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道路レポート 北見峠旧道 “囚人道路” 第2回

所在地 北海道遠軽町〜上川町
探索日 2023.10.27
公開日 2025.09.02

 何度も名前を呼びたくなる谷


2023/10/27 9:22 《現在地》 海抜560m

旧道は入口から約350m地点にあった石北本線との踏切が撤去されており、そのために通行は完全に遮断されていた。
そこを超えると道は完全な廃道状態となったが、線路を右に見ながら並走する形で登っていく。
この並走部分の線路側の路肩には古びたガードロープが設置されており、明治生まれの旧道が、ずっと後年の自動車交通の時代を生きていたことを物語っていた。

もっとも厳密に言えば、この線路沿いに登っていく部分は明治当初の囚人道路ではないだろう。
昭和初期の鉄道建設によって地形が変化し、そのため道も多少は付け替えられていると思う。



線路を越えたところから旧道の登り方は一気に急激なものになり、どんどん線路との高度差は大きくなる。
線路も休んでいるわけではなく、鉄道としては最大限といえる25‰の連続で頑張っているが、旧道はこの先1kmほどで地形のやや穏やかな尾根の上に出るまで、計算上の平均勾配が10%に迫る急登攀区間になっている。



9:25

少し日影に入るなり、早くも恐れていた笹藪の侵攻が始まった。
この段階で道幅の7割は笹原に消えてしまった。
残りの地面が見えている部分も踏み跡という感じではなく、泥濘みのために藪が入っていないだけだった。
早くも歩きづらさを感じており、自転車を持ち込まなかったのは大正解といえた。

そして、この時点ではもう完全に、事前に歴代の地形図から読み取っていた情報……平成13年版までは軽車道として表記されていた……が、正しくないことを察していた。路上に生えている樹木の太さを見る限り、間違いなく平成初年代にはもう車の出入りはなかっただろう。
地形図が実態を反映するのが遅れたという、良くある出来事が、ここでも起こっていただけのことだった。



9;27

来やがった。 全面笹藪。

もう来てしまったのかという感じ。
旧道を歩き始めた時点では、とてもしっかりした轍があったので少し油断をしていたが、本領を発揮するのが早かった。

あまり考えたくないが、「完全踏破者ゼロ」というのは、このあと残りの4kmの全てがこういう笹藪だからだろうか。
ぶっちゃけそれだと、廃道探索の技術がどうのこうのではなく、単に、先行者は探索が楽しくなさ過ぎて諦めただけかもしれない……。

そんな道であったとしても、完全踏破が出来れば、それなりにやり遂げた満足は得られるだろうが、当面の探索の楽しさを期待すべきではないかも。
そもそも、“囚人道路”の踏破に楽しさを求めるというのがお門違いだといわれれば、そんな気もするが。
まだ始まったばかりとはいえ、ときめきを期待しない方が、身のためかもしれない……。



9:31 《現在地》

早過ぎるバンブーのジャングルに早くも心を閉ざしかけた私だったが、幸いにして解放が早かった。
数分の頑張りで、日当りと共に、胸丈の藪が豁然と明ける気配があった。

しかも、ちょうどこのタイミングで、藪の中では絶対に見つけられなかっただろう“小さな設置物”を見つけた。
ラッキーだ。石かコンクリの標柱っぽいが、よく見る用地杭より太い感じ。
なんだろうこれ? 近寄って確かめる。



「N22」 …………ニャン・ニャン・ニャン?

謎の暗号文に一瞬身構えたが、土で隠れそうな裏側も確認してみると……
見覚えのある日本電信電話公社の社紋と、「電話線」という刻字が。

昭和27(1952)年から昭和60(1985)年まで存在した電電公社(NTTの前身)による、路下に埋設した電話線の見出し標と思われる。
沢山の廃道を歩いてきたが、私は初めて見たと思う。意外と珍しいものだったりするのだろうか。あまりそんな感じもしないが。



うお!! 一転して最高のコンディションだ!


が、

これが昭和47年までの北見峠越えだったというのは、シンプルにヤバいな。

廃道らしい藪のカモフラージュがないせいで、シンプルにもとの道路の脆弱さが露呈している。
線路の近くだけは(おそらく鉄道の安全重視で…)転落防止のガードロープがあったが、もうここにはそれがないせいで、見た目ではいわゆる“明治車道”と区別が付かない。本当に、“囚人道路そのまんま”みたいな感じになっている。鋪装もガードレールも道路標識も、近代的な装備が何もない。
踏切の場面でも思ったことだが、こんな山道ではとても大型車の通行は不可能だろう。

昭和32(1957)年に石北峠が開通するまで、上川地方と網走地方を結ぶ最短ルートであった北見峠が、最後までこの状態だったというのは、今日の旭川紋別道を含む峠区間の交通量からは全く想像が出来ない状況だ。もちろん、冬期間の除雪も行われるはずはなかったのだし。
当時はそれだけ鉄道による輸送に偏重していたということなのだろうが、それでも旭川から網走へ大型車で、或いは普通車でも冬に行き来しようとしたら、どこを通っていたのだろう。

大型車が通れそうな候補は、現在の国道239号を名寄から紋別へと抜ける天北峠のコースか。廃止された名寄本線があったルートでもある。
地図上での簡単な計測でも100kmくらいは遠回りだが、そもそも北見山地を越える道路が少ないために、他に候補になりそうな道がない。
当時実際にハンドルを握っていた方の記憶を伺ってみたいものだ。



9:35

また笹藪が……。

……それに、なんか落ちてるぞ。
ここまでで初めて見る、ポイ捨てのゴミ? それとも、落し物?
沢山の殉職者が出た“囚人道路”だからというわけではないんだが、クマへの強い恐怖心や緊張感のせいで、人が残したものがなんでも“遺留品”というワードに結ばれて、ちょっとゾクッとした。

なんだこれ?



