道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第1回

公開日 2022.06.28
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 現世と異界の境界


2021/1/20 7:07 《現在地》

立派な石の鳥居が目印である天津神明宮(神明神社)の参道入口へとやって来た。
面白いことに、ここから先の少しの区間、参道と公道が綺麗に並走している。
神明宮の社殿そのものは、まだ150mくらいも先である。

玉砂利が敷かれて清浄に掃き清められた参道と、気軽に土足やタイヤで通られることが仕事である市道、それぞれが、それぞれらしい橋を架けて並んでいるのが面白い。
擬宝珠や高欄で飾られた参道のミニ太鼓橋は神明橋、全く飾り気がない市道の方は宮川橋という名前である。下を流れているのは神明川の支流で、宮川という。
ここには大風沢旧道が活躍していた時代から橋は架かっていたであろうが、このように参道と分離したのは現代になってからのことだろう。

そしてなぜか、宮川橋の上に1本のネギ……のような何かが落ちていた。球根があるからタマネギか。なぜか私の行き先に、たまにネギが落ちている。前回はどこだったか……、やはり房総だった気がする。



参道と市道の並走は、長くは続かない。
先ほどから背景に見えていた鉄道の築堤が行く手を阻むためである。

昭和4(1929)年に国鉄房総線の名で当地区間を開業させた外房線は、長い土堤で参道のある平地全体を見事に分断しており、唯一の抜け道がこの「神明橋梁」という陸橋である。
参道もここを通るしかないのだが、たいして広くもないガード下を市道とシェアすることは無理だったのだろう。ここで一旦、泣く泣くといった感じで参道は市道に合流し、橋を潜ると直ちにまた参道が分離する。
鉄道が国の力で整備された、陸上交通の王道だった時代の強権を彷彿とさせる光景だった。




7:08 《現在地》

本題から少し外れてしまった。
我が本題、大風沢旧道のルートは、神明橋梁を潜らない。
その直前にあるこの写真の分岐地点にて、広い市道を外れて右へ行く狭い道が正解だ。




おおよそ140年も前に描かれた迅速測図だと、この場所はこんなふうに描かれている。
後の正式な地形図よりも描き方が絵画的(フランス式彩色図という異名もある)で美しい。
そして彩色のおかげで余計に地方の景色の長閑さが強調されて見える。

堂々たる太さで描かれているこの道は、実際の道の広さとは無関係に「県道」であることを示しており、橋や市街地のみ実際的な太さで表現されている。
県道は現在地の地点から「神明祠」へ真っ直ぐ延びていく参道を左に分け、次第に山道へ入っていく。
山間部へ入って間もなく「工事中」であることを示すイレギュラーな点線表現となっており、この図が測量された明治16(1883)年1月時点では未開通だったらしい。




これが分岐から見る、右折した先の道だ。
入ってすぐに神明宮の第三と第四駐車場があり、現状はこの駐車場への進入路程度の小道に見えるが、由緒を辿れば、近世以前から連綿と歩かれた外房の要路である伊南房州通往還の山側ルートであり、明治時代には県道として大々的に新道を整備されたこともあった道なのである。

廃道探索では珍しくもないコメントだが……兵どもが夢の跡……というものだろう。

それにしても、先にバイク用の駐車場があるせいか、「バイク優先」という表示があるのが珍しい。
この狭い道も市道なので、道路自体をバイク優先には(制度上)出来ないだろうが、この表現だと、駐車場がバイク優先というよりは、この道路自体もバイク優先に見える。




右折して100mほどでまた分岐。
右の道の方が少し広いが、進むべき正解は左である。

ミニ寄り道だが、右の道は宮川を小さな橋で渡っており、6トン制限のある橋の名を「美寿々橋」という。この橋名と昭和49年2月の竣功年が刻まれた石の親柱もある。
で、渡った先にあるマンションの名前は「レヂデンス美寿々」(敷地内のモニュメントにこの字が書いてある)である。
このような橋名と建物名の組み合わせはいかにも私道っぽいのであるが、「全国Q地図」によれば、この道も歴とした鴨川市道で、市道美寿々線というらしい。美寿々というのが地名だったら私の認識不足だが、どうにも人名っぽい名前に右の一帯は支配されている。




