道路レポート 丹生ダムによる未成付替県道 前編

所在地 滋賀県長浜市
探索日 2020.04.24
公開日 2021.11.05


水資源機構資料より

ご存知だろうか。

実現していれば、日本最大の堤体積となるはずだったダムの名を。

その名は、丹生ダム。

琵琶湖に注ぐ姉川水系の高時川上流、かつて丹生(にう)村が存在した領域に計画されたダムだ。
この地は近畿地方に属しているが温暖ではなく、冬期間には日本海側から大量に吹き込む季節風の影響で極めて積雪が多い。水を集める山域は広大で谷も深く、集められた豊かな水が琵琶湖を潤し、ひいては近畿圏の人口を満たす貴重な水源の一つとなっていた。

この谷に上水道、不特定利水、洪水調節などの多目的を持って計画された丹生ダムは、昭和43(1968)年の建設省による予備調査から始まった。
昭和55(1980)年に高時川ダムという名前で実施計画調査へと進んが、規模の割に水没家屋数が少なかったためか大きな反対運動は起こらず、昭和63(1988)年に本格的な建設事業が着手された。同時に水没地の用地取得や住人(40世帯)の移転補償も進められた。
平成6(1994)年に事業主体が建設省から水資源公団(現・水資源機構)へ引き継がれた後も事業は順調に進展し、平成7(1995)年に工事用道路および県道の改良に着手、平成8(1996)年には水没家屋等の移転も全て完了していた。

建設されようとしていたダムの規模は、高さ145m、堤長474mという巨大なロックフィルダムで、堤体積1390万立方メートルは国内第一位の規模となるものだった。この巨大なダムによって1億5000万立方メートルの水を蓄え、多目的に利用することになっていた。



国土交通省資料より

右図は、「丹生ダム建設事業の関係地方公共団体からなる検討の場 第1回幹事会」の資料「丹生ダムの経緯及び概要」に掲載されていた、丹生ダムの湛水状態を描いた地図だ。
20万分の1という小縮尺の地勢図に、これだけの存在感を示す大きな湖である。
具体的には、ダムサイトからおおよそ14km上流まで水面が広がっており、末端は中央分水嶺にある栃ノ木峠の直下の中河内地区に達している。

このダムが完成した姿をイメージする別の簡易な方法としては、東へ20km離れたところにある徳山ダムを一回りほど小さくしたものを想像するのも良いだろう。
いずれ完成すれば、国内屈指の大ダムとなるはずだった。

だが、平成10年代から、工事の進捗に逆風が吹き荒れるようになった。
本ダムの重要な目的であった京阪神地域の水需要が、当初の計画量よりも大幅に下回ることが判明したほか、渇水が問題となっていた琵琶湖の水位を安定させる効果も、それほど期待できないことが指摘されたのである。
そのため、当初は平成12(2000)年度の完成を目指していたが、平成14年に22年度完成へ事業期間が延長された。その後も事業が長期化するダムの効果に疑問を向ける世論の高まりもあって、ダム本体工事着手を前に、工事は事実上の中断状態となった。

事業を監督する立場にある国交省では、治水専用ダムへ計画を縮小するなどの変更を模索もなされたが、事業主体である水資源機構は議論を静観する立場をとった。最終的に国交省は、関係する地方公共団体の意見を聴取したうえで、平成28(2016)年7月に、本ダム事業の中止を決定した。
これは国が計画したダムで、住民の立ち退き移転が完了した後に中止された、最初のケースとなった。



丹生ダムの中止が引き起こした事象で、私が見逃すことが出来ないのは、もちろん道路のことである。
このダムでは既に述べたとおり、平成7(1995)年から工事用道路および県道の改良に着手したとされている。
結局それから数年後に工事は中断状態となり、平成28(2016)年にはダム計画自体が中止されたのであるが、工事中や完成後を見越して整備が進められていた道路がどこまで出来上がっていたのか、これはオブローダーとして大いに気になるところだ。


国土交通省資料より

右図をご覧いただきたい。
これも前出の国交省資料「丹生ダムの経緯及び概要」に掲載されていた図をもとに私が一部加工したものだが、平成23(2011)年1月1日時点における、丹生ダム関連道路工事の進捗状況を現わしている。

橙色のラインは施工済、緑色は未施工、そして茶色は既存の道路を現わしている。もちろん水色の範囲は完成後のダム湖である。
これを見ると分かるが、基本的にダムサイトより下流の工事は完了していたようだ。

具体的には、下丹生〜菅並間の県道改良は5.8km全線が完了済。菅並(すがなみ)からダムサイトに至る工事用道路は2.0kmの全線が完了、上流側の中河内に計画された工事用道路も1.8km中1.2kmが完了していた。
そして、ダムに水没する県道の代替となる付替県道は、菅並を起点に11.8kmの全体計画中、1.9kmが完了済であったらしい。

県道改良、工事用道路、県道付替、この3つのうち最も気になるのは、付替県道だ。
なにせこの道、図の中では、行き先がない行き止まりの道になってしまっている!

