山王峠の謎の道跡  後編

所在地 福島県南会津郡南会津町 
公開日 2007.9.23
探索日 2007.5.11

山王川の渡河遺跡?

 姿無き遺構との遭遇


2007/5/11 16:14 

 結局山王川右岸の道跡に振り切られてしまった私は、その辺りの何処かで対岸へ渡る計画だったと判断。一旦国道へと引き返してきた。
山王大橋を渡り、今度は山王川左岸に“道の続き”を探すことに。

 チャリを停め、前方左側に写っている簡易トイレの裏側の斜面に登ってみると…。



 あった! またありました!

雑木林の法面を5mほど登ると、そこには紛れもない道跡が。
簡単な推論とはいえ、こうも綺麗に当たると気持ちがよい。
ここにも道があるということは、やっはり、山王川の深い谷に、橋を架ける予定があったのだ。
いよいよ、謎の道跡の全体像が見え始めてきたぞ。



 なお、同地点から峠側を見ると、国道によってご覧の通り切り取られており、痕跡が完全に消失している。
知人が見た道跡というのが何処かは分からないが、おそらくもっと峠寄りだとおもうので、この消失点の先にも何らかの痕跡がある可能性は高い。

ともかく、今は山王川の渡橋地点を先に確認しよう。
今度こそ、何かを見付けたい!



 上流方向へ向かっているが、道は緩やかに高度を下げている。
その為、どんどんと河床は近づいてくる。
道は途中二カ所ほど大きく崩壊しており(写真は一カ所目)、慎重な足運びを要求された。

 崩壊地から見る谷底。
対岸には先ほど歩いた道が少し下方にあるはずなのだが、判別は出来なかった。
なお、地形図には砂防ダムの記号があるが、目立たない存在のようだ。



 (写真左)
国道から入って100mほどの地点にある、二カ所目の崩壊地。
写真は、横断しつつ上部を見上げて撮影。
崩壊部が巨大な雨裂となって痛々しい姿を見せていた。

 (写真右)
この二カ所の崩壊地意外も、道跡はかなり侵食されて、路幅が1mに満たない状況。
流石に余りに狭いため、前回まで辿っていた道と同一の物であるのか、自信がなくなってくる。



 国道から150mほど上流へ遡った地点。
何本もの木が一カ所から束になって生えているのに遭遇。
そして、写真に注目して欲しいのだが、この束ねたような幹の向こう側は一面なだらかな斜面となっており、道跡らしい平坦部がないのである。
これはもしや、左岸側の道の終点。
つまりは、架橋予定地点なのではないか。

直前で殆ど道跡は斜面と一体化しており、またしても、はっきりとした渡橋地点を見いだせぬまま振り切られてしまうのかと思った矢先だった。




 不思議な束幹の根本にあった、やはり不思議な石。
というのも、妙に表面が赤い。
ざらついた表面はこの辺りの地山の岩石に違いないのだが、色が明らかに赤く、それも古いペンキのようなべったりとした質感がある。
仮に人工物だとしても、対岸で見た赤い矢印よりも遙かに古い物のようにも思われる。

仮にここが架橋予定地だったとして、目印として岩にペンキを塗った可能性がある。



 束幹よりも上流へも進んでみたが、やはりそこは緩斜面が続いているばかりで、二度と道の跡が復活することはなかった。

写真は上流側から束幹を振り返って撮影。
それはまるで橋頭堡のように、斜面にあって独り目立つ。
当然のように橋自体は存在しないわけだが、対岸の道跡との位置関係を確かめるべく、新緑の雑木林を谷底まで下ってみることにした。

 この時点では、まさかあんな発見があるとは、全く期待していなかった。




 この2枚の写真のように、谷幅はかなり広い。
(すぐ下流の砂防ダムによって谷が埋没している可能性もあるが)
水量も山奥にしては豊富である。
もしこの地点に架橋するならば、長さ30m以上、高さも20mを越える、かなり規模の大きな橋を要したはずだ。
そして、もしこの橋が無事に建造されていたならば、道自体も未成に終わることはなかったかも知れない。



 案の定、橋脚一本建てられていない、山王橋擬定地。
写真は左岸に立って、より急斜面の右岸を見上げている。
ここからは確かに、先ほど歩いた右岸の道跡が確かめられた。
しかも、歩いていて道を見失った位置にもピタリと符合した。
これで、架橋地点はほぼ断定できた。

 それだけに、何もないということが、予想されたこととはいえ、残念だった。



 左岸の束幹に戻ろうと、雑木林の斜面を登り始めたその時だった。

ふと、足元に大きな箱形の窪地があることに気付いたのは。

それは、川に並行する方向に長辺を据えた、長方形の窪地だった。
自然地形としては不自然な感じがして、私はすぐに、窪地の下の川原へ戻った。




 こっ 
これは?!

