岩手県道212号雫石東八幡平線 網張工区 第2回

公開日 2012.01.02
探索日 2011.11.05
所在地 岩手県岩手郡雫石町

網張スキー場から 工事の終点を目指して進む


2011/11/5 7:25 《現在地》

現在地の網張スキー場は標高約800m。そして、この道が当初越える予定だった三ツ石湿原がある鞍部の標高は1280mである。

昭和40年から山の両側で進められた新道工事は、途中長い中断を経はしたものの平成8年までは続けられ、道はこの起点(網張温泉)から8kmも伸ばされた。そして鞍部の喉元と言うべき標高1250mにまで達した。
したがって、風景的にはここも既に山の尾根(スカイライン)の近くに感じられるものの、実際にはまだ登りが沢山あるということになる。

なお、平成12年10月の自転車による探索と、今回の平成23年11月の自動車での探索は、ともに雲ひとつない快晴であった。
そして、今回はそれを狙い撃ちにして来ていた。
この道ほど、快晴の時にこそ訪れたい道は他に無いからだ。

私を再訪へ導いたこの道の“真価”、今日もきっと体験出来ると思う。



網張スキー場を過ぎると、道に変化が現れた。2車線から1車線への変化である。
待避所は随所に設けられているし、1車線といっても普通車同士ならば問題無く離合が出来る幅があるものの、大型観光バスの通行が大きなウェイトを占める観光道路としては、些か物足りない感じを受けた。

この車線数の問題については、かつて県議会でも盛んに議論されていた。そこで建設推進派は、観光道路として活用するには2車線にすべきだと訴え、反対派は、1車線では大して役に立たいのだから建設自体白紙にすべきだという主張であった。まさに平行線というより無い。

実は昭和40年の計画当初から、1車線+待避所という設計であった
その理由は定かでないが、国庫補助を受けて行う奥産道事業というのは必要最低限度の道を整備するという建前であったようで、それ以上の“贅沢”は別途県の事業として行わせる方針だったようである。




道は緩やかな所で2%、急なところで8%、平均して5%程度の勾配で上り続けているが、線形的にはひたすら山腹に沿ってのトラバースであり、あまり際立った特色のない道である。

道路標識など、オブローダーの目にとまるものも特に設置されておらず、基本的に淡々とした感じで進んでいくのである。
交通量が極めて少ないことも、道の印象を疎にしていた。

とはいえ、晴天の中を自転車で走る場合は、この辺りの緩やかさは足への負担が少なくて、とても嬉しいのであった。
今回は車で走行したわけだが、「早く通行止めが現れないかな?早く自転車に乗りたいな」と、ずっと思いながらハンドルを握っていた。




ここは小松倉山の尾根を回り込む地点で、網張スキー場から2.7km走って、標高は960mである。

ここには平成12年当時、路肩に未舗装の駐車スペースがあったが、今回は周りに柵も追加されて、よりちゃんとした駐車場になっていた。
ただし、説明が無いので、なんのためにある駐車場なのかは定かでない。
そして当然のように、1台の車も駐まっていなかった。




小松倉尾根を回り込むと進行方向が一時的に北転し、正面に目指す主稜線を見上げるようになると、誰しも思うだろう。

思っていたよりも、峠はまだ高いな。

その通りである。
現在地の標高は950mを越えてきているが、終点は1250mにある。
まだ、300mも標高差がある。
そしてその標高差のほぼ全てが、目の前の山腹にあるのだ。高いわけである。

前方のほぼ山頂に近いと思える辺りに見えている“路肩”は、この道の行く末に他ならない。
そして、あそこはもう“終点”の直前である。

昔の私はここまで来て、これを見て、初めて実感したのだった。
本当に峠の直下まで道が伸びてるんだな。
これで中止するなんて、岩手県はずいぶんともったいない事をするもんだな、と。




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《現在地》

そして3.7km地点で再び足が止まった。目の前に大きな橋が現れたからだ。

銘板によると、橋の名前は大松倉橋といい、下を流れているのは葛根田川の支流である大松倉沢だ。
そして竣工年は昭和48年と表示されており、見た目の印象よりもだいぶ古いということが判明した。この規模の曲線橋としては、かなりの古参では無かろうか。

