山王峠の謎の道跡  前編

所在地 福島県南会津郡南会津町 
公開日 2007.9.22
探索日 2007.5.11



出典:国土地理院発行の2万5千分の1地形図(糸沢) 一部作者加工

 山王峠は、福島県南会津郡南会津町(旧田島町)と栃木県日光市(旧藤原町)とを結ぶ県境の峠で、その立地を一言で言い表すなら「関東と会津地方とを最短で結ぶ位置」である。(Mapionで位置を見る)
明治時代にはかの三島通庸がいち早く車道へと改築し、現在では国道121号を筆頭に352号と400号の合計三本の国道が重複していることからも、その立地の持つ意義深さが理解されよう。

 中世より連綿と受け継がれてきた山王峠であるが、大きく分けると次の三世代の道が知られる。
 一つは中世・近世までの道であり、下野街道や会津西街道、または南山通りなどの幾つもの呼び名が、その歴史深さを証明している。
現在、その峠路は地形図からも完全に消えている。
 次に、三島通庸の切り開かせた会津三方道路がある。
福島県令在任中の明治16年に、会津若松からこの山王峠頂上までの馬車道が、多くの反対運動を押し切る形で竣工した。
この道は、その後の自動車交通にもなんとか対応し、改良を受けながら昭和50年まで使われた。昭和29年には国道指定も受けた。
 そして、現在の国道である。
山王トンネルを含む山王バイパスの開通によって、関東と東北を隔てた万世の障碍は取り除かれたのである。


 しかし、この峠にはミステリーがある!

山王峠の旧街道を踏査した知り合いが、その途中で、今挙げた3世代の何れにも該当しない「道」を見たというのだ。
さらに、同行した地元の人は、それを指して戦前の「軍道」だと言ったそうだ。しかも、それは未完成で放棄されたとも。

  軍道! 未完成?!

 国内の、しかも幹線道路沿いとはいえ斯様な片田舎に軍道とは、穏やかではない。
それまでも何度か現在の国道は通ってはいたが、全く気付かなかった。
しかも、未完成とは また…  
私がことさら強く興味を引かれたのは、言うまでもない。
だが、余りに初耳のことである。すぐさま私は関連する町誌や峠本の類に当たってみたが、案の定、全く手掛かりはなかった。

 これはもう、現地で直接確かめるより無い。


国道端の謎の凹み

 旧道入口には目もくれず


2007/5/11 15:17 

 かつて奥州に入って最初の宿場として交易に賑わった糸沢宿は、現在の南会津町にある。
そこを、今日の街道である国道が通っている。
糸沢の集落を過ぎると間もなく沿道の人家は途絶え、山王峠への川沿いの登りが始まる。
谷は意外に広々としており、国道もゆったりとしたペースで上っていくが、関東と東北を隔てる前面の稜線は、徐々に威圧的な高度を増していく。
長い峠路に憩いを与える施設は、長年続いた「山王茶屋」という大規模な茶店から、現代の「道の駅たじま」へと姿を変えている。



 糸沢から約4.5km、道の駅からだと1kmほどで、明治以来の旧道と昭和50年開通の現道とが分かれる分岐地点に差し掛かる。
開通当初の青看が朽ちかけた姿で今も残っている。
看板があるところから見ても、開通後しばらくは旧道も利用できたのだろうが、現在は崩壊が進んだということで事実上の廃道となっている。



 これは旧道の入口。
標高906mの峠頂上までは約2.5kmの廃舗装路となっている。

なお、この旧道は本レポート後、ヨッキれんが美味しく頂きました。



 旧道との分岐を過ぎてすぐに、私は国道端に奇妙な凹みを発見した。

私が知人より「道の跡がある」と教わっていた地点は、まだ1.5kmほど先の山王トンネル附近であるが、これは早くも「謎の道跡」の一端なのか。

写真をよく見ていただければ、国道に平行するような一直線の窪地が続いているのが分かるだろう。
旧道は分かれてすぐに並行する山王川の対岸へ渡っているので、明らかに旧道ではない。

 私は、すぐにこの凹みへと侵入を開始した!



