雄勝峠
丁(ひのと)山地と奥羽山脈とが接する地にある、最も低い鞍部に、その峠はある。
行政界としては、秋田県雄勝郡雄勝町と、山形県最上郡金山町を分かつ峠。
古くから、ここは国境だった。
大和と、蝦夷の国境(これは諸説あるが)
秋田藩と新庄藩
羽前国と羽後国
そして、
秋田県と山形県
秋田県の南の玄関口であり、中央と秋田を繋ぐ、もっとも主要な峠である。
その地位は、今日も衰えるどころか、高速交通網の整備が嘱望されているさなかである。
ここで、雄勝峠の歴史を、少しだけ紐解いてみよう。
時代 | 出 来 事 | 峠を通る道の変遷 ★印は、経路の変更を伴うもの |
---|---|---|
慶長年間 (1596〜1614) | 開道 秋田藩主佐竹義宣による、雄勝峠開削事業。 このとき、羽州街道がそれまでの有屋峠から、雄勝峠に遷道された。 そして、峠を挟み院内と及位の宿場に、関所が置かれた。 当時は主に杉峠、もしくは院内峠と呼ばれた。 | ★羽州街道 |
明治9年 | 国道認定 太政官布告によって、初めて「国道」の語が使われる。 このときに、それまでの羽州街道は、三等国道(東京から各県庁所在地とを繋ぐ路線)に指定され、 雄勝峠もこれに含まれた。 | ↓ 三等国道 |
明治11年 | イギリス人女性旅行家イザベラ・バードが、雄勝峠を越えて秋田入りした。 | ↓ |
明治13年 | 雄勝新道(旧旧道) 初代山形県令三島通庸による、雄勝新道開削事業。 この新道で峠の位置は変わらなかったが、道中の勾配が改良され、来るべき自動車交通時代を見越した改築だった。 当初三島は、峠を隧道化する計画だったが、何らかの事情により、この計画は中止となっている。 | ↓ ★雄勝新道 <旧旧道> |
明治19年 | 国道の等級が廃止され、代わりに国道四十號(『東京ヨリ秋田縣ニ達スル路線』)及び四十一號(『東京ヨリ森縣ニ達スル別路線』)に指定された。 | ↓ 国道四十號・四十一號(重複) |
明治37年 | 鉄道奥羽本線が当地を雄勝隧道で貫通し、この年に新庄・院内間が開業した。 後の複線化のおり、もう一本平行して隧道が建設されている。 | ↓(鉄道) |
大正9年 | 道路法(旧)の公布により、本地の国道は国道五號に指定された。 | ↓ 国道五號 |
昭和27年 | 道路法(現)の公布により、本地の国道は一級国道13号線に指定された。 その後、昭和39年の法改正で、一級二級の区分は廃止され、一般国道13号線に指定された。 さらにその後、一般国道344号線との重複区間にも指定されている。 | ↓ 一級国道13号線 ↓ 一般国道13号線 |
昭和30年 | 雄勝隧道(旧道) 鞍部を貫く雄勝隧道(延長235m)を含む、新道が建設された。 これにより、初めて冬期間の車両交通が可能となった。 この道については、以前にレポートしております。ご覧ください。 | ↓ ★雄勝隧道 <旧道> |
昭和56年 | 新雄勝トンネル(現道) 国道の2次改築として現在利用されている新雄勝トンネル(延長1375m)を含む新道が建設された。 これにより旧道は廃止され、旧隧道も封鎖された。 | ↓ ★新雄勝トンネル <現道> |
現在 (平成17年) | 高速自動車国道「東北中央自動車道」の予定路線として、当地が計画されている。 | ↓ |
以上の通り、当地の道は、主に4代が数えられる。
そのうち、今回紹介しようと言うのが、2代目の道。
明治13年に完工した、明治新道。
あの、“山行が永遠のライバル”三島通庸の拓いた、道である。
そして、この峠は、初めて雄勝峠で車輌交通をゆるした道。
当然、アレで峠を越すのが、礼儀であろうと考えた…。
現在出版されている、一般的な街道のガイドブックには、杉峠などの名で紹介される、初代、もしくは2代目の雄勝峠。
しかし
−−現在では藪化が進み、特に秋田県雄勝側の道は、判然としないほどになってしまっている−−
という。
しかし、自動車も通った筈の道が、果たしてそこまで失われるだろうか?
その状況を、私がこの目で、この足で、確かめてきたので、ご覧頂きたい。
そこで訪れる、わが愛車最大の受難…。
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