道路レポート 梓湖に沈んだ前川渡 (長野県道乗鞍岳線旧道) 前編

公開日 2016.8.04
探索日 2008.9.09
所在地 長野県松本市

これを執筆している平成28(2016)年の夏は、関東地方を中心に降水量が不足しており、各地のダム湖で深刻な渇水が報告されている。
そんなニュースを耳にして思い出したのが、今から8年前の平成20(2008)年8月に訪れた、長野県松本市の奈川渡(ながわど)ダムのことだ。
私は何度がこのダムを訪れているが、このときほどに低い水位を目にしたのは1度きりだ。
今回は、そんな折に行った湖底での廃道探索の模様を紹介しよう。




「ダムある所に廃道あり!」

…という格言があるかは知らないが、アーチ式ダムとして本邦第3位の堤高155mを誇る奈川渡ダムは、諏訪湖の2倍の1億2300万立方mという貯水量を持つ梓(あずさ)湖を、昭和43(1968)年のダム完成と同時に誕生させた。
この巨大な湖は、かつて梓川の川縁を通行していた諸道を水没させ、トンネルばかりが幅を利かせる付替道路へ生まれ変わらせた。

今回紹介するのは、この梓湖に水没した道路のうち、長野県道84号乗鞍岳線の旧道(大野川〜前川渡間)である。

現在の地図を見ると、梓川の支流である前川沿いの県道乗鞍岳線は、前川が梓湖に注ぐ1.5kmほど手前で川縁を離れ、3本のトンネルと梓湖を渡る大きな橋によって国道158号と結ばれている。この交差点の名前を前川渡(まえかわど)といい、湖に沈む前からあった旧来の地名なのだろう。(この付近には奈川を渡る所に奈川渡、前川を渡る所に前川渡、根木の沢を渡るところに沢渡(さわんど)といった独特の命名法則があるようだ。)

なお、前川沿いの付替道路は昭和41年に着工され、43年のダム完成時に開通したという記録がある。
一方、県道乗鞍岳線は昭和39(1964)年に初めて県道認定を受けているので、ここには“湖に沈んだ県道”があるはずだった。
多くの水没旧道がそうであるように、現在の地形図には影も形も見えないけれども…。


、ダム完成直後に発行された地形図、昭和47(1972)年資料修正版5万分の1「乗鞍嶽」には、「大野川」という文字のすぐ上でトンネルに入らず右に分岐して、そのまま湖に突っ込む道が描かれている。

合流すべき旧国道も完全に湖面下にあり、この旧道が果たしてどの位置まで辿る事が出来るのかは水位次第と思われたが、実際には水位以外にも探索を難しくする要因があることを、私は現地で理解することになった。

また予め書いてしまうと、この探索で真に驚かされたのは、“道路の有様”ではなかった。
果たしてこれを「道路レポート」のカテゴリに分類すべきかも悩んだが、他に適切な場所も無い(強いて言えばミニレポ?)し、旧道探索の結果を伝えることに違いは無いので、このままでいく。

もう一度言う。
私はこの探索で、道路以外のものに驚かされる!




ファーストインプレッション: 前川渡大橋から見る、水没した前川渡周辺


2008/9/9 7:50〜55 《現在地》

この探索は、今回の長野県遠征の当初予定には含まれていなかったが、昨日の探索で奈川渡ダムの驚きの低水位を知ったことで急遽取り入れたものである。だからほとんど準備らしい準備はなく、「何かしらは湖底から出ているだろう」という程度の期待を持って、県道乗鞍岳線と国道158号のそれぞれ水没前の旧道が分岐していた前川渡へやって来たのであった。ここなら、うまくすれば2本の水没旧道が探索出来るかも知れないという目論見であった。

左の写真は、現在の県道乗鞍岳線が梓湖を渡る、その名も前川渡大橋の上から見下ろした梓川上流方向の眺めだ。
ちょうど橋の直下辺りがバックウォーターになっていて、驚くに値する水位の低さは、両岸に露出した一木一草ない水没領域の高さからも伝わるだろう。
自分がいる前川渡大橋の写真はうっかり一枚も撮影していなかったが、橋の規模や形式や高さは、湖面に映ったシルエットでだいたい分かるだろう。