数秒の出会いでしかなかった美寿々に別れを告げて、本道である左の狭路を進むこと50m、沿道最後の民家を過ぎる。
それを合図に、道の進路になっている宮川の谷の緑は、すぐさま路傍へ膨らんでくる。
ああ、これは廃道が近いな…… 自然とそんな予感をもたらす風景だった。
でもまだ舗装された道は続いており、白っぽい軽トラ幅の轍もある。

そしてここで意外な伏兵というわけではないが、今回の山越えルートを唯一現役で通している外房線が、神明宮でのミソギを終えて一緒に入山していく。
チェンジ後の画像の左側に架線が見えている。そこに単線の線路がある。




山が重たい感じになってきた。
いかにも、房総の山の景色だ。
低い山ばかりだが、どの山もずっしりと密に樹木を育てていて、季節を問わずに葉は緑である。今は1月だがススキ以外はみんな青い。

まるで外房海岸の大波のように覆い被さってくる山脈(やまなみ)に、こんな細くて古ぼけた道で挑みかかるのは、廃道という結末が見えているとは言え、もう心許ないことこの上ない。
隣の線路だけがとても頼もしいのだが、どうせこいつはすぐにトンネルに逃げるので、私の探索の役には立たんだろう。

……で、この直後、地形図にも描かれている、“道路と線路の交差”する場面が、現われた。
そこにあったのは……





7:13 《現在地》

見るからにヤバソーな踏切。

道路標識によって、「車両幅1.3m以下を除く自動車通行禁止」が示されており、
事実上、自動車についてはバイクくらいしか通れないと感じる規制内容である。
実際はバイクよりも耕運機を通すことを念頭に置いた規制だったのだろう。

怪しげな踏切ではあるが、設備自体はしっかり揃っていて遮断機もある。
そして、名前が「天津踏切」というのが、なんというか大物感、メインルート感がある。
踏切名の命名規則はよく分からないが、広い天津に多数ある踏切の中で、
敢えてこの(位置的には天津の隅っこ)怪しげな踏切に天津と名付けているのは、
この道が昔の幹線道路だったからではないかという気がするのである。
ここに線路が敷かれた昭和初期には、既に旧道となって久しかっただろうが、
それでも道の由来とかは、今よりはもっと身近に知られていただろうし。



まるで、現世と異界の境界みたいだな…。

あちら側は、もう現世じゃなさそうな匂いが……。

向こう向きの標識もあるようだけど、人が見る内容なのか、なんてな…。

まあとにかく、なかなか強烈な“入口”だぞこれは。




 この穴には気をつけろ!!


2021/1/20 7:14 《現在地》

(←)
「天津踏切」から見る外房線の線路。この次にあるのは安房小湊駅で約1.5km先だが、距離のおおよそ半分が大風沢トンネルだ。トンネルの入口まであと250mくらいである。

外房線はJR東日本の幹線扱いになっているが、都心から最も遠いこの辺りのダイヤはローカル線のものであり、だいたい1時間に1往復くらいだ。

それでも、おそらくこの踏切を境に廃道化していると思われる「道路」と比べれば、間違いなく大風沢の峠を越えていける「鉄道」は頼もしい限りである。

(→)
踏切を渡って振り返ると、案の定……、こっちから踏切へ来るのは山のケモノとモノノケくらいとだ言わんばかりのうらぶれた雰囲気だった。
踏切を設置した当時はもう少し盛んに往来があったのだろうが、現状だと仮に遮断機が故障していても気づかれずに終わりそうだ。

そして、ここで私は早くも自転車に待機を命じることにした。
事前に読んだ『歴史の道調査報告書』の内容は本編冒頭で引用したとおりだが、おそらくこの先の峠には、平成初期の時点で既に崩れていた(おそらく通り抜けが出来ない)隧道がある。
したがって、向こう側へ抜けるためには崩れた隧道を迂回して尾根を越す羽目になるだろうから、自転車はほぼ間違いなく足手まといになる。だからその前に別れを告げることにしたのである。



あと、踏切を渡ると同時に見えた道の先行きが“こんな景色”だったのも、速攻で自転車を捨てる決断を後押しした要素である。さっそく、足手まといになるのが目に見えたもの…。