「どうするんだこれ」。

思わずそう言いたくなっちゃうね。 ……ニヤリ



探索すべき対象の存在をうっすらと認識したところで、この中止されたダムの今後の見通しについて紹介しよう。
平成30(2018)年に水資源機構が作成した「淀川水系ダム事業費等監理委員会資料 丹生ダム建設事業の廃止に伴う整備」に、このことがまとめられている。


水資源機構資料より

水資源機構は、国交省が丹生ダム建設の中止を決定したことで、平成29年3月31日に事業実施計画廃止の認可を受けた。
同時に機構は、「丹生ダム建設事業の中止に伴う地域整備実施計画」を作成して認可を得ている。
その内容は、文字通り、工事中止後の周辺整備であり、道路に関する内容が多く含まれている。

右図は前記した水資源機構資料に掲載されている、丹生ダム中止後の道路整備計画図だ。
これを見ると分かるとおり、湖畔に計画されていた付替県道の建設は全面的に中止され、代わりに沈んでしまうはずだった現県道13.5kmを「現県道原形復旧・機能回復区間」として再整備するらしい。

この現県道は、ダムの建設が本格化した時点から長期間にわたって通行止になっている。
詳しい規制開始時期は不明ながら、ロードネット滋賀によると、菅並〜中河内間は、平成22(2010)年12月1日から現在まで、「落石崩土の恐れ」を理由とした全面通行止となっている。実際はここがダムの建設区間で、大部分はそのまま水没する予定であった。

また、現県道と並行して整備されていた工事用道路は、手直しのうえ県道として利用する一方で、付替県道を建設するために並行整備していた工事用仮設道路2.0kmは撤去するようだ。

しかし同資料には、行き止まりとなってしまった既存の付替県道1.9kmをどうするかについては、書かれていなかった。
したがって、このまま行き止まりの道路として残されるものと考えられる。

なお、「丹生ダム建設事業の中止に伴う地域整備実施計画」として追加計上される事業費は約40億円であり、それまでのダム建設事業に注ぎ込まれた事業費と合算した最終的な総事業費は617億円と見込まれている。
もしダムを完成させた場合は1100億円の総事業費が見込まれていたから、中止によって500億円近くの費用を削減したということになる。
そしてこのダム中止に伴う事業は令和9年度末までに精算する計画であり、その頃までには“なつかしの現県道”が再び解放されるものと思われる。(もともとかなりの“険道”だったようだから、戻ってきても、利用者はあまり多くないと思うが…。)






最新の地理院地図を見ると……



行き止まりの道があるなぁ…。

これが、未成に終わった付替県道である。

そして今回の探索の対象だ。




茅葺きのお屋敷が立ち並ぶ菅並集落の朝


2020/4/24 5:21 《現在地》

ここは丹生ダム建設予定地に最も近い菅並(すがなみ)集落の南口にある中河原橋だ。
ここへ通じる道路は滋賀県道285号中河内(なかのかわち)木之本線しかなく、しかも上流方向はダム工事のため長らく封鎖されているので、木之本側から高時川沿いを遡ってくるしかない。
平成22(2010)年の元旦まで伊香郡余呉(よご)町に属していたが、現在は長浜市の一部だ。そして同市および滋賀県では、県道の起点にある中河内に次いで北に位置する集落である。
私はここをはじめて訪れるが、周りを深い山に取り囲まれた典型的な山村に見えた。

なお、ここへ来るのに車を運転してきた県道は、余呉の中心市街地から約8kmの道のりで、全体的に新しい感じのする2車線道路であった。
ダム建設以前の状況は把握していないが、おそらくこんなに整備されていなかったはずだ。ダムは完成に至らなかったが、ダム建設の資材運搬を全て担うはずだったこの道路は、いち早く整備を完了していたのである。