どわー!

広れー!
だだっ広れー!!

一段上を併走する国道と、その路幅において全く遜色が無い。
地平を1m程度掘り下げたような平場が、ここから見える限り少なくとも50m以上の奥行きで、真っ直ぐ続いている!
これまで、何度もこの国道を走っているが、隣にこんなものがあるなんて、全然気がつかなかった。
こんなに巨大な遺構に気付かなかったなんて…。  ナンジャコリャ?!?!



 この最初の遺構発見現場は、地図中のここ。

短い青い線が、ここから確認される道路跡らしきものだ。
旧国道は既に対岸にあり、明らかに無関係なのが分かる。

ここから始まる奇妙な道路跡は、この先でも国道に沿うようにして連続的に出現する。
順を追ってみていこう。

なお、「ここから始まる」と書いたが、厳密にはこの始まり方も謎がある。
ここより下流側に同様の遺構は見られないので、この辺りで現道と分岐しているものと思われるが、現道側の築堤などの工作物によって、はっきりと分岐地点を特定することが出来なかった。




 異常に広く感じられる道跡らしい窪地を進むと、やがて50mほどで小さな谷に行く手を阻まれた。
道跡は真っ直ぐ谷にぶつかり、その対岸にも、ほぼ同じ幅で窪地が続いているのが見える。
しかし、谷には両者を結びつけるべき橋が無い。

何らかの残骸はおろか、橋台や橋脚が設置されていた跡さえ無いのである。
すぐ隣を、現在の国道が暗渠と築堤で越えている。
極めて近接しているので、国道の工事で完璧に取り壊されたと言うことなのだろうか?

 何となく腑に落ちないものを感じはしたが、とりあえず谷を越えた反対側へと進んでみよう。



 同地点で振り返って撮影。

山林を割って一直線に続く、幅7m近い(推定)窪地。
浅い笹原に変わってはいるが、まだ周囲の山林との境界ははっきりしている。
その勾配は、なんと並行する国道よりも緩やかで、一見すると森林鉄道の軌道跡のようである。
だが、それにしても幅が広すぎる上、接続すべき他の軌道も周辺には無い。

「戦前に途中まで建設された軍道」という、いくら夢見がちな私でさえ俄に信じる気になれない案も、まだ、否定する事は出来ない。




 いちいち回収して歩くのが面倒という理由で、私は常にチャリを伴って探索していた。
当然乗って動けるのは現道のアスファルトの上だけで、搗き固められたことのない山林や、そして道跡の中も、全く跨る事は出来なかった。
ただ押して歩いたのである。

 しかし、道跡なのに全く搗き固められた感じがしなかったという事実。
それはこの道の正体を、「1.未供用の車道(軍道?)であった」「2.廃線か未成線の跡である」という、2つの推論に絞り込ませた。
(何かを埋設した跡だという説は、断面に何も見られなかったことで除外されていいだろう)


 道跡は浅い窪地として国道に並行して続いているのだが、ほぼ直線の国道に対し、ゆったりとしたカーブが幾つもある。
一方で勾配は、国道以上に緩やかとなっている。勾配だけを見れば、如何にも鉄道関係の遺構のように思われるが、一方でカーブの多さが不自然である。
また、当初2車線分の路幅があったものの、やがて山王川によって路肩を削り取られるようになり、路幅は半分以下に減ってきた。
ここでは崩れた道の断面を見ることが出来たが、やはり舗装(砂利を含め)は見られず、ただ掘っただけの道のようである。