なお、梓湖の湖畔は本当にトンネルばかりなので、湖面を眺めることが出来る場所は限定されており、特にダム湖の中ほどにおいては、この前川渡大橋くらいしかないだろう。



一方こちらは、同じ橋の上から道路の反対側、梓川下流方向(ダム堤)の眺めである。
上高地やその周辺から流れ出た清流だけが集まったものとは思えないほどに濁って見えるのも、ダム湖故にやむを得ない事だろう。
良く見ると、水自体はそう濁ってはおらず、透明に光を反射しているのだが、水面下の浅い位置にほとんど平らな泥色の湖底があり、それが水位が低いために、湖面全体の色になってしまっているのである。

そして前川渡大橋の上から眺めた梓川の上流下流の両方向とも、湖底に何かしらの沈んだ人工物が見えるかと問われれば、答えはNOである。
梓川の谷底に国道158号が通じていたのは確定事項なのに、見える範囲には存在しない。

つまり、これだけ水位が下がっていても、前川渡の出合(梓川と前川の合流地点)付近の旧国道は、水面下ないし、湖底堆積物の下(泥面下)にあるという事が分かった。
特に重大な発見は後者で、大規模な浚渫工事でも行われない限り、将来の遺構発見の可能性についても絶望的といえる。
仮にダムの水がゼロになっても、泥の下にあるものは現れない。
レポートの冒頭での述べたとおり、世紀の大ダム奈川渡ダムの貯水量は、完成当時からしばしば同じ長野県にある諏訪湖の2倍と宣伝されたらしいが、既に実際はそれほどの貯水能力を有していないものと思われる。



前川渡大橋から眺められる谷は、梓川の上流と下流の他に、南から合流してくる前川がある。

今回のテーマである県道乗鞍岳線の旧道は、この前川に沿って前川渡に達していたのであるが、

その方向を撮影したのが、次の写真だ。


…残念ながら、私が期待していたような大きな成果を得られる可能性は、ほとんどなさそうだ。

まったく、水没旧道らしいものが見えない。

この図のように、この位置からは前川の谷を800mくらい先まで
見通せていたはずで、この距離というは、今回の水没旧道のほぼ全長(大半)にあたる。

前川の谷の水位は確かに低く、水流を残して完全に湖底を露出させていた。
だが、ここでも莫大な量の堆砂が本来の湖底を隠してしまっていたのである。


やはり、思いつきで急遽取り入れた探索なんて、こんなもんか…。
落胆は隠せなかったが、まあ折角乗りかかった船(泥船っぽい)だし、
一応は眺めるだけではなく、実際に旧道を辿って湖底に立ってみるか…。






前川上流側より、水没旧県道へアプローチ


8:12 《現在地》

前川渡大橋から約1.4km走って、“旧道分岐地点”へやって来た。
この間のほとんどは乗鞍口、小大野川、大野川という名の暗い3本のトンネル内であり、ほとんど車窓は無かった。いずれも昭和43年に竣工した付替道路のトンネルだ。
故に通行人の印象としては、「湖面を渡ったと思ったら、次に風景を見た時にはもう湖はなかった。代わりに乗鞍高原の濃い緑があった。」…という感じである。

冒頭で紹介した昭和47年の地形図だと、この大野川トンネル前が旧道の分岐地点であり、右側にそれがあるはずだったが、パッと見た感じ全然分岐がある感じはない。
トンネル前は強い左カーブになっているので、ここで右に行ってしまうのは事故車くらいじゃないのか。

本当に旧道はあるのか?
いや、なければおかしいのだが、ちょっと不安になっている。
早速、覗きに行ってみよう。



おいおい…、ここにあるのか?

あった。

あったんだけど、 これは…。
予想以上に、風化が進んでいる。
昭和43年までは間違いなく使われていたはずなのだが、ここまで風化してしまうものなのか。
一応は現道の2〜3mほど下から平場が始まっていて、かつては道路だったような連続性やカーブを感じさせはするのだが、まるで路面っぽい感じはない。まるで森だ。

それに、ここはもうダムの湛水域に近いのだろう。
東京電力が設置した「この湖は水位が変動します。危ないので近寄らないで下さい」の看板があった。奈川渡ダムは揚水式発電を行っているので、確かに水位変動の激しいダムである。私もこの先、一応は注意しなければ。



最初からあまりにも程度が悪く、不安を感じさせた旧道であったが、大野川トンネル前の入口から50mも行かないうちに、道はなくなってしまった。
道があったはずの場所は、白っぽい川砂利が広がる川原になっていたのである。