改めて考えると、着工(昭和40年)からたった8年で、起点から4kmも工事が進んでいたことを教えてくれている。
当時はかなりのハイペースで開通が目指されていて、もしこの調子で両側の工事が進んだとしたら、さらに8年後(昭和56年)には全通してとも予想出来るのである。
(しかし、実際にはこの昭和48年頃から、ルート再検討のため、約10年間建設は休止された)




もうひとつ注目したいのは、この橋とその前後の短い区間のみ、道幅が2車線分あったということだ。
白線は敷かれていないが、明らかに橋は2車線幅であった。

この橋だけが予め2車線で整備された事について、県議会で建設反対派が土木部長を追求したことがあった。
おそらく彼らは、これを将来的に全線を2車線で整備するための布石と考えたのだろう。
私も現地では真っ先にそう考えたし、今までもいろいろな道で、橋やトンネルだけが拡幅されているのを見ている。
そして、その事に気付いた回数分だけ、結局それ以上の拡幅がなされないままになっているということである。

反対派の追求に対する土木部長の回答は以下の通り(平成9年12月定例会)。

「この道路は当初から1車線で整備しているもので、すれ違いのため待避所を設けるほか、橋梁やトンネルなどの構造物につきましては、災害や事故における救出活動など、防災上の観点から2車線で整備を行っているものであります。」

長大トンネルならばこの言い分も分からないではないが、果して橋が2車線であることに防災上どれだけの意味があるのか、ちょっと納得しがたい。
やはり将来の2車線化への布石だったとしか思われない。
そして、この道が2車線化する可能性が消滅した今日だけに、なおのこと設計当初の“真実”を知りたいと思うのである。




大松倉橋を渡ると、これまででは最も急な登り坂が現れた。
そしてこの谷側には、まさに2車線に拡幅されるためにあるかのような空き地が存在し、平成12年当時はただの空き地だったものが、今回はそこも細長い駐車場として使われていた。

これまた不自然な所に現れた駐車場であって、駐まっている車の姿はまたしても無い。
というか、ここまでただの1台も行き交う車はなかった。

この駐車場の存在理由を怪しみながら坂道を登りきると、そこでたちまに謎が解けた。




7:38 《現在地》

閉鎖来た!

以前は無かった封鎖ゲートが、駐車場と共に新たに建設されていた。

しかも、鉄の門扉の手前にさらにA型バリケードとガードレールがあるという、
合計三重の封鎖!!! & 有人監視を可能化する詰め所まである!!!!

これは、極めて厳重な封鎖であると言わねばならない。
ここまで、一切の封鎖が見られなかったのが嘘のような豹変である。


冷や汗が垂れた。



まずは1台だけいた先客のとなりに車を納めて、封鎖の状況をチェックすることに。



セーフ!

通行が禁止されていたのは自動車で、歩行者は通行可とのこと。
ご丁寧に、ゲートの脇を抜けていきなさいという、矢印付の看板まで取り付けられていた。
また、傍らの監視所(こんな表示有り)もこの時間は無人だった。

探索時には知らなかったので焦ったが、この先の県道は“登山道として”供用されていた。
(前説で述べたとおり、平成19年6月29日より登山道として供用開始済である)


ここからは自転車に跨って、探索を続行する。




なお、ゲートの脇にはこのような立派な地図案内板と、登山者届けを入れるポストが用意されていた。

ここだけを見れば、いたって完備された登山道の入口なのだが、ここに来る途中には全くそうした案内が成されておらず、県としてこの道を積極的に解放したいのか、したくないのか、意志が統一されていないような印象を与えている。

次に案内板の内容に注目してみると…

平成12年の当時は、図中に記した★印の地点まで車が入っていた記憶がある。
それが今回は2.4kmも手前で封鎖されていたことになる。
つまり、登山者は2.4kmも舗装された道を歩いた後でないと、登山道へ入ることが出来ないということになる。

私の目的地は登山道ではなく、“破線”表記された道の奥の「行き止まり」なので関係はないが、登山者の多くは舗装路を長時間歩くことを嫌うから、この登山コースの人気が爆発することは無さそうである。




海抜990mの当地より、

待ちかねていた自転車による探索が始まった。

私の脳裏に浮かんでいるのは、この先の終点に待ち受ける、

車道の常識を越えた絶景 との再会である。


それをようやく、皆さんにお伝え出来る時が来たようだ。




無念の工事打ち切り地点まで、あと3.6km!