そしてそんな道路整備の一端は、ここ中河原橋にも残っていた。
現在使われている平成10年竣工の橋の隣に、表札のような銘板を付けたままの旧橋親柱が、そのままの位置に取り残されていたのである。
すれ違いが出来ない親柱の間隔は、ダム建設以前の道路状況を如実に物語るものだった。



自転車に乗り換えて、探索をスタートする。
今回探索する未成付替県道の入口は、菅並集落の北端にあるので、まずは集落を通り過ぎる所から始まる。
ここでも県道は新しいバイパスになっていて、集落から少し離れた川沿いにゆったりと付けられていた。

早朝5時台の事実上行き止まりである県道に車通りはなく、見知らぬ土地の孤独な緊張感に私は支配された。
雨雲の白いヴェールから、やはり見知らぬ山々が現れては、消えてく。
この辺りは越美山地というのだろうが、どういう山だと語れるほどの経験がまだない。

県道を忠実に辿る限り、集落は脇目に見るだけで通り過ぎることになるのだが――




――ちょっとだけ脇道へ逸れて、旧県道に違いない集落のメインストリートに足を踏み入れてみた。するとこれが、ちょっとした驚きの光景だった。

明らかに茅葺きの屋根をトタン屋根の下に包蔵していると分かる、とても背が高い木造の家々が、通りに沿ってたくさん立ち並んでいるではないか。
古さから来る荒れ果てた印象はどこにもなく、むしろ瑞々しいような印象さえ受ける美しい家並みだった。それはさながら、トタン屋根で新しくなった白川郷のようだった。

聞くところによると、この地は日本屈指の豪雪地で、6m以上も雪が積もった記録があるのだという。したがって、通りに沿った大きな流雪溝の存在など、北陸地方の集落と同じ特徴がみられた。




再び川沿いのバイパスへ戻って県道を進むと、

見るからに曰くありげな封鎖道路が、忽然と姿を現わした。



5:26 《現在地》

集落の出口に間もなく差し掛かろうというところだった。
塞がれた道路が右に現れ、それから直進する道路の行く先にも、
同じように道路封鎖の障害物が立っているのが見えた。

これらはいずれもダム工事が遺したもので、右折は工事用道路で、直進は付替県道である。
現在の県道は、これらの“ダム関連道路”をすり抜けるように通じている。
3本の道路の行く先は全て同じだが、ダムが完成すれば付替県道以外は行き止まりになるはずだった。

私が本来探索しようと思っていた道は、直進する付替県道だけだった。
しかし、右の工事用道路の封鎖されている状況が、少なからず興味をひいた。



「公道ではない」

そんな風に書かれたら、気になってしまう。

前述した通り、この道路は工事用道路として建設されたものであり、ダムが完成すれば、
ダム直下へ通じる公道(おそらくは長浜市道)となるはずだった。
だが、ダムの建設が中止され、付替県道の整備も中止されたために、
この道路が、将来は県道として使われるようになる模様だ。

おそらくそのために、今まで存在しなかったトンネル照明を整備する工事を始めている。




 これからも活躍が期待される……、工事用道路と現県道


5:28 《現在地》

真新しい道路が塞がれているという奇妙な光景を前にすると、中を確かめたい衝動に駆られてしまい、もともとの計画にはなかったが、ちょっと寄り道をすることにした。
いま立ち入ったのは、平成28(2016)年に建設中止となった丹生ダムの工事用道路である。並行する現県道が存在するが、大型の工事用車輌をバイパスするために整備されたのだろう。

本来なら、ダムが完成し湛水を開始するまでに、水没域を迂回する付替県道が整備されるはずだった。だが、ダムの建設中止に伴って付替県道の整備も中止された。そのため、廃止されるはずだった従来の県道を引き続き県道として使うことにした。とはいえ、従来の県道に並行して工事用道路を整備した部分では、工事用道路の方が高規格なので、これを県道として手直しすることになった。

このようなやや複雑な経緯から、いま立っているこの“元工事用道路”は、遠からず県道になろうとしている。その手直し工事を待っている段階である。

だが、この道が生来からの県道ではなかったことの証しは、来た道を振り返ったこの写真に、如実に現れている。
やがて県道は、この写真に黄線で示したように指定されることになる(現県道は緑線)ので、ここに妙に鋭角な曲がりが生じることになる。
これは、もともと工事用道路は、右の付替県道側から入り易いように作られていた。それが急に用途を変更したから、こういうことになったのだ。
存在意義と形態が直接に結びつくインフラに宿った“匂い”は、そう簡単には消せないのである……。



