1986年、『ドラゴンクエスト』の第一作目が発売になったその年、この地にあった4集落、合わせて76戸
が集団移転により消えた。
そして、それから12年の後に、すっかり無人と化したかつての村々は、青い水面の下に消えていった。
それから、さらに8年が過ぎている。
一度は今生の別れと思われた、その村のあった辺りも、夏ともなれば地上に姿を見せるようになった。
そして、まるで8月の美田がそこに蘇ったかのように、一面緑の草が風に揺れている。
振り返れば、頭上には新しい県道の福万大橋。
この変わった橋の名前は、それ自身が跨ぐ場所にあった、集落の名前からとられた。
何とも縁起のよい地名だと思うが、27戸
の集落と共に、その名は橋にのみ託され消えた。
ダム工事により、それまで谷底近くを、狭く屈曲した道で辿っていた県道は、面目を一新するほどに改良された。
ダム上流に水没せずに残ることとなった外山(そでやま)地区住人にとっては念願の…
とはならず、麓からダムによって孤立する外山集落もまた、麓の水没する村々とともに、移転し、姿を消してしまった。
見ちがえた県道は、いまや人の住まぬ行き止まりの地へと繋がる、存在意義のよく分からない道になっている。
もっとも、まだ耕作地は僅かに残っており、そこへ通う人も無いわけではないが…。
また、確かに外山からはさらに先へと、ダム湖の名前の由来となった御嶽山を貫く、横手市や大仙市へと通じる林道がそれぞれあるが、いずれも狭い道で、決してどこへ行く交通の近道にもならぬ、あくまでも、林道である。
写真は、左岸支流の大倉沢を跨ぐ橋。
足元にも微かに道の跡が残っているのが分かるだろうか?
大倉沢上流に続く林道の痕跡だ。
ちょうどこのあたりが、福万集落の中心をなす辻だったのではないだろうか?
横手川沿いの旧県道(写真奥の道)から、横手川を渡り左岸の大倉沢沿いに伸びる林道(手前)との分岐地点である。
心なしか辺りの道幅は広くて、交差点らしい感じが今も残る。
しかし、唯一の入口をガードレールによって閉じられたこの辺り一帯に降りる人はなく、私が今し方刻んだ轍だけが道を道たらしめていた。
かつて人が住んでいただけあり、険しい場所ではない。
それに、本当に湖底に沈むことがあるのかと疑わしいほどに、発散するような緑が一面に茂っている。
水没などと言うのは、幻だったのではないかと。
一向に現れぬ湖の気配に、そんな事を思う。
写真は、県道から別れた林道が横手川を渡る橋。
遠くにある高い橋は、現在の県道の大倉沢橋だ。
沈んだ橋と、沈まぬ橋。
旧県道をさらに下流へと進む。
間もなく、横手川が道のギリギリにまで迫ってきた。
そこから対岸方向を見ると、さっき別れたばかりの大倉沢へ続く林道の橋を横から見ることができる。
また、そこはちょうど横手川と大倉沢の合わさる場所で、丁寧にブロック塀で護岸された様子をよく観察できる。
川から人の暮らしを守るために築かれた遠大な護岸工事も、いまやもろともにダム湖の贄となり果てり。
さらに進むと、いよいよ水が引いてからそう時間が経っていなさそうな、湿気った土地が現れ始めた。
しかし、驚くべきは僅か8年でダムが道に堆積させた土砂の量だ。
部分的にアスファルトが見えている場所もあるが、殆どは厚さ数センチの平らな泥の層と下に隠れてしまっている。
上流にも長大な河川があるのならばそれも分かるが、もうここは横手川の源流からそう遠くない場所である。
一般に、一切ダム湖底の浚渫工事を行わなければ、100年程度で湖は上流から運ばれてきた土砂で埋もれて機能しなくなってしまうと言われるが、一年のうち結構な期間を地上で過ごすだろうこの辺りでさえ僅かな年月でこれだけ土砂に埋もれたのだから、さもありなんといった感じだ。
万一、人類が何らかの理由でダムの回春を行えなくなれば、数百年後には日本中に深さ数十メートルという途方もない泥沼が出現することになるのだ…。
道は、緩やかなカーブを繰り返しながら、殆どアップダウンもなく下流へと続いている。
おそらくは、地形的に見てこの辺りにも田畑や集落が有ったのだろう。
だが、次第に両岸の斜面は切り立ち始め、横手川に落ち込む崖には年輪のような地層が鮮明に現れだした。
複雑に入り組んだ湖畔線を見せるみたけ湖の核心部分が、近づいていた。
なんだ! これは!