私はそこに、雑木林の斜面を段々に削った、明らかに人工的な窪みを見たのである。
それも、二段!

束幹から川原までの斜面にあって、ほぼ等間隔に造成された矩形の窪地。

それが意味する物は、もはや一つだった。

私はそこに、橋を見たのだ。
未だかつて誰も見たことのない、“幻の橋”を。

それは、想像を超える巨大橋梁の、烟霞の如し姿であった。



 二段確認された平場のうち、上段のもの。

下段のそれに比べ四辺が全体的に小さいが、おそらく相似形である。

地辷りによってもこのような段々の地形が形成されるが、長方形の形状は不自然であるし、下段の平場は河床に近すぎて地辷り地形とは考えづらい。




 二段の平場を経て、束幹の道跡端点間近まで戻った。

改めて見ると、橋台のように出っ張った地形である。
流石に樹幹が橋台代わりとは、出来過ぎか。

 今一度、この橋台の様な場所から谷を見下ろしてみる。



 お分かり頂けるだろうか。

二段の平場がほぼ並行するように並んでいる姿が。

私はこれを、未成の大橋梁の、基礎工跡と考えている。
コンクリートか、或いは煉瓦製かは分からないが、巨大な橋脚の建造寸前まで、この地での「何かの建設」は進んでいたのではないか。

次に、現地地形の模式図を示す。



 図にカーソルを合わせてみて欲しい。
左岸にある二段の平場は、この図のような橋の姿を想像させる。

平面形を考えたとき、流石に橋前後のカーブがキツイので、前回最後に色々と想像した中でも、鉄道という読みはハズレのようだ。
やはり、現在の国道の前身となる道が、戦前か戦中に準備されようとしていたのだろうか。
中途半端な計画は戦後に破棄され、改めて現在の直線的なバイパスが建造されたのかも知れない。

ここまでの発見を総合すると、この道跡のスペックというのは
 路幅:  旧道<本道<現道
 平面形: 旧道<本道<現道
というふうに位置づけて良さそうだ。

やはり、幻の中庸道路だった可能性が高いように思う。 




 山王トンネル附近の道跡


 16:31

 姿無き遺構の発見に激しく興奮した私は、跳ねるように現道へ戻った。
今回の調査で最大の発見であった。

峠の山王トンネルまで、現道ベースであと300m足らずだが、謎で無くなりつつある道跡の最後を見届けねば。
掘り割りに削り取られた区間をスルーし、次の谷へと向かう。




 写真は現道を50m峠方向へ進んだ、掘り割りを抜けた地点で撮影した。
上の写真と比較すると現在地が分かりやすいだろう。
右の地形図の通り、国道は掘り割りの先で一転築堤となって、小さな谷を跨いでいる。
この谷の右岸側の捜索は、実行したが成果が少ないのでレポとしては割愛する。
私はそこでも僅かに道跡らしい平場を見出したものの、崩壊著しく20mほどしかなぞれなかった。
地形図にも土崖の記号が描かれている。



 次いで、この無名の谷の左岸の捜索を行った。
適当な道ばたにチャリを停め、そこの斜面をよじ登ると、思ったよりも高い位置に、平場らしい物が見えてきたのである。
この左岸の調査をしっかり行えば、右岸での探索の成果の薄さも補完してくれるだろう。

 現道から15mも登ったところで、漸く平場が近づいてきた。
そこは、小さな尾根の上だった。



 小尾根の上の平場に到達。

案の定、この平場も道の跡だった。
これまで同様、全く使われた痕跡のない、浅い掘り割りの道。
辺りは全体的に急斜面だが、小さな尾根を回り込む部分だけは、色々な斜面が中和し合ってなだらかな地形となっていた。
道はその中にシュプールのような小気味良いカーブを描き、峠の方向を目指していた。

 現在地は右の地図の通り。
国道端とはいえ、駐車スペースが少ないためか立ち入る人も稀な山中に、断続的な道跡が存在する。
それらを丹念に拾い集める私の手に握られた、既にグシャグシャになった地形図には、確かに、一本の道が現出しつつあった。




 三度道跡に遭遇した私。
上手と下手、どちらへ進むかで少し悩んだが、例によって現道にぶつ切りにされていそうな上手を先に極めることに。

上の写真の位置から、小尾根を浅い掘り割りで回り込んで、現道を足元にした西向き斜面に。
かなり傾きつつある西日のため、木陰も相当に伸びている。日の長い時期だけにまだ余裕があるが、時刻は午後5時に迫りつつある。

写真は、小尾根の掘り割りを振り返って撮影。
撮影時、掘り割りの法面上部(国道側)に、小さなコンクリート柱を発見した。



 コンクリート柱は、見慣れた用地境の標柱のようであった。
上部に十字の切れ込みがあり、赤く塗られている。
しかし、側面に埋め込まれたタイルの文字は見慣れないものだった。
「一〇四」とあるようだが、鳥獣保護区か何かの境界標であろうか。或いは河川に関する物か。
何処かでも見たような記憶があるが、思い出せない。