というわけで案の定、幅1.3m規制の踏切を超えた所で、道路はほぼ廃道の状態に堕ちた。
隧道の存在が疑われる峠のエリアは、地形図によるとここから6〜700m先である。
この距離は決して大きなものではないが、油断は禁物であろう。なんといっても明治中期の地形図では既に消えかけていたような、曰く付きの道なのだ。




自転車を捨てた身軽さを存分に発揮して、大量の倒木たちを躱しながら奥へ。

倒木の嵐は案外一瞬で終わり、抜けるとカラッとした爽快な晴れ……とまでは言えないものの、そう悪くない道が現われた。
出来の良い林鉄のような雰囲気だ。道幅とか、勾配とかが。
これが、明治馬車道由来ということなのか、まだ即断するには早すぎるが、とりあえず明治の緩やかな車道の雰囲気は既にある。



ああ、なるほど!
これが道が案外良い理由か。
舗装が隠されているんだ、落葉の下に。

あんな踏切があったから、てっきりそこから明治の廃道が始まるというような先入観を持ってしまったが、どうやらまだ現代の道が続いている。
明治道の路面に、現代の舗装が敷かれているというべきか。
まだ日差しが届かない薄暗い谷地の道を、一歩一歩踏み込んでいく。




7:18 《現在地》

天津踏切から100mほど進むと、谷が二股に分かれていて、地形図の道も二股になっているところがある。
これがその場所の景色で、進むべき大風沢旧道は直進だが、その道は見事な築堤になって谷を渡っていた。
また、左の道を少し進んだところにも、目の前の築堤よりさらに規模の大きな堰と思われる土堤が見えた。



右図は最新の地理院地図を拡大したもので、現在地付近はこのように描かれている。

北から流れ込んでくる沢の落合いに、上下二段となった二つの堰が作り出した大小の溜池がある。
上段の池が大きく、下段の池は小さい。
大風沢旧道と見られる道は、下段の溜池の堰を使って沢を渡っている。




これが、下段の溜池を北側から見下ろした景色だ。
堰の天端部分が舗装された道になっていて、そこが大風沢旧道だと思われる。

堰自体の構造は石組みで、全体に苔生しているうえに、モルタルなどを用いない空積みなので、大変古いもののように見えた。
それこそ大風沢旧道が新道として建設された明治10年代の構造物といわれても信じられるが、来歴を伝えるものは残念ながら見当らない。

地形的には、別段このような堰を作って横断する必要性を感じないので、あくまでも堰や溜池に必要性があったように思われる。
だが、なんのための堰だったかは、もう分からない。シンプルに灌漑用と推測はするが、証拠はない。



こちらは、さらに大規模な上段の溜池だ。

土を積み上げた大きな堰で、直線によって構成された形状には人工物の名残が強いが、地表には周囲の林地と同様に多くの樹木が茂っている。相当古くから馴染んでいる感じがする。

チェンジ後の画像は、堰き止められた谷の内部だ。地形図だと大きな水面が描かれているが、実際には水はなく、堰の天端との落差もほとんどないので、堰は既に水を蓄える機能を失っている。

総じて、ジャングルに残された古代の水利遺跡を思わせるような強烈な経年の佇まいがあり、探索対象である道と直接の関わりは薄いのかも知れないが、興味深い遺構だった。




明治16(1883)年の迅速測図を見ると、当時の県道(=大風沢旧道)は確かにこの谷の出合を通っていて、本道は真っ直ぐ東の沢を辿り、北の沢にも入っていく小径がある。
特に堰のようなものは描かれていないが……。

そして、ちょうどこの地点から先の県道が、建設中を意味する「点線」による表記になっている。
迅速測図では今日のような航空測量は皆無で、全て調査員が現地を歩いて簡易な測量をしながら集めた情報を元に描かれている(はずだ)。(それで2万分の1という大縮尺で、これほど等高線を密に描いているのは、もちろん推測で描いた部分もあったとしても凄い労力である)
点線で描かれているのは、実際にこの場所から先は工事中だったということなのだろう。そのため歩くことが出来なかったのかもしれない。ちゃんと歩いていたら隧道の存在を書いたと思う。