 山王川による侵食から解放されると、再びその幅は広まった。
だが、最初に比べると妙に見通しが悪い。
何故かと考えたところ、それは道の上に木が沢山生えているからだと分かった。
主に松の木が多く路上に生えているのだが、太いものだとその幹周りは170cmを越えている。
軍道として戦前に工事されたとしたら、木が生長しすぎではないのか。
とはいえ、これほどの路幅を用意した工事が、三島通庸が旧道を開いた明治期以前のものであるとも考えにくい。

 ますます謎が深まる感じだ…。



 これが路上に生長しているものとしては最も太い松の木。
幹周りは170cmを越え、私の持ち歩いているメジャーで計測不能だった。
その根元に転がっているのは、大型車用の大きなタイヤで、おそらくは現道から不法に投棄されたのだろう。
辺りには廃タイヤが幾つも転がっていた。
現道は一段上を通っており、ここにもひっきりなしに車の音が届く。



 またも道は小さな沢によって寸断されている。
そして前回同様、今度も全く橋の跡らしきものは見られない。
道はやはり作りかけで、橋の工事までには至らなかったのだと、そう考えるのが妥当か。

 現時点までに発見された道の跡は、右の図の青線の通り。




 (左写真)
2度目の谷を渡った先で、遂にこの道跡と関連の深そうな木柱を発見!
それは5cm四方の角材で、道の中央部に一本だけ立てられていた。
上面には普通の小さな釘(錆びていた)が一本刺さっており、また頂部が赤ペンキで塗られていた跡が。
工事現場などで見られる測量や区画用の杭に酷似している。
この道跡が工事中に放棄されたものである疑いが、より深くなった。

 (写真右)
現道から大量に投棄されたゴミが、道跡の窪みに堆積していた。



 流石に国道との間を往復するのもうんざりしてきた。
三度、沢によって道跡は寸断を受けたのだ。
今度も橋の跡は無く、にもかかわらず、平然と道跡が対岸へ続いている。
国道は今度は暗渠ではなく、陣場橋という小さなコンクリート橋で越えている。

 ここに架けようとしていたものが、戦車も通れるような橋、つまりはコンクリートか石の橋もしくは鋼鉄橋だったとしたら、手間の掛かるそれらの工事が後回しにされるというのも、あながち不思議ではないのだが…。




 陣場橋で現道に戻ると、すぐ先の山王大橋が塗装工事の最中で、片側交互通行となっていた。
片側交互通行と探索との相性は、最悪だと思っている。
無人の現場なら気にしないのだが、人が交通誘導をしている場合、気にしてしまう。
交互区間内で立ち止まられる事を、彼らは大変迷惑に感じるはずなのだ。
この仕事は少し経験があるので、分かる(笑)。

 というわけで、目の前に現れた突然の現場にちょっと挙動が不審になる私。
私としては、この山王バイパス区間内最大の橋である山王大橋に対し、例の道跡がどのような挙動を示すのかをじっくり観察したいのだが、その為には橋の上で停まって撮影する必要がある。

私は素直に最寄りの誘導員に、橋の上から写真を撮りたいことを説明し許可を得ると、自転車を袂に停めて、歩いて橋の中程へ向かった。



 山王大橋の上から撮影した、山王川上流の谷景。
山王峠とは反対の山から流れてくるので、名前の上では支流と考えられるが、流長も水量も本流である。
国道はこれを、谷底からおおよそ40mほどの高さに100mを越す長大橋を架け一跨ぎにしているのだが、ここまで国道の影のように寄り添ってきた「謎の道」は、一体どうやってここを越えたのだろう。
まさか、これほどの長大橋を計画していたとも思われない。
しかし、山王トンネル付近にも同様の道跡が存在するらしいから、この山王川をどこかで渡ったと考えねばならない。

橋の上からいくら見渡してみても、両岸ともに道の痕跡は見られなかった。
少し上流に回り込み、谷が狭まった辺りで一回り小さな橋で渡るというのが、古い道のセオリーだろうが…。





 私は橋の袂に戻ると、そのままチャリを置き去りにしたまま、セオリーを信じて山王川右岸の林へと進んでみた。
そこは平らだったが、一面に木が生えており、道跡らしい感じはない。
しかし、まだ判断が出来ないので、そのまま上流方向へと進んでみることに。



あった!