今ではすっかり目にすることも少なくなった、大型の懐中電灯だった。
アイテムの性質からして、そこまで古いものではあり得ないが、外装に「指令車」という文字が白いインクで書かれていた気配がある。
そもそもこの道路を懐中電灯を手に歩く場面が想像できないが、もしや保線関係者の落し物だったりするのだろうか。
保線でここを通る理由が分からないし、単に「指令車」というワードからの連想に過ぎないが。

手にライトを持って考えていると、音が聞こえてきた。

それはまさしく、地が唸るような大きな音で……。



音のする路肩の方へ身を乗りだした直後、鉄と鉄がぶつかる破裂音を合図に、眼下の鉄道橋を渡る猛スピードの列車が現われた。
タタタンタタタンタタタンタタタンタタタンタタタン!!!!!!

私に耳鳴りを残して駆け下っていったのは、札幌網走間の374kmを約5時間半で結ぶ道内第2位の長距離特急「オホーツク」。
絶対に停まることをしなさそうな恐るべき速さだったが、その分だけ静寂が戻るのも早かった。
また数時間は、静かな山であろう。
行動をブツ切りにされた私もすぐに平静を取り戻し、手にしたライトを棄て、先を見た。



9:37 《現在地》 海抜550m

また笹藪が少しうっとうしいが、それよりも道の置かれたステージが変わることが重要だ。
踏切跡から約300m続いた線路との並走がここで終わり、今度は峠がある尾根へ取付く足がかりとして、支流の急峻な谷に入っていく。
地図上に描かれた水線の長さが1kmにも満たない小谷だが、地形図にはこれより長い無数の谷を差し置いて、名前の注記がある。

その名は、スプリコヤンベツ川。

アイヌ語由来なのは分かるし、なんなら秋田県民の私には最後の「ベツ」が「秋田市仁別」の「ベツ」である「川」の意味であることも理解するが、「スプリコヤン」は完全に謎だ。
とはいえ、このような小谷に地名があるということは、この北見峠と和人風に名付けられた土地が、“囚人道路”となる以前から、アイヌの人々による通路であったことを物語るように思う。
実際、江戸後期の和人が残した探検の記録にも、石狩川と湧別川を結ぶアイヌの道の存在が出ている。

これは小縮尺の地勢図を見ると分かりやすいが、北見峠がある位置は、北海道の東西を分ける巨大な分水嶺の中で、北見山地と石狩山地の接点にあたり、標高1000mを大きく割り込む貴重な低地になっている。
ここが北海道開拓史上の“中央道路”となったことは、意外ではなかったと思う。



とまあ、話が少し探索から逸れたが、そんな想像も駆り立てる不思議な「スプリコヤンベツ川」に沿って登っていく。
所々笹藪がうるさいが、辛いというほどではない。
また、笹の根に強固に固められているおかげもあるのか、谷沿いながら、道形はほとんど崩れずに良く残っていた。

チェンジ後の画像は、谷の出口を振り返って撮影した。
分かりづらいが、奥に先ほど列車が通った橋がある。
橋の名前が分からないが、鉄道橋の命名パターン的にはスプリコヤンベツ川橋梁だろうか? 
スプリコヤンベツ、この語感だけで何度も口にしたくなる地名だ。

スプリコヤンベツ……。



すぐに水の音が近づいてきた。
流れの早いスプリコヤンベツ川が、急激に足元へ近づいてきている。
遠からず、渡る必要に迫られよう。
そして、渡った後は、もう見えている向こうの明るい尾根を九十九折りで登っていくらしい。古い地形図の道がそうなっている。



9:40

谷と山に挟撃された道は、その居場所を得るために、山の表面の土を掘っただけでは足らず、地中の岩盤を切り取っていた。
山の道ではさして珍しくもない光景だが、道の幅的に、この岩盤の掘削は、“囚人道路”時代の仕事であろうと思った。
その死亡者の数からして、過酷な肉体労働によって造られた道というのは当然に理解するが、岩場を削るという仕事は、土を掘ったり積み上げたりすることよりも遙かに専門を要する。特別な土木作業の訓練を持たない大半の囚人にとって、過酷の度を越えていた気がする。

橋やトンネルの建設も専門性を要するが、中央道路にトンネルは存在しなかった。
橋はあったが、これもどうしていたのか気になる。
これは帰宅後の調査に属する話だが、こういう専門を要する仕事をどうやっていたかという点について、まさに“囚人道路”の事業誌ともいうべき『網走監獄沿革史』という記録からの引用として、冒頭でも紹介した『オホーツクへの道』に次のような記述があった。

「殊に第七、八及第十二、第十三の如きは峻涯の渓谷連なり本工事の最難関であったので、工事竣工期日の遅延を恐れ、特に爆薬使用の許可を得て全員苦闘、これ又二か月の短期日で開通するなど、実に予想外の進捗完成を遂げたのである」

『網走監獄沿革史』(『オホーツクへの道』)より

冒頭にある第七云々は当時の工区割で、現在地がどの工区であったのかは分からないが、「峻涯の渓谷連な」るような地形といえば、この地も該当しよう。
そのような場所では、囚人たちが爆薬の使用を許可されていたというのだから、驚きだ。
もはや専門性どころの話ではないと思うが、こういうことが事実であったのだ。

そして、驚くべき速成に成功したものの、その代償として、この本にある最も有名な文句、「死者百以上を以て葬するに至る。ああ又惨ならずや」となったのだった。



切り立つ岩場の末端、それ以上進めない所に、地図を見る限り、この旧道におけるただ一つの橋があった。

スプリコヤンベツ川を渡る、残念ながら、名前は伝わっていない橋。

果たして遺構は……






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