舊其益於常野兩州之交通也大矣今茲欲
建碑以刻關役者姓名郡長牧野君正倫賛之命文余余曰逸而忘勞
人之情也進而不息世之勢也今後自巡路者徒喜其逸而忘其勞耶
抑思其勞而益求完修耶寔見記示之不可已也遂書使以知碑背記
名之故焉

明治二十六年十月             三村邦功撰 
             西茨城郡長從七位牧野正倫篆額
                     龜井 直書



※書き下し※

凡そ害を除き利を興す、其事世に益すれば、宜しく紀勒して以て傳ふべし。
若し険を鏟(けづ)り阻を夷(たいら)げて、以て交通に便すれば、則ち其の一なり。

常野の界、山嶺重沓し、通路甚だ少し。
我が西茨城郡西北、片庭里より野(=下野)の小貫に達する部(さかい)は、
曰く仏ノ山、阪路陂陀陟降すること、数里に亘り、山と称して実は嶺なり。
封建の世、為に険要を恃(たの)み、故に官道と雖も修治を甚だにせず、
久しく荒障に委(まか)せ、車馬往来に苦む。
加ふるに、地勢深阻にして、刧盗出没し、畏途(いと)の称あり。

明治十六年、片庭の人民相ひ議(はか)りて、曰く、
「今や世、日を運(うつ)し、[今や世運、日に日に]古来無径之地を開き、往往開通して興る。
其の阻阨に委せて、独り行旅せざるの患、実に吾邑の恥なり。其れ以て拓修せざるべけんや」、と。
小貫の人民、之に応(こた)へ、議りて以て克(よ)く諧(ととの)へ、
遂に各〃其の県に請ひて、允(ゆるし)を得る。乃ち山を界(さかい)として功を分かち、
労費を辞さず、勉強すること常に異なり、明る年一月に起功し、十九年十二月に竣を告ぐ。

其の拓修する所、延長四百八十餘間、靡金一千二百餘圓、役夫五千餘人。而して、小貫に属する者は算(かぞ)へず。
是に險阻大に夷らげられ、沮途略成し、人馬の往来、載路に絡繹し、刧盗は跡を遠ざけて、
行旅旧に倍し、其れ常野両州之交通に益するや、大ならん。

今茲(ここ)に碑を建て、以て役に関る者の姓名を刻まんと欲し、郡長牧野正倫君、之を賛し文を命ず。
余余(われわれ)曰く、逸して[逸(たのし)みて]労を忘るるは、人の情なり。進みて息(やす)まざるは、世の勢なり。
今後自ら路を巡る者、徒らに其の逸を喜びて、其の勞を忘れむや。
抑〃(そもそも)其の勞を思ひて、益(ますます)完修を求めんや。
寔(まこと)に記を見(あらは)し之を示すこと、已むべからざるなり。
書を遂(すい)して、以て碑背の記名の故を知らしむなり。


※意訳※

およそ、害をとり除いて利をうむということ、世の利益となるならば、その経緯を碑に刻んで記録し、後世に伝えなければならない。
険阻なところを削り平らにして、交通の利便をはかるのは、そのなかでも第一[そのなかの一例]である。

常陸と下野との境は、けわしい山が幾重にも重なり、双方を通う道路が少なかった。
わが西茨城郡の西北にある、片庭村から下野の小貫村に達する国境のあたりは、仏ノ山といい、坂道を上り下りすること、数里にわたる難所で、仏ノ山とはいいながら、ほとんどけわしい峰である。
封建時代には、その時代ゆえに、険しい地形を要害として重視していたので、この道は官道といいながらも、画期的に改修を施すことができなかった。
そこで、長い間、〔民間の便利なように整備したくても〕道路の状態は荒れたままにされ、徒歩はさておき、車馬となると通行に苦しんでいた。
さらに加えて、この場所の地勢は山深くけわしいので、強盗が出没し、畏途(危ない・恐ろしい道)とも呼ばれていた。

時に明治十六年、片庭の村民はみなで議論して、次のような結論に至った。
「今や世のなかの動きは、封建時代から明治に移り変わり、昔から道がなかった土地でも切り開いて、道路が開通している。
それなのに、これまでのように、地形が険しいままにして、独りで通行することができないほどの憂いがあるのは、まさに我が村の恥である。
新道を切り開き整備しないでよいはずがない」。
下野の小貫の村民も、この片庭村の動議に応じて議論し、意見を一致させて、
なんとかそれぞれの県に申請して、新道整備の許可を得た。そこで、仏ノ山を境として工区を分け、労力や費用を惜しむことなく、さらに、経費をやりくりすること並大抵ではなく、翌十七年一月に起工し、十九年十二月に竣工を宣言した。

切り開いた新道の総延長は480間、費用は1200円、人工は延べ5000人である。ただし、この数字には、小貫村に属する分は算入していない。
こうして、けわしく長い旧道はとても平らにされ、遠い道のりは短絡され、車道の往来はさかんで、もちろん、強盗などは姿を消した。
交通量は嘗ての何倍ともなり、常陸と下野の両国の交通の利益となるところ、ますます大きくなるだろう。

さて、今ここに、記念碑を建てて、この新道整備の労役に関係した者の姓名を記録しようとして、西茨城郡長の牧野正倫君が賛し、私[三村佐山]に作文を命じた。
私がここで述べたいことは、次のとおりである。
便利を楽しんで、それを生み出す苦労を忘れるのは、人の心情である。そして、時が流れてやむことないのが、世の中である。
今後将来、この道を巡るひとは、ただこの道の便利で楽ですぐれているりをよろこぶだけで、工事にかかわる苦労を忘れてしまうのだろうか。
いや、その苦労を思うからこそ、道路の完成とさらなる整備を目指し、求めてゆくのではないだろうか。
だからこそ、私はこの「佛山修路記」を著して、みちゆくひとに示さねればならないのだ。
この碑の背面に関係者の氏名が刻まれてあることの意味を、この記を読む者に知らせて、ここで私は文を終える。


※私はこの碑文の末尾を現場で解読しなかった。
そのために、碑の裏面を習慣的に確認はしたし、そこに何らかの記名があることまで確認しながら、「名前だけなら」と思い撮影を怠るという、そんな「失礼」を犯してしまった。
次に通りかかった時にはちゃんと裏面も撮影しなおし、建碑者の礼に報いたい。