国道127号 旧道及び隧道群 明鐘岬編 最終回(2−7)

所在地 千葉県富津市・鋸南町
公開日 2007.6. 4
探索日 2007.3. 6

 明金の内に八町許り難所あり、荷付馬通る事ならざる間一町半あり
水戸光圀 著『甲寅紀行』 延宝二年(1674) より

 明治に入り、各地で馬車の通れる道路が建設されるなか、鋸山の険しい尾根が東京湾に垂直の崖となって落ち込む明鐘岬一帯にはなお、磯伝いに人一人がようやく歩けるような道しかなかった。
ここに初めて近代的通路を拓いたのは、初代安房四郡(平、安房、朝夷、長狭)の郡長であった重城保(じゅうじょうたもつ)および、2代目郡長の吉田謹爾(よしだきんじ)であった。
このうち重城の偉業は、昭和2年に刊行された「君津郡誌」によって次のように讃えられている。

 最も力を交通運輸の事に尽くせり、上総湊より安房保田に至る間は、鋸山盤踞し道路険悪難険を極む
而も人皆之を天険と称し、不可能となし敢て修築を夢見るなし
保、蹶然として起ちて曰く、奮励努力人事を尽して以て造化の圧抑を脱せんと
乃ち県に請い郡に諮り、苦心惨憺巉巖を穿ち、谿谷を埋め橋梁を架し、険峻を削平し、隧道を開鑿する十数ヶ所、遂に坦々砥の如き道路の竣成を見るに至る
人以て之を神とし徳とし称嘆止まず

 ちょうどこの範囲は、今回のレポ(明鐘岬編1〜7回)と全く一致するが、明治21年の明鐘街道開通の時点で既に、十数本という数の隧道が存在していたようである。
ちなみに、この区間で私がここまでに確認できた明治隧道を列挙すれば、

 城山(旧道)、打越(現役)、洞口(廃止)、丑山(旧道)、島戸倉(旧道)、大日(開削)、明鐘(開削)、??(開削)、潮噴(現役)。

の合計9本である。
君津郡誌にある「十数本」と言う表現は、最低でも11本以上を示すであろうから、もう2本以上の隧道があったということなのだろう。

 最終回となる今回で、もう2本以上の隧道を確認することが、出来たのであろうか。




最後の隧道を捜索せよ!  

元名隧道の旧道 


 2007/3/6 14:18 【現在地】

 それでは、本編最後の区間である元名隧道の旧道部分へ進む。
入り口は、ガードレールを横向きにしたもので塞がれているが、自転車や徒歩ならば容易に入れてしまう。
「この先通り抜けできません」の看板も立てられている。

左のコンクリートの躯体はロックシェッドで、すぐ先から元名第一隧道となっている。
元名第一隧道は、昭和26年に開通した全長120mの隧道である。



 現道と旧道とは、僅かな岩盤を隔てて並行しているのだが、相手は隧道内であるから、その存在を意識することはない。
路面にはアスファルトが微かに残っており、それを覆い隠すようにして、背の高い薄のような植物が蔓延っている。
確かに廃道は廃道なのだが、道幅の外にも平坦な草むらがかなり広がっており、依然として、「関東の親不知」というほどの難所ぶりを感じることは出来ない。

この平坦な土地の存在は、隣に掘られた狭苦しい隧道と対比すれば、不自然であること限りない。



 私が感じた不自然さを解消するヒントは、旧道の法面というには余りに大袈裟な、旧道脇の崖の補強にあった。
これほど大規模な工事が、昭和26年の現道開通以前に行われたとは、全く考えられない。
つまりこの大規模な工事は、この崖の地中に存在する現道を、崖の崩壊から守るために、比較的近年行われたものだと断定して良いだろう。
そして、この補強工事を行うにあたって、廃止後荒れるに任せて放置されていただろう旧道の小道が拡幅され、作業場として使われたのではないか。

 旧地形図によれば、ここにも現在の隧道よりも遙かに短い隧道が描かれている。
元名第一隧道の旧隧道と言うべき存在だ。
だが、この隧道もまた、跡形もなく消滅していた。
この明鐘岬の区間だけで、旧隧道の開削・消失は3本目となる。
残念なことだが、これはやむを得ない。



 図中の赤いラインは、昭和26年に現在の元名第一、第二隧道ルートが開通する以前の明鐘街道である。
現道は2本の隧道が繋がっているように描かれているが、もともとはちゃんと別々の隧道であった。
そして、そのさらに海側に、明治の街道が通っていたのである。