工事用道路というと、もっと無骨な飾り気の全くないものを想像するが、少なくともこの工事用道路の橋には御影石の親柱があり、銘板があった。
しかも銘板は最近流行の「地元小学生の肉筆を採用しました」という感じの親しみやすいものになっていた。
4枚の銘板曰く、橋の名前は「宮前橋」、読みは「みやまえばし」、川の名前は「高時川」、そして竣工年は「平成13年7月」となっていた。

この工事用道路はもともとの計画でも、ダム完成後はダム直下へ通じる市道として再利用するつもりだったのだろう。
完全な工事専用道路なら、低コストな仮設道路にすれば良いのだから。




宮前橋から上流を見ると、ちょうど川の合流地点になっている。
右が本流である高時川(この地区では丹生川と呼んできた)で、左が小さな支流の妙理川という。
ダムが計画されたのは本流の上流で、従来の県道と工事用道路はこの川に沿って進むが、付替県道だけは妙理川を遡るルートであった。

宮前橋という名前通り、合流地点の出崎の部分には神社がある。
村の鎮守と思しき大きな神社で、その境内を通過している現県道の橋も赤い擬宝珠を象った高欄を装備している。
なるほどなるほど、あの橋や境内をダンプが行き交っては障り多かろう。そう思える風景だった。



橋を渡ると、即座にトンネル。

しかもこれが、北海道トンネルという、なかなか驚きのネーミング。

北海道って……、あの、ほっかいどう?

どうしてここに突然北海道が現れるのか。
読みが残念ながら分からないので、もしかしたら違う読みなのかも知れない。
誰か名前の由来が分かる人がいたら、こっそり教えて欲しい。
まさか滋賀県の山の中に北海道トンネルなどという壮大なネーミングのトンネルがあろうとは、ちょっと驚いた。

トンネルの外観は、これも工事用道路とは思えないくらい美観に気を遣った山なりの曲線的シルエットを持ち、かつ坑門には四角形を組み合わせたレリーフが飾られていた。




トンネル銘板によれば、竣工は平成13(2001)年10月で、全長239m、幅6.5m、高さ4.7mという、平凡なスペックである。
発注者はもちろん、ダム事業者である水資源公団だった。
トンネル名だけが、理由不明に非凡である。
ああ、あと建設から県道になるまでの経緯も、非凡なものになった。
遠からずこのトンネルは手直しを受け、県道に組み込まれることになるだろう。

読みは「きたかいどう」であり、付近の小字から採られたそうだ。
意味は、「北+街道」と思いきや違っていて、「北+垣内(かいと)」だという。
「かいと」が付く地名は西日本各地に点在しており、中世以来の開墾地にしばしば名付けられる。




北海道トンネル、内部へ。
もし現場作業中の気配があったら引き返しただろうが、人の気配や作業音は全くない。

内部は曲がっているようで、突入時点では出口が見通せなかった。
奥が真っ暗であるトンネル内に、少数の照明施設が見えたが、一つも点灯していない。入口の工事看板には「照明を新しくする工事」とあったが、現状の照明では県道としては不足なのだろうか。

このトンネルには、将来がある。
だが、中止になったダムの工事用道路という先入観でものを見ているせいか、なんとなく空虚なトンネルという印象は拭えなかった。外観はどちらかといえばリッチなんだけどね。



5:33 《現在地》

カーブしたトンネルの出口に近づくと、出てすぐの路上に旗を掲げた工事現場詰所が見えたので、咄嗟に「ヤバイ!」と思ったが、相変わらず人の気配はないので、恐る恐るもうちょっとだけ進む。まだ朝の5時台だからね(苦笑)。

外へ出ると、そこは地形図の通りで、現県道と工事用道路の合流地点だった。
この一連の工事用道路は400m足らずの短いもので、この先は再び両者が一つになって、約2km上流のダム工事現場へ至る。
写真左に赤い欄干の橋が見えるが、これが現県道だ。




この県道の橋、欄干だけでなく鋼鉄の桁も赤く塗装されていた。
それがだいぶ色褪せているのが、いかにも死にゆく県道の哀れを思わせたが、……まさか逆転で甦ることになるとは!