道の周囲の草地には、何とも不規則な形で区切る柵のようなものが。
柵は、木製の地上部分の高さ40cmほどの柱に、細い木の枝を固定した作りで、今まで見たことのないもの。
普段はダムの湖底に沈んでいるはずの周辺一面に、この柵は広がっていた。
これは、一体何だ?
だれが、なんのために?!
そして、遂に溜まり水が現れた。
ダム上流から旧道に入ってから、ずっと下流へ向けて走ってきた。
大体、1.5kmほどは下流に来ただろう。
計算すると、ダムサイトまでももう、同じくらいの距離しかない。
しかし、水位が下がっているとはいえダムはダム。
その水面は、もうそこまで迫っていそうな、そんな雰囲気だった。
この窪地は、かつても沼だったのだろうか?
なんとなく、その向こうは水田だったような感じがする。
子供達が、親に隠れてザリガニ採りをしたり、そういう物語があったかも知れない。
水没した一帯にも、かつて小さな福万分校(小学校)があった。
沼を横目に、いよいよ緑も薄いひび割れの大地を進むと、まるでガードレールのように道の両側に続く木の柵に促されるようにして、一本の橋に辿り着いた。
無惨な姿を晒す、かつての県道橋。
それは、銘板や親柱などと言う風流さを感じさせるものは一切纏わぬ、金属製の仮設橋だった。
ダム工事が本格化する中で、それまで人々の暮らしを渡しつづけた橋は取り壊され、工事用の重ダンプが通れる橋に代えられたのだろう。
そして、
役目を終えた橋は、再び利用される可能性を完全に絶たれ、
そのまま、水に沈められた…。
コスト的にはそれが正解かも知れない。
だが、鉄は無尽蔵ではない。
何か、他の用途に転用できなかったものかと、そう思う。
軋みを上げることさえしない、沈黙の橋を渡る。
今度は横手川の左岸に移った。
するとすぐに、左の山へと登っていく、道の跡らしき地形があった。
この上には現在の県道があり、工事用道路の名残なのだろう。
これはスルーして、さらに先へ進んだ。
対岸には、まるで地学の教科書の写真のような、強烈な褶曲を見せる地層。
中程でその地層は直角に曲がっていた。
そして、この辺りがこの日の汀線だった。
川の流れが、淀んだ色の湖へと、変化している。
すぐに県道跡は水際から離れ、山肌ギリギリを大きく迂回するようにカーブしていた。
周囲を取り囲む山並みは一見穏やかだが、水際は険しく切り立っており、至る所に複雑な地層が見て取れた。
上を通る現在の県道から見るとまるで島のように見え、実際に水位が高いときには湖に浮かぶ島となる部分が、その基部からかなり高くまでそそり立っている様子が見て取れた。
一応、川の本流はあの右側だったようだが、左も簡単に水流が乗り越せそうな低い鞍部しかない。
元々も、川に立ちはだかる変わった形の小山だったに違いない。
また、遠目ではよく確認できなかったが、石組みの崩れかけた砂防ダムが、島の右側には決壊しつつも残っているようだった。
それにしても、本当にこの日は水位が低かった。
ダム湖の全長の半分までは、全く水が溜まっていなかったのだから。
かつての県道も、ダム工事によってかなり形を変えてはいるのだろうが、それなりに鮮明に残っており、チャリで走ることさえ出来た。
不思議な島のような出っ張りの左側に、まるで胃のように膨らんだ低地。
最も下流側のもう一つの沈んだ集落である田代は、この辺りだったのかも知れない。
さすがにここまで下ってくると、幾ら水が引いているとはいえ、明らかに沼地と化しており、下へ降りる事はしなかった。
残念ながら、厚い泥の下に、かつての暮らしぶりを連想させるようなものは、見つけられなかった。
交通の痕跡も、この県道の他には一切見当たらない。
白線さえ残る県道。
だが、山側の耐透水用の施工といい、棒だけのガードレール(レールはないな)といい、元々の県道の姿ではないのだろう。