7:23 《現在地》

迅速測図も凄いが、現代の地理院地図もまた凄い。よくぞこんな細かな地形を表現しているものだと感心する。

上段の堰には余水を自然に下流へ逃がすための人工的な掘り割りの水路があり、地理院地図に描かれた水線はそれだ。
で、大風沢旧道をなぞっていると思われる怪しき舗装路は、この細い人工水路を小さなコンクリート橋で渡っている。
写真の橋がそれである。



上段の堰で撮影した全天球画像。下段の堰や道、橋などの位置関係が伝わると思う。



いつの時代に何を目的に作ったのか、よく分からない堰と水路。
それを渡る橋はコンクリート橋で、ガードレール付き…。
堰と水路と橋が全て同年代のものだとしたら、どちらも現代のものということになるのだが…。 う〜ん。 謎空間……。

銘板などがない、現地に名前や来歴を知る手掛かりのない橋だが、「全国Q地図」で表示出来る「2018年度全国橋梁マップ」に、この橋がプロットされている。
橋名を「小関橋」といい、市道小関線に属する延長3m、幅2.5mの橋らしい。だが竣功年の欄は「不明」になっていた。これは道路台帳系のデータを元にした内容なので、本橋の竣功年は管理者も把握していないようである。

まあ、ただのコンクリート板橋っぽいので、そんな古いものではないだろうが、先代の橋が別にあったとしたら同位置架け替えだろう。隣接地にそういう気配がない。
そして、小関という橋名は、古堰や小堰といった文字からの転化を想像させるものがある。




ハテナマークをたくさん浮かべながら、橋の上から見下ろした下流の眺め。

人工水路の行き着く先には、これまた明らかに人の手が加わっていそうな丸いプール状の水面があった。
そこは宮川の河床の一部であり、上段の堰の余水はあそこで本流にぶつかる(下段の堰には見たところ出口がない)。

……で、もう十分に煙に巻かれた気がしたのだが、これではまだ終わらないのが、房総魔境の恐ろしいところ…。

橋を渡った直後の谷側の道端、あるいは橋のすぐ下流の左岸の地面、どっちの表現でも正しい位置だが、そこ(矢印の位置)にも、全くの得体の知れない……





が、

ぽっかり垂直に口を開けていた。

……駄目だって…垂直の穴だけはダメ、…ほんと危ないから……。



しかも…




凄く深い。

で……

最初は、古井戸かと思ったんだが、なんか雰囲気が違うんだよな……。
穴の断面が四角いし、底に水があるのは井戸っぽいが、底が広い気がする。

足元がだいぶ怪しいので、カメラを穴の上へ突き出して撮るのも限界があったが、
そうやって精一杯底を覗いた写真の明度を弄りまくったのが、次の写真である。




これ、なんだろう……?

現地では気づかなかったが、明度を上げた画像を見ると、穴の底は石切場のような四角い空間で、
決して広いとは言えないものの、地上の開口部よりはだいぶ床面積がある。
そしてこれが一番の驚きだが、浅く水が溜まった底の部分には、前後(宮川に沿った方向)に横穴があって、
そうだな……、まるでRPGのダンジョンを真上からちょっとだけ見たような光景が展開していた!

現地でこれを知っていたら、どこか地上の別の場所に出入口がないかと探し歩いたかも知れないが、
生憎、明度を弄れない現地では、ただの底だと思ったんでね……。まだ再訪もしていないし。

まあ、こいつの正体だが、おそらく未知の地下水路なんだと思う。
大きな堰があるくらいだから、地下水路があっても不思議じゃない。
穴の底と、隣にある宮川の谷の底は、たぶん同じくらいの海抜にある。
だから、宮川の水を利用した地下水路、そんなイメージが湧いている。

そしてここに垂直の穴がある理由だが、地下水路を堰き止める角落しだったのかなぁと。
よく見ると両側の壁に堰き止め板を嵌めれそうな溝があるし。でも確信は持てないけど…。


……こんなの本題の探索対象ではないのだけど、マジで房総魔境……。

頭が痛くなってきた…。




踏切から先は、冗談ではなく本当に異界だったということか…。
もう少しくらい口数が多いと有り難いんだけど、無口すぎるぜこの場所は。
無口な堰や水路や橋や穴に別れを告げて、先へ行こう

この道だけは、ちゃんと俺が分かる言葉を話してくれると信じてるぞ…。



どうやらまだ舗装があるな。

次は何が現われるんだろうな…。

ちょっと怖いな。