新潟県道526号 蒲池西山線 第3回

公開日 2013.7.01
探索日 2012.6.01
所在地 新潟県糸魚川市

白山社跡に残る石造物群


2012/6/1 6:15 

“石段”を見送ったわずか2分後、

私は結局、石段の上にある神社の境内に立っていた。

一体、この僅かな間に何があったのか。

私は途中で引き返して、石段を登り直したわけではなかった。




県道から神社に至る道が、実は二通りあった。
一つは先の石段からで、もう一つ車が通れる水平の捲き道があったのだ。

私は石段をパスして少し進んだ先に未舗装の捲き道を見つけ、「これならば楽そうだ」と自転車に乗ったまま侵入した末、僅かな時間で境内に辿りついたのであった。
単なる駐車スペースとしては広過ぎる終点の空き地は、村の盆踊りなどが催される場所だったのではないだろうか。
その際に櫓や太鼓などを楽に運び入れるため、こうした捲き道を作ったものと推測する。

せっかく来たのだから、境内を散策してみよう。
非科学的な考え方だが、こういう展開の時はそこで“何かいいもの”に出会う事が多いものだ。



ほ〜ら、大豊作だ。

広場に面し、大・中・小とまるで昔話で選択を迫られるご褒美箱のように並ぶ3枚の石碑があった。
しかしここには択一のルールはないので、私は片っ端から漁る事が許されている。
3枚もあれば、きっと1枚くらいは道路関係の碑があるのではないか……ウズウズ。

そして最後に取っておきたいとびっきりのご褒美は、右端にある朽ちた石の鳥居だ。
こいつはなかなかの風情だぜ!
廃村、廃校ときて…… 廃社で締めくくるか?



「石碑1」こと、大なる石碑は、

頌徳 木島亭治朗翁碑

というもので、裏面には「 昭和三十年三月建之 大字蒲池有志 横這地区有志 」と刻まれていた。

「頌徳」とは「徳をたたえる」という意味であり、木島亭治朗なる人物の顕彰碑である。
碑を建立したのは地元の人たちのようであるが、一体どのような功績があった人物なのか。

隣の「石碑2」が、そのヒントを教えてくれた。


「石碑2」こと、中くらいの石碑は、

信越用水記念

なる題字の下に、非常に長い碑文が刻まれていた。

題字を見た時点で、「ああ、水路関係ね」と分かってしまったので、現地ではその碑文の内容に目を通すことはなかったのだが、帰宅後に撮影してきた写真から解読を試みたところ、一部碑面の欠けや写真の不鮮明さのため解読しきれなかったが、概ね内容を解することが出来た。

ざっくり要約すると、明治20年代後半からこの付近の人民は用水路の開削を企てていたが難工事のため成功せずにいた。その後、明治34〜35年に長野県北小谷村の関係者との間で水利に関する条約を締結し、明治36年には長野県および新潟県土木監督署へ出願、同年11月に内務省の許可が得られたので、北小谷村大網を流れる横川を引水する約三里の用水路「信越用水」の開削工事を行なった。難工事の末に水路は完成し、「国力ノ増進ニ資スルトコロ大ナリ」になったので、関係者の功績を讃えるために建碑したという内容である。ちなみに建立年は昭和20年9月となって、読み間違えでなければ、随分と大変な時期の建立である。
そしてこの多数の関係者を列挙する中に、「石碑1」で讃えられている木島亭次郎の名が刻まれているのを見つけた。

はじめ題字を見た時は、「信越用水」とは随分とたいそうな名前だと思ったが、碑文を読むと確かに信越国境を跨ぐ長大な用水路が建設されたもののようである。
内務省の許諾を受けている事からも本当の大工事であったようだが、今日このキーワードで検索しても全くヒットしないし、水路の位置も現状も不明である。
しかし横川と当地を隔てる県境の地形を見る限り、相当長大な隧道を掘り抜かぬ限り実現出来ない水路と思われるだけに、「水路ではあるが」、それなりに気になる。それなりにな…。



「石碑3」こと、小なる石碑は…

横這用水

とあって、結果的に道路関係石碑はゼロ!

無念。

無念だが、この集落にとって何が真に求められていたのかが見えた、「水路関係碑×3」だった。
道路は人が通うところに自然に生まれもするが、水が低い所から高い所へと自然に流れることは無いのであって、道路よりも水路が尊ばれる環境もあるのだろう。
負けだ。道路の。




石碑が優しくしてくれないならば、

鳥居を愛でることにする!