 あった。現れました、道跡らしきものが。

地形的な制約によるものだろう、一挙に路幅は狭まり、まさに林鉄跡のような感じになってはいるが、渓谷に面した雑木林の斜面を割って、平坦な部分が続いている。
これ以外に周囲に道らしい地形は見られず、先ほどまでの道跡の延長線であると断定できる。
国道は築堤を築いていたので、これと斜めに交差する部分で100m近くも埋没し、それで見失ったのである。
次の地図で現在地を確認したい。



 現在地は、国道に対して先ほどまでとは反対側に移っている。
道は私の読み通り、川を上流で渡る魂胆らしく、国道をはなれ東進を始めた。

 この辺りの川は鉄分を多く含むのか、妙に赤っぽい谷底が、まだ遙かに遠い。(右写真)
大規模橋梁遺構発見へと、私の期待感は否が応でも高まっていった。



 ほくほく顔で怪しい道跡を辿る私だったが、国道から100mほど進んだところで、深く切れ落ちたV字の小谷が行く手を阻んだ。
これまでならば傍に国道という迂回路があったが、今はない。
一帯の山はよく開折作用が進んでおり、急傾斜な場所も土山が目立つ。
だから、かなり急でもどうにか進めるように思えてしまうのだが、実際は滑落の危険が小さくない。
この小さな谷も、初めはどうやって渡ろうか逡巡したのであるが、谷の真ん中にある龍の頭骨のような巨岩の一部に、小さな赤い矢印を見付けた私は、そこが迂回路であることに気付いた。
慎重に土の斜面を選び、岩のある谷底へ降りた。


 岩盤にペイントされた、30pほどの矢印の記号。
誰がいつ、このような指導標を残したのだろうか。
何となく、少し前に見た角材と同じ時期の物のような気がしたが、根拠は薄い。



 谷底の矢印の前に立って対岸を見ると、再び道跡が始まっているのが分かった。
ここから這い上がるのには、滑りやすい土の斜面のため、思いのほか手こずった。
こんな不都合な場所に、わざわざ矢印を残した人は、どのような目的でこの山へ入ったのだろう。
やはりこの不思議な道を作った人たちか、或いは、奥渓を目指した釣り人や山菜人たちの目印なのだろうか。



 谷を渡ると、再び何食わぬ顔で道跡が復活。
しかも、少しでも地形が平坦になると、路幅が広くなる。
本当に、何の道だったんだろう。
あらゆる谷に橋の跡がないところを見ると、どちらにしても完成しなかったようだが、それ自体はかなりの規模がある。



 16:00

 復活に安堵したのも束の間、50mも行かぬうちに再び道は途絶えた。
ある地点までは、道の跡は確かに続いていた。だが、特に特徴のない(強いて言えば山王川に面した)場所で唐突に消滅し、私も初めそこで終わりとは思えず強引にその先へ右岸斜面を歩いてみたが、すぐに左写真のザラザラした岩谷に阻まれ、これも乗り越えて進んだ先も急斜面の原生林で、いっさい道の痕跡は見いだせなかった。

 余りに特徴のない場所だったから、その道の終わりを特に撮影することもなく、狐につままれたような気持ちのまま、右岸の道の捜索を打ち切った。
多少上流へ来たとはいえ、まだ谷は深く、とてもこの地点から対岸へと直接渡ることは出来ないと考えた。
造りかけの道だという頭があったから、不自然に道が終わったとしても、そこに義務的な捜索意欲が湧かなかった。