残るは喫茶店で聞いた、埋められたという隧道の所在だ。それがおそらく、この区間最後の隧道となるであろう。



 旧道はその先で突如、深いススキの海に没してしまった。
先ほどまで敷かれていたアスファルトは消滅し、路面の平坦さえ失われている。むしろ、人為的に盛り土して道を塞いだようであった。
そして、その盛り土の上はススキの天国だった。

ほんの僅かな、人一人分にも満たない掻き分け道を10mほど進むと、小さな窪地が道を横断するようにあった。
もはや、本来の旧道の地形は全く残されていない。
その窪地に沿って、視線を山側へ向けると、そこには轟音を漏らすコンクリートの坑口がある。
これは、元名第一第二隧道を繋ぐロックシェッドであり、その窓が海側へ向けられているのだ。
なお、窓は柵があって出入りできない。



チャリと一緒に溝を乗り越えるも、その先はお先真っ暗といったご様子…。

「埋められた」とはっきり言われた隧道である。
残念ながら、目に見て分かる形に現存するわけが無かったのかも知れない。
そもそも、坑口へと続いていた筈の道は、全くその形を無くしている。
地形も変わり、さらに3月とは思えぬ猛烈な藪に隠されている。
ここを闇雲に掻き分けて捜索しても、何かが出てくる感じはしない…。



 片手は海。
現道も十分海沿いの道ではあるが、旧道はさらに海べりに通じていたことになる。
そこに、数はたくさんあった隧道だが、どれもが短く、どうしても必要な場所に申し訳程度掘られたに違いない。
明鐘街道などといっても、難所には変わりなかったのである。

だが、それだけに、今の道よりも遙かに、旅人の印象に残る道だったらしい。
明鐘街道開通当時、夏目漱石をはじめ多くの文人がここを通り、その景観に魅了されたといわれている。



 チャリを藪に停め、足元に伸びる踏み跡をさらに辿ってみた。
だが、その道はみるみる崖を下り、すぐに磯へ下りてしまった。
なるほど、磯伝いに行けと言うことなのか。
まあ、単身ならば不可能ではないだろう。
というか、明鐘街道が開通する以前には、多くの旅人がここを越すのに磯を歩くか、或いは小舟に頼ったというのだから、ある意味この磯こそが最古の道である。
江戸時代の房総往還もここにあったわけだ。

しかし、このまま進んでも、目指す隧道を見付けられる可能性はない。
私は、先ほどの藪へと戻ることにした。



 旧道の高さまで戻った。
道は、奥から来て、手前右側の藪へと進んできたはずである。
全くそこに道は見付けられないのだが、隧道の何らかの痕跡を得るには、この藪へ入るしかないだろう。

意を決して、ススキの藪へ頭から潜り込んだ私は、思いがけず、すぐに藪の外へと出た。

   …だが、そこは……。




緊張の5メートル


 14:24 

  !!

   予想外の事態に遭遇!



 かつて道であっただろう狭い平坦地は、藪が切り開かれ、僅かな畑になっていた。
その畑を取り囲むようにして、竹製の柵が張り巡らされている。
さらにその外側には、膨大な量の空き箱、そして水の入った様々なペットボトル。
なぜか置かれたハンガーや、中身の入ったゴミ袋の山…。
道の跡は、既に足の踏み場の無い状態に近い。

 藪ならば別に良かった。

 だが、これは……!



   嗚呼…
ここを通らねば、
先へ進めない…

 ご、ごめんなさ〜〜い。 通りますお…。


番地のないこの場所に、民家…。
誰かが、この藪の中に暮らしていることは間違いない。
新鮮そうな果物も、袋に入って置かれていたし…。
生活の臭いがありすぎる。

私は、ただただ、恐れ入りながら、速やかに、その軒先を通らせていただいた。
勝手に入っているこの状況で、もし見つかったら、怒られるんだろうな。
変わった暮らしはしていても、正当な土地の持ち主の可能性もあるんだしな…。 恐いな。 

この展開には、いつもの廃道とは全く違う、それでいて、並大抵ではない緊張を強いられることになった。



 ちくしょう!
ここまでリスクを冒したのだから、何かあってくれよな!

 私は、祈るような気持ちで(祈りの成分の80%は、遺構の発見ではなく、主の帰宅のないことであったが…)、キャンプの奥へと進んだ。
キャンプから、かつて隧道があったに違いない岩盤の袂までは、3メートルくらいの距離しかない。
間に浅い藪はあるが、人の存在など丸見えと言って良い。
ここでの私の行動は、常に遭遇の危険をはらんでいる事を、嫌でも意識させられた。

勝手な思いこみかも知れないが、オブローダーにとって土地の占有者とは、天敵である。
無論、相手が正規の占有者であれば、我々の張り合う権能はゼロだが、そうでない場合…
お互い不法潜入者であった場合…… 
はたしてそこに、どのような遭遇劇が巻き起こるのか。

 幸か不幸か、私は未だその経験を持たない。







ズガーン!