…とばかりに鳥居へ参った。 右の石柱は鉄線補強、左は擬木の添え木付き。

耐用年数を過ぎても頑張り続けたようだが、上部が落雷でも食らったかのように不思議な壊れ方をしていた。

「白山社」というのが、この神社の名前のようだ。



真っ昼間から、妖怪でも出て来そうな薄暗い参道だ。
いいね〜。ワクワクするよ。

そしてそんな参道の脇には、藪に紛れて、なにやら鳥居とは違う石柱も立っていた。
ドキドキしながら、近付いてみる。


石柱には大きく立派な文字で、「 大正十二年遷宮記念 」と刻まれていた。
帰宅後に新旧地形図を見較べたところ、明治44年版では確かに神社は現在地の300mほど南に描かれていた。

そして石柱の参道側には凹みがあり、そこには陶器の燭台らしきものが備えられていた。
いや、よく見れば燭台ではなく碍子か? これが電柱代わりだったのかも知れない。

さらによくよく見れば、この石柱もまた、鳥居の支柱であった。
燭台か碍子かは知らないが、それが収められている凹みは鳥居の横棒を嵌め込む穴に他ならない。
ということは、かつてこの神社には鳥居が二つあったのだろうか。それとも、古い鳥居の部材を再利用して記念碑に仕立てたのだろうか。

いずれにせよ、標高450m近いこの場所に鳥居の材料や巨大な石碑を(自動車を使わず)運び込んだ先人達の労力が思いやられたし、このような味わい深い参道がどんな本殿に続いているのか、私の注目は森の奥へ自然に導かれた。



!!!

肝心の本殿は、舞台然としたコンクリートの基礎だけを残して取り壊されていた!

その廃材の一部が野ざらしになっているのが憐れだが、その状況から判断して、本殿の解体はごく最近の事と思われる。
おそらく中上保の集落が無人かそれに近い状態となったことで、麓にある別の神社へと合祀されたのだろう。
荒れ果てたままの本殿を晒す事を良しとしない選択は、ここまで目にしてきた清潔な墓地や、良く保存された校舎などに見られた郷土愛とは何ら矛盾しないし、「人とともに神も山を下りた」のである。
廃材にしても今頃はすっかり整理されているかも知れない。




それにしても、ここは美しい集落であったのだと思う。

美しいというのは、集落の全体が野山の風光に秀でているだけでなく、あるべきものがあるべき場所にあるというか、一つの道を中心にして家、畑、学校、祭礼の場、墓などが一塊になっている。村落共同体というのはこういう地理的な一体感の中にこそ自然に生まれるものなのだろうと思う。

もっとも、この地を惜しみながら離れた人たちは、私のこんな感想をキレイゴトと思うだろう。
現代の暮らしに必要とされる施設は前記の他に駅やバス停、自動販売機、コンビニ、ホームセンター、役所、福祉施設などと数多く有るのに、それらはどれを一つを取っても近くにはない。

…挙げ句の果てに、この“美しい大地”は、都会にはない“牙”をも秘めていて…。



本殿で参道は終っていなかった。

そのまま山の縁を北へ向かう木陰の道があって、その先にも石の台座に乗せられた二つの石祠が並んでいたのである。
おそらくだが、これらもかつてこの白山社に合祀された、別の神々ではないだろうか。
遷宮に取り残された祠に軽く手を合せてから、白山社跡の探索を終えた。

経験的に、いかなる神社も持たない集落を見た覚えがほとんど無い。
逆に考えると、神社を撤去したということは、そこに集落を維持しようという意志が跡絶えた証しと見て良いのかも知れない。




6:23 《現在地》

10分弱の寄り道を終え、入ってきたときと同じ道を辿って県道に戻った。

ここは標高490mを越える地点であり、標高520mの峠はいよいよ目前である。
写真の正面に見えている平らな感じの稜線が峠であり、残りをトラバース気味に登りきるようだ。
また、この地点を以て中上保の集落からは離れ、次なる集落への道が始まる。

次の集落の名前は、西山。

この県道の路線名の一翼を担う西山集落は、この県道以外の道で辿りつくことが出来ない場所にある。
しかし、中上保以奥の県道は除雪されていない。
それがどういう意味であるか、残念ながら言うまでもないだろう…。




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傾いた道から、無名の峠を越えて


“西山への道”に入ると、道の状態がさらに一段と劣化した印象を持った。

依然として舗装はされているし、本来あった道の規格もこれまでと変らないのだと思うが、その道幅の路肩側半分近くが大きく陥没し、路面に巨大な亀裂が生じているにもかかわらず、その部分をごく簡単に封鎖しているだけで、道全体としては特に封鎖も補修もされないまま解放されていたのである。

晴天時はいざ知らず、ひとたび雨が染みこめば危険な崩落を開始しそうにも見えるが、仮に万が一の事態が起きても巻き込まれるドライバーや取り残される住民が皆無と言う、暗黙の了解があるようだ。
都道府県道以上のレベルでは余り見る事が無いくらい(言い方は悪いが)少々杜撰な管理を彷彿とさせる状態だった。





あわわわ…

路肩の崩落が常態化していて、見渡す限りの道幅が半減している!