どちらにしても、この道跡と直接関係がある物とは思われない。



 そして、掘り割りから20mほどで、現道が道跡のほぼ全てを削り取っていた。
またしても、道の跡は途絶えたのだ。
現道との高低差は10m以上もあり、しかもそこはコンクリートで固められていて、直接降りることは出来ない。

上手側の追跡はここで中断し、今度は下手側、無名の沢沿いの部分を見てみよう。



 既に日影となった谷間に、今にも途切れそうな道跡が続く。

山王川の両岸よりもさらに道の荒廃は著しく、殆ど平場と言える物は残っていない。
ただ、周囲よりも傾斜の緩やかな帯状の部分が、おそらく狭い道の跡なのだろうと、そう思われる程度だ。
谷の幅は山王川ほどではないが結構広く、やはり橋を架けるなら全長20mを越える物が必要になるだろう。

再度の橋梁遺跡発見に躍起となる私だったが、それどころではない「危険な事態」が、
刻一刻と迫っていたのだった…。  



 この谷の奥行きは小さく、100mも遡らぬうちに二股となっていた。
そして、二股の先はどちらも滝のような小沢で、もはやこれ以上先に架橋地点を求める理由がない。
また、小さな橋二本で渡るにしても、正面の小沢に挟まれた小尾根上には何らかの道の痕跡があるべきで、それさえ見えないと言うことは、おそらくこの辺りに橋を架ける予定があったのではないか。

辺りは崩壊地形の巣のようになっており、その谷底に橋脚の土台跡を探すにしても、一体どこから降りるべきか…

考えながら、二股の谷の辺りを眺めているとき、事件は起こった。



 ガサガサガサ!

突然、私の足元の谷底から、火箸で突いたように何かが駆け出した。
それは、あっと言う間に向かいの二股の尾根の中程まで登り、そこで歩みを停めた。

何か大きな獣であることはすぐに判ったが、見慣れたカモシカのような色をしている。

 …なんだ、カモシカか〜。脅かすなよなー。

私は、デジカメの精一杯の望遠で、その高貴そうな毛色を撮影しようと、レンズを覗いた。







 なあ。

お前、カモシカだよね?


にしては、妙にずんぐりと… 

首周りも脚も太すぎのような…。

肥満  …じゃないよね?





 「ヤベッ! これプーかも分かんね。」

次に火箸に突かれたのは、自分の方だった。
一度だけシャッターを切るのが早いか、私は即座に後ずさり、全速後進で国道に撤収した。



 フハーッ フハーッ!

や、やばかった。
単独プレー中のプーは勘弁!

橋どころではなかった。
もし、さっきの平場で先に下手に向かっていたら、ばっちり道跡上で鉢合わせた可能性もあった。


 …天運。 …これぞ、天運。



 16:54

現道に戻ると、もうそこは山王トンネルの間近だった。
上の写真のようにトンネル前まで法面が高く続いており、現道よりも一段高い位置にあった道跡は、この法面によって削り取られ、消失していた。
ごく僅かに、法面の途中の山肌の凹の部分に道跡らしき部分が見られたものの、紹介するほどの規模ではないし確信もない。



 結局、不思議な道跡に最後まで誘われる形で、現道のトンネル、すなわち現代の峠頂上まで来たことになる。

やはり、道跡は現道の前身的な車道の計画であったと考えると、最も矛盾がなさそうだ。
それがもし戦時中に突貫工事で進められたのなら、それはおそらく軍道という位置づけだったであろう。
山王川に架けられようとした橋は、その基礎の規模から考えて、貧弱な木橋ではなかった。
おそらく、戦車の走行にも耐えうる、重厚なコンクリートか石の橋だったと思われる。
その他にも無数に存在する橋予定地の空隙は、本格的な工事の前段階で中止された事を、暗示するようだった。



 最後に私は、右図中の黄色い丸で囲んだ部分を、かなり念入りに捜索した。
もちろん、謎の道に対応する、未完の隧道の痕跡を探してのことだ。

だが、何れも成果はなかった。
東側の谷は砂防ダムに埋め尽くされ、その上流は谷が狭く、道の痕跡一切無し。
西側の谷は地形図で見るよりも傾斜が厳しく、やはり道の痕跡有り難し。

小さな尾根の突端に掘られ、雪国としては理想的と思われる現:山王トンネルの位置には、昭和40年代のバイパス工事以前、何かがあったのだろうか。
それを知る手掛かりは、今のところ無い。

 なお、山王トンネルの栃木県側でも簡単な捜索を行ったが、やはり成果はなかったことを記して、本レポートを終えたい。
貴殿の推理を、待っている。