ありやがった!

 なんと! 
  石造りの坑口!!



 この区間11本目となる隧道は、なんとまだ現存していた。
おそらく、キャンプの住人の他には、誰も目にも触れなかったろう隧道。

ここまでで何度も見たような素堀の隧道があったとしても、こんな興奮にはならなかったろう。
これは、本当に驚いた。意外だった。
なにせこの日の探索の中で、「旧洞口隧道」や「旧丑山隧道」のように、明治当時の姿のままで現れたろう隧道は幾本かあったのだが、いずれも素堀であった。
房総の、隧道にとって恵まれた地質が、それを許した部分はあろうが、正直、物足りなさを感じないわけではなかった。
やはり、明治の隧道には、明治の隧道らしい威厳ある姿を、見せて欲しかった。
東京湾の対岸、横須賀の街には幾つもあるような、煉瓦や石組みの意匠を、見せて欲しかった。

そして、最後の最後。
ここに来て遂に、その無責任な希望が叶ったのだ!!



 当時撮影された明鐘街道の写真であるが、ここに写っている隧道こそが、まさにこの隧道に違いない。

 左の写真は、坑口の部分のみを拡大したものだが、明らかに目の前の坑口に一致する。
右の写真に写っている海岸線の情景も、確かにこの場所である。

この写真が撮られた当時には、まだ他の明治隧道も多数現存していた筈だが、敢えてこの隧道が撮影された理由は、きっとここが特に美しかったからだろう。石組みの坑口が珍しかったからであろう。



 隧道は、ほぼ埋め立てられており、地上に現れているのは、坑口の上端部分だけである。
だが、その為の土砂が少し足りなかったのか、或いは完全に埋めてしまうのが惜しまれたのか、非常に微妙な開口部を残していた。
これは、あんまりだ。

辛い!

だって、入りたくなるじゃん!!!

悪いとは知りながら、つい、坑口を塞いでいた瓦礫を取り除いてしまう私。
ああ、こんな姿を主に見られたらなんて言われることか…。

でもでも。

 我慢できない…






 30cm四方くらいの漆黒の窓が現れた。

私は、まずここにカメラをぶち込んでみた。

パシャリ…


まずはフラッシュを焚かずに撮影したのが右の画像。
真っ暗なのか。何も写らなかった。

微かに風がある気がするのだが… 閉塞しているのか。

 もう一枚…



 パシューン…

今度はフラッシュを焚いた。
すると、僅かにカーブして続く、見事な石壁アーチが写った。


それに、奥の方はやや緑がかって明るく見える。
やはり、閉塞はしていないようなのだ。
抜けられるのかは分からないが…








 あー!  入りたい!!






 なんだか…

坑口付近でモゾモゾしていたら…


気づいたときには もう




 潜入!! 旧明鐘隧道!



 またネコマタスの力を借りたのだろう。
余り記憶が無いのだが、私はその縦横30cm程度の隙間から、どうにかこうにか内部へ入ったらしい。
出られるのかという疑問もあるが、それは大丈夫。
入るときに、足がちゃんと地面に着くことだけは、確かめていた。(この穴から出られなくなったら、死ぬしかなくなるかも知れないからな。笑えないぜ。)

 乾ききった洞内の冷気。
私の侵入で一気に攪拌され、埃の粒が舞飛んでいるのが見える。
写真は、僅かに開口部を残す坑口を振り返っている。




 房州石であろうか。
人の手で調製されたであろう、鑿の跡がびっしり刻まれた石材が、壁をアーチに覆っている。

光の通り道のか細き故に、より眩しく見える開口部。
そこから採り込まれた光が、凸凹のある壁にうっすらと陰影をつけている。

私はその光景の余りの美しさに、物語の中の神殿や、伝説の王の墓を見た気がした。




 さて、この隧道は何という隧道だったのか。

立派な坑門にも銘板は見られず、現地にその手がかりはなかった。
だが、当時の資料に拠れば、明鐘隧道と称されていたらしい。
この名前は、現道の隧道にも受け継がれているが、ただ、場所が異なっている。現道では、明鐘岬の突端付近にある隧道が、明鐘隧道である。

旧道にも多数の隧道があったことはこれまで述べたとおりだが、その名称が残されているものは少ない。
故に、私はこのレポでも一貫して、隣にある隧道の名を借りて「旧○○隧道」と表現してきたのである。(その例に倣えば、この隧道の名称は「旧元名第二隧道」と呼ぶべきである)
ただ、この明鐘隧道に関しては、写真とともに名前も残されている。
明鐘岬に一番最初に掘られたのがこの隧道だったから名付けられたのか、はたまた、別の理由があったのか。