やっぱりこれは、ただ事ではない感じがする。

これまで中上保集落の辺りから断続的に目にしてきた道路上の亀裂や凹凸(写真1写真2)に共通する、何か大きな原因があるように思えた。単に路面の補修を十分に行なわないというだけで、こういうことは起きないはずだし、これだけ広い範囲に影響が及んでいるとすれば、原因は地震以外に無いと思った。


路肩決壊区間をやり過ごし、なんとか全幅を回復したと思いきや、その先には著しく傾いた電柱達が…

「死屍累々」

といった感じで、立ち尽くしていたのであるし…


舗装の路面はここでも著しく凹凸していたのであるが、横波を食らった甲板の如く左右の平衡が取れていない路面の走行感や如何ならん!船酔いならぬ、道酔いをしかねない!(←いろいろな意味で)
しかも上り坂の途中なのに一瞬だけ下るような、本来の路面からは1mは上下していると思われる異常な起伏も見られた。

さらに恐ろしいのは、さほど古く見えない舗装を上書きするようにして、こうした亀裂や凹凸が発生している事だった。
これらの異変は、現在進行形で発生しているもののように見えたのである。

最近、この辺りを震源とする大きな地震があっただろうか?

いくら考えても思い付かなかったが、それもそのはずで、実は県道526号の蒲池側における多発決壊の原因は、地震ではなかった

このレポートを書<ために調べた『角川日本地名大辞典新潟県』の「蒲池」の項目に、以下の“衝撃的な解説”を見つけたのだ。

(蒲池は)地滑り地帯で、上条保・下条保から滑り出し、稲場・上町屋まで押し出して三宮で止まっている。
地元には地滑りの始まりを平安期の大同元年とする伝承があるが、埋もれ木の杉をカーボン測定すると紀元元年前後の数値が見られた(糸魚川市史)。

地滑りの地理的&時間的なスケールが、すんごいことになっている!
平安か紀元元年かと書いているが、どっちにせよ千年紀単位のスケールだし、地滑りの始まりに関する伝承が残っている集落というのもなかなか無い。
大字蒲池は、峠から麓まで全ての地区が一連の地滑り地形の上に立地していたのである。
滑り続ける山の上で一生涯を送った人々が、これまで大勢いたことになるわけだ。
そこを麓から峠まで縦断する県道の随所に見られる奇妙な凹凸の原因は、今も千年の地滑りが終息していないことを物語っていたに違いない。

山の息吹といえば「火山」を指すのが相場であるが、この蒲池の山も間違いなく息吹いている!
先ほど神社のところで述べた、「都会にはない“牙”」の正体は、この地滑りであった。

さらに現在の地滑りの状況を調べていくと、「蒲池地区地すべり対策事業」という新潟県作成の資料(PDF)を見つけた。
それによると、最近でも昭和59年と平成18年に大規模な地滑りが発生しており、その後も地滑りの兆候が確認されているとのことである。
そして昭和60年から平成25年を工期とする地すべり対策事業が進められているとのことだった。

この長かったまもなく工事が終れば、ようやく安全で安定した大地を得る事が出来るのだろうか。
地滑り地帯の下には多くの人が暮し続けているであり、廃村となった地区だけの問題ではないのである。



それにしても…

県道蒲池西山線は、なんともツイていない路線である。

たった7kmしかない短距離路線でありながら、その峠を挟んだ両面が異なる大きな自然災害にいたぶられている状況は、明らかに不幸である。
満身創痍とはこういう道を言うのだろうが、特に県道指定後に7.11水害で被災した事実は、ツキの無さを象徴している。

この道を県道の名に恥じない状態に仕立て上げるには相当の投資や時間を要するに違いないが、現在は全線開通への復旧さえ放棄されてしまっているのだ。
そして、この県道を使う以外に辿りつく術がない西山という土地が背負った因果も、同様のものであると言わねばならないだろう…。





6:29 

これより私はその西山へと向け、無名の峠を越す。

電柱が寄り添うだけの際だった特徴のない静かな峠だったが、冷たい風が気持ちよかったことは覚えている。



峠の電柱には、この県道と私が共に目的とする地名が掲げられていた。

その隣の数字が“ゼロ”に近付くとき、私は何を見ているのだろう?




背景の山並みを全チェンジし、

戦いの舞台はいよいよ、2年前の敗退以来一度も訪れていなかった姫川谷へと移った。


次回、予告された廃道が遂に姿を現わす…!