ダム工事中に利用された、工事用道路の姿と言った方がぴんと来る。
また、この辺りで道は左岸の現県道へと近づくようにして、登り始める。
元もとの県道は、おそらくダムサイトなど関係なしにずっと水際を走っていたはずだが、地形の改変が著しいのか、厚く堆積した泥のせいなのか、幾ら目をこらしてみても、全くそれらしい跡は見つけられなかった。
私の、旧県道を辿る試みも、残念ながら、ここまでだった。
緩く登りながら、湖底と別れを告げる旧道を振り返る。
右上には、現在の県道の法面が僅かに見えている。
満水時には、耐透水ベルトの中程の、うっすら汀線の跡らしきものが残っている辺りまでは冠水しているのだろう。
なんとなく、ダムの底から現道へと登っていくのは、時間を巻き戻されているような、一種独特の感覚があった。
だが、それもまるっきり根拠のない感覚ではなく、湖底に近い場所ほどそれだけ水面下にある時間が長かったわけで、土砂の堆積という、地上の数千倍の速度で刻まれる経年変化を、それだけ長く受けてきたことになる。
故に、ダム湖底からの帰還は、
過去…、そこが地上であったという過去への、巻き戻しのように感じられたのである。
いよいよ道が常時水面上の世界へと戻るというとき、すぐ隣には、押し黙った湖面があった。
ダムの是非は知らないが、一つだけ言えることがある。
ダムは、美しかった景色を、さらに美しいものへと変えはしない。
湖があっても美しい場所は、 なくても、 美しい場所だったのだ。
美しいダム湖の景色を見て、旅行者は言うかも知れない。
「なんて綺麗な景色なんだ」 と。
しかし、湖によって住み慣れた土地を失った人は知っている。
昔は、もっともっと美しく、そして、たおやかな景色だったのだと。
見るだけではない、四季の実りに満ちた景色が、そこにあったのだと言うことを。
間もなくして、ガードレールによって塞がれた出口が見えてきた。
現道への復帰である。
約、2.5kmの穏やかな湖底散歩だった。
出た先は、来るときにも通った現道の大松川橋の袂だった。
車の元へ戻るため、今度は現県道を通って上流へと遡る。
眼下には、今通ったばかりの水没旧道の姿。
通っているときには気付けなかったが、盛り土の下に暗渠が通っていたようだ。
現道の大倉沢橋から見下ろした、大倉沢と横手川の出合いの景色。
ついさっきは、対岸にいてこの道を見上げていた。
取り残されたままの橋がなんとなく愛おしく、先ほどはあまりに手頃に見えた為に渡らず通り過ぎてしまったことを後悔した。
べつに、山行がのネタになるような、刺激的な写真は撮れないだろうけれど…。
そう思いつつも、私は再び湖底の人となっていた。
十数分後、またしても福万集落跡の橋に来ていた。
これは、二つ見えていた橋の一つ。
もう、周辺は草むらが成長し、どこが道だったのかも分からなくなっていた。
そして、緑の海に流れる川を跨ぐ橋は、案の定、代わり映えのしない小さなものだった。
おそらく、木製だった部分だけは、湖が持って行ってしまったのだろう。
もう一つの、大倉沢へ続く林道の橋の跡。
こちらの橋はまだしっかりとしているようだが、その強度が何かの役に立つ事は永遠にない。
かつて、ライフラインだった金属製のパイプが、至る所で錆び付きながらも、まだその傍らに残されていた。
近くで見つけた、橋以外では唯一の、人の暮らした痕跡。
肥料袋だ。
まだ、水没から8年しか経ていない、若い水没地である大松川地区。
しかし、私の想像を遙かに超える速度で、人々の暮らした痕跡は、埋もれ、流され、かき消されていた。
そんな、私の訪問から5ヶ月。
いま、冬まっただ中にある彼の地は、ぶ厚い氷水の下に身を潜めているに違いない。
もう二度と訪れる者のないかも知れぬ寂しさに、身を震わせながら。