おそらくこの川原に見えている部分は、梓湖の満水位以下の湖底なのであろう。
繰り返された水位の上下変動によって、岸が浸食され、路盤が失われたものと推測された。

あまりにあっけない道の終わり…。

しかも、川原とのあいだには、落差3m近い、ほとんど垂直に切れた土の崖があり、少し戻って降りられる場所を探す必要があった。
もうここで探索を切り上げてしまうことも考えた(その場合は没ネタである)が、あまりにも開始から短すぎるのでそれも疎ましく、結局は、初志貫徹の美徳を信じての下降となった。



9:26 《現在地》

河原に下りて、今までいた場所を振り返ると、そこにはには石垣があった。(←写真の桃色の枠内。→写真で拡大)
上にいる時にはまるで気付かなかったが、それも道理で、上部の平らに見ええている路面と思われる場所と谷底の中間辺りに、少し残っているだけである。

だが、石垣はこの一箇所だけではなく、路盤が途切れた先にも存在していた。(←写真の赤色の枠内)
単なる護岸工事の跡ではなく、これらは旧道の痕跡なのだろう。
改めて、その風化ぶりを実感する眺めであった。



この先に、まだ何かあるぞ。

道が崩れた地点の30mほど下流にも、単なる石垣とは異なる複雑な形状を見せる石造らしき構造物。
非常に谷底に近い位置だが、既にこの辺りは喫水線以下なので、堆積に伴う河床上昇の結果かもしれない。

思いがけない発見に、漸く探索に“血”が通い始めたのを感じる。
近寄りたいが、渇水のダム湖に注ぐ割には前川の水量が多いので、
跳び石伝いでは行けそうにない。長靴の助けを借りていジャブジャブ行こう!




こいつは…


昔の取水堰の跡っぽい。

取水堰ならば、川底すれすれにあるのも当然だ。
水面すれすれにある開口部は取水口、その右側の壁面に縦線のようなものが見えるが、それは金属製の溝で、川を堰き止める上下開閉のゲートが存在した事を疑わせる。
ただし、対岸には対になるような施設は見あたない。
奈川渡ダムに沈む前に意図的に破壊されたのだろうか。
コンクリートよりも石材を主に使った構造物であり、かなり古そうな感じだ。

さらに目を惹くのは、取水堰(らしき構造物)の上部に石垣とコンクリートの擁壁で支えられた路盤が、はっきりと残っていることだ。
これは明らかに旧道の続きである。
今回初めて本格的な道の痕跡に出会う事が出来た!
取水堰の頑丈な造りに守られていたのであろう。

上と下で組み方の異なる石垣で構成された複雑な形状の廃墟は、時代を経た遺跡のような佇まいであった。
周囲はダムの湖底に立ち入っていることを忘れさせるような清流と、頭上に覆い被さるような木々の緑。
暑い9月の日中とはいえ、ここには心地良い清涼感があった。



ジャブジャブと川を渡ってさらに近付くと、取水口だと思った開口部には、ほとんど奥行きが無かった。(←)

これは施設の廃止時(おそらくはダムの建設時だろうが)に、埋め戻されたのだと推測される。
開口部を塞いでいる奥の壁だけが石垣ではなくコンクリートブロックになっていて、周囲と造りが明らかに違っているのである。

右の写真は、堰の水門ゲートが収まっていたであろう溝である。
上部に張り出したコンクリートの通路状の部分があるが、破壊されていて旧状を留めない。
内部には廃レールの鋼材を埋め込んでおり、かなり頑丈な造りであった事が分かる。
やはり意図的に破壊されたものと想像出来る。

なお、これが取水堰であったとすれば、この位置の河床には数メートル以上の落差が設けられてた可能性が高いが、現状では堰跡の前後に高低差は無い。
河床に土砂が堆積し、下流側の落差を埋めてしまったのだろうか。



取水口の左側に存在する梯子通路を使って、上部の路盤に復帰してみよう。

金属製なのでまだ私の体重を支える程度は出来るが、錆びているので、あまり使い心地は良くない。



上に立ってみると、谷底から見た時には存在した遺構としての精彩が、半ば以上失われてしまった感じがした。大半の構造物が崩土に隠されてしまっていて、何が何だかよく分からないのである。だだが、下から見た景色と重ねて考えてみると、私が立っている位置には、取水堰を操作するための小屋があったのだろうと思える。小型のコンクリートの建造物を撤去したような形跡があった。