ともかく山王川右岸の捜索はこれで打ち切り、次回は対岸の捜索を始める。






 さて、前半の探索は終了したが、果たしてこの道跡の正体は何だろうか。
答え合わせを後半に期待していた読者には申し訳ないのだが、実は、現在も答えは分かっていない。

軍道だと信じている人もいるが、正式な記録を見ていない以上、それを直ちに信じることは出来ない。
しかし、軍道としたら戦車も通れるような道であろうから、この路幅の不自然な広さは納得しやすい。
勾配の過剰とも取れる緩やかさについても、戦車以外のある程度非力な軍用車も通るわけだから、必ずしも否定できない。

 ここに最初の馬車道が開通したのは明治16年であり、大正時代には自動車も通るようになったと記録される。
戦前には既に、関東と会津を結ぶ最短路として盛んに利用されていた。
当然国幹の一部として軍事的にも重要な道と考えられたに違いなく、戦前から峠の隧道化が計画されていたとしても不思議はない。
むしろその交通量を考えれば、昭和50年の隧道化は遅いような印象さえ受ける。
戦前から隧道が計画され、実際にパイロット道路の建設が始まっていた可能性も、あると思う。

 しかし、もう一つ可能性として考えられるのは、鉄道という線だ。 それも森林鉄道などではなく、本式の、つまり国鉄の線路としてだ。


 この地に、壮大な東北縦断鉄道である「野岩羽線構想」という夢が動いていたことは、比較的よく知られている。
そして今日、その念願は一部を除いて適い、多くの乗客を乗せた列車が県境の山王トンネルを潜って、東京浅草から会津若松までを直通で通じている。
だが、地図を一目見れば現在の山王トンネル(全長約3500m)が本来の山王峠から随分遠いところを通っているのが分かる。
もはやそれは山王川ではなく、荒海(あらかい)川に沿ったルートであり、直線距離でも本来の山王峠と鉄道のトンネルとでは3.5kmも離れている。

 鉄道の山王トンネルが難工事の末に貫通したのは昭和44年、鉄建公団の手による物で、当時国鉄野岩線(会津滝ノ原〜今市)の一部として建設されていた。だが、この工事は国鉄の赤字問題により、全線を竣工する前に凍結される。トンネルが実際の営業運転で使われたのは、工事を引き継いだ第三セクター野岩鉄道が開業した昭和61年である。

 遡って、この野岩鉄道に接続する国鉄会津線(会津若松〜会津滝ノ原)が会津滝ノ原(現:会津高原尾瀬口駅)まで全通したのは昭和28年である。 さらに遡り、荒海(現:会津荒海駅)までの開業は昭和22年。
つまり、昭和22年の時点では不明ながら、28年の会津滝ノ原延伸の時点でははっきりと、「山王峠越えは現在ルートで」という国鉄内部の計画があったことになる。

 右の地図で私が太い一点破線で示したルートは、長大なトンネルを造らずに山王峠を越えうるルート、つまり現在の国道のルートであり、かつ今回遭遇した謎のルートにも一致する。
ここに鉄道を通すことが、真剣に比較されなかったわけはない。

 一気に時代を遡り、明治39年の国有鉄道法の発布当時。建設第一期線に組み込まれていた野岩羽線の沿線一帯で、国による測量が行われたという。
さらに、この当時の計画(或いは大正時代の計画)では、野岩鉄道に予定される隧道は最長でも640mだったというのだ(当方では未確認情報)。
偶然であろうか、現在の国道トンネルの延長は645m…。
少なくとも計画当初の野岩鉄道は現在の滝ノ原経由ではなかった…おそらく旧来の街道に沿った、山王峠を貫くルートだったに違いない。

 昭和9年に会津田島まで開業した後、戦後22年の荒海延伸まで、その伸長が止まっていたかに見える国鉄会津線。
しかし実際には、戦中という重いヴェールの裏側で、極秘裏の軍事鉄道が、その古い計画に従って黙々と造られていたのかもしれない…。



 …と、上記は全て私の推論や妄想である。
あなたは、どう考えられただろうか。