少し後でこの橋も銘板を見て調べたが、佐惣平(さそひら)橋という変った名前で、竣工は昭和41年10月31日と日にちまで書いてあった。
後付けの耐震補強(落橋防止チェーン)が施されているようだ。



路面に中央線は描かれていないが、ちゃんと2車線の幅がある北海道トンネルを振り返る。

比較的にオシャレな外観はしているものの、華やかさとは無縁なこれまでの境遇を物語るように、全体に黒く汚れた坑門が印象的だ。
平成13年生まれにしては……、ね。




一方こちらは進行方向。

工事用道路と県道が一つになった、工事用道路と同じ2車線幅の舗装道路が、ゆったりとしたカーブの向こうへと消えていくのが見通せた。
しかし、ここにも改めて通行止のバリケードや看板類が設置されている。




この時間、すり抜けて進むことは容易いが、止めておこう。

ここにある看板の内容や現場の雰囲気からして、数時間後には“作業”が始まると思うし、そもそも当初の予定にない寄り道に入っている負い目もあった。
いずれは、この道からダム建設“予定跡地”まで大手を振って行けるようになるので、それを待とう。

ただ一つだけ不満を言いたいのは、この場所に転がっていた「通行止」看板の内容についてだ。
看板自体は各地の通行止現場で見慣れたものだが、このダムに沈むはずであった県道の「通行止の理由」を、「落石・崩土のおそれのため」としか書かないのは、不誠実とまでは言わないが、ちょっと雑じゃない?

それどころじゃない、もう二度と我々の前には戻ってこられない“死出の旅路”に、入りかけてたんだぞ! この県道中河内木之本線は。
それなのに、その不治の病名を告知することなく、いたって表層的な理由を利用者に見せていたのは、道が強いられ覚悟を決めて臨んだ苛烈な境遇をいささか軽んじてはいないか。(←いやいや考えすぎだから)

まあ、キセキの復活が起きたんですけどね!!!



さて、本題である探索を進めるべく、今度は現県道を経由して、菅並集落の“付替県道入口”へ戻ろう。

この振り返った右の道が、探索およびこの執筆時点でも引き続き県道の認定を受けている佐惣平橋だ。


佐惣平橋は、昭和41年竣工という年代を考えればやや先進的と思える曲線橋だが、その旧橋と思われるものの遺構が、すぐ上流の川中と両岸に見られた。

両岸のコンクリート橋台と、川中の二つの橋脚基礎らしき突起物だ。
これらを見ると、先代は間違いなく1車線の弱小木橋だったろうから、昭和40年代の初頭に、本県道の大幅な改良と進歩があった模様である。ダム計画が予備調査も始まっていなかった時期だ。



5:39 《現在地》

“険道”と呼ぶほど酷くはないが、日本一の堤体積のダムを作るにはいかにも力不足と分かる1車線の【川べりの道】を300mばかり進むと、川のライン上に視界が開け、先ほど渡った宮前橋を前景に添えた菅並集落が現れた。

このとき右に茂っているのは神社の社叢で、合間に道路情報板と頑丈そうなゲート式バリケードが置かれていた。
チェンジ後の画像は振り返って撮影したそれらの姿だ。
通行規制はあくまで先ほどの佐惣平橋の地点から始まっているようで、ここでは予告だけだった。




先ほどから単に神社と書いていたものの正体は、六所神社であった。
古くからの村の鎮守らしい荘厳な佇まいで、境内や周辺がとても綺麗に清掃されていた。
変った名だが、かつて高時川に人を襲う大蛇が棲み着いて村人を苦しめたとき、いずこからともなく6人の山伏が現れ大蛇を退治したという伝説から来ているようだ。今風に言えばレイドバトル。

神社前の県道のヘキサがあり、さらにその脇に県道の妙理橋が架かっている。
昔ながらの1車線の幅しかないが、橋は平成10年生まれと新しかった。赤い擬宝珠風の高欄がとても目立っていて、最近の県道の橋としては思い切ったデザインと思うが、勝手に深読みすれば、もはや県道としては先がなくなり、神社への参道として生きる余生を心に決めた、そんな心境の表れのようだった。



5:42 《現在地》

菅並集落の北寄りにある付替県道の入口に到達した。

少し寄り道をして、奇妙な“復活体験”を味わっている県道と工事用道路の“今”を見たが、

ここから始まる付替県道こそが今回の主役である。

期待に満ちた“未来の道”から一転して、最も悲劇的存在となってしまった……。