右側の一段高いところが旧県道だが、石垣がなければ素直に信じられないようなレベルで自然と一体化してしまっている。
このレポートの読者さまの中にも、一人くらいは昭和43年より前にここを通って乗鞍高原へ登った人がいそうだと思うが、どんな道だったのか覚えているだろうか。

なお、今日のダムの水位だと、ここは普通に渓流を見下ろす高所のようだが、付近の植生を見る限り、満水時には私が立っている辺りまで水没するようだ。
そんなときには船を利用しなければ、ここを訪れることは出来ないだろう。
いま水位が急に上昇したら取り残されることが確定であり、さすがにそこまで高速に水位は動かないだろうと思っていても、ダムは専門外で得体が知れない部分があるので、心の中の不安までは拭えないものがあった。



せっかく路盤に復帰出来たので、また途切れてしまうまで、これを辿って行くことにしよう。

とりあえず、とても平坦な砂利敷きの場所が川縁に連なっており、いかにも道路跡らしい。まさに、お誂え向きだ。

(この時点で、私の中に“ある疑惑”が発生している。この疑惑は、この手のダム湖底探索を多く経験していたからこそ考えに至ったものだ。)




先ほどまでの惨状が嘘だったかのように、障害物の少ない、とても平坦で歩きやすい砂利敷きの旧道だ。
相変わらず右側には川が寄り添っているが、取水堰以降は道と河床の高低差は全然詰まっている気がしない。
この道の最終的な行き方が、湖底を埋め尽くす砂利の底であることは分かっているので、徐々に河床へ近付いていくのかと思いきや、そうなっていない。
いやぁ、本当に良い道ですね………。(←前述の“疑惑”が確信に変わった)



上の写真を撮影した直後に全てを悟った私が、それから1分後に、川の対岸から振り返って撮影した「上の写真」の場所が、右の写真(→)だ。

私は、危うく騙されるところだった。

取水堰跡以降に私が歩いていた、とても平坦で歩きやすい砂利敷きの平場は、実は旧道の路盤では無かったのである。

では何だったのかと言えば、ダム湖と河川の堆積作用が生み出した、天然の平場。
渓流に接する機会が多い人ならば、砂防ダムの上流などでもこうした地形をよく見ていると思う。
それはしばしば人工的な平場と見紛うばかりに平坦になるのだが、直接的に人為が関与したものでは無い天然の地形である。

旧道の路盤はといえば、フェイク路面を作る膨大な砂利の底で、私が当初考えいていたとおりの動きをしていた。
すなわち、着々と河床に沈み込む方向に下り続けていた。
写真の中で砂利の山から一部が露出した石垣は、その証明である。





そのまま、

下りゆく石垣の先に、

視線を這わせていくと…


ああっ!



沈んでいく !!

私の目の前で、旧道の最後の名残りが…

おそらくは永遠に日の目を見られない地底へと、

しかもより一層絶望的な、水の底の土の底へと、

消え去っていく。



どうすることも出来ない現実を前に、今回の私の“旧道探索”は、

開始から30分足らずで、あっけなく

終わってしまった!



8:33 《現在地》→→

結局、旧道の痕跡(石垣だけだったが)を見ることが出来たのは、大野川隧道脇の入口から200mほどだった。
想像していた以上に早い段階で、路盤は堆砂の地底へと無抵抗で沈んでいった。

直前までの道の位置から、左の写真の範囲では破線の位置に道の続きが埋まっているのに違いないが、確かめる事はもう不可能だ。ちょうど川の流れの下になっているというのが、非情である。
かつては道路が法面として削ったであろう崖も、今ではすっかり川崖か、ダム湖の岸壁のように振る舞っている。お前は道の一部だったのに!裏切り者ッ! …なんて言っても詮無いこと。むしろ裏切ったのは我々の方か…。




道路が砂利に没した地点の先も、干上がった湖底は開けっぴろげに続いており、川を横断しながら進む事が出来るが、

今回の探索における「県道乗鞍岳線旧道」は、もう全て終わった。今後、この道に関する遺構が出てくる可能性は皆無だった。

私も、あともう少しだけ進んで、冒頭で紹介した「前川渡大橋」が見えたら、それをきっかけに引き返すつもりだった。



――1分後、 あれはまさしく前川渡大橋!


さて、撤収かな。



ん?


何かあった。