 「旧明鐘隧道」は、明治隧道としては珍しく、中間部分で10度ほど右へカーブしていた。
そして、ちょうどその辺りから(上の写真の位置)、壁の石組みは消え去り、見慣れた素堀に変わった。
あとは出口まで一直線(左の写真)である。
隧道の全長は80m程度だろうか。

近づきつつある出口。
たっぷりの光が溢れている。
だが、柵が見えるぞ…。



 そして、館山側の坑口へと内側から到着。
そこは、両開きの金網扉に施錠がされ、通り抜け不可能となっていた。
流石にこれは、出られることを確認したつもりとはいえ、あくまで“つもり”だっただけに、良い気持ちはしなかった。
つか、滅茶苦茶恐いって。
今頃、キャンプの主が戻ってきている可能性もあるわけで…。

金網の先の外は、庭のような雰囲気。
そのさらに向こうには、現道のものらしいロックシェッドが見えていた。



 隧道の全容を振り返って撮影。

この通り、隧道は非常に良く原形をとどめている。
特に崩壊は見られず、現役でも通用しそうだ。(流石に自動車が通るにはギリギリの狭さだが)
遠くに見える小さな白い点は、私の侵入した木更津側の開口部である。
ちょうど隧道の中程、カーブのところから、石による巻き立てが行われている。
地質が良くなかったのか。まさか、見栄えのためだけなんて事は無いであろう。

 さて長居は無用だ。帰ろう。




 旧明鐘隧道の南口


 再び モゾモゾ、モゾモゾ。


出来るだけ静かに、這い出てみた。

体の重心が穴の外に移った瞬間、私は強い安堵の気持ちで、思わず体の力が抜けるのを感じた。

そのくらい、緊張していたのだろう。




 外へ出てみても、まだ主は不在だった。
すぐにでも立ち去りたかったが、最後に忘れず、元のように入り口を塞いでおいた。
おそらく、この穴から立ち入ろうとする人はもういないだろうが、あくまでも、最初の状態を再現する程度の、緩い埋め戻し方にした。



 帰りもキャンプの前(と言うか殆ど中だな)を通った。
藪がひどくて、そこ以外に選択の余地がないのだ。
しかし、あと数歩で脱出できると言うときに、何を思ったか、私は藪から滑り落ちた。それこそ海岸線の近くまで5mほども。
擦り傷を負った程度だったが、馬鹿である。
よほど私は小心者だ。

で、ようやくチャリを回収し、緊張が解けたのはその数分後だった。



 旧道を引き返し、現道との分岐まで戻った。
そして、今度は現道の元名第一第二隧道を通って、本編の終着点保田へと進む。

全長120mの第一隧道は、この道の他の隧道と同じで、かなり窮屈なものであった。
だが、私の心はとても晴れやかだった。



 つい先ほど、外からこの窓を見ていた。
第一第二隧道を繋ぐロックシェッドである。
そしてすぐに第二隧道へ入る。
こちらは全長97m、昭和25年の竣工である。
隣の旧隧道のような石組みの風情などあるはずもなく、機能一辺倒、コンクリートのぬっぺらぼうである。



 午後2時39分、本編開始から3時間半あまりを経て、明鐘岬を挟む区間を終えた。
今日の目的地である館山までは、まだ南無谷崎の難所が控えているが、それでも道中最大の難所は越えた。
思いがけぬ“天敵”とのニアミスは恐かったが、文化財級の石組み隧道を発見できたので、良しとしたい。

ほんと多くの隧道があったが、旧城山と旧洞口、そして旧明鐘の3本が、なんと言っても忘れられない出会いだったと思う。



 おっと、忘れちゃイケナイ。
旧明鐘隧道の館山側坑口を確認しておこう。

それは、ちょっと悲しくなるくらいあっけなく見つかった。
普通に現道を走るドライバーからも見えるだろう。
今は坑口の周りは個人の土地になっているようで、立ち入りがたいムードだ。
もっとも、こちらの坑口だけでは、無理して中に入ってみたいとは思わないかも知れない。



 その後間もなく、私は鋸南町の保田地区へ進んだ。

この先のレポは、少し間をあけてからになるが、いずれ公開したいと思っている。
そこにもまた、無数の明治隧道たちが口を開けていたし、生々しい崩落の現場にも遭遇することになる。


 まだ、ゴールは遠い。

どうやら、日没との競争になりそうだった。